rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

おいしく食べる、楽しく食べる、そしてなにより「自分の家の味」

2014-10-31 16:03:47 | 食べ物たち
今夜の献立は、”鶏肉とごぼうの混ぜご飯”と”豚肉のない豚汁”だ。
これで、ほぼ冷蔵庫の中の主要な食材は使ったから、明日は買出しとなる。
我が家は、なるべく出来合いのものを食べないようにしている。
コンビニ弁当は言わずもがな、冷凍食品やスーパーなどの惣菜もほぼ利用していない。
自分が、ほぼ100%母の手作りの食事で育ったことが一番の理由。
既製品によくある食べた後の口の中の違和感、何にでも砂糖が入っていたり濃すぎる味付けが苦手だ。
デパ地下の見た目も良い惣菜を食べてみても、完全に満足し切れない。
それに最近、加工されてしまったものへの不信感もかなりあるので、結局自分で作ることに落ち着いている。
食材の表示を信じるしかないけれども、自分で選び買ってきたものを、なるべく化学調味料を使わないようにして調理することで、家族の健康を少しでもいいものにしたいとの思いだ。
その成果か知らないが、子供たちの味覚はまだ素直でいるし、健康も維持できている。
そして、家族みんなでおいしく楽しく食べることができるのもいい。
学校から帰ってきて漂う匂いをかぎながら夕食の献立を当てること、あるいは食べたいものをリクエストすることが、ちょっとした幸せを生むのだ。
生きるために食べるのが絶対条件だけれども、調理をして食べる我々にとっておいしく楽しく食べることはよりよく生きるための糧となる。
時には、コンビニ弁当、スーパーなどの惣菜もいいだろう。
しかし、やはり自分の家の味という心落ち着く食事がなくては、安らぎのない貧しい食事、人生となると思うのだ。
家族がいるいないを問わず、自分の日々の食事は「自分の家の味」でなされなくてはならないのではないか。
食事とは、やはりとても大切なものだと再認識してほしい。
外でめいいっぱいがんばってくる子供たちを、できる限りの「家の味」でいたわってあげよう。

黒いギャング

2014-10-29 23:16:59 | 生き物たち
広い家屋敷の掃除を終え、アトリエだったこともある多目的スペースでパソコンを見ていた。
何かを打ち付けるような大きな音が、倉庫のほうでしている。
「なんぞや?」と目を凝らして倉庫の出入り口をみると、倉庫の中奥に真っ黒なシルエットが米袋の上に乗っているではないか。
「もしやカラス?」
そうっと音を立てないように倉庫へ向かうと、案の定米袋の上に止まって空の米袋に重く鋭い一撃を加えている。
10mくらい近づいたとき、家の脇に立つ杉の木で見張りをしているカラスの警戒音でこちらの動向を察知したカラスは倉庫から出て行った。
空の米袋には大きな穴が開いている。
他に被害はないかと見回すと、5m離れた台の上にある精米してきた米がはいった袋にもがっつりと穴が開けられ、そこから米がこぼれ出ていた。
昨年も同じ被害にあって、しばらく米の置く場所を変えたり、シートをかぶせてみたりと防衛していたなら、カラスのいたずらは止んだ。
そろそろほとぼりも冷めただろうと油断したころにこれだ。
実に姑息でやつらは容赦ない。
いつぞやは、井戸端で金目鯛の下ごしらえをしている義母がちょっと目を放した隙に金目鯛を掻っ攫っていったことがある。
さすがに大きすぎたのだろう、持って上昇できなかったとみえ、井戸から10mくらいのところに落としてあった。
全くもってけしからんやつら、黒いギャングだ。
さすがにこちらのテリトリーを犯されると殺意が沸く。
カラスには際立った天敵がいないから、結構やりたい放題。
どうにも仕方がないので、こちらは防戦一方だ。
やれやれ、餌の少ない冬は、カラスも必死だから一進一退の攻防が続くのだな。

”エンダーのゲーム”と”インセプション”

2014-10-27 12:42:42 | 映画
久々にDVDを借りて映画を見る、”エンダーのゲーム”と”インセプション”。
まずこれらを選んだ基準は、作品の時間が110分を超えていること。
家人によると今まで見てきた映画の当たりはずれから推して、まともにストーリーを作ろうと思ったなら100分以下では難しいとのこと。
次いで大切なこと、セックスシーンがなく残虐なシーンもないものだ。
いわゆるハリウッド映画に付き物のこの2つ、これをはずすと格段に映画の選択肢は狭くなる。
パッケージの裏にあるあらすじといくつかのシーンの画像を入念にチェックして、今回はこれに落ち着いた。

”エンダーのゲーム”は、これこそ子供も観られる優等生。
設定もわかりやすく、順を追ってテンポよく展開されるストーリー、厳選された登場人物数、後は主人公が少年というところが感情移入しやすい。
もちろん、戦うべく宿命付けられたというよりはむしろ大人の大義に絡め捕られていく少年たちに危険を感じないでもないけれど、物語として楽しむには上出来だ。
久しぶりに繰り返してみたいと思える映画だと、家族で一致した。

