物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20210211-13 京都 いづれか清水へ参る道

2021-02-22 | 行った所

清水道

いづれか清水へ参る道 京極くだりに五条まで 石橋よ 東の端詰四つ棟六波羅道 愛宕(おたに)寺大仏深井とか それをうち過ぎて八坂寺 一段登りて見渡せば 主典太夫が仁王堂 塔の下天降末社 南を打ち見れば 手水棚手水とか お前に参りて恭敬礼拝して見渡せば この滝は様かる滝の 興がる滝の水(梁塵秘抄)

昔の五条は今の松原通になるという。松原橋から始めよう。松原橋は昔は石橋だったのだな。

松原橋から北側西岸の納涼床のある飲食店の並ぶところに鷺がいた。祇園白河の店でよく来る鷺を一羽知っていたのだが、同じ鷺だろうか?
橋を渡って、少し勾配があるかな、という道をを上っていく。

六道の辻


ここで右、南に折れるとすぐ六波羅蜜寺だ。今日はそのまま東へ真直ぐ上る。

まもなく六道珍皇寺

小野篁の伝説の寺だ。この人はなかなかの硬骨漢で実在の人物なのだけれど、何しろこの珍皇寺の井戸から冥界に出入して閻魔大王の手伝いをしていたなんて話があるのだ。篁は安倍晴明より半世紀ばかり先に生きた人だ。おまけに私は篁と説教節の「小栗判官」とをごちゃまぜにしていたことがある始末だ。

東大路にでる。振り返るとここまででかなり上がっているようである。交差点の表示に清水道とある。

更に上っていくと、左手の小路から八坂の塔が見える。こういう位置関係であったか。

何やら観光地じみてくる。

赤い仁王門に至る。明治の基準点があった。


たぶん修学旅行以来の清水寺だ。何一つ覚えてはいないのだけれど。

駐馬場がある。ここまで馬で来たか

舞台(本堂)へ向かう。

舞台から子安の塔が見える。

下を覗けばそれなりの迫力。

案内図から左下に見えるのが音羽の滝?まさかアレ?後で下からも確認したが実にしょぼいモノであった。


平治物語で義朝の死を知った常盤は3人の子供と清水寺へ参篭する。ひたすら観音に祈ったのである。

平家物語第1巻「額打ち論」は二条天皇の死に際し、延暦寺と興福寺が席次を争ったことが書かれる。年若い帝の死を悼むどころか相争う僧の有様なのであるが、実際の葬儀の時の事では無いようだ。次の「清水寺炎上」では額打ち論のとばっちりで、興福寺末寺の清水寺は叡山僧に襲われ炎上する。額打ち論のとばっちりと考えるとおかしいが、同じようなことは度々あったようである。この寺は何度も焼けているのだ。
 本堂、屋根のカーブが優美に美しい。

子安の塔に向かう。

子安の塔付近から舞台を見る

石垣 これではまるで城郭の石垣だ。

五輪の塔群 この辺りは鳥辺野でもある。

坂上田村麻呂が連れてきたというアテルイとモレの碑もある。

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20210211-13 滋賀 野洲

2021-02-22 | 行った所

滋賀県野洲市のあたりでは、8号線は北東方向から南西方向へ延びている。8号線は旧東海道・東山道とほぼ重なっている。竜王ICからアウトレットの脇を北上し、左折して8号線に入る。鏡の里と三上神社の中間に銅鐸の博物館がある。野洲市立歴史民俗博物館。この辺りは銅鐸の出土地で、偶然ながら2度に渡る発見で総数24個もの銅鐸が出土している。一度目は1881年(明治14)遊んでいた少年たちによる発見が端緒で14個の銅鐸が見つかったのだ。その中には高さ135センチという最大級の銅鐸も含まれていた。この現品は東京国立博物館にある。散逸したものもあるが、追跡調査も進んでいるらしい。2度目は1962年(昭和37)で道路工事に伴う発見だったらしい。1964年が東京オリンピックの年だ。それに向かって高度成長時代、大規模土木工事が始まっていたのだろう。この時は10個が出土している。どちらも学術調査がなされたと言えない状況ではあるが、かなりの研究がなされている。銅鐸祭祀そして、形式・年代を異にする多数の銅鐸が多数隣接して埋納されるのはなぜかという問題はまだよくわからない謎ではあるが、面白い。

石山寺縁起によれば、石山寺建立の際、銅鐸が出土し、吉兆とされたらしい。縁起の絵では絵師が銅鐸を知らなかったのであろう、鐘が書かれている。

 石山寺HPより

この博物館はなかなか立派なのであるが写真禁止になっている。

銅鐸以外では永原御殿というのがあるそうだ。立派な屋敷跡らしいのだが、徳川家三代が上洛時に宿泊した施設だという。家康は7回使用した記録があるという。しかしなぜここにそんなものが必要とされたのだろう。直ぐ守山の宿だ。更に足を延ばせばもう草津ではないか。一般の宿場の本陣では不都合だったのか。今は竹藪の中だ。

この永原御殿後からほど近く祇王館跡とか祇王寺とかがあるという。
平家物語の祇王は野洲の出身で、父が死んで零落し京都で白拍子になった。清盛に愛され、故郷野洲の用水路を願い、祇王井川というものが作られた。という伝説だ。

平家物語第1巻「祇王」平家が全盛を迎え、清盛はいろいろ気随いにふるまう。その中で祇王という白拍子が気に入り、高額の禄を与え可愛がるが、新顔の白拍子仏に気持ちを移し、祇王を追い出す。祇王と妹・母は出家する。そこに仏も加わり女たちは仏道に専心する。本筋には関係のない物語が延々と挿入されているのだが、そもそも実在のモデルをがあった話なのだろうか。この話は人気が高く京都嵐山の祇王寺は立派な観光地だが、祇王の舞台は西八条邸である。西八条は基本的に時子の邸であり、清盛は福原である。京都へ戻っても盛国邸の滞在が多かったようである。つまり、清盛が西八条に白拍子を抱えたとは考え難い。

それはともかく、この町には祇王の遺跡があるのである。

 祇王館跡

 祇王寺

 祇王館跡付近から 三上山 
 祇王寺付近から比良

 祇王井川 野洲小学校脇 

祇王井川については、直接祇王または清盛と結びつける資料はない。しかしながらこの野洲の地も、12世紀後半に荘園として開発されたのだろう。(歴史地理学「古代末期~中世の開発画期と平野部荘園の濯減水利」佐野静代)

祇王の父とされる橘某が清盛に仕えたとされていることは、何らかの平家関係の荘園開発に関わることを示すかもしれない。

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