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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

九頭竜川の戦い

2024-07-20 | 行った所

九頭竜川は越前の北部をほぼ東西に横切り日本海へそそぐ。
永正3年(1506)加賀一向一揆が大挙して越前に南下した。その勢30万というのだが、いくら何でも数字が大きすぎるだろう。半数としてもまだ多い。もちろん加賀一国の一向宗徒だけではない。越中・能登・越前の門徒、朝倉に越前を追われた旧守護・守護代の残党、朝倉孝景の子でありながら弟を殺し、細川政元のところへ走り永正1年加賀から侵攻した朝倉元景の残党なども加わっている。
朝倉氏は、九頭竜川を防衛ラインとした。寄せての攻め口は4つ、東から鳴鹿(なるか)・中の郷・高木・中角(なかつの)。それぞれ渡しのあった所だろう。それくらいしか渡河場所はなかっただろう。中の郷が攻め手の主力、10万を超える大軍とある。
*
朝倉氏の対応もそれに応じたものとなる。鳴鹿には志比の河原に朝倉景職が魚住景固等諸臣を率いて陣を敷く。鳴鹿は平安期から用水の取入れ口があった。現在でも大堰がある。
*鳴鹿の大堰
中の郷は総大将朝倉教景(宗滴)が藤島城に入った。藤島荘という荘園があったが、南北朝期、城郭が造られ、斯波・新田の争うところになった。何も残っていないようなものだが、西超勝寺の裏に土塁のような跡が少しある。
*西超勝寺裏
*
高木口には堀江・細呂木・勝蓮華等九頭竜川以北を本拠とする有力者が守る。本願寺派と対立する高田派・三門徒派の門徒も加わっている。後に柴田勝家は北の庄に城を構える。北陸道は北の庄を北上し高木を通り九頭竜川を渡る。勝家はここに舟橋を設置したといわれる。
*
中角は九頭竜川北岸に地名を残す。あわら街道と呼ばれる道が南北に走る。えちぜん鉄道も南北に線路が走り中角という駅もある。南岸には新舟橋・灯明寺などのだが、少し西に黒丸町もある。この辺りで九頭竜川は東西の流れを北へと変え、日野川と合流し三国へ向かう。黒丸には小黒丸という城郭があったという。
*小黒丸城の碑
*

小黒丸城址の近くの白山神社の碑にも斯波氏の城郭云々があった。


*小黒丸跡から九頭竜川の土手が見える
山崎祖桂父子率いる勢は小黒丸城に入ったという。
この戦いでは使われなかったようだが小黒丸の北5キロほどのところに黒丸城があった。南北朝斯波高経方の城で朝倉広景が守っていたという。布施田橋西詰め北に独立小丘陵があり、九頭竜川の水運の見張りも果たしただろう。

*黒丸城址

九頭竜川南岸中角の対岸堤防下に一向一揆の首塚というものがある。

 

一揆の首塚付近から小丸城方向

数的にはどこの陣も皆一揆勢が圧倒的に有利だったようだ。
戦闘は中角で一揆勢が川を押し渡るところから始まる。騎馬武者が数名渡岸しようとするが、朝倉勢はこれを阻む。一揆の大将が討ち取られたことで、一揆勢は数に勝りながら気勢をそがれる。
高木では一揆勢が馬筏で川を押し渡りながら、朝倉の守備に阻まれた。
鳴鹿では急流を渡れず、矢戰になった。
中の郷では、宗滴以下の朝倉勢が逆に川を押し渡り攻めかかる。渡河をためらう宗滴に貞景が命じたという。
朝倉勢は一気に攻撃に転じていく。追撃に一揆勢はもろかった。
越前を追われ加賀へ逃げかえったのは総勢の3分の一にも満たない大敗であった。討ち死にが多かったというより逃散であったのだろう。

この永正3年7月の加賀一揆の大侵攻には前哨戦があった。永正3年3月には越前・近江国境から本願寺実如が動かした一揆勢が南から越前侵入を図った。これを朝倉氏は追い払っている。
7月の一揆南下を前に敦賀にあった朝倉教景(宗滴)は一乗谷に赴く前に、南条の大塩円宮寺・鯖江の石田西光寺などの一向宗坊主を捕らえて、一乗谷に連行している。後方の憂いを除いたのだろう。
本願寺実如は細川政元と手を組み、越前を狙ったというが、北の加賀・南の近江の一揆を同時に動かすことはできなかったようだ。それができていたとしたら、朝倉はこの時点でもたなかったかもしれない。


下間頼照死没場所

2024-07-14 | 行った所

三国町下野の下野神社は九頭竜川の堤防を降りてすぐのところにあり、白山神社である。

拝殿に登れば鳥居越しに白山が望める。
神社には台座の赤色が目立つ小さな地蔵堂があり、下間頼照の供養碑となっている。
*地蔵堂供養碑
*地蔵堂
下間筑後頼照は本願寺の坊主だ。それも法橋という高い地位にある法主顕如の側近だ。
天正2年(1574)越前一向一揆が荒れ狂い、朝倉家の旧家臣たちを殺し、または追い払い、織田の武将たちも追い出した。本願寺派喜んだ、越前一国が自分たちの領地になったと思ったのだ。加賀の大坊主たちも入ってきたが、直接支配したかったのか、石山本願寺から側近を派遣した。それが下間頼照だった。本願寺の大坊主は坊主といっても貴族と同様だ。絹物を着、口も奢っている。そんな上級坊主がお付を引き連れてやってきた。その連中の威張ること、威張ること。加賀並の自治を期待した現地の失望は大きかった。
「坊主には極楽往生をこそ頼んでいるが、下僕のように召し使われるのは承服できない。我々は富田・桂田以下の諸侍を退治したのは、自分たちで国・郡を治めたいと思ったからだ。この思いで強敵を討ち滅ぼしたのに、何も知らない上方衆の下知で彼らの下知で彼らの思いのままにされるとはもってのほかだ。」(辻川達雄「織田信長と越前一向一揆」)これが現地の門徒宗の本意だ。
一揆は織田信長の再侵攻を前に既に崩壊しかけていた。
それでも大坊主たちは門徒をかき集め、木の芽峠を中心に、信長軍に対応しようとする。木の芽城西光寺丸・鉢伏山観音寺丸・虎杖城・火打城・杉津城・中河内丸・河野城・河野丸砦、下間頼照は火打城に入る。本覚寺・超勝寺・興行寺・本向寺などの大坊主たちも各城郭に入る。しかし士気の低下は如何ともしがたい。脱走相次ぎ、砦は雨漏りする。食料確保もままならない。
杉津の守備に就いたのは堀江景実という武将だが、既に敦賀の信長に内通の使者を送っている。敵を追い払うどころか迎え入れ、逆に襲ってくるのだから堪らない。
織田勢は一気に越前中央部に入り、大虐殺が始まる。
その中で、頼照は逃亡を図る。いち早く火打を出て府中に入ったのだろうが、日野川を渡れずそのまま北上する。三国湊を目指し、三国から加賀へというつもりだったのだろう。


