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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

味真野

2024-04-23 | 行った所

北陸自動車道武生ICの東側に味真野と呼ばれる地域が広がる。


*真柄十郎左衛門の墓がある興徳寺から、北東治左川の方へ歩くと勾りの里がある。

*よくわからないが継体天皇皇子勾大兄皇子の旧跡と称しているようである。

*治左川
*トミヨの生息地だ

*小丸城址は朝倉が滅び、一向一揆が滅んだあとの織田方の武将の城址、小さな砦跡のようにしか見えないが相当の城郭だったらしい。前田利家が一向一揆を虐殺したと記した文字瓦が出土した。

*城福寺は平家ゆかりの寺と伝える。花筐と称するしだれ桜があるが時期が遅かった。

花盛りの味真野は素敵なところだ

*味真野小学校校庭のエドヒガンサクラ

*池泉のエドヒカンサクラ

*この豪壮な門は豪摂寺。浄土真宗三門徒出雲路派。

万葉館には大伴家持と大伴池主とで交わされた歌や中臣宅守と狭野弟上娘子の歌も紹介されているが、小丸城出土の文字瓦もここにある
隣接して鞍谷御所址がある。足利家の支族がここに住んでいたというのだが、どういう人間か知らない。朝倉義景小宰相と呼ばれる娘を寵愛し2女1男を得たという。その娘は鞍谷御所の遠縁だというが本当だろうか。もっと身分のない娘に箔付けをしたようにも思える。
*
*

万葉味真野苑はいつ来ても気持ちのいい所だ
*水芭蕉

ここは越前打ち刃物の里でもある。ナイフビレッジで物色できる。


真柄十郎左衛門の墓(越前市)

2024-04-20 | 行った所

武生ICの東側に味真野と呼ばれる地域が広がる。和紙の里として知られる今立の南側で、越前市真柄・五分市・池泉などの町名になる。
越前市の東運動場のすぐ脇の興徳寺という寺に真柄十郎左衛門の墓がある。
*興徳寺

真柄を名字の地として名乗った一族は、いつごろからかこの地に根を張った地侍とか国人とか呼ばれる人たちだったのだろう。朝倉家の家臣に数えられるが、朝倉の直参というか有力武将は「景」の字のつく名が多いので、そうではない真柄氏は些か距離のある関係だったかもしれない。
十郎左衛門は普通直隆という人物だとされるが、弟直澄、または同じ十郎左衛門を名乗った父の家正との混同があるのではないか、とも言われる。
十郎左衛門は、身の丈7尺(2.1m)の巨漢で、ものすごく大きな大太刀を振り回す、越前の赤鬼と呼ばれた猛将で、まるで講談に出てくる人物のようだ。事実十郎左衛門の誕生譚を語る講談があるそうだ。
朝倉始末記にも足利義昭の朝倉館御成の際、真柄十郎左衛門が大太刀を振るって見せる余興があったとあるそうだが、私が見た本にはなかった。見たのは「日本思想体系17 蓮如 一向一揆」の中に収録されてある朝倉始末記で、もう一つは「現代語訳 朝倉始末記」だ。もっと手に入れにくい異本がいくつかあるのだろう。ともかくその二冊共に真柄が出てくるのは、義昭の朝倉館御成の時の道の警備である。どこそこの辻は誰それ、と名前がずらずら上がっている中に、「三輪小路には真柄備中守」とあるだけである。
姉川の戦いにもない。そもそも「思想体系」本には姉川の合戦そのものがない。野村とか三田村の戦いとかともいうそうだが、元亀1年(1570)6月の戦いがないのだ。4月の金ケ崎崩れの後は9月まで飛んでしまう。五月に朝倉景鏡が近江に出陣し、横山城を築城したりするのだが、織田勢が来ないとか言って帰ってきている。
「現代語訳」の方は姉川の合戦があるにはあるが、朝倉が勝って信長は徳川勢の加勢で逃げた、というようなことしか書いてない。戦死者の名などない。
ただ、二冊とも、近年病死・戦死のものが多く、千馬単位の兵を退きまわす将がいなくなり、口達者な若輩者ばかりになった、と嘆いている箇所があり、そこに出てくる名前に、前波・小林・黒坂等姉川で死んだらしい者が出てくる。これらの名は「信長公記」の浅井・朝倉の戦死者として出てくる。「信長公記」では戦死者の筆頭は真柄十郎左衛門である。
ともかく、真柄十郎左衛門という武者がいて、朝倉軍の中で戦い、討ち死にしたものがいるのは確かのようである。
*十郎左衛門の墓 馬鹿に大きな下駄がある

