物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

法華寺 海竜王寺 不退寺 

2022-06-28 | 行った所

法華寺 言わずと知れた光明子の寺。以前も来たことはあるのだが、こぎれいにしている寺という印象しか持てず、光明子を模したという十一面観音は秘仏で、小さい模作が公開されているのだがどうも感心しない、というのは以前と変わらず、それでも場所の意味など把握できるようになっただけましか。

 法華寺庭園

 横笛堂

 横笛像
横笛堂などがあるのも初めて分かった。とはいえ滝口入道と横笛の話は好きにもなれない。若さ故といえばそれまでだが、どちらも思い込みが激しくやっていられない。がともあれ、平家物語第10巻「横笛」には建礼門院雑仕女横笛が滝口の武士斎藤時頼に言い寄られる。父に身分違いを説かれるも諦めきれない時頼は嵯峨野で出家する。それを聞いた横笛は嵯峨野に時頼を追うが、すげなくされる。横笛は法華寺にて出家するが、間もなく死ぬ。(岩波ワイド文庫:異本では大井川に身を投げて死ぬことになっているらしい)

 光明子が建てたとかいう蒸し風呂。どこまでが伝説なのか。

 

海龍王寺は法華寺の東に背中合わせの位置にある。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺。僧玄昉の寺だという。私は吉備真備といつもごっちゃにしてしまう。共に橘諸兄のもとで力を持つが、反発する勢力の藤原広嗣が乱を起こす。広嗣の乱はすぐ平定されるが、次に藤原仲麻呂が力を持つと筑紫に追放され、そこで死ぬ。吉備真備の方は仲麻呂の乱の平定に力を発揮する。とはいえ彼らはすでに高齢だった。

  

こういう小塔を見ると、何故大きな塔を必要としたのかと思う。仏舎利を入れるだけならこれで十分だったはずだ。三重塔・五重塔・現存例のない七重塔。莫大な資金と技術、建てずにはいられなかったのだろうか。

 

不退寺


法華寺や海龍王寺とは背景を異にする。平安時代、在原業平に縁がある。業平は平城天皇の孫だ。桓武が遷都した平城への遷都を画策したという平城だ、その子の阿保親王が平城京近くに居を持っていても不思議はないかもしれないが、平城上皇の乱(薬子の乱)を平らげた嵯峨の息子仁明が、この地に寺の創設を勅願するのは何故だろう。


伊勢物語には意外に奈良の話が出てくる。初冠(ういこうぶり)は奈良の話だ。

 不退寺多宝塔

 不退寺に古墳の石棺があった。ウワナベ古墳近くで掘り出され、鎌研ぎに使われていたという。


ウワナベ・コナベ・ヒシアゲ古墳、佐紀盾列古墳群を形成する堂々たる大古墳群だ。倭の五王の時代が始まるその直前、巨大な古墳群が百舌鳥・古市に築かれる前段階のものだといわれる。宮内庁の陵墓参考地だから本格的調査は行われていない。更にアクセスは悪い。

 北が右方向
ウワナベの直東を24号線が走る。左折できる道がない。漸く入ると自衛隊の敷地に阻まれる。ややこしいなあ。

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長屋王邸跡 三条二坊宮址庭園

2022-06-28 | 行った所

長屋王の父親は高市皇子だ。高市は天武の第一皇子ながら母は宗像氏からきた采女で身分はない。しかし壬申の乱で活躍し、皇位を窺うことなく持統にも忠節を尽くし、信頼されたという。つまり長屋王は天武の孫だ。柿本人麿は高市皇子に仕えていたらしく彼の死に挽歌を歌っている。長屋王の母は御名部皇女は天智の娘、即ち長屋王は天武の息子と天智の娘の子なのだ。直接帝位を窺う位置には無かったろうが、血統的に皇親として重きをなし、更に正妻の吉備内親王は草壁皇子と阿閇内親王(元明天皇)の子だ。兄・姉は文武・元正天皇だ。即ち吉備内親王自身即位の可能性も秘めていたということになる。長屋王も「王」のはずだが、出土木簡には「親王」とあった。天皇の子ではないが、事実上「親王」扱いだったのだろうか。長屋王と吉備内親王との間の子は更に血統が強化されている。
皇親の代表として長屋王は藤原氏と対立する。不比等の4人の息子たちは妹の光明子を聖武の皇后にしたい。皇后になれるのは天皇家の血筋のものだけ、妃・夫人・嬪(ひん)ならともかく天皇の死後即位の可能性のある皇后にはダメ、というのが長屋王の理屈と当時の慣習であった。
長屋王とその妻の血統に聖武の嫉妬もあったのだろうか、聖武は文武の息子だが母は藤原宮子、父子との娘で藤原4兄弟と姉妹だ。聖武はこの母に皇太夫人の称号を贈ろうとするが、長屋王に反対される。皇太夫人というのも何やらあいまいだが、それさえ贈れない女の息子だといわれたように思ったか知れない。
そんな劣等感が「長屋王は左道(呪術)を学び、呪っている」という讒言を信じる一因にもなったのだろう。
長屋王の舘はあっという間に兵に囲まれ、家族もろとも自殺に追い込まれる。長屋王には吉備内親王の外にも妻はいて、藤原不比等の娘の一人もいたのだが、彼女とその子供は脱出したようだ。
長屋王は血統がいいだけではなくかなり優秀な人材だったようだが、反面己を頼むところ大な驕慢なところもあったかもしれない。日本霊異記に奇妙な話がある。元興寺での法要のでぼろをまとった坊主が供物を勝手に食べていたのを、長屋王が咎め、笏で殴りつけ怪我をさせた、という物だ。説話自体はともかく、どこで恨みを買っていたかわからないという物だろうか。