乞食僧の身なりだったという。外見は乞食でも下着は絹物、胴巻きには金子を巻いていたことだろう。
日野川は九頭竜川と合流し河口へ向かう。下野付近では川幅は大きい。どうやって川を渡ろうかと思案したことだろう。
下野の地蔵堂付近で村民と遭遇する。高田は門徒だ。同じ親鸞の教えから発したとはいえ、高田派と本願寺派ではほぼ敵同士だ。
紅絹の褌、鉄漿のあと、上方訛りで本願寺派遣の大坊主と見破られ討取られた。
頼照の首は近くの黒目稱名寺に届けられた。稱名寺坊主は、三国で頼勝を見たことがあったため、見破って柴田勝家に届け出た。勝家は首を信長に届け、稱名寺に感状を出した。

 黒目稱名寺
頼照を殺した村民は基本的には農民だが、兵農分離前である。敵を殺し、落ち武者を討つのに躊躇いはなかっただろう。殺したのは頼照が初めてでもなかろう。それでも、下野神社の碑文にはずいぶん後ろめたいみたいなことが書いてある。戦時と平和な時とで感覚が違うのだろうが、おそらく金子を奪ったりもしているのだろう。
碑文1
碑文2

*碑文3


堀江氏の事 朝倉始末記から

2024-07-06 | 行った所

あわら市の番田(ばんでん)駅(越前鉄道)の近くの田んぼの中に、堀江氏番田館跡の碑がある。
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*裏切りの歴史には触れていない
*碑の周りの風景
すぐ南に竹田川が流れ、川を渡り少し西にある本荘小学校の脇にも碑がある。平泉某の名のある碑銘がある。古い五輪塔もある。
*本荘小学校脇の碑等
本荘小学校に隣接する春日神社も堀江氏と所縁があるらしい。

本荘とは荘園の中心的な場所であろうから、興福寺の荘園河口・坪江荘の中心となったところであろうか。

堀江氏は藤原利仁将軍の末裔、越前斎藤氏を自称する。とはいえ越前、北陸の武者の大半はそう自称しているのだけれど。長享2年(1488)加賀一向一揆が攻勢を極め、加賀守護富樫政親が敗死した時、堀江氏は同族なれば、富樫氏救援に向かおうとしたという。
現あわら市の竹田川流域に開けた本荘付近に勢力を張った豪族で、興福寺荘園の荘官を務めた一族らしい。細呂木の細呂木氏・金津の大溝氏とも関連がある。

南北朝期には斯波高経(北朝方)についた。細呂木の指中には新田義貞方の畑時能の川口城址がある。それなりの戦乱があったのだろう。1338年に新田義貞は戦死し、斯波が勝利し、斯波は越前の守護となる。堀江は勝ち組だったのだろう。

応仁・文明の乱を経て、斯波は失墜し、朝倉氏が台頭する。

その朝倉氏の盛衰を記した「朝倉始末記」から堀江氏の動向を見ていく。堀江氏は朝倉氏の家臣化したようだ。特に朝倉孝景(英林)に気に入られ側近になった者もいたようだ。主に朝倉教景(宗滴)の対加賀一向一揆戦に有力な戦力として活躍する。しかし朝倉義景の代、永禄10年(1567)に至ってその一向一揆と手を結び、朝倉氏を裏切り、越前から追われる。
朝倉滅亡後、席巻する一向一揆と共に越前に戻ってくる。しかし織田信長の越前再侵攻を前に、今度は信長に通じ、一揆方を裏切るのだ。100年ほどの歴史の中で前半と後半では一族のありようが随分と違うようだ。戦国時代末期の世相では変わらないものはないのかもしれないが。

この堀江氏の中心となる人物は、朝倉始末記でも本ごとに表記が違ったりしてよくわからない。一応、景用―景実―景忠―景実と拾える。一覧表にしてみた。
*
若くして朝倉孝景(英林)に見いだされ、蓮歌の才も発揮し武将としても活躍する堀江景用は、福井市史収録の始末記では景重という名になっているのだが、エピソードはほぼ同じだし、市史の注記にも景用のこととあるので、景用と呼んでいいのだろう。景用は不思議な出生譚を持つ。父堀江景経は笛の名手、ある晩、野で笛を吹き、若い女と知り合い結婚する。出産時、女は決して見るなというのだが、異類婚姻譚のお約束通り、女は大蛇の本性を現し、去っていく。残された赤ん坊が景用で、脇に3枚の鱗があった。よくあるといえばよくある話ではあるが、何やらただならぬ人物像を示そうとしたような話でもある。
戦国時代、連歌師は諸国を巡って不自然ではない人々で、しばしば戦国大名の諜報活動もしたという。京都で連歌の修業をしたという景用は、その人脈から朝倉の諜報活動を束ねたというのは空想になるだろうか。

