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「死の商人」 中島飛行機製作所と退役海軍軍人 中島知久平

2024-01-29 21:50:15 | 日本政治・外交

太平洋戦争中、軍国主義者たちは、純真な青少年を特攻隊や予科練に駆り立てました。 しかし、航空機部門の『死の商人』たちは、「一機でも多く」のスローガンを別の意味で歓迎しました。

勿論、巨額の利益のためです。

 

太平洋戦争の5年間の航空機生産高の72.4%までは、中島、三菱、川崎、立川、愛知の五大航空機メーカーに集中していました。

五代目メーカー以外の民間11社と陸、海軍航空廠の生産高はいずれも5%以下でした。 戦闘機用機体の88%は五大メーカーによって占められ、しかもその60%までは中島と三菱のものでした。

中島と三菱は発動機の分野でも群を抜き、発動機生産高の三分の二は両社のものでした。

プロペラ生産は日本兵器と住友が92%とほとんど独占していました。 

 

航空機生産における『死の商人』の活躍ぶりは、中島知久平と中島飛行機の歴史をひもとくことなしには明らかかにはなりません。

退役海軍軍人 中島知久平が日本最古の後期会社の一つ『中島飛行機製作所』を創立したのは第一次世界大戦のさ中、1917年のことでした。

始め、中島は三井財閥の融資を受けて中島式飛行機の生産に従事しましたが最初の20年はうだつが上がりませんでした。

1934、35年ころ、三つの会社を傘下にしたがえるようになったころでさへ、中島飛行機の資本金は2000万円にすぎませんでした。

 

しかし、36、37年頃から、つまり日本帝国主義の中国に対する侵略戦争が始まった頃から局面は一変します。

1938年、中島飛行機の資本金は、2.5倍の5000万円に増資されました。 中島知久平は興業銀行から3000万円の資金を借り入れて増資分を自ら保有しました。

 

 

太平洋戦争中、半官半民銀行の興銀が中島飛行機に与えた融資は実に25億円、つまり中島飛行機の資本金の50倍に及びました。

アメリカの戦略爆撃調査団の報告酒が「中島飛行機の歴史は、直接の補助金、減免税その他の形態で与えられた気前の良い政府助成金の助けで行われた日本における近代航空機工業の発達の歴史である」と述べています。

敗戦直後には、中島コンツェルンの公称産額は34.9億円となり、一方興銀に対する債務も33.74億円に達していました。

このような興銀のおしみない援助によって、中島は創業以来の三井の後見から自立したばかりでなく、航空機部門での強敵みう微視重工業と張り合い、ついには三菱を抜くことさえできたんであります。

では何故、このようなことが出来たのでしょうか。 それは彼が航空機コンツェルンの支配者であったからだけでなく、反動的なブルジョア、大地主の政党『政友会』の領袖であり、軍閥に最も近いグループの指導者だったからです。

つまり、中島は、極端な軍国主義者、侵略主義者であり、同時に『死の商人』でした。

 

中島知久平の政治家としての経歴は、このことをよく物語っています。 中島は1920年2月、はじめて代議士になり、137年6月には第一次近衛内閣の鉄道大臣になりました。

1939年4月、『政友会総裁』、1940年10月、内閣顧問、1940年11月、『大政常任顧問、12年2月、『大東亜建設審議会議員』、143年3月、『翼賛政治会顧問』。 

そして、中島知久平は、1945年4月には初代軍需大臣の椅子に座りました。  中島飛行機は、太平洋戦争の間に宿敵三菱重工業に追いつき追い越し、戦争末期には三菱の2~3倍の生産高をあげて航空機業界の王者となりました。

 

1944年、航空機工業会の王座を争った中島、三菱の両者は、軍需省立ち合いの下で、「ナワバリ協定」を結び、三菱は西日本の全航空機工場を、中島は東日本のそれを、賀昭航空機系wp除いて、それぞれ傘下に系列化することになりました。

 

こうして中島コンツェルンは、日本最大の9つの航空機工場を支配し、2500の関連企業を従え、『満州事変』当時には皆無だった子会社を68も持つようになりました。 この間、わずか10年。

「傘下68社の払込資本金額、およびこれらの資産総額では、中島は4大コンツェルン(三井、三菱、住友、安田)の5分の1ないし4分の1の力しかありませんでした。 しかし戦争放火者として、また戦争を利潤の多い企業にした巨頭としての軍需工業における役割からいえば、中島は、日本の戦争犯罪人の被告席で、完全に第一席を占めます」(ゲー・ぺブルネス『日本の財閥』)。


敗戦の年の暮れ、中島は米軍に逮捕されましたが、「証いう理由で数週間後に釈放されました。

 

 

 

(関連情報)


・明治維新 「死の商人」大倉財閥の始祖 大倉喜八郎https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/de59f5b27fef6bcc03d68fc93e1340a2

・明治維新 日本の「死の商人」三菱財閥の祖 岩崎弥太郎https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/98a159e6c384d72d1b605ede523acd4d

・日本で最初の民間兵器工場 室蘭の『日本製鋼所』そしてジーメンス・ヴィッカース事件https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/36c003cef7e69b41c9f52fa000462461

・寺内陸相の『泰平組合』という「死の商人組織」https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/14731ae702543030fc714ab55bbb4e5d

・日本の「死の商人」の黄金期(満州侵略・中国侵略・太平洋戦争)https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/38b134bffd2398a75752aa317e96e8e7

・日本の「死の商人」の懐を儲けさせた政府ー企業の癒着システムhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2886783276114b59ca0dffe19d1271af

 

 



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