西の方から桜井市街地に向かって走ると多武峰談山神社への看板があった。行ってみる。
倉橋という地名を見る。崇峻の宮は倉梯何とかの宮と言わなかったかと思い、この辺かなと思う。
聖林寺の近くを通る。
道は登り。多武峰(とうのみね)というからには山には決まっている。
談山神社(たんざん)は紅葉の名所だそうである。なるほど青紅葉も清々しく美しい。
乙巳の変(大化の改新)前、中臣鎌足と中大兄皇子がここで談合をしたという伝承を持つ。何か腹に一物ある者同士の秘密の会合、あまり印象はよくないか。
南淵請安の居所があり、そこで二人があっていたという話もあるらしい。
鎌足の墓は談山神社近くの御破裂山(ごはれつさん)にあるそうだ。御破裂山とは物騒な名前の山だが、国家の大事に鳴動する伝承があるとか。
藤原氏の寺社として発展を遂げたらしいが、興福寺・春日大社とは対抗関係だったのだろうか。
平安末には僧兵を擁し、結構ぶいぶい言っていたらしい。
藤原氏の全盛時代、どんな様だったかはわからないが、現存の建物は、戦国時代から江戸時代のものである。
木造十三重塔
世界に現存一つだけの木造のものだそうだ。確かに十三重塔としては石造のものしか知らない。
鎌足というのもなかなか実態のわからない人物だが、妻にしていたのは天智から賜った采女だというから、長男定恵が天智の胤だった可能性もあるのか、天智の息子となれば厄介ごとの種、さっさと坊主にしたのもわからなくもないか。鎌足を渡来人の傀儡子にした小説を二つ立て続けに読んだが、あのイメージはどこから出てくるのか。
多武峰から西に降りる。降りたところは石舞台古墳だった。
こういう位置関係だったのか。石舞台から南に飛鳥川を遡って行ったところに南淵請安の墓はある。