越前は、朝倉孝景(英林)以降、5代100年の平和があったというけれど、孝景は子供も多く、弟もたくさんいた。お家騒動めいた話は当然ある。
英林孝景の後は子の氏景が継ぎ、氏景子の貞景へと継承されるのだが、氏景の弟の中に教景(宗滴ではない)がいた。教景は代々当主の名といわれる。その教景をすぐ上の兄景総が殺した。自分より待遇のいい弟を嫉んだというが、自分にもチャンスがあるはずだと思ったからではないのか。この事件での氏景の関わりはわからない。景総は蟄居したらしいが、殺されもせず、後には越前を出て、細川政元のところへ行って元景と改名をしている。それなりの支持とコネがあったのだろう。
この景総の娘を娶っていたのが朝倉景豊、敦賀郡司である。景豊の父は景冬といい英林の弟。文明・応仁の乱で京都で活躍し朝倉の小天狗と呼ばれたという。この景冬の娘を娶った者、即ち景豊の義兄弟に当たるものの名が数名挙がっている。朝倉教景(宗滴、殺された教景同母弟)・堀江景用or景実・鳥羽馬助・正蓮華太郎である。鳥羽・正蓮華は朝倉の有力国侍だ。
文亀3年(1503)教景(宗滴)は、突然出家した後、一乗谷の貞景を訪ね、敦賀郡司景豊の謀意を告げる。貞景は敦賀へ出兵し景豊を討つ。教景はもちろん、堀江・鳥羽・正蓮華、誰も景豊に与しなかったが、景豊と元景(景総)とは連携し貞景を討つ計画があったが、国外の元景は間に合わなかった。
元景は加賀から越前侵攻を謀るが、追い払われる。元景と共に戦い討ち死にしたものに堀江兵庫というものがいるが、景用・景実との関係はわからない。

永正3年(1506)加賀の一向一揆が大挙して越前を攻める。朝倉は九頭竜川の南に陣を敷く。東西10キロメートルにも渡る防衛線であった。教景(宗滴)率いる朝倉勢が川を押し渡って、一揆を加賀へ追い払っているのだが、この時高木に陣を敷いた中に堀江景実がいる。朝倉は海上交通の点でも一揆の通行を禁じ、海上に関を設けた。その警固役にも景実の名が挙がっている。

享禄4年(1531)加賀では享禄の錯乱とも呼ばれる大小一揆、一揆内部の争いがおこるが、それに乗じ、朝倉は加賀へ大規模出兵をする。教景(宗滴)に率いられた朝倉勢は手取川付近までも攻め込む。この中にいるのは堀江景忠だ。永正3年から25年、堀江家も代替わりしたのだろう。
加賀への大規模出兵は弘治元年(1555)にも行われ、やはり景忠が活躍している。
この頃までは堀江氏は朝倉勢の有力な戦力であった。

その堀江氏は、永禄10年(1567)には一向宗に通じての謀反が噂される。懲罰に来た軍と合戦に及び、能登へと退去する。朝倉始末記には朝倉景鏡の陰謀だとあるのだが、本願寺から堀江に宛てた文書があり、内通は事実のようだ。長年戦ってきた一揆勢と手を結んだの何故なのだろうか。

朝倉義景に命じられた魚住景固・山崎吉家は手勢を率い、金津の溝江と共に堀江を攻める。*溝江館跡

堀江は激しく抵抗するも一族の最期かと思われたが、ここで仲裁が入る。

堀江景忠は、武田義統の娘を娶っていた。若狭武田は内紛もあって弱体化し、朝倉を頼らざるを得ない有様ではあったが名門ではある。武田義統の娘は他に、朝倉孝景(宗淳)の妻即ち義景の母・高田派本流院真孝の妻がいる。

*三国町加戸本流院
真孝の仲裁・母の嘆願あって、義景は堀江に追放を命じる。堀江氏はいったん真孝のいる加戸へ入り、それから加賀へ、更に能登へ向かう。
高田派本流院真孝を永正3年(1506)九頭竜川の戦いに高田派を率いて参戦した同名の者とするならば、既に高齢であろう。朝倉義景は天正元年(1573)に死んだ時41歳というから、永禄10年(1567)には30代半ばのはずで、その母は50歳以下ではないだろう。姉妹の年の差は測りがたいが、景忠は60代とみていいだろう。
堀江の乱で出てくる名前は、堀江中務丞景忠・左衛門三郎景実・堀江父子、更に左衛門三郎利義とある。この景実は永正3年(1506)に出てきた景実と同一人物ではないだろう。祖父の名を名乗ったのだろうか。利義は景実が朝倉の通じを使った名を捨て改名したのだろう。乱の中心は景忠・景実父子だろう。

堀江氏は能登のどの辺に行ったのだろう。どうやって暮らしたのか、本願寺から扶持のようなものは出たのだろうか。

天正元年(1573)朝倉氏のあっけない崩壊の後、一年とたたぬ間に越前は一向一揆が席巻する。
加賀の一向一揆と共に、堀江氏が越前に戻ってくる。やはり本荘の堀江館付近に入ったのだろうか。

天正3年(1575)織田信長の再侵攻を前に、一揆勢は木の芽峠を中心に防衛の陣を配置する。その頃には一揆はすでにその団結力を失っていたのだけれど。
堀江氏は杉津の守りを任されていた。敦賀半島を押さた織田勢の上陸を阻むはずだった。しかし、堀江は既に内通の使者を信長に送っている。
そして織田勢を迎え入れ、一揆に攻撃を始めたのだった。
*杉津 北陸高速道路下り杉津PAから 敦賀湾を挟んで敦賀半島
この時の堀江の名は中務丞景実とか、左衛門三郎景実とか、左衛門三郎利義とか定まらないが景忠はいないようだ。
堀江は内通の恩賞に本領安堵の他、加賀の2郡を要求したようだが、ずいぶん強気すぎる要求に見える。信長は朝倉滅亡後、朝倉から織田へ走った前波吉継(改名し桂田長俊)を守護にしているのでそれくらいは、と思ったか。
堀江景実は加賀大聖寺の津葉城におさまったとか。
朝倉始末記には見えないが、その後恩賞に不平を言って殺されたとか。


