rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

昨日の味方は今日の敵のリアル体験

2024-09-30 23:05:51 | つぶやき&ぼやき
今年は、常時キチョウが庭に舞い飛んでいる。
8種類のミモザの鉢植えが置かれているところに、数匹のチョウが乱舞するのだ。
3月から時期をずらして咲くミモザの黄色の花とキチョウの取り合わせは、穏やかで幸せな光景だった。
だから、ほほえましく見守っていたのだが、酷暑が一息つき、ゆったりとした気持ちでミモザを見ていたら、ミモザの葉が乏しく貧相かつ枝先が棒状になり枯れていることに気がついた。
どうしたものかと注意深く観察すると、枝に添うように青虫の大小が至る所についている。
葉の形状にしては違和感を感じると、それはさなぎで、これも枝にたくさん付いていた。
なんと、ミモザたちはキチョウのコロニーとなっていて、食料と住居を提供させられていたのだ。
このままでは枯れてしまうと察知して、一気にキチョウとその幼虫駆除に舵を切った。
ミモザにはカイガラムシもよく取り付くため、目を皿のようにしてキチョウの幼虫とさなぎにカイガラムシを駆逐する。
捕殺を始めて数日、相当数駆除していても、まだまだ発見できるほど居て、キチョウの産卵といたちごっこをしているようだ。
それにしても、自分にとって不都合だと判断した瞬間に、それまで容認していたものが拒絶対象になってしまうとは、身勝手であり理不尽極まりない。
すべてにおいて公平中立であるということは、起きていることすべてを受け入れるということなのかもしれないと、自分にとって敵認定した虫を駆除しながら、ぼんやりと考えていた。
しかし、そこまでの度量の広さも寛容さも覚悟ももてないちっぽけで不完全な自分は、大方自分にとって損得とか快不快、害のあるなしで判断し、生きていくのだろう。
解脱とは、なんと困難極まりない所業なのかと、眩暈を感じながら。

秋の使者 コスモスと彼岸花

2024-09-25 14:50:15 | 植物たち




今日は秋雨、しとしとと降る雨と肌寒い空気が夏の終わりを告げる。
コスモスと彼岸花の写真は、昨日写したもの。
北よりの強く乾いた冷たい風が、一日中吹き続けていた。
長袖一枚でも肌寒かったけれど、肌に刻み込まれた夏の猛烈な暑さを吹き払いたくて、あえて肌寒さを感じていたかった。
家の土手に彼岸花が咲きだしてのを思い出し、スマホを手にして外を歩く。
そして、畑の際にコスモスも咲いていることを、やっと意識できた。
風で揺さぶられるコスモスが、真っ青な空に伸び上がる姿が好きだ。
彼岸花の繊細なしべが、勢いよく外側に向かって突き出しせり上がる清廉さに見惚れる。
もっと人間は、外に出て自然の中に浸るといい。
すべての命あるものが、生きるために絶妙な適応を果たしているのを目の当たりにしよう。
謙虚になって、過ぎる領域侵犯を慎めたなら、人間は幸せに命を全うできる可能性が高くなるだろう。
この美しいコスモスと彼岸花、青い空と肌寒く心地よい北よりの風を、これから後も楽しみ幸せと感じたいのだ。

秋、秋の気配がやってきましたよと…灼熱ダンジョン終了か?

2024-09-23 17:59:21 | 日記
昨今、世界中で巻き起こる異常気象で、多くの人が被災している。
9月中旬なのに2cmを積雪したオーストリアのチロル地方。
ルーマニアからポーランドにかけての豪雨による大洪水。
日本の能登半島にかかった線状降水帯によってもたらされた豪雨で、洪水や土砂災害の甚大な被害に見舞われている方々。
これ以外にも、まだ多くの地域で災害が起きている。
この自然のとてつもない力に、人々は翻弄されるしかないのだろうか。
被災した方々の、明日の無事を祈るしかできない。

