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加賀の国府 小松市

2023-10-15 | 行った所

平家物語第一巻「鵜川軍(いくさ)」は、加賀の国府あたりで国司と白山衆徒との対立が一大騒動へと発展していく話だ。
時の加賀国司は、後白河院寵臣の西光の息子師高、目代は師経。国司側は白山傘下の寺社を勢力下におき、荘園の上りが少しでも多く欲しい。白山側は以前からの免税・役人の立ち入り禁止を権利として主張する。
国衙近くの鵜川寺に国司・目代の手下どもが乱入、湯殿で馬を洗う狼藉。寺側は馬の脚を叩き折るなどして対抗。いったんは退いた国司側だが、兵を集め、寺に火をかけ、寺は一宇も余さず焼亡してしまう。寺は白山に訴え、翌日には白山三宮八社の衆徒が国衙の目代館へ押し寄せる。しかし目代たちは既に京へと引き上げ、館は無人であった。おさまらない衆徒たちは、神輿を担ぎ京へと向かう。白山は延暦寺の末寺になっていたことから、比叡山を巻き込み、加賀の国司目代の死罪を求め、神輿を都大路へ繰り出す強訴騒ぎとなる。
時は安元2年(1176)、加賀の国府は小松市府中町辺りの事。国衙に付随する総社は石部神社に推定されている、ということで行ってみたことがある。
川を背にして立つ小高い所にある神社で、麓に鳥居と昭和60年建立の鵜川事件にも言及した碑があった。夏の頃で石段を上ると猛烈な藪蚊の襲来にあった。小ぶりな社殿以外何もない神社であった。
源平盛衰記には同じ事件を「遊泉寺喧嘩の事」とある。鵜川寺と遊泉寺は同じ寺らしい。現在鵜川も遊泉寺も地名としては残っているが、寺はない。遊泉寺温泉という施設はあるが、大型の銭湯のようだ。鵜川事件・遊泉寺事件・安元事件と呼ばれるこの事件については、源平盛衰記の方がかなり詳しく、白山の神輿が上洛する過程も、比叡山とのやり取り含め詳しい。

小松市に加賀国府の資料館ができたらしい。古墳の資料館の名前を変更したらしい。ピンとこなかった。古墳の資料館と国府がすんなり結びつかなかったのだ。てっきり後期の群集墳の資料館だと思っていたのだ。しかし、終末期の古墳だった。それも飛び切りの切り石をきっちり積み上げた石室を持つ、どうしてこんなものがここにあるのだといいたくなるような古墳だった。
資料館内に石室の一つが復元されてあった。切り石積みだけでなく、天井はドーム状になるらしく、朝鮮半島との関連もありそうだという。
*河田山33号石室復元 
*河田山33号説明版
*切り石積み説明版
*河田山12号 石室
*河田山12号 説明版
資料館の脇に登り口があり、河田山12号墳へ登れる。方墳である。切り石の切り欠きは12号の石室内で確認できる。
 *河田山古墳群案内

古墳の資料館だっただけに、河田山ばかりでなく古墳時代全般についてもかなり詳しく、横穴式木室なんて初めて知った。
*横穴系墓制
地形の成り立ちからのアプローチもあり、この地が潟湖を3つも持つ地形だったのも興味深い。
*小松の地形

加賀は焼き物が得意だ。これが九谷焼などの下地となっていた行くのだろうが、塔の相輪を陶器で造るか?と思ってしまったが、結局これは成功したのだろうか?金属の装飾品を作る職人はいなかったのだろうか。
*陶製相輪 窯跡から出た失敗品らしい

鵜川事件に関する展示もちゃんとあった。
*安元事件
*平家物語絵巻から
*白山勢力図

興味深い展示が多いのだが、詰め込み過ぎて狭苦しい感はある。しかし無料でここまで見せてくれて写真OKはありがたい資料館だ。

2023年は加賀立国1200年だそうだ。北陸道は漠然と越(こし)の国と呼ばれた。やがて越後、次いで越中、能登が切り離される。広すぎ、不便すぎて統括できなかったのだろう。越前と加賀に分かれたのは、加賀が独立したがったのかと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。越前の国司側が切り離しを願ったようだ。弘仁12年(821)紀末成が越前国司になった。加賀までには大河が4本もあり、巡回はなかなかできず、加賀の郡司はいうことを聞かず、手を焼いていた。それで越前7郡の内江沼と加賀の2郡を割き、加賀国として独立させたのだった

石部神社は資料館から西北西に1キロほどのところになり、よく見える。
*河田山からの景色
加賀の総社は府南社と呼ばれたらしい。11世紀末頃の国司藤原為房の日記に見えるようだ。藤原為房は白川院の近臣の一人であり、延暦寺の強訴にも対応したようである。
*藤原為房下向

石部神社に回ると、加賀立国1200年記念行事の一環として、史跡公園化が進んでいるらしく工事中だった。
*石部神社前
石段をあがると前にはなかった案内板があった。
*石部神社境内内案内板

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