坊主の出自

2024-06-02 | 行った所

「朝倉始末記」などというものを読んでいて、驚くことの一つは坊主たちが非常に戦闘的なことである。一向一揆が将に戰さと呼べるようなものであったことに、全く知識がなかったわけではないが、一向宗(浄土真宗本願寺派)のみならず、高田派・三門徒派なんてのも十二分に戦闘的で、立派に軍勢の一翼を担うのだ。平泉寺の僧兵どもならまだわかるが。しかし、高田派勝曼寺明秀が言ったという「我ガ宗派ヲ破滅セントスル一揆ヲ攻討ツコソ仏法ノ紹隆タルベケレ」の主旨はどの宗教も内包するものなのだろう。
平安末期の僧兵(衆徒・大衆)は武者の家を出自とするものが多かった。平泉寺を率い、平家と木曽義仲の間で返り忠を繰り返した斉明は越前斎藤氏の出だったし、以仁王の乱に出てくる日胤は千葉常胤の息子だ。数百年を経た坊主の出自なんて意味のあることとも思えないのだが、出てくるのだこれが。坊主たち自身が誇らかにこれを言う。
浄土真宗は親鸞の教えを守り伝えるといいながら、いくつかに分流している。その中の高田派は北陸に勢力を伸ばしていた。ところが蓮如が吉崎に道場を開くや、本願寺派が驚くべきスピードで浸透していく。これに加賀の守護富樫家の内紛が絡む。高田派が与んだ富樫幸千代は本願寺派と与んだ富樫政親に敗れる。更に本願寺派と政親が対立、本願寺の一揆は政親を敗死させ、ここに「百姓がもちたる国」が出現する。浄土真宗の国とは言いながら本願寺派(一向宗)のみの支配だ。なんせ一向宗は他宗に改宗を迫り、坊主を追い出し、焼き討ちまでかけるのだ。片っ端からやられたようだが、一種の近親憎悪なのか同じ浄土真宗の他派により過激であった印象がある。
永正3年(1506)加賀一向一揆は多勢をもって越前に攻め寄せる。越前朝倉氏は宗滴教景を総大将に九頭竜川江を防衛線に陣を張った。戦いは朝倉勢が一揆を押し返し、越前から追い払う。この時の朝倉勢の一角に高田派と三門徒派がいる。
風尾村勝曼寺の明秀という高田派の坊主は、小和田本流院へ急行し、高田派を挙げて守護(朝倉氏)へ味方するように提言する。本流院の真孝は慎重である。明秀は本願寺派の非道を説き、更に僧とはいえ、真孝は桓武平氏国香の子孫ではないか、自分(明秀)は斎藤実盛の弟の子孫である。折立稱名寺は佐々木高綱の子孫、聖徳寺は三浦氏の子孫、円福寺道場は斎藤氏、などと高田派の由緒を、平家物語とその周辺に出てくるような人物を絡めて語るのだった。丹は磨いても色は変わらぬ、金は錆びても変わらぬ、我らは僧になっても本性は変わらぬ。とえらく血統主義を漲らせ、参戦を説くのだった。

風尾村勝曼寺
旧清水町、現福井市風尾町。斎藤実盛の弟三郎実貞の子が南居村に蟄居し、その子孫が文永1年、顕智上人に遭い、縁あり出家して勝曼寺を建てたとのことである。
文殊山の南麓鯖江市南井(なおい)には斎藤実盛の弟の子孫だという家があり、実盛所縁の地として知られている。

 県道6号線、福井市街地から西へ海岸の大味へ出る道の途中にある。行ったのがまだ雪のあるころで、本堂は雪囲いの中だった。脇に勝曼寺と掲げた建物があった

加戸本流院(円福寺)

加戸は三国の近くである。

 これは脇門だったのだろうか、入って左手に本堂があり、右手に参道で階段があるが道路で断ち切られていた。
真孝は柏原天皇(桓武)の子孫、鎮守府将軍平国香の子孫下野国大内氏の出だそうだ。平の国香は将門の叔父で、国香を含む親戚たちと将門との確執が乱に発展していく。国香が鎮守府将軍であったかは知らない。国香の子貞盛は清盛等の先祖になる。
本流院真孝は高田派を纏めていたらしい。後の堀江の乱でも本流院真孝の名が出てくる。堀江の妻と真孝の妻、朝倉義景の母(宗淳孝景妻)が若狭武田の娘で姉妹、という縁で仲裁に出てくる。堀江氏は本流院を経由して加賀へ転出した。堀江氏は本願寺と通じ、朝倉を裏切ろうとした。
堀江の乱は永禄10年(1567)であり、永正3年(1506)加賀一向一揆との戦いから60年もたっているのだ。真孝は永正3年20歳だったとしたら永禄10年は80歳過ぎだ。不可能ではなかろうが同一人物なのだろうか。

折立稱名寺
佐々木四郎高綱といえば、宇治川の合戦で名馬イケヅキ・スルスミを駆っての梶原景季との先陣争いで名高い。その高綱の子左衛門尉重高が越前に来て、その孫の五郎時高が顕智上人により出家し稱名寺を建てたということである。

 大変立派な門・堂宇であり佐々木氏の底力のようなものを感じる。美山町(現福井市)の山の中である。山が富を生む財産だった時代のものでもある。

黒目稱名寺

黒目は三国の南、九頭竜川対岸になる。
折立稱名寺が移転したというよりは並立していたのだろう。
    梅の古木で知られ、境内の石碑によれば永禄1年(1558)が寺が造られて間もなく植えられた梅だということである。

