伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(52-1) 1977年5~6月①

2008-06-23 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年5月2日(第443回)>
・UP AND DOWN 梓みちよ
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1977/03/21
「女達のキィ・ワード」B面
・ドライブイン物語 小川知子
 詞:西岡恭蔵 曲:大野雄二 R:1977/04/25
悲恋白書 岩崎宏美
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1977/04/25 HC:8位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(3回)
※デビュー作「二重唱(デュエット)」以来これまで8作連続で筒美京平が作曲を手掛けてきたが、この作品では作曲者が大野克夫に交代。この年の紅白では当初はこの曲よりもセールスは上で、各賞レースでもノミネート作品となっていた「思秋期」を披露するものと大方の関係者は予想していたが、歌唱時間や演出上の問題等の関係で「思秋期」での出演では難があったためにアップテンポ調のこの作品が選曲されたという。
カルメン'77 ピンクレディー
 詞:阿久 悠 曲:都倉俊一 R:1977/03/10 
 HC:1位(1977/03/28-04/25)
◆年間チャート(77年)7位(65.8万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞大衆賞受賞曲(この曲を含め、同年度のレコード大賞の選考対象期間内にリリースされたシングル4作品に対して受賞)

<1977年5月9日(第444回)>
気まぐれヴィーナス 桜田淳子
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1977/05/15 HC:7位
◆第19回(77年)日本レコード大賞 大賞候補ベストテン入り曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(4回)
・う・ふ・ふ 由紀さおり
 詞:島 武実 曲:宇崎竜童 R:1977/05/-
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(9回)
・港のまつり 森 昌子
 詞:わたなべ研一 曲:沖田宗丸 R:1977/05/01 HC:40位
・海峡ブルース 北島三郎 R:1977/05/-

<1977年5月16日(第445回)>
・紅ほおずき 木の実ナナ
 詞:阿久 悠 曲:丹羽応樹 R:1977/04/-
・心のひびわれ 片平なぎさ
 詞:さいとう大三 曲:神保正明 R:1977/05/05
・6年経ったら 五十嵐夕紀 
 詞:松任谷由実 曲:筒美京平 R:1977/04/20
<五十嵐夕紀>
 スクールメイツを経て、77年、シングル「6年経ったら」で歌手デビュー。同年秋からは香坂みゆき、天馬ルミ子と共に「レッツゴーヤング」(NHK)の番組内チーム「サンデーズ」に初代の女性メンバーとして参加し、79年まで約1年半に渡りレギュラー出演し知名度を上げる。このほかにも「ぎんざNOW!」(TBS)、「クイズ!ドレミファドン」(フジテレビ)などのバラエティー番組のアシスタントも数多く務めるなど、大手プロダクションである渡辺プロの所属であったこともあり、テレビ出演自体はデビュー当初より多かったものの、歌手としては全く振わず(デビュー作であるこの「6年経ったら」も含めすべての作品でオリコンチャートTOP100入りを果たすことはできなかった) 、徐々にタレントとしても人気は低迷。80年代に入ってからはアイドル路線を脱し、演歌路線の「浮気ならいいわ」などで再起を賭けるも不発。その後ナベプロからも退社し、84年には「にっかつロマンポルノ」に出演し一時的に話題となったが、86年に結婚のため引退。リサイクルショップの経営を経て現在はダンス講師として活躍している。
・野良猫 ガールズ
 詞:鳴海昌明 曲:小田裕一郎 R:1977/05/-
・おまえに フランク永井
 詞:岩谷時子 曲:吉田 正 R:1972/09/-(初発)/1977/03/25(再発) HC:22位
◆第25回・第28回・第32回(74年・77年・81年)NHK紅白歌合戦出場曲(18回・21回・25回)
<楽曲について>
 作曲者の吉田正が長年影となって自らの作曲家人生を支え続けてくれた夫人に対する感謝のメッセージを込めて作られた作品といわれている。元々は1966年に発売されたシングル「大阪ろまん」のB面として発表されたが、当初はA面のヒットに隠れてしまいほとんど注目されることもなかった。しかしフランクはこの作曲者でもある恩師・吉田正のこの曲に対する強い思いを汲み取り、是が非でも広く世の中に定着させたいという思いが抱くようになり、その後もコンサートでは重要なオリジナルソングの一つとして毎回のようにこの曲をプログラムの中に取り入れて歌い続けた。その甲斐もあって1972年に今度はA面曲として再びレコーディングする機会に恵まれる。このときも当初はほとんどヒットにはつながらったが、カラオケブームや有線放送の波に乗るような形で中高年層を中心に徐々にこの曲の存在が知られるようになり、1977年に満を持して3度目のレコード化(A面曲としては2度目)、オリコンチャート最高22位、27.8万枚(オリコン調べ)のヒットとなった。「大阪ろまん」のB面として最初に世に出てから11年という長い年月を経て、フランクがこの曲に対して抱き続けてきた念願はようやく達成された。
【メドレー】ひなげしの花~ポケットいっぱいの秘密~草原の輝き アグネス・チャン
76年8月にカナダ留学のため歌手活動を休業したアグネス・チャンが一時再来日「おかえりアグネス」と題して記念企画を組み、上記の代表作3曲をメドレー形式で歌ったほか、再来日に先立って4月にリリースされた待望の新譜「心に翼を下さい」も初披露した。

