物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

檜前(ひのくま)

2022-07-04 | 行った所

檜前とは飛鳥の南西に広がる丘陵地帯のようである。

 渡来人が多く住み、急速に発展したようであるとともに、王家の墓も多く作られるようになったのか、野口王墓(天武・持統合葬墳)は檜隈大内陵、文武陵は檜隈安古岡上陵、欽明陵は檜隈坂合陵という。系図通りだと天武は欽明の曾曾孫だし、文武は天武の孫だ。ずいぶん時間軸が長い。もっとも文武の真の墓は中尾山古墳らしいし、欽明も見瀬丸山古墳の方が確率が高いだろう。
高松塚もキトラ古墳も檜前にある墓ということになる。
高松塚とキトラの間、西寄りに檜前寺跡がある。休憩案内所や広い駐車場もある。至れり尽くせりだ。

ここの人たちが高松塚・キトラ古墳の造築にかかわったであろうことはよく言われる。


寺跡には於美阿志(おみあし)神社がある。寺は東漢氏の氏寺でたいそう立派なものだったらしい。何度かの発掘調査で明らかになってきているようだ。

 十三重塔(平安時代のもの)もあったりするが、境内に、宣化天皇の宮跡だという碑があった。

 檜隈廬入野宮だという。宣化は異色の大王継体の息子の一人だ。継体の死後、兄安閑の後に即位したという。兄弟は継体が王位継承前、尾張の目子媛との間に生まれていた息子たちだ。当然成年に達している。継体は即位に際し手白香皇女を娶り、欽明が生まれた。継体の死んだとき欽明はまだ年若だったとみられるから異母兄二人が中継ぎでもおかしくないかもしれないが、それ以前に、日本書紀と古事記との間で継体の死んだ歳そのものが違う。更に百済記に「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」という物騒な記事がある。畳の上で二人一緒には死なないだろう。と、とてもすんなり継承が済んだとは思えないのだ。
古代の継承はどこでも初源的には母系だろう。その後欽明の子供たちが敏達・用明・崇峻・推古と王位を継いだことを思えば、血統の仲立ちをしたのは、前王の姉妹だという手白香皇女に他ならないだろう。
手白香皇女の墓は西殿塚古墳(継体天皇皇后 手白香皇女 衾田陵)が指定されているが、6世紀の人の墓が山の辺の道近くで4世紀のものらしい古墳とはどう見たって違うだろう。
宣化は尾張か越前か近江の高島かの地方育ちと思っていたが、諱は檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子というらしい。案外この辺りと縁があったのだろうか。ここは東漢氏の拠点、東漢氏は蘇我氏と関係深い。蘇我氏は欽明朝で台頭する。宣化も蘇我と関係があったのだろうか。
多治比氏などが宣化の子孫として名乗っている。欽明の子の一人で崇峻の死後のごたごたで殺されたらしい穴穂部皇子と一緒に死んだ宅部皇子も宣化の子だというが、年代的に見て子というより孫か。穴穂部皇子と宅部皇子は斑鳩の藤ノ木古墳の被葬者に擬されている。

休憩所と於美阿志神社との間に窯跡があった。

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高松塚古墳

2022-07-04 | 行った所

飛鳥歴史公園館前の駐車場に車を止め、かなりの交通量の209号線を地下道で潜る。

  広い公園だ。高松塚発見以降整備されてきたのだろうが。道路で隔ててある部分全部含めると甘樫丘くらいあるのかもしれない。
高松塚装飾壁画の発見は大変な騒ぎであったのだ。あのようなものが日本で発見されたのは初めて出会ったのだから。あの頃はあの壁画が模写を残して無残に朽ちるなど、誰も考えていなかった。
壁画館にたどり着く。ここは模写した壁画とパネル展示がある。

 