 
 掲げられた寺宝の他に「柴田勝家の感状」があるはずである。本願寺から送り込まれた越前一揆の総大将下間頼照の首を勝家に届けてほめられたのである。近くの下野神社に頼照の供養碑がある。

聖徳寺


相模の土屋の義清が建立したそうである。義清の実父は三浦義明の弟岡崎義実である。ということは石橋山で戦死した佐奈田与一の弟になる。
大野の味見の谷とあったのだが、現福井市である。旧美山町は旧大野郡であったのだ。実際福井市街地に出るよりは大野の方が近そうである。ただ冬場は通れる道ではなさそうだが。同じ旧美山町の赤谷というところへ行ったことがある。週末を過ごす人はいるらしいが事実上の廃村だった。味見はまだ人の生活がある。しかし10年後・20年後を考えると難しい。

仙福寺
この高田派の寺の由緒を明秀は上げていない。
 福井市の足羽川と足羽山の間にある街中の寺である。
先祖は佐々木経高という、盛綱や高綱の兄弟だという。承久の乱で京方につき自害。経高の次男高範が越前で顕智上人の弟子となり寺を開いたとのことである。
天正2年、本覚寺を先頭とする一向一揆に囲まれ攻められた。仙福寺恵玄は一揆と和睦する。あらかじめ、織田信長の下へいざとなったら人質を出し、一揆と和睦する、と了承を取っていたということである。
度々出てくる顕智上人だが、親鸞の直弟子で高田派三世ということである。

本向寺


この寺は高田派ではない。本願寺派、即ち一向一揆の寺である。和田本覚寺・藤島超勝寺・荒川興行寺・宇坂本向寺・久末昭厳寺、と名だたる一揆の旗頭に並んでいる。宇坂で旧美山町ではあるが、折立や味見に比べれば余程町近い。
手塚光盛の弟の子孫が親鸞に帰依し、寺を建立。更にその子孫が蓮如に帰依、本願寺派になったということである。手塚光盛といえば、篠原合戦で斎藤実盛の首を取ったことで名高い。信州諏訪の名門金刺氏の出である。

だが、「街道の日本史28 加賀越前と美濃街道」には本向寺は千葉常胤の息子の創建とある。こっちの方が史料があるのだろう。朝倉始末記(福井市史)には手塚の子孫とあるのである。

これらの寺はいずれも由緒を境内に掲げたりはしていない。それどころか、一揆のことなど何の関連もなかったかの如くに佇むのである。


溝江氏の事

2024-05-27 | 行った所

あわら市大溝1丁目(旧金津町)の空き地に看板が立っている。

 溝江氏の館跡だ。金津に城郭を構えていた朝倉氏の有力家臣団の一角だ。滅亡時の当主溝江長逸の父は景逸と朝倉氏の通字を名乗っていることからも窺える。名字の地溝江は河合荘溝江郷、興福寺大乗院の荘園だ。古くから開けたところであるとともに、竹田川と北陸道が交差する要衝でもある。
永禄10年(1567)堀江氏の乱の折には義景に派遣された山崎吉家・魚住景固らは堀江館に集結し、堀江を攻めた。
朝倉氏滅亡後、溝江氏は信長に安堵されるが、間もなく越前には一向一揆が席巻する。
この時、溝江館は一揆の大軍に取り囲まれる。

 館は堀をめぐらし、主殿に複数の建物を持った城郭というにふさわしい館だったかもしれない。しかし多勢に無勢である。押し寄せる一揆の大軍に、旧朝倉家臣団は次々に打ち取られて行った時期である。
一揆の大将杉浦玄任は殺気立つ一揆勢をなだめ、溝江一族へ加賀へ退去を提案。杉浦の息子を人質に出すとまで言った。溝江は疑いながらもこの提案を受け、固めの盃を交わす段になって、にわかに一揆の鬨の声が上がる。長引く談合にしびれを切らした者がいたのか。
座は一気に緊張、騙されたと思った溝江は使者を切り捨て、それを知った一揆勢がなだれ込む。火が放たれ略奪が始まる。溝江長逸は妻子を殺し自害する。一族のものも後を追う。この館には加賀をのがれた富樫一族のものもいたらしい。彼らも死んだ。
朝倉始末記は長逸らの辞世の歌を載せる。溝江一族の死に様を誉めながらも、朝倉義景を裏切った罰、自業自得だと書く。6,7年も前から信長に通じていたのだと。しかし天正2年(1574)時点の7年前といえば永禄10年(1567)になる。堀江の乱があり、その後足利義昭が一乗谷に来たりしているころだ。堀江の裏切りは本願寺からの誘いによるものだ。この頃から本当に信長からの誘いがあったのだろうか。外交戦略として、広く口を掛けておくということかもしれないが。


細呂木と吉崎

2024-05-14 | 行った所

越前の戦国大名朝倉氏の滅亡には様々な要因が考えられるだろうが、その遠因の一つには一向一揆との抗争が多年にわたり消耗が激しかったということも挙げられるだろう。
北陸に大きく勢力を張った一向宗の隆盛の基は、間違いなく蓮如の吉崎下向にあった。この類まれなるマーケッター、プロパガンダ―、アジテーターが加越国境、大聖寺川と北潟湖が一つになって海へそそぐ吉崎に居を構えたことから、朝倉と一向一揆の宿命的な対立の構図は始まる。
しかしながら、この蓮如の吉崎入りには、朝倉孝景(英林)の了解があってのことだったといわれる。越前の北部、坂井郡には坪江庄・河合荘といった興福寺の荘園があった。蓮如は興福寺大乗院と親しく、大乗院の斡旋で孝景の了解を取付けたものらしい。蓮如に帰依し側近となり、非常に先鋭的で、後に加賀一向一揆を煽ったと責任を擦り付けられ破門される下間蓮崇は足羽郡麻生津の出身だという。朝倉氏と無縁の者ではなかっただろう。下間とは代々本願寺法主の側近の家柄で蓮如が蓮崇に与えた姓だろう。
朝倉氏は但馬出身で斯波氏の被官に過ぎなかった。応仁文明の乱に乗じて越前守護であった斯波氏・その守護代の甲斐氏を加賀に追い、一乗谷に本拠を築いた一代の英傑、英林孝景は、一向一揆に手を焼く子孫の有様をあの世で知ったら歯噛みをしたかもしれない。