<1977年5月23日(第446回)>
・花流浪(さすらい) 渥美二郎
 詞・曲:遠藤 実 R:1977/04/-
・そよ風と私 岡田奈々
 詞:藤公之介 曲:森田公一 R:1977/04/10
・母を想えば 三波春夫 R:1977/05/-
勝手にしやがれ 沢田研二
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1977/05/21 
 HC:1位(1977/06/20、07/18-08/08)
◆年間チャート(77年)4位(74.7万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞・編曲賞(編曲者・船山基紀に対して)受賞曲(編曲賞については、同曲を含め同年度のレコード大賞選考対象期間内に発表した全編曲作品群に対して受賞)
◆第8回(77年)日本歌謡大賞受賞曲

◆第3回(77年)全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリ受賞曲
◆第10回(77年)日本有線大賞受賞曲
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞優秀スター賞受賞曲
◆第6回(77年)東京音楽祭・国内大会 ゴールデンカナリー賞受賞曲/同・世界大会 銀賞受賞曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(5回)
<楽曲について>
沢田研二のソロデビュー以後にリリースした全シングル曲中、75年の「時の過ぎゆくままに」に次ぐ好セールスを残した作品(累計売上枚数:89.3万枚<オ
リコン調べ>)。沢田はこの曲で、発売直後に東京音楽祭・国内大会でゴールデンカナリー賞を受賞したのを皮切りに、レコード大賞・歌謡大賞など、年末にかけて各音楽賞の大半を独占、名実ともに歌謡界のトップスターとしての地位をこの作品によって確立した。この曲をテレビ番組で披露する際には大抵クリーム色のスリーピース姿に帽子という出で立ちで登場歌の途中でその帽子を脱ぎ捨てカメラの方に向かって投げるというパフォーマンスが受け入れられ、これをきっかけに以後、沢田はメイク・衣装・パフォーマンスなどヴィジュアル面で趣向を凝らした斬新な演出を積極的に取り入れるようになり、独創的な質の高いステージングで多くのファンを魅了、トップスターの座を堅持してゆく。
②曲のタイトルは、「ヌーヴェルヴァーグ」の旗手、ジャン・リュック・コダールの長編映画デビュー作として知られるフランス映画「勝手にしやがれ」(1960年公開)より拝借したものであり、曲の内容もこのタイトルからのインスピレーションによって作られたものであるといわれている。尚、この曲にまつわるエピソードとして、サザンオールスターズのデビュー作「勝手にシンドバッド」がこの曲のタイトルとピンクレディーの「渚のシンドバッド」を折衷して作られたとする説が有名だが(詳細は78年7~8月期の曲目リストに記載予定)、山口百恵が翌年にヒットさせた「プレイバックPart2」も元々はこの作品へのアンサーソングという意味合いで製作されたものであり、歌詞の中に「勝手にしやがれ」というフレーズが登場するのはそのためであるとも言われている。

