物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

越中宮崎城址

2023-10-19 | 行った所

平家物語第7巻「篠原合戦」砺波山、倶利伽羅峠で木曽義仲の奇襲になすすべもなく敗れた平家、なんとか手勢を纏め、加賀篠原に陣を敷く。しかし戦いがはじまると「高橋判官長綱500余騎の勢、国々のかり武者なれば一騎も落ちあへず・・・」平家の中でも名の知れた侍大将の一人高橋長綱の手勢も各地方からの寄せ集めだったので誰もついてこない。高橋は越中の住人入善小太郎行重と組討になる。膂力の勝る高橋が入善を押さえつけるが、入善小太郎18歳と聞いて手を緩める。高橋の死んだ息子と同年だったからだ。しかし入善はそこで高橋にとびかかり、更に入善の家人も駆けつけ、高橋を討ち取る。立場・結果は違っているが、一の谷で敦盛を討ち取る熊谷直実と高橋長綱の心理は似ている。物語作家が描く戦場での武者の有様だろうか。
源平盛衰記だと少し違った展開となる。入善小太郎は華やかな鎧装束で17歳、名前も違って安家となっている。高橋と入善は上下になって組討、高橋優位の展開のところへ、入善の叔父の南保次郎家隆が駆けつけ、高橋を討つ。しかし入善は高橋を討ち取ったと主張し、南保と争う。義仲は南保の言い分を認めるが、入善にも別の賞を与える、という裁定を下す。
篠原合戦は、髪を染め故郷に錦を飾った斎藤実盛が討ち取られたことで有名な合戦だが、高橋長綱の他にも俣野景尚なども戦死している。
 篠原合戦址
ここでの入善小太郎の振る舞いは些か卑怯じみてはいるが、首を、恩賞を争うのはこの時代の通例、戦のない時代の武士道などとは違うのだ(「戦場の精神史」佐伯真一)
入善小太郎の父宮崎太郎長康(or重頼)は越中最東、宮崎の城にあった。直ぐ東へ行けば親不知、将に越中越後の境の要害の地。ここで宮崎太郎は木曽義仲に与し、畿内を脱出してきた北陸宮を迎え御所を造ったという。火打(燧ケ城)合戦に出てくる宮崎は宮崎太郎だろう。入善も出てくる。彼らは越前今庄に赴いたことになっている。
北陸宮は以仁王の第一子、母は八条院の女房らしいが、八条院の寵臣三条局とは別人だ。三条局が以仁王の子を産むころには、子供ともども奈良に離れたようだ。以仁王の乱があった時には、奈良の子は既に出家していたようだが、奈良を脱出した。手引きしたのは藤原重房(or前讃岐守藤原重季)といい、以仁王の乳母夫だったという。以仁王が三井寺に向かった時同行した乳母子の宗信の父親なのだろうか。重房(or重季)は北陸に誰か伝手があったのだろうか。
義仲は北陸宮を奉じ、平家を蹴散らし入京するのだが、宮は後白河院に相手にされず、義仲の敗死に姿を消すが、後に頼朝により京へ戻されたようだ。死んだのは嵯峨野だという。昭和になって嵯峨野の墓?から分骨?で宮崎城に墓が造られたという。

宮崎城は山頂の本丸から三の丸まである山城だが、治承寿永の内乱時にどの程度のものがあったのかわかっていない。戦乱の度に繰り返し使われた城であっただろう。戦国時代末期、上杉勢と織田信長の武将たちが対峙した時に、宮崎は上杉方の城だった。明治時代には日本陸軍もここを使ったらしい。昭和以降の公園化でさらに手を加えられているのだろう。

城址公園の駐車場から七曲橋というのを渡り、石貼りの坂道を登って行くのである。雨の後で石が滑っている。その上に濡れ落ち葉が貼りついているという素晴らしく歩きにくい坂が曲がりくねって延々と続くのである。それだけに登っただけのことはあって眺望が広がる。

 二の丸から南西方向 右奥に海、水平線に淡く長々と能登半島。中央部は広々とした扇状地がみえる。入善・黒部・魚津が広がる。入善氏は承久の乱で京方へ着いた。鎌倉にはなじめなかったのか。その後子孫の舟見氏が住んだ館跡があるそうだ。
 北陸宮模墓
 宮崎太郎供養塔

 石積
 本丸への石段
 本丸から北方向 宮崎海岸(ひすい海岸)
 宮崎城説明版

 方向図

コメント