また大乗院領の坪江庄の内、細呂木郷というところがある。越前の最北端であり、江戸時代の北陸道の越前最後の宿で関もあった。細呂木氏というのは細呂木郷の荘官だったのが朝倉氏に従ったらしい。刀根坂の敗戦で討ち死にした者の中に細呂木治部少輔の名がある。はじめから朝倉と大乗院の間に立って、双方の顔が立つように腐心する立場だったことは想像に難くない。
*坪江庄図 あわら市郷土歴史館の展示
*細呂木の関址
細呂木城址は細呂木の関址の案内板のある集落の南西の小高い所で、春日神社が建っているあたりである。
*春日神社入口
*本殿 赤い棒?が海老の髭のような注連縄がある
*磐座?
*土砂崩れ危険地区になっている。土塁か何かがあったのかもしれないが、私にはわからない。狭いし城郭というよりは街道の見張り場所だろうか。
*北東方向 他方向は樹々が邪魔で見えない
*細呂木周辺地図
ここから吉崎まで直線距離だと2.5キロ程であるが、旧道を辿ると1里(4キロ)足らずだろうか。観音川を渡り斜め右に坂を登って行くと分かれ道がある。
*旧北陸道と吉崎への連如道の標識等
右が旧北陸道。太陽光発電のパネルが立ち並ぶ脇を抜け、林間の道は加賀橘宿へと続く。左が蓮如道
*蓮如道 こちらを進むと県道29号線の吉崎の交差点へ出る。
*この図現在地は、北陸道にある。25号線とあるのは29号線の間違いであろうと思う。 
*北が下の図である。上の方(南)からちょろりと出ている細い白線が蓮如道、太い線が県道29号線で吉崎交差点へでる。
*吉崎御坊址から北を見る 右手にこんもり鹿島の森、左手があわらゴルフ場。中央に日本海。右から大聖寺川、左から北潟の北端が合わさって海に至る。
戦国時代の城郭といったら信じるだろうか。いや山の規模が小さすぎる。ちょっとした砦、見張り所にはなるか。
蓮如を得て、門前市をなしたという吉崎だが、蓮如は4年でここを去る。何度か焼けてもいる。
*吉崎の道の駅の前の道を上がる。寺の間を抜け階段を上がる。
*蓮如像がある。

*蓮如記念館庭から鹿島の森が見える
吉崎御坊址へ登る両脇に、東と西の本願寺の別院がある。蓮如から五代目の法主顕如は信長と和解し、石山を出る。事実上の降参となる。嫡男教如は徹底抗戦を主張するが、入れられず、弟准如が顕如の跡取りとなる。教如は徳川家康の知己を得て勢力を盛り返し、東西二つの本願寺が並び立つことになる。地方の寺々もかなり熾烈な勢力争いをしたのであろう、福井の超勝寺などは同じ集落内に東西で超勝寺と名乗る寺が2つほとんど隣り合ってある。
*吉崎の蓮如記念館にあった系図。東本願寺の施設と見えて、顕如の次には教如系しか書いてない。西本願寺の資料館もあるかと思ったがないようだ。それにしても鎌足から引いてくることもなかろうに。
*すごい子供の数、徳川家斉か嵯峨天皇なみ。案内をしてくれた人が、蓮如の奥さんは4人いたが、同時期の人はいないと強調していたのがおかしかった。
*本願寺派の勢力が強かったところが黄色らしい。若狭で一向一揆が激しかったとは聞かないのだが。
*蓮如の吉崎下向は琵琶湖を利用し、海津からは陸路吉崎に至る。退去は海路であった。


府中龍門寺城(越前市) 他

2024-05-06 | 行った所

越前国府は越前市(旧武生市)府中近辺。国府の碑も国分寺という名の寺もあるが、国庁址はわからなかった。近年、本興寺という寺の境内から平安時代の遺構が発掘されたということである。
*本興寺境内内の発掘場所
*発掘の説明版

府中は古代の越前の中心であったことはもちろん、中世・近世になって一乗谷・北の庄が台頭しても、存在感の大きい街だった。

朝倉始末記には、足利義昭が越前下向の際、府中龍門寺に立ち寄ったことを記す。
*龍門寺への案内板*龍門寺
*案内板
*この案内板はNHKが前田利家のことをドラマ化した2002年のものだろう。
*武生市は2005年に越前市となっているのでそれ以前の案内板。
*堀跡の墓場
案内板が3つもあるが、それぞれちょとづつ違う。
天正1年(1573)朝倉滅亡時、織田勢の中には朝倉家臣に属していたものも少なくなかった。府中に入ったまだ若い富田長繁は真っ先に寝返った前波吉継(桂田長俊と改名)に続いて、織田陣に駆け込んだ。朝倉の武将で刀根坂の戦いで討ち死にしたものは多い。その後織田軍の越前侵攻時には、積極的な抵抗戦を試みることなく降伏したものは更に多い。彼らを見て、富田は己の先見の明を誇ったであろうか。