【司会】 芳村真理・井上 順

(77年5月30日放送(第447回)~同6月13日放送(第449回)の曲目については「曲目リスト(52-2) 1977年5~6月②」に記載)

(参考)この頃の主な出来事
・05/02 大学入試センター発足。
・05/02 領海12カイリ法、漁業水域200カイリ暫定措置法成立。
・05/06 新東京国際空港公団、反対派の建てた鉄塔2基を抜き打ちで撤去。これを受けて8日に行われた抗議集会で反対派と機動隊員が衝突。同盟支援者であった東山薫さんがガス弾を頭部に受けて死亡(東山事件)。
・05/07 イギリス・ロンドンにて第3回先進国首脳会議(サミット)開催(~8日)。
・05/11 北海道の三井石炭興行芦別鉱業所にてガス爆発事故発生。25人死亡。
・05/22 元社会党副委員長・社民連代表の江田三郎が死去。69歳。社民連発足からわずか2ヶ月足らずでの突然の死であった。
・05/25 大阪大学のアメリカ人講師が、ジーパンを着用して講義に出席しようとした女子学生の受講を拒否し問題化、ジーパン論争が勃発。
・05/25 米映画「スター・ウォーズ」封切。


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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「君こそスターだ!歌謡教室」 ()
2008-06-23 21:11:20
 「勝手にしやがれ」をこのLPで、ささきいさおさんが昭和53年にカバーしています。
 「君こそスターだ!」の出演者向けのレッスン
用のレコードで歌唱指導が主ですが、お手本として
先の、ささきさんの「勝手にしやがれ」の他
堀江美都子さんの「花しぐれ」水木一郎さんの
「ブーツを脱いで朝食を」大杉久美子さんの
「いとしのロビンフッドさま」を1コーラスだけですがカバーしているのです。
 
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アグネスの事件とは? (MACKY)
2008-06-23 21:30:41
1977/05/16はフジテレビ721で放送されましたが、この時のアグネスメドレーにおいて、何度も「アグネスに悲しい事件があった」と言って出演者全員がワンワン泣いているんですが、今となっては何があったのかわかりません。某BBSでかつて私が疑問提示した時、リアルタイムで見ていた方が「確かアグネスのお父さんが亡くなられたのでは?」とコメントいただきましたが、どうも番組の様子から、ただ亡くなられたのではなさそうな雰囲気でした。これについて御存知でしたら御教示願います。
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Unknown (resistnce-k)
2008-06-23 22:15:38
>>達さん
そういう企画(?)モノもあったんですね。全然知らなかったです。

佐々木功さんというと、堂々と歌い上げるタイプの歌唱法の方ですよね。この方と「勝手にしやがれ」、うーん、なかなか結びつきにくいですねえ。

「君こそスターだ」もそうですけど「スター誕生」にしても「全日本歌謡選手権」にしてもいわゆるオーディション番組はイコールして「テレビ公開音楽教室」的な役割を持っていましたよね。
審査員の先生方たちは審査だけをやるんではなくして、歌手候補生を「教授」する立場でもありました。それだけに先生方の労力というのは相当なものだったと思います。恐らく番組に関係している全ての人の中でも一番酷な立場にあったのが審査員の方々だったんだろうな・・・と私は感じるんですけどね。阿久さんとか松田トシさんの論評が辛口であったのもそういう労力をつぎ込むだけの価値を持った人物かどうかを見定めるための試練を与えていたと見ることもできるんじゃないでしょうかね・・・。