真柄の大太刀というのは大変有名で、真柄の大太刀と称するものを見たことがある。模擬太刀でもって見てもいいということだったが、とてもじゃないが振りかぶれそうもない代物だった。
*ウィキペディアから
姉川合戦図屏風には、黒馬に乗り、すごい形相で両手で頭上に血刀を振りかざす真柄が描かれている。ただしこの絵は天保8年の銘がある。姉川から300年近く経っている。


義昭御所と南陽寺址(朝倉氏遺跡)

2024-04-19 | 行った所

朝倉氏滅亡の原因は、最後の当主となった朝倉義景のキャラクターや様々な要素が考えられるが、これも室町最後の将軍となった足利義昭に振り回され過ぎた、ということも挙げられるのではないか。
永禄10年(1567)に、前年から敦賀にいた義昭は越前一乗谷にやってきた。義景に将軍を奉じて上洛する意思はなかったと思うが、まさに国を挙げて、というような大歓迎会を催する。
それはそれは大掛かりなもので、義昭のために御所を新築。義昭を朝倉館に招待するため御成御殿も新築。古式にのっとり様々な儀式も執り行う。義昭の元服式や将軍就任式まであったらしい。御相伴衆やらなにやら公家衆も集まる。事実上の浪人といっていい義昭にそんな御付の人たちがいたわけもなく、みんな朝倉の招待だろうか。京都からの旅費・衣装代ももったことだろう。
御成の献上品は、太刀6振り・腰刀1振り・馬2頭・鎧腹巻三つ物各一領・堆紅の盆、絵画、小袖多数、とある。1989年出版ではあるが「織田信長と越前一向一揆」の中で辻川達雄は、太刀一振りの価格を米を通して現代のものにして3375万円と見積もっている。6振りで少なくとも3億円は超えただろう。また堆紅(ついしゅ)の工芸品は明からの輸入品で最上級の贈答品だったらしい。朝倉始末記には天文20年(1551)に三国湊に唐船が来たことを記しているし、朝倉氏は琉球貿易に手を染めていたらしくもある。朝倉遺跡の出土品には輸入品も見られるから、明の工芸がたくさんあっても不思議はないが、高価なものであったことは間違いない。
酒宴もいちいち大仰なものだった。料理80種、17献に及ぶ酒杯。一献ごとに、またぞろ献上品が奉げられる。朝倉家臣のお目見えもあるが、彼等にも献上品が必要である。将軍様から家来に下賜品があるではない。家来が御会いしてくださってありがとうと献上品を差し出すのだ。他の将軍家御成とかの例を知らないから何とも言えないが、気の遠くなるような出費が続いている。
義昭がらみの宴会は永禄11年(1568)春の南陽寺の糸桜の花見をもって終わり、義昭は美濃へ去る。義景に見切りをつけ、信長のところへ行ったのである。
この頃の朝倉と織田の関係は特別の敵対関係にはなかっただろう。単に近国の大名同士である。決定的悪化するのは義昭の斡旋により、本願寺と朝倉の和議がなってからだ。本願寺と厳しく対立する信長にとって、本願寺の味方は等しく敵となる。
朝倉は元亀年間の実り無き出兵に消耗していく。

義昭の御所址は、朝倉遺跡上城戸を出て一乗滝の方へ行く道沿いにある
*御所の案内板の地図
*御所址の遺構

南陽寺は観光地朝倉氏遺跡のメインとなっている朝倉館跡の北隣の小高い所だ。館跡からは登って英林孝景墓を回っていくが、瓜割清水の近くの民家の脇からから小道を上がっていくこともできる。
*下から見上げる南陽寺址。桜の植えてあるテラス状のところが南陽寺址になる
*南陽寺址碑
*南陽寺庭園址
*歌碑 もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば(義昭) 君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこき今日の言の葉(義景) 共に南陽寺糸桜花見の宴での歌だそうだ
*糸桜 朝倉遺跡全体にしざれ桜が多く植えてある。