 長屋王の邸は平城宮の東南角の一角を大きく占めていた。これより良い場所は不比等の邸で、光明子に譲られ、一部は法華寺として残っている。
長屋王の邸は大量の木簡史料が出たことで知られる。広大な場所に家族の住処だけでなく職人の工房のようなものもあった。貴族の住まいは貴族を頂点とする一つの企業体だったかもしれない。長屋王の変の後、そこに住まっていた人々もまた大きく運命を狂わせたのだろう。
長屋王邸跡は今はミナーラというショッピングセンターになっている。その前に案内板を残すだけである。

ところで古事記の太安万侶の住まいも墓誌からわかっている。

 左京四条四坊で長屋王邸からそれほど離れてはいない。ただこの条坊全部が安万侶の住処だったはずもない。同じような官人の住まいが犇めく地だったのか。

長屋王邸跡の前の道は大きく交通量のある道だが、それを挟んですぐに左京三条二坊宮跡庭園がある。

 歩道橋上から

 

長屋王邸にも池のある庭があったろうか

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多神社(おおじんじゃ) 太安万侶の墓

2022-06-28 | 行った所

田原本の唐古鍵遺跡は大和盆地のだいたい中央部にあるが、そこから南下、田原本町の最南端、樫原市と接するあたりに、「多(おお)」という集落がある。そこにある多神社は別名多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)というが、太安万侶を祀るという。言わずと知れた古事記の安万侶。奈良時代の文官で古事記は元明天皇の命によるもので彼女に献上された。
意外に武官として戦功もあったのではないかという説もあるそうだ。多品治(おおのほんじ)の息子とされる系図もあるそうだ。もちろん後世のものなのだが、安万侶は多(太)氏の長になっているので、多(太)氏の有力者の子なのは間違いないのだろう。多品治は壬申の乱での活躍が伝えられる美濃の豪族の一人だ。

7世紀前半、蘇我蝦夷を中心に歴史を纏めようとする動きがあった。しかしそれ等の史料は乙巳の変(大化の改新)で甘樫丘にあった蝦夷館と共に灰燼に帰したといわれる。天武天皇がまとめようとしたことが端緒らしい日本書紀には大化の改新も壬申の乱も詳しく書く。勝者の勝者のための歴史のようだ。古事記で語られるのは推古までだ。継体以降、エピソード的なものはほとんど見えず、継体期に筑紫の岩井の乱がわずかにあるだけで、各大王のことは后と子供たちを列挙しているだけのようなものだ。稗田阿礼が覚えていたのはそこまででして、、、で通ったのだろうか。

 立派な神社である。

 本殿は工事中だった

 

太安万侶の墓はわかっている。珍しくも墓誌が発見されたからだ。奈良公園の南、高畑の百毫寺あたりから西へ5キロくらいだろうか、山間部と言っていいようなところで辺りは茶畑だ。もちろん安万侶の時代にお茶はない。


かなりの急斜面だ。

場所はわかるようになっているが、木炭を敷いた火葬墓については樫原考古学研究所付属博物館に遺物と墓のレプリカの方がよくわかる。

墓誌も展示されている。


太安万侶の墓の近くに光仁天皇の陵がある。久々の天智系の天皇、桓武の父だ。

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多武峰(とおのみね)談山(たんざん)神社

2022-06-28 | 行った所

西の方から桜井市街地に向かって走ると多武峰談山神社への看板があった。行ってみる。
倉橋という地名を見る。崇峻の宮は倉梯何とかの宮と言わなかったかと思い、この辺かなと思う。
聖林寺の近くを通る。

道は登り。多武峰(とうのみね)というからには山には決まっている。

談山神社(たんざん)は紅葉の名所だそうである。なるほど青紅葉も清々しく美しい。


乙巳の変(大化の改新)前、中臣鎌足と中大兄皇子がここで談合をしたという伝承を持つ。何か腹に一物ある者同士の秘密の会合、あまり印象はよくないか。
南淵請安の居所があり、そこで二人があっていたという話もあるらしい。
鎌足の墓は談山神社近くの御破裂山(ごはれつさん)にあるそうだ。御破裂山とは物騒な名前の山だが、国家の大事に鳴動する伝承があるとか。

藤原氏の寺社として発展を遂げたらしいが、興福寺・春日大社とは対抗関係だったのだろうか。
平安末には僧兵を擁し、結構ぶいぶい言っていたらしい。
藤原氏の全盛時代、どんな様だったかはわからないが、現存の建物は、戦国時代から江戸時代のものである。

 木造十三重塔
世界に現存一つだけの木造のものだそうだ。確かに十三重塔としては石造のものしか知らない。


鎌足というのもなかなか実態のわからない人物だが、妻にしていたのは天智から賜った采女だというから、長男定恵が天智の胤だった可能性もあるのか、天智の息子となれば厄介ごとの種、さっさと坊主にしたのもわからなくもないか。鎌足を渡来人の傀儡子にした小説を二つ立て続けに読んだが、あのイメージはどこから出てくるのか。

多武峰から西に降りる。降りたところは石舞台古墳だった。
こういう位置関係だったのか。石舞台から南に飛鳥川を遡って行ったところに南淵請安の墓はある。

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