物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

近松門左衛門の里(鯖江市吉江町)

2023-10-08 | 行った所

越前松平家の藩祖は秀康という。家康の次男に生まれながら、秀吉に人質としての養子になり、更に関東の結城家に養子に出された。後に越前一国を得て松平姓に復した。実父・養父の狭間で翻弄されながら良く生きたというべきであろう。武将としての器量に見るべきものがあったという。死んだのは37歳、死因は梅毒であった。
越前藩は75万石、加賀の前田家に対する抑え役が期待されたというが、内情は複雑であった。三河・結城から越前に入った者、越前に元からいた者、大阪との手切れを前に新たに雇い入れた者、彼らはとても一枚岩といえる状況にはなかった。それなりに戦場を駆け巡ってきた秀康ならばまだ押さえが効き、時間が経てば融和したかもしれなかったが、その意味でも秀康の死は早すぎた。
継いだ忠直13歳。菊池寛が小説にしたような暴君だったとも思えないが、まず若すぎた。家康の孫というプライドと現実との間にギャップもありすぎたのだろう。重臣たちが諍いをはじめ、互いに江戸へ直訴し合い、武力衝突を起こした越前騒動になすすべもなく、江戸幕府の介入も止むを得なかっただろう。更に、大坂夏の陣で手柄を立てたつもりの忠直は恩賞に不満があった。次第に参勤を怠る。そんな忠直に叔父の将軍秀忠は厳しかった。隠居の上、豊後に配流される。
越前藩には高田藩主であった忠直弟の忠昌が入る。この時石高は大きく減らされ50万石になった。
忠昌には3人の有力な息子があり、忠昌の継嗣は次男光通が成り、兄は松岡藩5万石、弟は吉江藩2万5千石をそれぞれ分封した。吉江は新たに創られた支藩であった。
光通の時代、天候不順による不作、火事が相次ぎ福井城の天守閣が焼け落ちる等、災害が続き、藩は財政難に陥る。加えて光通正室に男児ができなかった。側室には男児が一人あったのだが、正室の実家高田松平家は、断固としてこの息子を認めなかった。苦に病んだ正室は自害してしまう。正室の死を責められた息子直堅は出奔してしまう。堪えかねた光通は、あとを弟昌親(昌明から改名)継がすように遺言して自死してしまう。
昌親が福井藩主となったことで、吉江藩は吸収合併された。つまり吉江藩とは光通が藩主になった時に生まれ、光通の死と共に無くなった藩であった。44か村の領地ということだが、一か所にまとまってあったわけではなく、その中では大きな村落であった吉江を城下とした。福井の南、浅水川沿いのささやかな城下であり、城はなく館だけだったが、道を整え、それなりの佇まいにしたようだ。

このささやかな城下町に育った少年がいた。少年の名は杉森信盛という。父信義は福井藩士であったが、忠親の分封に伴い吉江へ来たようだ。母は医家の娘と伝わる。
杉森信義は何故か藩を辞し、一家は吉江の春慶寺に仮寓したらしい。浪人者は世に溢れ、再就職は難しいとわかっていただろうに、余程何か事情があったのか。


一家は京都へ出、父は一条家か正親町家か、公家の家に仕えたらしい。信盛がどうしたかはよくわからないが、一条家に仕え教養を身につけたらしい。京都で狂言作家としてデビュー、後に大阪へ現れ道頓堀の人形芝居竹本座の浄瑠璃作家、近松門左衛門として姿を現す。
鯖江市立待公民館の展示パネルには、近松は京都での公家奉公の後、海運業に従事し、塩を商い、途中春慶寺に寄ったとあるのだが、どのような史料があるのか知らない。しかし、あれほど商家の手代やお内儀の人間模様を描いていたのだから、商家に暮らしていた、という想像は容易だ。次男坊で比較的自由が利き、武家生活に未練はなかったのだろう。


近松という人は、自分のことについてあれこれ書き残すタイプではなかったようだ。唯一自筆写経が残っており、それは父と兄の供養のためのものであった。父兄の戒名は杉森家のものに一致し、近松は杉森家の次男であり、吉江で少年時代を送ったことは確実とみられる。鯖江市はこれを奇禍とし、吉江町を近松門左衛門の里として整備している。

 *近松像

 吉江館跡
 *春慶寺参道入口
 *榎お清水 現在は枯れているようだが、裏山には竹林が続く。


 *蓮池お清水から流れた水の池のようだ
 *お清水から館まで水を引いた樋。立待公民館に展示。

 *吉江七曲がり 浅水川の改修のため半分ほどしか残ってないが、塀が延々と続く敷地の大きな屋敷が並んでいるようだ。袖うだつのある家もある。

近松がどのようなきっかけで芸能の世界に入ったかはわからないが、その遠因の痕跡を鯖江に探すとするならば、それは幸若舞だろう。こじつけにしかならないかもだが、戦国時代大いに流行り、信長が愛好したことで知られる幸若舞の源流は、越前にある。越前町西田中(旧朝日町)は幸若舞発祥の地となっている。この西田中は日野川を挟み吉江から西へわずか2里の場所にある。昔の人なら楽々日帰りで歩いただろう。華やかな衣装で舞歌う幸若舞を目を輝かせて見入る少年を想像してもいいかもしれない。

 *越前町のリーフレット

吉江藩主から5代目福井藩主となった昌親の菩提寺は福井市内の足羽山の麓にある。昌親と母の墓のある瑞源寺だ。地元では萩の寺として知られ、シーズンには背丈を超す萩の群れが咲き誇り風に揺れる。

昌親(吉昌改め)が藩主になっても兄や前藩主の子をめぐって藩内は落ち着かず、昌親は2年で兄の子綱昌に家督を譲る。ところが綱昌でも治まらず、昌親が江戸で申し開きをする始末で、綱昌は隠居、昌親が再び藩主になることを命じられる。昌親は吉品と改名して7代藩主となるが、この不祥事で家督は半減の25万石とされてしまう。その後、吉品には男児なく養子をとるのだが、誰を養子にするかでまた揉めはじめ・・・・だが、それは別の話だ。

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