*朝倉館跡から唐門方向


下城戸・上城戸(朝倉遺跡)

2024-04-16 | 行った所

福井市街地から158号線で東へ向かい、右折し天神橋で足羽川を渡る。左手に直ぐあさくら水の駅だ。道なりに行くと一乗谷朝倉氏遺跡博物館がある。
観光客の大半はこのルートで遺跡に入る。

 遺跡はここから南へ一乗川に沿って続く。敦賀方面から高速道路利用でも、ナビは福井IC から天神橋経由の道を示すはずだ。


一乗谷は南北に細長い谷だ。その谷の南北に城戸を設け、城戸の内を守る一種の城塞都市だ。北のものを下城戸といい、南は上城戸だ。上下は都からの近い方を上というから、京都に近い南が上だ。北陸道を北上してくると、鯖江辺りで東へ入り大味を通って谷に入るのが最短距離だ。しかし物資の輸送などは三国湊との水上輸送が大きかったのだろう。下城戸が当時もメインルートだったのではないか。


下城戸は実際、近世の城の虎口を思わせるほど勇壮だ。


越前の中世は石の文化だといわれる。発掘された平泉寺南谷の遺構が象徴する。
朝倉遺跡の朝倉舘跡や復元町屋敷などではそれを感じない。諏訪御殿址・湯殿庭園・南陽寺庭園址には巨石の遺構があるが、庭園址なので威圧感はない。ところが下城戸は十分に威圧的だ。巨石の虎口は効果的だ。比較的近いのは下城戸の更に北の光照寺址の石組みだろうか。

 南陽寺結界石


上城戸は土塁だ。しかも後世の改変が著しい場所らしい。しかし巨石の石組みはなかったのは確からしい。

 上城戸から北、復元街並み方向


西山光照寺址 一乗谷朝倉氏遺跡

2024-04-14 | 行った所

去年開館した福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館の駐車場に入らず進むと踏切がある。

JR越美北線だ。九頭竜線ともいう。大野を経て九頭竜湖まで行くのだ。左手にささやかな駅舎が見える。一乗谷駅だ。踏切の向こうは山だが、道なりに左へ曲がっている。そのまま行くと西山光照寺址へ出る。


イノシシの罠がある。熊注意の看板もある.
朝倉時代に栄えた寺の跡だという石積み
 背丈を越える石積石に南無阿弥陀仏と彫ってある。結界石というらしい。


 石積の前を通って行くと、何に使ったのか四角い池があり、その周りに石仏を集めた簡易な建屋が廻っている。

 
石仏がたくさんあることで知られているが、ここは一乗谷の城戸の外になる。下城戸よりも北に位置する。やはり城戸の内を外れた南の上城戸より南の盛源寺にもかなりの石仏がある。一乗城山の山中にも石仏が散乱している場所があるらしい。ここの石仏は皆大きい。豊原寺址で見た物の倍ほどもあるように見える。
 光照寺は天台宗の寺で、開祖は真盛上人。どういう人か知らない
*

 案内板

福井市街地にも光照寺という寺がある。福井大仏が通称の大きな観音座像がある寺だ。朝倉の滅亡と共に廃絶した一乗谷の光照寺だが、結城秀康が福井に再興を命じたらしい。

一乗谷の光照寺は、花の下でお弁当を食べたくなるようなところだ。


帝釈堂口の幽霊

2024-03-24 | 行った所

軍紀物には怪談が少ないように思うのだがどうだろうか。ないわけだはないのだが。軍紀物は戦話だから、酸鼻な殺戮が繰り返されるのだが、そこで死んだ人間の怨霊が彷徨い出た、というのは少ないのではないか。
朝倉始末記の幽霊話はひとつだけだ。

