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日本の「死の商人」の黄金期(満州侵略・中国侵略・太平洋戦争)

2024-01-24 22:20:13 | 日本政治・外交

寺内陸相の『泰平組合』という「死の商人組織」https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/14731ae702543030fc714ab55bbb4e5d
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日本の『死の商人』にとっては、明治、大正時代の軍需景気も戦時利潤も、その後の大景気に比べると。まるでままごと遊びのようなものでした。

1931年(昭和6年)、の満州侵略、それに続く中国侵略、そして太平洋戦争に至る昭和初期の10数年こそ、日本の『死の商人』の黄金時代でした。


J・B・コーヘンの『戦時戦後の日によると、日本の軍需産業は1930年代後半に急速な発展をs事変」と「真珠湾奇襲」の間のほぼ10年間をへだてて艦艇の完成総トン数は、1931年の2万2500トンから1941年の22万5159トンと約10倍に跳ね上がり、この10年間の完成総トン数は合計70万1299トンに達しています。

戦車、装甲車の生産高は、同期間に12両から2466両に、自動車のそれは500両から4万7901両に、とそれぞれ激増しました。

 

「『真珠湾奇襲』の年には、陸軍は4860機、海軍は2120機の航空機を保有し、しかもこの年の生産高は5088機を数えました。

武器の貯蔵量は95個師団をまかなうに足り、弾薬のストックは5年分に及びました。 このような数字は、『満州事変』から太平洋戦争にかけての急速な軍需生産の発展の一面を示すものですが、それはまた、『死の商人』の急速な成長ぶりの指標でもありました。

 

この頃になると、日本の独占資本ー財閥は、その傘下の企業を急ピッチで戦時型に改編し始めていました。

例えば後に、航空機、船舶、各種兵器、弾薬を大量に生産し「戦争の重荷を支える最大の支柱」(日本産業経済新聞、1943年5月)となった三菱重工業が創設されたのは1943年のことでした。

三菱重工業の創業時の資本金は6000万円でしたが、1937年には倍増増資されて1億2000万円になっていました。

さらに続いて、1940年には4億8000万円、1945年には10億円と、資本金だけでも11年間で約17倍になりました。

 

欧米でもそうですが、日本でも軍需産業はますます巨大独占体の支配下に置かれました。 なかでも三井三菱住友、このビッグ・スリーは、あらゆる分野のっ軍需企業をその傘下に従えていました。

また、財閥系の大銀行は巨額の軍事公債を引き受けていました。 だから猪俣津南雄は『軍備・公債・増税』(1934年)の中でこう書いています。


「読者諸君、もしも私が財閥だとすると、私は右手であなたの大金を貸し、その金を左手で受け取って軍需品を売ってやる。 そして右手で何千万という利子をつかみとり、一方、左手では何千万円という利潤をとるというわけだ」。

 

これが準戦時から戦時にかけての現代の『死の商人』、独占資本の雪だるま式肥り方の秘密でありました。

 

 

 

(関連情報)


・明治維新 「死の商人」大倉財閥の始祖 大倉喜八郎https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/de59f5b27fef6bcc03d68fc93e1340a2

・明治維新 日本の「死の商人」三菱財閥の祖 岩崎弥太郎https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/98a159e6c384d72d1b605ede523acd4d

・日本で最初の民間兵器工場 室蘭の『日本製鋼所』そしてジーメンス・ヴィッカース事件https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/36c003cef7e69b41c9f52fa000462461

・寺内陸相の『泰平組合』という「死の商人組織」https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/14731ae702543030fc714ab55bbb4e5d

 

 

 



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