rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

暗闇を取り戻してみること

2011-04-29 00:04:49 | 随想たち
「月の明かりで畑仕事をした。」と、以前、家人の母が話した。
月の光で、作業できるほど手元が明るいものなのかと、不思議に思った。
闇に目が慣れると、それなりに見えるようにはなる。
しかし、農作業できるほど、見えるものなのか。
そういえば、祖母も月明かりで手元の見えるうちは、畑で仕事をしていた、と言っていたのを思い出した。
農業は、きりのない仕事、手をかけたらかけただけ、よい作物が出来、収穫量も上がる。
二人とも、妥協のない仕事振りで、時間を惜しんで仕事に精を出した、その様子が窺われる言葉だ。

自分は、本当の暗闇を知らなかった。
人のいるところ、必ず明かりがあった。
田舎に住んでも、遠くの町明かりが夜空をほの明るく照らし、漆黒の空は存在できない。
天体観測で、流星群や彗星を見ようにも、その明かりが邪魔をして、思うように観察できないのだ。

だが、あの大震災の日、大規模な停電で、見渡す限り漆黒の闇に包まれたいた。
余震で蝋燭を灯すのもためらわれた夜、外へ出たときのこと、月が頭上に昇っていた。
煌々放たれる月の光で、自分の影が足元に伸びるのを、初めて見た。
月が天頂を退き、星たちの出番になったときには、驚くほどの星が自信満々に瞬き、手を伸ばせば、星に手が届くくらいに、すぐ近くにあるような錯覚に囚われた。

さすがに、星明りでは微弱すぎるが、漆黒の中における月の光は、本当に明るかった。
もっとも、月の光の強さが変わるわけではなく、近くに強い光源があると、それに目が影響されるせいで、知覚の仕方なのだが、少ない光だからこそ、懸命に見ようと感覚を鋭敏にさせているのだ。

たしかに、闇は怖い。
ちょっとした物音、気配に、敏感になる。
田舎暮らしでは、一軒の敷地に何棟か用途に応じた建物があって、納屋に野菜を取りに行く、外にある井戸で野菜についた泥など洗い流す、空き缶などをコンテナに捨てに行く、母屋だけが生活空間でなくて、外もひっくるめて「家」なのだ。
夜も、何かと外へ出ることが多い。
今では、防犯の兼ねてセンサーライトをつけ、生活しやすくなった。
前は、外へ出るのがかなり抵抗あった。
めっきり姿を見なくなったが野良犬が徘徊していたり、ムカデやヘビが地面を這っていたりと、毎日肝試しをしているようだった。
6年前に、脇を通る道路に街頭が設置され、闇は影を潜めた。
安心は得られたが、実は失ったものがあるのではないかと、真の夜を知ってから思うようになった。

暗闇は恐怖を与えるが、時には瞑想の時間を、自分に向き合う時間を与えてくれる。
何も見えない、何も出来ない、そんな時間を持つことは、とても大切なのではないだろうか。
自分の心を見つめることは、かなり恐ろしいことだが、この問いかけをしないでしまうのは、心の検診を怠ることで、見えない病巣が心を蝕み立ち戻れないところへ行ってしまうかもしれない。
または、一日を振り返ることで、明日をよくする手立てを思いつくかもしれない。
ときには、素晴しいアイディアが浮かんで、創造力に火をつけるやも知れない。

どうだろう、暗闇をもう一度取り戻してみることを。