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明治維新 日本の「死の商人」三菱財閥の祖 岩崎弥太郎

2024-01-21 23:16:51 | 日本政治・外交

「 巨大工業、ことに兵器工業は、最初から国家独占、つまり天皇制国家を通じてその利害を一つにする金融資本家、大地主、および軍閥官僚の独占事業であった 」

                                                          James Allen :  " World Monopoly and Peace " , New York,1946.

 



ペリー来航による日本開国から明治維新

 

「鉄砲屋」大倉喜八郎が維新戦争のおりに『あっぱれ死の商人』の面目を発揮したエピソードは既に紹介しました。

 

明治維新 「死の商人」大倉財閥の始祖 大倉喜八郎https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/de59f5b27fef6bcc03d68fc93e1340a2

 

大倉は文字通りの「ガン・ブーム」に乗じて『死の商人』の商品リスト中の本命である鉄砲を敵味方に売り、それによって財閥への出世街道に一歩を記しました。

維新戦争における大倉の活躍は、ちょうど南北戦争における JPモルガン のそれと同じです。


ロスチャイルド・ロンドン家の投資銀行『NM Rothschild&Sons』と契約したエージェントである
米国の弁護士で、米国における債権取り立てと公共事業の起債によるコミッション業をなりわいとしていた アーロン・パーマー(1778~1862)は、1837年に、ロスチャイルド父子銀行『NM Rothschild&Sons』のエージェントして正式に契約しています。

そして、ロスチャイルド・ロンドン家は彼を通じて、米国のインフラ公共事業・プロジェクトや金融関係の情報を調査、およびロビー活動をしていました。

清(中国)での阿片戦争(11840~)で、清を植民地化した後の次のタ-ゲットは日本です。アメリカ議会に日本開国提案を認めさせたのも、アーロン・パーマーペリー提督の娘キャロラインと1849年に結婚した、オーガスト・ベルモント(1813~880)の2人です。

ロスチャイルド・フランクフルト家も米国に投資していて、このオーガストベルモントはフランクフルト出身でロスチャイルド・フランクフルト家で奉公し同家の幹部にまで出世し、ニューヨークに派遣されました。 ロスチャイルドの話をしだすと私の場合、長くなりすぎるので簡単に話します。

 

訳あってオーガストはロンドン家のエージェントになり、アーロン・パーマーと米国議会に日本開国を提案したのです。

そし、ペリー提督が『日本開国』を目的として、1853年に『黒船で日本に来航』したのです。 受験生は「嫌でござんすペリーさん」で年号を覚えましょう。

 

また、アメリカの南北戦争にもロスチャイルドは深く関わり、ネイサン・ロスチャイルドは英国のマンチェスターで綿花の事業に関わり、南部(南軍)の綿花は、ネイサン・ロスチャイルドの利権です。

本来であれば、日本はロスチャイルドが背後で操るペリーにょる開国で、日本を植民地にされてしまったかもしれないのですが、同時期にアメリカ南北戦争(1861~1865)の勃発で、アメリカはそちらに忙しく日本は難を逃れたのです。

南北戦争が1865年に終わり、大量の武器が在庫となり、上海に流れました。 そして阿片戦争の中心的財閥であるジャーディン・マセソン商会が、日本の維新軍と徳川幕府の双方に売りつけたのです。

ちなみに、トーマス・グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の社員で、上海に務めていましたが、その後ンが先に転勤となり、薩長土肥の維新軍と人脈を形成し、独立しグラバー商会を設立し、坂本龍馬と蜜月で維新軍に武器弾薬。戦艦を売りつけたのです。

そして徳川 vs 維新の内乱に発展して、維新軍が勝利し、尊王攘夷を振りかざしていた長州が次々と〇〇を繰り返し、本来は孝明天皇が明治天皇になるはずだったのですが、崩御した孝明皇とその長男である 睦仁親王までも〇〇され亡くなります。