信長は府中龍門寺で戦後の処理をする。朝倉景鏡が義景の首をもって信長に降ったのはここだったらしい。しかし一年もたたないうちに、越前は一向一揆に席巻される。一揆の発端は富田が桂田(前波)追い落としのために煽ったものだという。その一向一揆が富田を囲み追い詰める。富田ばかりではない。旧朝倉家臣の武将たちの館・城のほとんど、浄土真宗本願寺派以外の寺院も焼き討ちされる。
一向一揆勢を破り、再び信長は府中に陣を敷く。信長は府中の街は死体で埋め尽くされているなどと、得意げな手紙を書いている。龍門寺は信長が府中に置いた配下の城となる。

鯖江市長泉寺町に富田長繁の供養塔がある。歯塚大権現という小さな祠の脇である。
*歯塚大権現
*富田長繁供養塔
*富田長繁供養塔案内板
富田長繁という人は、勇猛で戦は巧みで自信家だったらしい。戦功一番のつもりが前波吉継(桂田長俊)の下につけられたのが不満だったようだ。前波を滅ぼした後も、仲は悪くなかったはずの魚住景固父子を騙し討ちに殺してしまった。これですっかり人望を亡くしたようだ。後ろから鉄砲が飛んできたというのはそういうことだろう。

歯塚明神の北へ数百メートル行ったところに中堂院という寺がある。「すりばちやいと」という変わった行事で知られた寺だが、泰澄大師が創建したという古い由緒の玉林寺三十六坊の一つで七堂伽藍が立ち並ぶところだったという。朝倉氏の庇護を受け栄えたが、一揆により焼亡したという。朝倉義景・織田信長・結城秀康などの文書を所持する。
*中堂院
*本堂
*阿弥陀象説明
*石仏
*一乗谷にあるような石仏群
*供養塔
*壮大な伽藍後の名残のような池。えちぜん鉄道福武線の線路が上を走る。

さらに北へ7,8キロ行くと福井市片山(旧清水町)に真光寺址というところがある。ここもかなり大きな寺だったが、富田長繁の配下の武将増井甚内助、が立てこもり、一揆によって焼亡したという。更に毛屋猪之助が守る北の庄の館も落ちた。
*塔楚址? 
*復元石造多層塔
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義景敗残行

2024-05-02 | 行った所

遠征のあげく、軍議まとまらず長の詮議(評定)、取敢えず移動し始めたところに追撃を受け大敗走、ようやく自国に逃げ込んだものの、兵は集まらず、寝返り相次ぎ、滅亡に至る。負けによくあるパターンかもしれない。
元亀3年(1573)、改元して天正1年、浅井長政のこもる小谷城救援のため出陣していた朝倉義景、戦況の不利を聞き陣替えをし、更に柳ケ瀬まで退く。ここで長の詮議。敦賀までの撤退を決めるも途中の刀根坂で追撃され、決定的な損害を出してしまう。義景本人は逃げのびたものの、多くの将兵を失う。後はただ敗走だ。敦賀から木の芽峠を越え、なんとか一乗谷までたどり着く。ここで館に立て籠もって一戦とか自害とかではなく、義景は妻子を伴い大野へ向かう。大野の郡司朝倉景鏡(かげあきら)の勧めだという。血筋はよくわからないが、義景叔父景高の後を襲って大野郡司になったのだから近い血筋のものだろう。一門衆筆頭でもある。景鏡は今回の近江の戦に出陣していない。つまり大野の兵は無傷だ。それに白山平泉寺の兵力も見込めるかも。だが、この時景鏡が何を考えていたかはわからない。出陣していないのだって将兵の疲れを理由にした拒否だった。
一乗谷から大野へ向かう道筋は、朝倉始末記に出てくる地名から追うことができる。だいたい国道158号線の旧道に一致する。美濃街道ともいわれた道だ。足羽川沿いに旧美山町の集落を縫うように走る。車で30分ちょっとであるが、義景一行は丸一日かかっている。義景や側近は馬だろうが、妻子は輿とあるから丸一日は上等だろう。
*158号線旧道ルート
一乗谷の赤渕大明神を拝み、下城戸を出て阿波賀、市波、宇坂、小和清水、薬師、大宮、計石、峠を越えて大野盆地に入る。既に夜に入り、盆地の風景は見えなかっただろう。
*大野市やばなの里から。左が犬山(亀山)、右手に戌山。犬山(亀山)は後に金森長近が居城としたところ。現在模擬天守がある。戌山は斯波氏から朝倉氏にかけての城郭址がある。雲海に浮かぶ天空の大野城のビューポイントになっている。
義景一行は戌山麓の洞雲寺に入る。
*洞雲寺楼門 曹洞宗の古刹らしい雰囲気のあるところだ。幕末の大野藩で財政を担い活躍した内山氏の菩提寺でもある。


義景は洞雲寺で、平泉寺に書状を書いたりして過ごした後、六坊賢松寺へ移る。洞雲寺では守りにくい、というのだがわからない。それこそ戌山の上か、景鏡館にでも入れればいいはずだ。義景は六坊賢松寺で景鏡手勢に囲まれ詰め腹を切らされているのだから、景鏡にとって都合のいい所に移された、ということなのだろう。
六坊賢松寺は今はないがその場所はわかっているようだ。大野の市街地はきれいに整備されているが、そのひとつ御清水(おしょうず)の近くで、義景の墓のある義景公園の近くでもある。

*御清水
*義景の墓
*
*この地図は北が下になっている

義景の妻子も当然のように殺される。景鏡は義景の首をもって信長に降るが、周囲の反応は冷たいものだったようだ。しかし信長は景鏡を許し、大野郡を安堵する。景鏡は朝倉の姓と通字を捨て、土橋信鏡と名乗る。
一年とたたないうちに、越前は一向一揆が席巻する。景鏡は平泉寺と共に一揆の焼き討ちに滅ぶのである。それは残った朝倉家臣の過半が辿った道でもあったが。
*平泉寺南谷坊址
犬山・戌山から少し離れたJR越前大野駅のほど近くに日吉神社がある。そこに亥の山城址の案内があった。亥の山城と戌山城の関係は日常の居館と戦時の城郭だろうか。標識に拠れば、朝倉景鏡・杉浦壱岐・原彦次郎がここに拠った、とある。杉浦壱岐は一向一揆の大将だ。原は知らない。


