物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20210220 名田荘

2021-02-24 | 行った所

福井県史によれば「荘園となる以前の「名田郷」は、京都に住む左衛門尉盛信なる人物の私領であったが、仁安三年(1168)にいたり、盛信はこの地を高倉院に仕える伊予内侍の所領であった摂津国野間荘(兵庫県伊丹市)と交換した(『大徳寺文書』三六四号)。「名田郷」を手に入れた伊予内侍は、まもなく立券の手続きを遂げ、数年前の長寛二年(1164)に後白河院の発願によって建立された京都蓮華王院(三十三間堂)を本家と仰ぐ荘園として成立した。」つまり後白河が集積した荘園の一つということになる。
南川沿いに162号線を走る。あまり広い耕地は期待できないように見える。県史にも「山がちな名田荘では、荘民にとっても、また結果的には領主にとっても、山そのものが豊かな財産であったといえよう。」とある。当時の名田荘は広く南川流域全体だったらしい。 (「福井県史」第二章 南北朝動乱と越前・若狭 第四節 越前・若狭の荘園の諸相 二 名田荘 名田荘の成立 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-2-01-04-02-01.htm)

納田終(のたおい)地区にあった案内板。

 

モニュメントと加茂神社入口↓

 賀茂神社本堂 

 薬師堂

 奥が土御門家の墓になる。
この土御門家は藤原道長が邸を構えた土御門殿とは関係なく、安倍晴明の子孫だそうだ。

道の駅の傍に暦会館というものがある。


安倍晴明の子孫は名田荘に領地を持ち、しばらくここに居住さえしたようだ。応仁の乱に始まる戦禍を避けたようだ。


さらに江戸時代にその子孫が名田荘へ旅した記録がある。

暦に関してはとても面白いものだろうとは思うが、正直理解できない。太陰太陽暦で江戸時代あのような暦で、みんな生活できたということがわからないくらいなのだ。

 

 

 

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20210219 小浜 西組

2021-02-24 | 行った所

小浜湾の朝

小浜市の西組と呼ばれる地区は風致地区だ。北に海、南に後瀬山が迫る地域には古い街並みが多く残る。

これは大正時代の建物で国の登録有形文化財だが現役の歯科医院だ。

 八幡神社 後ろにある山が後瀬山

「紙」の看板がある店の前を東西に走るのが丹後街道。


丹後街道は丹後から見ると若狭街道になるようだ。
丹後街道沿いに、祭や町内の説明板が出ている。 

 放生会が小浜の代表的お祭りだが祇園祭と似ているようだ。

 空印寺

椿が植えられているがほとんど散っていた

 ハ百比丘尼 後瀬山

小浜湾に面しマーメードテラスと称し、あまり風情の無い人魚像があったりするのだが、その脇に、堀川改修記念碑という地味な石碑がある。昭和50年代の物だから読むのに労はない。それによれば、幕末の小浜大火に際し、小浜町奉行武久権十郎は、町中央に新川を開削し、防火線とすることを提言した。藩の許可は下りなかったが、町役人等と協力し、工事を断行。
この武久権十郎野墓も空印寺にあると碑にはあった。

 武田屋敷跡 いつか整備する予定だろうか、空き地のようになっている。

瀧天神  瀧天神

小浜線の下を通って常高寺へ。

 この奥の階段は通れない。滝天神の脇を回っていく。


この寺は参道の階段の途中を線路が横切っていることで知られていたのだが、現在その道は通行できない。
珍しいことかと思っていたが、あちこちのあるようだ。少なくとも鎌倉の満福寺、駿河の清見寺がそうだった。
常高寺は小浜線で鉄路で分断されているだけでなく、後ろ側は国道27号線によっても切られている。墓地へ行くのは後瀬山トンネルの上道をを回るのだ。

 後瀬山トンネル

 常高院墓へ

常高寺境内に放哉の碑がある。ここで寺男をしていた時期があるそうだ。

 

西組の街並み↓

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