>>MACKYさん
77/5/16放送のときのアグネスは終始暗い表情でしたね。

この時に表向きに触れられていたのは「実父がなくなった」ということだけでした。

大学を卒業する姿を父親に見せられなかったというのが彼女にとっては非常に辛いことだったんだろうと思います。親への「恩返し」ができなくなってしまった、という感情があったんだろうかと。それで精神状態がちょっと不安定になっておられたんじゃないかな・・・。と推測できるんですけど。

それ以外の理由というと・・・、そんな心情の中にありながらもファンや関係者、番組のスタッフの誰かが彼女にキツイことを言ってより落ち込みが激しくなったとか・・・。そういうのも有り得そうですけどね。ホントにこの回のアグネスは異様なほどに表情が曇っていましたからねえ。

ただ1ヵ月後の6/13放送(カナダへ帰国する前の放送)の出演の時はいつもどおりの明るい表情に戻っていましたから、父親がなくなった直後で精神的にダメージを受けていたために明るい表情を作る気力がなくなっていたと素直に見るのが自然かもしれないですね・・。親族の誰かが亡くなるということにより生まれる悲しみというのは計り知れないものがありますからね・・・。思い出とかそういうものも思い出されてくるだろうし・・・。

なんかこれで十分に期待に添えられる答えになったかどうかは分からないですが(汗)、私も「父親がなくなった」こと以外の理由はちょっと分からないです。お力に添えられず本当に申しわけございません・・・・。
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おそらく… (MACKY)
2008-06-24 23:36:06
父親が亡くなったというのが、病気等ではなく、何らかの事件に撒き込まれたような雰囲気だったんですよ。きっと当時は大騒ぎになったと思いますので、機会があれば、当時の記事(幸いなことに「大宅荘一文庫」が近いので)を探してみます。
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アグネスは大のお父さんっ子だったらしいです。 (resistnce-k)
2008-06-25 03:42:28
色々とコメントいただいてこちらでも調べてみたんですが、こういうエピソードを先日の「オーラの泉」という番組(ちょっと今何かと物騒なスピチュアル・霊能関係の番組ではありますが)でこういうことをアグネス・チャンさん自身が語っていたらしいです。
「芸能界でのあまりの多忙振りにこのままでは自分がダメになると思っていた。そこに父親の熱心の説得によって芸能界をやめることに踏ん切りが付いた」といったようなことです。

すなわち、父親の説得なくして、大学留学という選択肢を決断することはまずなかったであろうということなんですね。

その留学の道筋を作ってくれた父親になんとしても卒業して、一つの答えを出した自らの成長した姿を見せてやりたいと思っていた矢先でその夢が「父の死」によって突如破れてしまい、何を自分が追い求めて仕事を辞めたのか、それすらも分からなくなってしまい、なんともいえぬ虚脱感に苛まれてしまった上でのあの「無表情」だったわけですねえ・・。
仮にその死の原因というものが「事件がらみ」だとしたらより一層ショックが強くなってしまうのは当然でしょうね・・・。「不本意な死」ほど親族にとって遣る瀬無い悲しみを与える「死に方」というのはないわけですからね・・・。誰しもがそういうものに遭遇すれば「泣く」を通り越して「表情すら作る気がおきない」というどん底の精神状態になるのは至極当然のことだろうと・・・。

全編を通じて見ていた方でこの回の内容を詳細にブログ等で書いておられる人がいて、どうも印象としては「大変父親思いの子供だった」ということらしいですね、彼女は。

彼女の父親は中国から亡命してきた親族が駆け込んできたとき、自分の家族以上に手厚く迎え入れたといいます。80年代以降、アグネスさんが慈善活動をライフワークとしたのはその父親の姿が脳裏にあったからだということだそうです。そういう意味でも彼女に父親が与えた影響は相当なものがあったのでしょうね。
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