昔来たことがあるような気はするものの、大茶会のポスターがあったこと以外覚えていない。乗換駅に使っただけだったか。
京都の東寺と西寺の関係は朱雀大路を挟み、等距離にあった。平安京が造られたときに計画的に割り振られた区画だったのだろう。
西寺は衰え、今は礎石が残るだけだが、東寺の方は今もにぎわう。立派な塔は京都の象徴の一つと言っていいし、帝釈天像などは好みだな。月に一度市も立つ。
奈良の東大寺と西大寺の関係はだいぶ違う。平城京が東に大きくはみ出した外京を持っているのは藤原氏の本拠だったからだろう。その一角、若草山麓に聖武は寺を一つ立てる。そこに巡り巡って大仏を建てることになり、東大寺ができた。西大寺は後に聖武の娘孝謙が立てた。確かに平城宮よりは西にあるが、東大寺に比べるとずっと近い。現在奈良で西大寺というと寺の名前というより町の名前である。それも大阪の通勤圏の町で、街並みはすっかり大阪っぽい。
それでも西大寺はそれなりに大きな寺だ。広い境内を持ち、孝謙の創建当時の塔の礎石が基壇ごと残る。
基壇から本堂を見る
本堂から基壇
「創建当時」と「最初に造られた」と意味不明な書き方だが、孝謙(称徳)天皇が計画したのは八角七重の塔で、実際に建てられたのは四角五重塔だった。この変更は孝謙(称徳)天皇の死後のことだろう。経費削減ということで間違いない。主導したのは藤原永手らしい。不比等の4人の息子の内の次男房前の息子が永手で、光明氏の子の称徳とは従兄になる。「日本霊異記」下巻36話「塔の層を減らし寺の幡を倒し悪法を得た話」は永手が地獄で報いを受けた話だ。
食堂院があったという井戸跡からはいろいろな遺物が発掘されている。
古びた鐘楼だったが、なんと多田院から移築したとある。
摂津源氏の本拠ではないか。いったいどんな事情で運んだものか。