今年は、常時キチョウが庭に舞い飛んでいる。
8種類のミモザの鉢植えが置かれているところに、数匹のチョウが乱舞するのだ。
3月から時期をずらして咲くミモザの黄色の花とキチョウの取り合わせは、穏やかで幸せな光景だった。
だから、ほほえましく見守っていたのだが、酷暑が一息つき、ゆったりとした気持ちでミモザを見ていたら、ミモザの葉が乏しく貧相かつ枝先が棒状になり枯れていることに気がついた。
どうしたものかと注意深く観察すると、枝に添うように青虫の大小が至る所についている。
葉の形状にしては違和感を感じると、それはさなぎで、これも枝にたくさん付いていた。
なんと、ミモザたちはキチョウのコロニーとなっていて、食料と住居を提供させられていたのだ。
このままでは枯れてしまうと察知して、一気にキチョウとその幼虫駆除に舵を切った。
ミモザにはカイガラムシもよく取り付くため、目を皿のようにしてキチョウの幼虫とさなぎにカイガラムシを駆逐する。
捕殺を始めて数日、相当数駆除していても、まだまだ発見できるほど居て、キチョウの産卵といたちごっこをしているようだ。
それにしても、自分にとって不都合だと判断した瞬間に、それまで容認していたものが拒絶対象になってしまうとは、身勝手であり理不尽極まりない。
すべてにおいて公平中立であるということは、起きていることすべてを受け入れるということなのかもしれないと、自分にとって敵認定した虫を駆除しながら、ぼんやりと考えていた。
しかし、そこまでの度量の広さも寛容さも覚悟ももてないちっぽけで不完全な自分は、大方自分にとって損得とか快不快、害のあるなしで判断し、生きていくのだろう。
解脱とは、なんと困難極まりない所業なのかと、眩暈を感じながら。
8種類のミモザの鉢植えが置かれているところに、数匹のチョウが乱舞するのだ。
3月から時期をずらして咲くミモザの黄色の花とキチョウの取り合わせは、穏やかで幸せな光景だった。
だから、ほほえましく見守っていたのだが、酷暑が一息つき、ゆったりとした気持ちでミモザを見ていたら、ミモザの葉が乏しく貧相かつ枝先が棒状になり枯れていることに気がついた。
どうしたものかと注意深く観察すると、枝に添うように青虫の大小が至る所についている。
葉の形状にしては違和感を感じると、それはさなぎで、これも枝にたくさん付いていた。
なんと、ミモザたちはキチョウのコロニーとなっていて、食料と住居を提供させられていたのだ。
このままでは枯れてしまうと察知して、一気にキチョウとその幼虫駆除に舵を切った。
ミモザにはカイガラムシもよく取り付くため、目を皿のようにしてキチョウの幼虫とさなぎにカイガラムシを駆逐する。
捕殺を始めて数日、相当数駆除していても、まだまだ発見できるほど居て、キチョウの産卵といたちごっこをしているようだ。
それにしても、自分にとって不都合だと判断した瞬間に、それまで容認していたものが拒絶対象になってしまうとは、身勝手であり理不尽極まりない。
すべてにおいて公平中立であるということは、起きていることすべてを受け入れるということなのかもしれないと、自分にとって敵認定した虫を駆除しながら、ぼんやりと考えていた。
しかし、そこまでの度量の広さも寛容さも覚悟ももてないちっぽけで不完全な自分は、大方自分にとって損得とか快不快、害のあるなしで判断し、生きていくのだろう。
解脱とは、なんと困難極まりない所業なのかと、眩暈を感じながら。