永正4年(1507)、先年越前から追い払われた一揆勢が、また侵入してくる。和田本覚寺・藤島超勝寺といった越前浪人の坊主たちが主導した一揆だ。本願寺に大規模の越前侵攻の一揆をおこすことを提唱するのだが、取り合ってもらえない。ここに加賀国石川郡の玄任というものが名乗り出る。
和田の大坊主は「敵の方へ掛かる足は極楽浄土へ参ると思へ。引き退く足は無間地獄の底に沈むと思へ。」とアジる。
8月28日、越前河北郡上ノ郷帝釈堂口へ打って出る。ところが越前勢に打ち負かされ、大坊主・加州勢は逃げ帰る。その中で玄任たちは一歩も引かず、300余名、そろって討ち死にした。
その後、玄任の妻が和田坊主のもとを訪れ、坊主を見てひどく泣く。坊主は妻に慰め顔で説教する。玄任は極楽往生したのだから、と。妻は、そんなことで泣いているのではない。玄任が極楽往生したのはわかっている。逃げた坊主様が無間地獄に落ちられることが哀れで悲しいのだと言い放つ。

朝倉始末記の筆者は不明だが、旧朝倉家臣か縁者には間違いないだろうから、一向一揆には手厳しい。ただ本覚寺や超勝寺の坊主はことのほかタチが悪かったようである。なんとか追われた寺を取り戻したいというのはわかるが、やたら他者を煽っておいて、真っ先に逃げ出すというのは帝釈堂口の合戦のみではないようだし、超勝寺に至っては越前侵攻反対派を毒殺したことさえあるようだ。

さて、帝釈堂口の戦いの2,3日後、近所の家の戸口が叩かれ、主人が出ると首なしの男が4,5人いる。目を凝らすとかき消える。また別の時、青首が家をのぞいていたりする。そんなことは続くある夕方、僧が見た怪異は、雲間に雲霞のごとき軍勢があり、文明3年(1471)の朝倉・甲斐合戦から近年に討たれし亡霊云々という声が聞こえた。
どうも玄任たちの幽霊ではないようだ。なんでまた30年も前の戦いで戦死したものの霊が、この地に彷徨いでたものか。
話は僧が供養して怪異は止み、朝倉貞景があちこちで堂を建てた、という話で終わっている。

帝釈堂口はあわら市中川にある松龍寺付近。
松龍寺には帝釈堂があったという。
 松龍寺 門が鐘楼になっている。
 千体仏堂 そっと戸を開くと小さな仏像がずらりと並んでいる。

 案内板
帝釈堂はわからなかった。

和田本覚寺の本貫は福井市和田(158号線沿い福井市消防局のある地域、足羽川がちかい)だろうが、現在の本覚寺は永平寺町東古市、九頭竜川南岸にある。
 本覚寺
超勝寺は福井市藤島町、ほぼ本貫の地へ戻ったのかもしれないが、隣接して東超勝寺と西超勝寺がある。
 西超勝寺
 東超勝寺
西超勝寺境内裏の方に藤島城の跡もある。南北朝期に造られたらしい