そして、伊藤博文岸信介佐藤栄作長州(現在の山口県)同じ田布施町出身の、明治維新前に長州藩の騎兵隊に所属していた一兵卒の大室寅之祐が、南朝天皇を名乗り明治天皇となりました。 天皇家は代々北朝ですが、大室寅之助が南朝の血を引く天皇家の末裔であるという証拠は何一つありません。 あったら、コメント欄で教えてください。

 

【なぜ?山口県から8人もの総理大臣が誕生!その理由が凄すぎる!】隠された歴史が明かす、日本の”真実”!明治天皇の秘密、知りたい?
https://www.youtube.com/watch?v=bft0V0SjgQw

【明治天皇すり替え証拠写真はこれ ! 】- masakazu kaji –
https://www.youtube.com/watch?v=m8JMgUB4-vE

・最大の謎にして最大の禁忌! 明治天皇すり替え説
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/58a1a6ea2910bb84eea1f22bc1edbc38

・日本政治 最大の闇 明治維新-2 明治天皇の謎
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/66095ec07bb02921f95c9b5998d18b0d

【皇室の謎】失われた左手首 和宮様埋葬の謎 薄幸の皇女 菊のタブー ゆっくり解説https://www.youtube.com/watch?v=9AalH4HfVQQ

 

そして、この小さな寒村の田布施から総理大臣総理大臣が8人も輩出されているのです。 安倍元首相が○○され、清和政策研究会(清話会)も解体され、156年間言論統制されてきたこの明治維新の闇ですが、ようやく真実を自由に正式に述べられるようになるのを期待しています。

 

長州・田布施出身伊藤博文が田布施出身の大室寅之助を明治天皇と拝して、明治新政府を樹立したのが、明治維新です。

 



明治政府の『死の商人たち』と、彼らの蓄財による新興財閥

 

維新戦争(戊辰戦争)における大倉喜八郎の活躍は、南北戦争におけるJPモルガンと同じです。


・明治維新 「死の商人」大倉財閥の始祖 大倉喜八郎https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/de59f5b27fef6bcc03d68fc93e1340a2

・風と共に去りぬ(映画)と「死の商人」https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2a19d81e462bc6efd2808d9312146efd

 

しかし、維新戦争の硝煙の中から富を蓄積し、後年の大財閥の土台を築いたのは、何も大倉愛閥だけではありませんでした。

官軍の東征、つまり江戸への進撃作戦の軍事費320万両を融資したのは、三井組、小野組、加島組(鴻ノ池)、島田組などの京阪地方の豪商でした。

つまり、彼らはこの戦争に賭け、そして賭けに勝ったのです。

 

維新戦争後、10年足らずで西南戦争が起こりましたが、この戦争がまた三井、三菱、大倉などの
『御用商人』たちにとって、ボロ儲けの絶好のチャンスになりました。

『三井物産』の前身である「三井国産方」はすでに、西南戦争以前から軍用米の調達に関して政府の御用を務めていました。

 

西南戦争が起こって軍需品の調達は、『御用商人』たちに委託されましたが、『三井国産方』は全発注の60%を請け負いました。 江戸時代から、「越後屋よ、お前もワルよのう」と政府とつるむのは得意技です。

残りは、大倉、藤田、各0%ずつ配分されました。この請負で『三井国産方』があげた純益は50万円、資本金10万円の5倍でした。

 


岩崎弥太郎(1835~1885)
   三菱財閥の祖

 

一方、明治からの新興財閥の三菱も負けてはいませんでした。 三菱は軍事輸送を一手に独占し、その結果1500万円の戦時利益を懐にいれました。

白柳秀湖の『岩崎弥太郎伝』によると、この三菱の「不当利得」は全戦費の約三分の一に及んでいたといます。

秀湖は「思えば官軍将卒の死者6843人、薩軍将卒の死者7276人、幾多有無の人材を殺し、西南戦役で、一個の三菱は政府総軍費の三分の一を純益としてせしめた」と悲憤慷慨しています。

 

 