金ケ崎の夢(敦賀市)

2024-04-27 | 行った所

敦賀は越前の道の口だ。ここを舞台にした有名な合戦の一つは、南北朝時代、南朝方新田義貞と北朝の斯波高経との攻防だ。義貞は高経に負け、「玉」としていた後醍醐天皇の皇子尊良親王も殺された。桜の季節は特ににぎわう金ケ崎宮はこの時の死者を祀るのだそうだ。
*
* 写真右手奥は金前寺観音堂だ。建物は新しいが、この観音堂については今昔物語に説話があるほか、源平盛衰記の安元の騒動で白山の神輿が京へ持ち込まれるときにちらりと出てくる。左手の奥へ行くと鉄道遺跡のランプ小屋があったりする。

元亀1年(1570)足利義昭と共に上洛した織田信長は、朝倉義景に上洛を命じた。義景がこれを無視すると、4月、信長は徳川家康と共に越前侵攻を開始する。西近江路から若狭へ、そして敦賀へ。
敦賀を守るのは朝倉景恒。宗滴教景の養子、実父は義景祖父貞景、朝倉一族の中でも名門、宗滴の下で戦の経験も十分、実力ある武将の一人だったろうが、如何せん敦賀の兵力は少ない。金ケ崎・天筒山に拠って戦うが、大軍を前に劣勢被い難い。
景恒たちは援軍を今か今かと待っていたはずだ。義景の出陣の報は伝わったのだろうか。これが来ない、来ないのだ。景恒は堪らず降参してしまう。
織田軍は越前の中央部目指し、木の芽峠へと向かう。
ところが、突然列を乱し退却し始める。景恒は唖然としたのではなかろうか。種を明かせば、浅井長政がいきなり信長に反したのだ。挟み撃ちを恐れた信長は一散に逃げる。金ケ崎崩れである。
この時、朝倉軍はまともに織田軍を追ってはいない。どうしていたのだろう。
朝倉始末記はどうかというと「日本思想体系17 蓮如 一向一揆」では、義景は一乗谷を出陣したものの何故か浅水で引き返している。浅水は福井市と鯖江市の間になる。一乗谷からいくらも進んではいない。引き返した理由は書いてない。大野郡司で朝倉氏NO2といわれる朝倉景鏡はこれも出てきたものの府中(越前寺)に留まり南下していない。もう一つは「現代語訳 朝倉始末記」では景鏡は大野穴馬を固め、義景は敦賀まで来たことになっている。義景を恐れて信長が逃げたような書きぶりで、とても信じがたい。福井市史の「古代中世史資料編」では朝倉の諸兵の出陣がより詳しいけれど、大筋は「現代語訳」と同じようだ。異本は他にもあるようだが手に入ったのはこれだけだ。まあ軍記物だからというのはあるのだが。

もしこの時、信長が浅井長政の動きに気付かず、または浅井が動かず、そのまま織田軍が木の芽を越え、今庄、府中と北上してとしてきたら、いくら義景でも一乗谷に引き籠ってはいられまい。朝倉総力を挙げての越前防衛戦に出ていたら、どうなっただろう。元亀1年4月時点なら、姉川の戦いもまだだし、下坂本や堅田他無益の近江での戦いを強いられ将兵疲弊し、厭戦気分蔓延という状態ではなかったはずだ。結構互角の戦いになったのではないか。負けたところで、三年後の天正1年のようなみじめな終わり方にはならなかったのではないか。もし浅井長政との連携がうまく取れたとしたら、信長をはじめ羽柴秀吉・明智光秀・徳川家康の4人の運命はここで終わっていたかもしれない。

* 敦賀湾を挟み、常宮神社から見た金ケ崎。火力発電所の大きな煙突の右が金ケ崎

 金ケ崎月見跡からの北。敦賀新港の突堤が湾を横切る。奥に薄く見えるのは越前岬。


篠尾廃寺から

2024-04-25 | 行った所

北陸高速道路福井ICを出て県道158号線を東へしばらく行くと、天神の交差点がある。その手前、左手にコンビニがある。


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コンビニの裏の田畑の中に巨石が一つある。石の上方に丸い穴が穿ってあり、塔の心礎なのだ。

そのサイズから、法隆寺の五重塔にも匹敵する塔があったとされる。そんな塔がそびえた寺は相当の規模のものだっただろう。奈良時代の越前の中心は国府が置かれた府中(越前市、旧武生市府中)だが、この辺にも大きな力を持った勢力がいたのだ。といっても驚くにはあたらない。ここから見る範囲、篠尾・成願寺・酒生・宿布といった地域には古墳がたくさんある。
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篠尾廃寺の礎石の脇に立って、北の方を見ると成願寺から宿布にかけて、山が連なっているのが見える。 成願寺の山

成願寺山の山腹には波着寺という寺の跡がある。波着とは足羽川の洪水時、水が来たということなのだそうだ。成願寺の山裾まで反乱域だったのだろうか。川は自然堤防で流路もしばしば変わったことだろう。

視線を南に向けると、158号線と足羽川を挟み、ちょうどローソンの看板の辺りに、東郷の槙山が見える。
*槙山城遠景
その頂には槙山城址があり、成願寺城と対応し、共に一乗谷の北の入口を警戒する朝倉氏の支城になっていた。
*槙山城天守跡、ただし朝倉氏のものではなく、織豊時代の長谷川氏の城郭である。
槙山城も成願寺城も、朝倉氏滅亡時には、他の越前の山城と同様に全く機能しなかった。何しろ本城の一乗谷の山城さえ使われず、義景は逃げ出し、一乗谷の館や町家はことごとく灰燼に帰したのだから