小浜から東に向かう。国道27号線だ。かつては若狭を横断する道は27号ただ一本。非常に込み合う道だったが、梅街道や舞若道ができ、だいぶ緩和された。27号線もJRの線路も海からは離れ、南東に進路を取り、旧上中町(現若狭町)に入る。27号線の左手すぐに古墳らしい墳丘が見える。十善の森古墳だ。上中町には古墳が多い。それも朝鮮半島とのつながりを示す副葬品を持った古墳が多い。特に十善の森古墳は金で飾られた冠帽が出ている。戦後すぐの時期の発見だが、近年細片になっていたのを復元図をおこしレプリカが造られた。
若狭歴史文化館に飾られている。
6世紀の初めごろの古墳で、膳臣関係の墓と目されるが、百濟か新羅辺りと関係もあったのか。27号線を少し北へ入ったところの脇袋古墳群の中の西塚古墳は、十善の森古墳に先行する古墳とみられるが、金製耳飾りや玉類・鏡の他に馬具・武具も出土している。金製耳飾りの出土した向山1号墳も近い。
平城京とその周りから大量の木簡が出土し、解明も進んでいるが、中には若狭関連のものも少なくない。様々な物資・ヒトが大和へ向かったのだろう。
鯖街道は若狭の海産物を京都へ運ぶ道だが、奈良時代以前は熊川から先は南に京へ出るというよりは、東へ琵琶湖へ出て、水運を利用し運んだのだろうとにらんでいる。あるいは朽木までは行ったか。朽木から安曇川沿いに東へ行けば三尾野だ。異色中の異色の大王ヲホド(継体)は三尾野にいた彦主人王と越の三国の振姫との間の子で、彦主人が早く没したため、振姫は子供を連れて越に帰り、ヲホドを育てたといわれている。
上中町の中心部を過ぎてほどなく27号線は二手に分かれる。左は27号線として三方五湖方面へ向かう。右手は東進して熊川宿へ向かう。27号が丹後街道を踏襲しているわけではないが、重なる部分はある。
熊川の宿入口の駐車場の看板
裏側には京まで16里とあった。小浜では「京はとおても18里」とあったはずだ。なんだか計算が合わないが、鯖街道のルートは一本ではない、18里は最短ルートかな。
駐車場の脇の碑
この話はどこかで知っている。が16歳の少年の話だったろうか。
脇を北川が流れる。清流で知られているそうだ。
集落に入る
案内板がある。
反対側に「孝子与七」とかの案内もある。なんでも食うや食わずでも親にはごちそうを喰わせていたとかで、殿様からご褒美をもらったとかいう好かない話だった。
道沿いに歩くと「萩野家住宅」がある。すぐ並びにある蔵の丸窓が気になる。
萩野家は人馬継ぎ立てを行う運送業で問屋と呼ばれたようだ。物資を運ぶ手配をした専門業者がいたわけだ。屋号は倉見屋という。「倉見」にひっかっかる。熊川から2里ほど北へ行くと倉見という集落がある。倉見荘の中心地だったのだろう。闇見(くらみ)神社もある。平安末から鎌倉の荘園と江戸時代の倉見屋と直接の関係はないだろう。ただ荻野家は倉見の出身かもしれない。
福井県史より
萩野家のはす向かいに松木神社がある。
松木長操(庄左エ門)を祀っているから神社としては新しい。
元は藩の御蔵だったようだ。
若くして庄屋を継いだ松木庄左エ門、庄屋20名ほどが総代となり、年貢軽減の嘆願に加わる。この時16歳。その後庄屋仲間は藩の圧迫に耐えかね次々脱落する。庄左エ門だけが主張を変えず、不届きと磔になった。しかし年貢の軽減はついに認められた。という話であった。この間小浜藩主は京極家から酒井家に代っている。
宿の東端は道の駅になっている。資料展示もある。
小浜からほぼまっすぐ南下する針畑越えというルートが鯖街道としては一番古いという。最短距離だが険しいらしい。
道標のレプリカ
以前どこかで道標に「志・・」で始まるものを見て全く見当もつかなかったが「巡礼道」だったのかもしれない。
道の駅から朽木(くつき)へ向かう。山道だが意外に交通量がある。
私はどうも朽木というと木地師の里というイメージがあった。何故かはようやくわかった。白洲正子に木地師の里を書いたものがあるのだ。その冒頭に朽木という名は出てくる。内容は全く湖東の山中、永源寺の奥の話なのだったが。
鯖街道から逸れて、朽木から安曇川に沿うように下り高島に向かう。
安曇川
平地に出ると三尾野だ。
南に少し下って見つけた継体天皇のえな塚と称するもの。
えな塚からもう少し南下すると鴨稲荷山古墳がある。墳丘は残っていないが、二上山の石の家型石棺に、金製の冠・靴なども出土している。