『海坊主』の弥太郎

三菱財閥の始祖、岩崎弥太郎は土佐藩の財政役人でした。 

廃藩置県のどさくさのおり、岩崎は『吉田東洋』の小林塾の同門であった藩の重役、『後藤象二郎』とぐるになり、債権債務をひきつぐという体裁をこしらえ、

藩の債務30万両を引き受ける見返りとして『樟脳売却代金』23万両、汽船6隻、小舟5隻、および藩の物産会社『開成館(別名『土佐商会』、坂本龍馬が創設した貿易会社)の資産全部を自分のものにしました。

 

そして、これらの船舶その他を元手に、岩崎は運輸会社『三菱商会』を創設しました。

炯眼(けいがん)な岩崎はたちまち明治政府に渡りをつけました。 土佐藩の資産をものにする際に彼あのパートナーだった後藤はすでに参議(大臣職)として中央政府に列していましたが、岩崎は後藤を通して『大久保利通』や『大隈重信』にも密接な関係をつけました。

 

この政府首脳との人脈形成こそ、『台湾侵略戦争』や『西南戦争』にさいして岩崎が『死の商人』として思う存分の利益を上げる拠り所となるのです。

1874年、維新後わずか数年で、明治政府は早くも台湾に対する侵略を企てています。 政府はじめ『デロング米大使』、米人軍事顧問『ジャンドル将軍』らの後援で米船をチャーターして台湾への兵員、物資輸送を行う予定でした。

 

sかし、土壇場になって、アメリカが中立の立場を堅持したため、この計画は崩れてしまいます。 慌てた明治政府は、さきに150万ドルで購入した汽船13隻を『三菱商会』に托し軍事輸送を行わせました。

 

三菱は時ならぬタナボタ式の儲けに預かったわけですが、話はこれで終わりません。 台湾戦争後、政府は大久保の提案に従って全国の海運業者を大同団結させて大開運会社をつくり、

これに官有船を貸下げ、助成金を与えて、海軍の『第二軍』をつくることに決めました。

 

岩崎は、大久保,大隈らとのコネクションを利用して、この新設の海運会社を牛耳ることにまんまと成功しました。

その結果、三菱は向こう15年間、前述した13隻の官有船を無償で貸し下げてもらい、アメリカの太平洋汽船会社に対抗して上海航路をひらく航路助成金として年額25万円を貰うほか、

『三菱汽船』のための海員養成にあたる『商船学校』も政府の手で開設してもらいました。

 

さらに、さきに解散した半官半民の『郵便蒸気船会社』から政府が32万5000円で買い上げた18隻の汽船を15年賦、年利3%という条件で払い下げてもらいました。

こうして『三菱汽船』は東洋一の大海運会社にのしあがりますが、まもなく政府から洋銀10万ドルを借り入れて競争相手のアメリカの『太平洋汽船会社』の上海航路就航船を買収。

 

一方、イギリスの『P&O汽船会社』をも日本近海から駆逐しました。 

1884年までに、三菱が無利子またはそれに近い金利で、しかも15~50年賦で政府から借りた金は総額342万円に達し、航路助成金は年額平均29万円にも及びました。



このスキャンダルに憤慨した国民大衆が岩崎を『海坊主』と呼び、『海坊主を退治しろ』、『三菱をやっつけろ』、と大衆運動を起こしたのも当然です。

もっとも、この『海坊主』退治運動は、『自由民権』の時代の風潮を背景にしていましたが、同時代に三菱のライバル三井の『アベック闘争』だったという説もあります。

 

三井も1
882年,農商務次官の『品川弥次郎』を動かして、『共同運輸会社』をつくっていました。 

この会社は、三井の『益田孝』、三井と関係浅からぬ『渋沢栄一』が中心になって創設したもので、資本金300万円、そのうち130万円が姓具の現物出資でした。

 

この現物出資とは汽船13隻のことで、そのうち1隻は戦時には『巡洋戦艦』に改装できるものでした。

その後、この会社が2倍増資をすることになったとき、政府収支も倍加しましたが、政府出資金への利子はわずか2%でした。

 

三井、三菱の両社の競争は、1885年、両社が合併して『日本郵船』をつくるときまで続きます。

 

 



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