 藤島城址


長崎称念寺

2024-03-13 | 行った所

福井県坂井市長崎は旧丸岡町の西端、広い坂井平野のほぼ中央東寄りになる。近くを旧北陸道が南北走り、東へ行けば豊原寺を抱える山地に行き当たる。


越前・加賀の国境は現在の福井・石川県境にほぼ等しいが、常に固定化していたかというとそうでもないようだ。
朝倉孝景(英林、敏景とも)が越前をほぼ掌中にしたとはいえ、斯波氏の守護代であった甲斐氏は加賀から越前への干渉をなかなか止めなかったし、英林孝景の孫貞景の代になっても、今度は朝倉元景(景総:貞景の叔父にあたる)が加賀の一向一揆と結んで攻め込んで来たりしている。加賀勢は坪江庄まで攻め込み、貞景は長崎に出陣している。
元景が死んでも加賀からの侵攻はやまない。
朝倉始末記によれば、永正3(1506)年 7月17日、加賀の一向一揆勢は越前乱入、九頭竜川北の村々焼き払い、兵庫・長崎に陣取る。
この時朝倉宗滴教景を総大将とする朝倉軍は、九頭竜川を挟んで加賀一向一揆勢と対峙する。東から西へ流れる九頭竜川が山間から平野部へ入ってくる鳴鹿付近から西へ日野川が合流し、流路を北へと変えていく近くまで、10キロを超える防衛線であった。西の中角の渡し付近で始まった戦は、宗滴が中の郷で川を押し渡り朝倉が優位に立つ。一揆軍は敗走し、加賀国境へ追い払われる。その後、享禄4年(1531)には、大小一揆の混乱に乗じ宗滴率いる朝倉軍は加賀へ侵攻、手取川付近まで押し寄せる。つまり当時の加越の国境は、北は手取川から南は九頭竜川まで流動的であったかもしれないということだ。そして長崎の地はどちらも陣取るにはちょうどいい場所だった。
元亀3年、浅井氏救援のため近江に出陣した義景の手勢に、長崎大乗坊、というのが見えるが、長崎のものだろうか?敗走するなか刀根坂の戦闘で討ち死にしたようである。
朝倉氏が滅び、一向一揆が越前を席巻した時、加賀から大将として下間七里三河守と称するものが長崎に着陣する。ここが一揆の司令部になる。この陣は間もなく豊原寺に陣替えしたようだが。
一揆が織田軍に掃討されていくとき、羽柴秀吉の手勢が舟橋・長崎を探索している。民家神社仏閣残らず焼き払い、しかも片っ端から捕まえて殺している。府中・波賀・北の庄・三国・金津・兵庫・長崎・豊原・黒龍の河原に700人磔とある。長崎は目立つ集落だったのだろうか。
 称念寺西側の門
長崎称念寺は時宗の寺で、古い由緒を誇るらしい。新田義貞の廟所というのもそうなのだろう。
 新田義貞廟


明智光秀が10年も住んだ、というのは本当かどうかよくわからない。
一向一揆が本拠の一つとしたというのは事実としてあると思うのだが、この寺の説明版には一言もない。


黒坂氏のこと(朝倉始末記から)

2024-03-09 | 行った所

旧北陸道は、越前の集落・街・宿場を縫うように南北に走る。坂井町の市街地から九頭竜川の渡しまでは、ほぼ県道109号線に重なる。

 舟寄(ふなよせ)辺りでは、十郷用水という古くからの農業用水をパイプラインに付け替えた関係からか、多少の街道らしさは集落内には残っているものの、景観はだいぶ違っているだろう。

ここに2枚の案内板が建っている。


舟寄踊りはあまり古くからのものという感じもしないが、一応福井県の無形文化財ということになっている

歌詞に出てくる「黒坂の殿様」は黒坂備中守景久らしい。朝倉始末には所々で描かれ、朝倉氏を支えた中堅どころの家臣と思われる。姉川の合戦に景久は500騎を率いて出陣する。この頃までは朝倉氏の衰運はそれほど目立ってはいなかったと思われる。そして景久の軍兵の中にはこの辺りの農民がかなり含まれていただろう。戦国時代の農民は江戸時代の農民とは違うのだ。

この黒坂館跡と伝わるところが、この案内板から東へ数百メートル行ったところにある。日東シンコーの工場の敷地内である。

 「朝倉義景ノ臣黒坂備中守景久居館跡ナリ」に始まる碑がある。昭和45年、丸岡町教育委員会と舟寄地区・新興化学株式会社が建てたらしい。内容は、景久は加賀の一向一揆と戦い功があったこと、舟寄踊りは景久の頃にできたらしいこと、景久は姉川の戦いで戦死したこと、息子の与七郎は一揆と戦って死んだこと、墓らしいものが出たので、ここに整備する、といったことである。

 他に五輪塔がいくつかある。碑文の舟寄踊り云々以外は朝倉始末記によるものであろう。

弘治元年(1555)7月と8月、朝倉宗滴率いる越前勢は加賀へ侵攻する。黒坂勘解由左衛門景久は手勢を率いた大将の一人である。苦戦の末相手の武者の首を取る手柄を挙げている。