ただひたすら幸運ながらも、我が家は難を逃れている。
昨日あたりから涼しめの北よりの風が強く吹き続けて、ちょっと肌寒く感じるほどだ。
だからエアコンを稼動しないで過ごすことができている。
待望の秋の気配がしているのだろう、白と赤の彼岸花も咲いていた。
これから35度を越す日はないにしても、この苛烈な夏をどうにか生き延びた感慨が押し寄せる。
エアコンがなかったら、死にはしなくても一回は熱中症で救急搬送されたと確信できる暑さだった。
発電によるCO2削減のための太陽光パネルを設置するのに、日本各地で休耕地や雑木林、山間部を切り開いて開発してもう13年以上経つ。
どれほどの樹木や緑地が減ったのだろうか?
山や河川敷では保水能力が失われただろう。
植物によるCO2の固定化が太陽光パネル設置で失われた分量と、発電方法を代替して削減できたと言われるCO2の13年分を換算し比較すると、どちらがよかったのだろうか?
太陽光パネルには耐用年数があり、その廃棄の仕方と排出される有害物質のことを考え合わせると、どちらが合理的なのだろうか?
何度となくこのブログに書いてきたが、太陽光パネルの廃棄処分の安全な仕組みは確立されてきている、もしくはその取り組みに着手されているといいのだが。
もちろん、その廃棄処分に、税金が大量投入ということはありえないのは言うまでもない。
既に補助金がじゃぶじゃぶ投入されているのだから。
設置業者は姿をくらまして、不法投棄もされていよう。
けれど、その甘い誘惑に乗った者たちが、尻拭いを当たり前のように考えているのならば、つまり「世の中なんでもやった者勝ち」が是認されていることになる。
もっとも、ほとんどそんな状況で、力のあるモノたちが跋扈するかりそめの秩序の世界であることは、おおくのひとが肌感覚で感じているようだ。
ずいぶんと毒づいているのは、生命力の塊であるはずの若い人の瞳に、希望が宿っていないことを多く見かけるから。
もし、地球がこんな人類を粛清しようとしているのならば、今からでも改めなくてはならない。
個人のささやかな行いでも、日々積み重ねられることで、大きなうねりになることを期待したいのだ。

2024年9月17日 中秋の名月ほぼ満月

2024-09-18 14:43:39 | 空・雲・星・太陽たち
昨日は、中秋の名月だった。
日中の気温は34度と秋を微塵も感じさせないけれど、稲刈りを終わった田園風景が日に日に増してきて、景色が秋を先取りしている。
仕事を終えて向かった立体駐車場の五階から見えた西の空には、ほおずきの赤く熟れた実のような夕日がぽっかりと浮かんでた。
もはや退勤時のBGMとなっているセレクトしたスピッツの曲をかけて、家路へと車を進ませ始める。
街路樹や商業施設、集合住宅が立ち並ぶところを抜けた場所での進路前方には、橙色がかった大きな月が、灰色みを帯びたセルリアンブルーの空に貼り付いている。
そういえば、職場でお月見の話が交わされていたことを思い出し、この光景に合点がいった。
寂しく切ないくらい綺麗な色の組み合わせに、写真を撮りたい気持ちが溢れたものの、退勤時間とあって道が混み、タイミングがいいころまでに思い当たる写真スポットに着くことは叶わなそうだった。
渋滞や信号で止まる時、前方が東向きのときなどに、注意を払いながら、橙色と灰色みのあるセルリアンブルーのコンポジションを目に焼き付けた。
ここに深緑や枯れ草色が下方を固めてくれると、その構成は一気に安定感と完成度を上げてくる。
無垢な美しさに出会うと、心のそこから感動し、涙が溢れそうになる。
こんなに美しい、私たちが存在できる地球という環境に、ただひたすらに感謝したい。
そうしながら私は、満月には一日早い中秋の名月を見られた幸運を大切に受け取りながら、家族の居る家へと車を走らせていた。

積読が進行中

2024-09-08 12:06:22 | つぶやき&ぼやき
積読歴は、玄人の域だと自認している。
それでも、文庫、新書、単行本等合わせて、おそらくその高さは1mを超えるのではないかと睨んでいる。
いやいや、ただの収集癖でしょう、本があれば賢い気になっているインテリア感覚と突っ込みたい自分もいたりいなかったり。
知識の薫陶効果で、自分の能力アップを夢見ないと言えないけれど、それでもちょっとは数冊をちょこちょこと齧っては置きまた齧りはしている。
過去の自分にはまだ、一冊を通して読みきる体力気力があったけれど、今は青息吐息で本に向き合うていたらくだ。
言い訳をするならば、少しずつ摂取して、それを反芻し、ゆっくりと自分に落とし込んでいるやり方に変わったと感じている。
自分の人生が何を成せるかなど野望も成果もないけれど、知覚できるすべてのものが美しくかつ醜悪で驚異に満ちていることを味わうことができたらという大望をより多く叶えたい。
積読は、その梯子と見立てている。