餘部から北西に御崎に向けて登って行く道がある。急だが対向車とは譲り合えばすれ違えるだろう。
大きく谷を迂回するように周り、ジグザグの道をさらに上がる。
駐車場があり、「平家村御崎」の碑がある。何やら説明版がある。
これは井伊直弼の師がこの辺りの出身だったということのようだ。墓がいくつかあったがよくわからなかった。
バス停がある。この辺りからの眺めは辺りがリアス式海岸であることがよくわかる。このすぐ下は断崖のようだ。
駐車場は一日1000円だそうで、お金を入れるボックスがある。
駐車場から徒歩で集落内に入る。路はコンクリート舗装だが狭くて急だ。車では曲がり角を回り切れないだろう。
しばらく上ると畑地の中を道が続く。何か碑がある。
門脇宰相教盛の墓。脇に佇むのは小宰相の墓。
碑には門脇宰相教盛卿略伝とある。
門脇宰相と呼ばれた教盛は平忠盛の息子たち6兄弟、清盛・家盛・経盛・教盛・頼盛・忠度の4番目である。家盛と頼盛は正妻池禅尼の子であるが、他の4人は皆母が違う。家盛が若くして死んだあとは、頼盛は家督を意識せざるを得ない立場であったろうが、経盛・教盛にはそのプレッシャーもなかっただろう。保元・平治の乱を清盛の下で戦い、恩賞を得ている。
門脇殿と呼ばれるのは、平家一門の住まいのある六波羅の総門脇に館を構えていたからだ。
母が待賢門院の女房をしていた関係からか、後白河とは親しく、平滋子に皇子(のちの高倉帝)が生まれたとき、二条帝の退位を画策したとかで、平時忠などと共に罰せられたことがある。その時はすぐ復位したが、後白河院近臣の藤原成親の息子成経を娘婿にしていたから、鹿ケ谷事件では拙いことになる。なんとか兄に乞い、成経の身柄を預かったものの、成経は鬼界が島へ流罪となる。教盛は領地の肥前鹿瀬荘から鬼界が島へせっせと仕送りをする。流人が生きていけるのは仕送りあればこそという。
この肥前鹿瀬荘を教盛が領していたということは、教盛が日宋貿易にも深く関与していた、ということではないだろうか。更に日本からの輸出品の中には硫黄があるのだ。鬼界が島(硫黄島)へ渡す船便にも当然伝手はあったのだろう。
最初は教盛にも会わないといった清盛だが、教盛がだめなら出家するという主張に、教盛の言を一部入れている。それなりの力量ある弟と認める部分もあったのだろう。
しかし、清盛が死に、衰運に向かう平家を支える人材にはなれていない。それどころか宗盛と清盛正妻時子率いる平家宗家により、小松家同様傍流に押しやられて行くのだ。
一の谷の合戦で、教盛は3人の息子を亡くす。通盛・教経・業盛である。更に通盛の妻小宰相も入水してしまう。
教経については、一の谷で死ななかった説もある。平家物語には屋島の戦いで、義経の大事な佐藤嗣信を射殺すシーンがある。更に壇ノ浦で、華々しく義経を追い回す平家一の猛将として描かれる。しかしこれは物語が義経と対抗する平家のヒーローを必要としたということではないだろうか。治承寿永の戦いの初期には教経の活躍はない。倶利伽羅・篠原合戦には参加していたはずなのに。近江や奈良への出兵時にも、猛将ぶりを買われての出陣はない。確かに水島合戦は勝ったが、あれは義仲軍があまりに船戦に不慣れで自滅した感があるし、六か度の戦いは局地戦ではあるし、どうなっているのかよくわからない。
教盛は壇ノ浦から逃れて御崎に来たのだろうか。
平家物語は教盛の最期を経盛と兄弟して鎧の上に錨を負い、手を取り組んで海へぞ入り給ひける、とある。逆に言えば、首は取られていない。事実、壇ノ浦の修羅から逃げ延びたものもいる。越中次郎盛嗣・悪七兵衛景清などは逃げたであろう。おそらく鎧などは脱ぎ捨て褌一つ、水主に紛れて脱出したのだろう。
しかし、教盛にそれができただろうか。子供たちはすでに死んだ、自身も60歳近い。更に生きて源氏に一矢報いる気力があったか。おまけに御崎の伝承では小宰相まで連れている。小宰相は一の谷の段階で通盛の子を宿している。一の谷から壇之浦まで1年ほどあるからその間身二つになったはずだが、一の谷から屋島、壇ノ浦へと船暮らしをしたというのだろうか。更に壇ノ浦から日本海へ舅と共に脱出。いやいや無理がありすぎる・・としか思えないが。
無理は承知の上の伝承、それ自体に価値があるようにも思える。
教盛の墓から平内神社へ。
扁額等はない。
大イチョウがあった
この神社の正月の儀式だそうだ
写真の射手はあまり弓術の達者には見えない。
駐車場に戻り、集落左の道を灯台まで行ってみる。
眺望案内板がある
道標に御崎集落0.4キロとあるのだが、道はよく見れば獣道のようなものがあるかも、という程度で使われているとも思えない。
美伊神社の鳥居はすぐそこだが、50メートルほど先には石灯籠のようなものと社新築の碑があるばかりだ。
1キロ先という道標と合わない。石灯籠の先に目を凝らすと、夏草の中にこれも獣道のようなものがなくはなく、更に少し上から目を凝らすと木々の合間に社の屋根のようなものが見えるのだが、どうやって資材を運んだかとあきれるばかりであった。
灯台は日本一高所にあるものとか。