”インセプション”も、安易な2つのオプションがない映画。
でも、多重世界の設定に子供は混乱したようだ。
たぶん、合わせ鏡で遊び夢想したことがあれば、またはそれこそ自分の見る夢の世界を楽しむことがあれば解りやすかったかもしれない。
自分としては、割りに気に入った映画だ。
あの都市空間の質感が、時々見る夢の世界に似ているからだろうか。
夢の中でこれは夢だと思うこともしばしば、あまりに夢を楽しみすぎてそれこそ主人公コブの妻のモルのように夢から出たくなくなるときもある。
調べると、この作品にある迷宮のような世界観は、なんとホルへ・ルイス・ボルヘスの作品に発想を得ているとのことで、なるほどこの作品に興味を持つのは納得できると思い当たる。
モロッコの迷宮のようなタンジェ、パリのビル・アケム橋、なかなかいい空間だ。
これはもう、ストーリーにというよりも世界観がよかった。
けれど、インセプションということに関しては、ただならぬ危惧を抱いている。
刷り込み、洗脳、知らずに自分の身にも降りかかっているこれらのものに不気味さと拒絶を感じている。
でも、それを見極めるのは到底できそうにもないのだ。

”エンダーのゲーム”を観てからの”インセプション”、なんともいえない気分になったのは否めない。

金色のパゴダひしめく、ミャンマーのヤンゴン

2014-10-26 00:09:00 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」ミャンマー最大の都市ヤンゴン。
大多数の人が仏教を信仰するミャンマーには、多くの仏教建築パゴダが建てられている。
チャウタッジー・パゴダは全長16mの大きな涅槃仏、シュエダゴンパゴダは高さ100mの大きな建物で、2500年前に始まったとされるミャンマーにおける仏教の総本山的寺院だ。
ミャンマーにおける仏教では、各曜日ごとに神様がいて、「八曜日」という伝統暦に則り自分の生まれた曜日の裁断にお参りするという。
その八曜日による占いで結婚相手や仕事運を占ってもらえるところに、「アウンホホミン」がある。

ヤンゴンから北へ200kmにキンプンという山間の町がある。
町からさらに1時間1100m車で上り、車が入れないところから籠に乗って上ること30分、ミャンマーのパワースポット「ゴールデン・ロック」に到着。
崖の上の端に今にも落ちそうな格好で巨大な岩が乗る。
その金色に塗られた岩の上には、仏陀の毛髪を収めたチャイティーヨー・パゴダが建てられ、仏陀の髪の毛によって奇跡的にバランスを保っていると言われている。

ヤンゴンのグルメ。
「ラ・メイソン」の”ウェッポンイン”は、茹でた豚肉・にんにく・たまねぎ・しょうがを豆の油で炒めてから黒豆ソースを煮込んだもの。
ミャンマー特有の野菜ツボクサにトマト・タマネギ・を加え、ガーリックソースで合えたサラダ。
ご飯にそれらを混ぜて食べるのが一般的。
「ティンティンエー」は、安くて早いモヒンガーで朝から賑わう店。
米の細めんに魚の出汁のスープをかけ、ニンニク・唐辛子・パクチー・ライムの薬味を好みで入れ、豆のかき揚げやゆで卵をトッピングする。
「レッカレー」は、ファルーダという伝統スウィーツの店。
プリン・タピオカ・アイスクリームそれにイチゴなど好きなフレーバーソースを楽しむ。
そういえば、レストランなどで店員さんを呼ぶときに「ちゅっちゅ」と音を出す。
話し声などでにぎやかな店内で、その音はとおりやすいかららしい。

みかんの一種類のタナカは、木をぬらし削ると白っぽくなり、それをおしゃれで自分たちの顔に塗る。
かつては農業をする女の人たちが、顔が日に焼けないためだったけれど、今では思い思いに化粧の感覚でしているという。

ミャンマー最大の「ボージョーアウンサンマーケット」は、金などを扱う。
「ロイヤル・ゴールデン・トーラス」は、カラフルでミャンマー漆器が安価で手にはいる。」
「ポメロ」は、世界中のデザイナーが無償提供してくれたものを障害を負った人たちが製作する

ミャンマーの政治不安は治まらない。
早く民主的な国になるよう見守っていこうではないか。


2014年10月24日4:54、オリオン座流星群

2014-10-24 22:29:36 | 空・雲・星・太陽たち
夜明け前の午前4時54分、ほぼ天頂を南から北へ横切る流れ星を1つ見た。
今年のオリオン座流星群は、月明かりに邪魔されない観察最良の条件だった。
にもかかわらず、極大期の22日未明は雨のため観察不可能となり、とても残念でならなかった。
しかし、今週いっぱいは観察可能ということで、ようやく晴れた今日、早起きをして空を眺める。
眠い目をこすりながらベランダに出てみると、雨に洗われた澄んでまだ暗い空には無数の星星がきらめいていた。
ちょうどオリオン座に天の川が重なっているのか、砂粒のように星が散らばっている。
その様子を見たとき、もし流れ星が見られなくてもこの星星に出会えただけでも大きな収穫だと満足した。
空を仰ぎ始めて20分、一筋の白い光が空を走る。
見た、見られた。
東の空がほんのりと光を帯びだした頃、あと10分もしたならささやかな流れ星の光は飲み込まれてしまうぎりぎりの時。
どうにか今年のオリオン座流星群を見ることができた。
人知れず消えていく星のかけらの最後のきらめきを感動を持って眺めることで存在の意味を全うさせたいという、勝手な思い込みを果たした安堵感ではあるが。