檜前とは飛鳥の南西に広がる丘陵地帯のようである。
渡来人が多く住み、急速に発展したようであるとともに、王家の墓も多く作られるようになったのか、野口王墓(天武・持統合葬墳)は檜隈大内陵、文武陵は檜隈安古岡上陵、欽明陵は檜隈坂合陵という。系図通りだと天武は欽明の曾曾孫だし、文武は天武の孫だ。ずいぶん時間軸が長い。もっとも文武の真の墓は中尾山古墳らしいし、欽明も見瀬丸山古墳の方が確率が高いだろう。
高松塚もキトラ古墳も檜前にある墓ということになる。
高松塚とキトラの間、西寄りに檜前寺跡がある。休憩案内所や広い駐車場もある。至れり尽くせりだ。
ここの人たちが高松塚・キトラ古墳の造築にかかわったであろうことはよく言われる。
寺跡には於美阿志(おみあし)神社がある。寺は東漢氏の氏寺でたいそう立派なものだったらしい。何度かの発掘調査で明らかになってきているようだ。
十三重塔(平安時代のもの)もあったりするが、境内に、宣化天皇の宮跡だという碑があった。
檜隈廬入野宮だという。宣化は異色の大王継体の息子の一人だ。継体の死後、兄安閑の後に即位したという。兄弟は継体が王位継承前、尾張の目子媛との間に生まれていた息子たちだ。当然成年に達している。継体は即位に際し手白香皇女を娶り、欽明が生まれた。継体の死んだとき欽明はまだ年若だったとみられるから異母兄二人が中継ぎでもおかしくないかもしれないが、それ以前に、日本書紀と古事記との間で継体の死んだ歳そのものが違う。更に百済記に「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」という物騒な記事がある。畳の上で二人一緒には死なないだろう。と、とてもすんなり継承が済んだとは思えないのだ。
古代の継承はどこでも初源的には母系だろう。その後欽明の子供たちが敏達・用明・崇峻・推古と王位を継いだことを思えば、血統の仲立ちをしたのは、前王の姉妹だという手白香皇女に他ならないだろう。
手白香皇女の墓は西殿塚古墳(継体天皇皇后 手白香皇女 衾田陵)が指定されているが、6世紀の人の墓が山の辺の道近くで4世紀のものらしい古墳とはどう見たって違うだろう。
宣化は尾張か越前か近江の高島かの地方育ちと思っていたが、諱は檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子というらしい。案外この辺りと縁があったのだろうか。ここは東漢氏の拠点、東漢氏は蘇我氏と関係深い。蘇我氏は欽明朝で台頭する。宣化も蘇我と関係があったのだろうか。
多治比氏などが宣化の子孫として名乗っている。欽明の子の一人で崇峻の死後のごたごたで殺されたらしい穴穂部皇子と一緒に死んだ宅部皇子も宣化の子だというが、年代的に見て子というより孫か。穴穂部皇子と宅部皇子は斑鳩の藤ノ木古墳の被葬者に擬されている。
休憩所と於美阿志神社との間に窯跡があった。