高松塚まではすぐだ。

 星宿の展望台から高松塚を見る

星宿の展望台を通り、低い尾根伝いにしばらく行くと文武天皇陵が見える。真の文武の墓と言われるのは中尾山古墳らしいのだが。

高松塚・キトラ古墳合わせて被葬者の問題はいまだ解がでていない。
決定的な証拠というとやはり文字資料が出てこなければならないのではなかろうか。

日本人は祖先の墓を大事にし、遺骨にもこだわるといわれるし、遠い島へ戦没者の遺骨収集団が組織されたという話を聞いたのはそう遠い昔ではない。でもそれはいつごろからなのだろう。
古墳という巨大で大変な土木工事を伴う墓の葺石・埴輪の柱列を見るとき、墓・葬送への並々ならぬ熱情を感じないでもない。でも被葬者が誰かということは伝わらないし、墓のメインテナンスが継続することもない。葺石や埴輪は遠くからでも巨大な人造物として認識されるシンボリックなものだったはずだが、数年経ない内に葺石の合間より草が生え、やがては木が茂る。樹木の根に墳丘も形を変え、葺石は崩れ、埴輪は割れ落ちる。樹々が生えた古墳は自然の山々と見分けのつかぬものとなる。
そうなると大王だったものの墓だとて、何代か前の爺さんの墓はこの辺だったらしい。程度のものになるのだろう。記紀の陵はどこそこにありの記述はそうしたものを集めたのか。
自然の山野と区別がつかなければ、墓という意識も薄れ、宝物の埋まっている山らしい、となれば盗賊も手を出すだろう。
鎌倉時代の「阿不幾乃山陵記」に出てくる盗賊(野口王墓古墳(天武・持統合葬墳)を荒らした)は天武の屍など恐れていないし、持統の遺灰などさっさと捨てている。取り調べた検非違使も墓の入口を塞いで、それで事足りたらしい。

シンボルとするものが変わった、といえばそうだろう。難波の湊を威圧した大仙古墳(仁徳天皇陵)は四天王寺が取って代った。葺石と埴輪の巨大古墳の代りに丹塗りの柱に青黒く輝く屋根瓦、天にそびえる五重塔が建った。
四天王寺とかかわりが深いという厩戸皇子(聖徳太子)の墓は磯長の叡福寺北古墳で、おそらく間違いないといわれる。明治初期まで石室の入り口が開き、誰でも覗けたらしく、いくつかの見聞記がある。3つの棺台と夾紵棺(乾漆棺)の破片らしいものがあったという。多分盗掘も受けているのだろう。
3つの棺台は厩戸本人と母親と妻のものだというが、厳密な証拠はないし墓誌もない。厩戸皇子に限らず当時の高官は漢文を読みこなし、かつ書いたはずだ。でも墓に関しては何も語らない。厩戸皇子が長らく住んだ斑鳩には藤ノ木古墳がある。厩戸が居た間に造られた墓のはずだ。真っ赤に朱を塗られた石棺の中に豪華な馬具などと共に葬られた二人の人物を知らなかったはずがない。でも何も書き残さなかった。

古墳時代が開幕する3世紀半ばどころか、1世紀、漢委奴国王の金印を得た倭人の周りには漢字を知る人はいた。でも墓碑が作られることはなかった。わずかに金石文、鏡や剣に彫られた文字があるばかりだ。金石文というが石に彫られたものを知らない。
高句麗の広開土王碑は5世紀のはじめに造られたものだ。碑文の解釈は難しく、学者によっては(特に日本と大陸・半島によっては)同じところに真逆の解釈がなされるなど、問題はあるが、「これは誰それの墓で、誰それが建てた」というようなものであれば問題はないだろう。がそのようなものはない。
大王の墓がわからなくなるのは古代以前の話ばかりではない。平安時代でもあった話だ。
二条天皇は後白河の息子で英邁の誉れ高かったが、若くして死んだ。「平家物語」は船岡山に埋葬されたと語るが香隆寺という寺で火葬にされ、遺骨は三昧堂に納められた。ところがこの香隆寺が廃絶してしまう。江戸時代何度か探すも寺も墓もわからず、明治に入って、現二条天皇陵の場所が「卜定」で決められ墓が造られたのである。
江戸時代に入って幕府の方針か、陵の調査が行われ、国学の発展と共に修陵(陵を定め修復)が度々おこなわれた。
明治の陵墓指定はそれに基づくものだろう。苦労はしたのだろうと思う。だいたい記紀の天皇の数より大王墓級の古墳の方がよっぽど多い。皇后で数合わせをしているのか。それに、古墳の編年という基準もない。記紀に出てくる地名を基にそのへんで目立つ古墳をあてはめるしかなかったはずだ。
当時はそれで仕方なかったろうが、新しい知見がでてくれば、改めるのが当然だろう。宮内庁のやり方は修正をしていたという江戸時代より酷い。
まあ、高松塚もキトラ古墳も藤ノ木古墳も今城塚も、陵墓や陵墓参考地になっていなかったからこそ調査出来た、という面はある。

私はなんとなく高松・キトラ両古墳の被葬者は渡来系の人物ではないかという気がしている。 これらの装飾壁画に匹敵する類例がわずかに知見のある天皇の墳らしきものに全くない。単に発見されていないということかもしれないが。百済でもないような気がしている。中国本土か高句麗辺り?根拠というほどのものは何もないのだけれど。

 

 

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