元亀元年(1570)4月、織田信長は敦賀へ至り、金ケ崎城を攻め落とす。しかし、ここで浅井長政が朝倉と結んだことを知り、引き返す。いわゆる金ケ崎崩れである。
6月、体制を立て直した信長は北近江の小谷城に攻めかかる。朝倉は浅井氏救援に近江に向かう。激突したのが姉川ということになっているが、どっちが勝ったとかそう単純な戦いでもなかったようだ。しかし浅井・朝倉勢は歴戦の将兵の多くを失ってしまったことは間違いない。織田勢も徳川勢の加勢がなかったらどうなっていたかわからないところはあるが。
朝倉始末記は朝倉玄蕃助景連・同次郎右衛門景高・前波藤右衛門景定・小林備中守・窪田九郎右衛門・黒坂備中守と千騎・二千騎引き回す大将は皆死んで若く口達者な者が残った、と嘆いている。他に大太刀を振り回す真柄十郎佐衛門も戦死したらしい。

天正元年(1573)朝倉氏は家臣の裏切り相次ぐ中、義景の死によってあっけなく滅ぶ。景久亡き後の黒坂氏はどうしたのだろう。なし崩しに織田方になり館を保ったか。長島や大阪に手を焼く信長はとりあえず越前は寝返ってきていた朝倉家臣に任せたらしいが、これが収まりのつかないことになる。家臣同士の争いに一向一揆が絡む。越前を一揆が席巻する。
黒坂館跡から南へ数百メートルで長崎称念寺がある。

現在は時宗の寺になっているが、一揆の集合場所の一つとなったところだ。

天正2年2月中旬 河北の一揆は黒坂与七館を攻め黒坂与七兄弟3人・同兵庫助・同弥次右衛門他が戦死している。
黒坂館に攻め寄せた一揆衆にはこの辺りの農民も多数参加していただろう。殿様の出陣に戦勝を祈って集まったのとかけ離れた人々ではなかっただろう。

 


犬追物 朝倉始末記から

2024-02-15 | 行った所

朝倉義景の最初の妻は細川右京兆(晴元)の娘だ。女児を一人得たが早世した。二番目の妻はこれも京から来た近衛殿と呼ばれる女性だ。細川義種の娘だというが、義種と晴元との関係は知らない。朝倉始末記には美貌だったとあるが、子供ができなかった。そして義景は他の女に心を奪われる。越前市味真野万葉苑の近くに鞍谷御所といわれる場所がある。足利氏の一族が住んでいたらしいのだが、義昭らとの関係は知らない。この御所と親戚関係があった娘を側室にしたのである。小宰相と呼ばれる娘は義景の子を2女1男を産む。当然、近衛殿との間は面白くないことになる。男児は正妻の猶子にするなどの対処法があったのではないかと思うのだが、近衛殿は京都へ帰っている。
和歌は二条浄光院、弓術は小笠原流、連歌の宗匠は度々訪れるなど京文化に対するあこがれは人一倍であったような義景だが、京女とはうまくいかなかったようだ。それに管領細川氏の縁者とはいっても細川家自体が没落してきていたのだから、縁をつなぐメリットもなくなっていたのかもしれない。近衛殿の邸を壊し、土を入れ替えて小宰相のための新居を作る。
ところが、この小宰相が死んでしまう。嘆き悲しむ義景を慰めるため、家臣たちが犬追物や曲水の宴を企画したというのだが、本当だろうか。義景自身が十分ノリノリで審判員長などを務めたのではないか。
企画した家臣は、奉行を務め、煌びやかに現れる朝倉景連あたりが筆頭だろうか。景連は、義景の祖父貞景の弟の子で、父宗淳孝景の従弟ということになる。頼れる親戚の叔父さんだろうか。
犬追物は棗の大窪の浜で行われたという。今の三里浜だ。同じ棗にある朝倉山城が景連の居城だったようだ。犬追物は景連のおひざ元で開催されたといっていいのだろう。
*朝倉山麓にある味坂(みさか)神社、山頂が朝倉山城になる。登り口はこちらではないようだ
*三里浜から見る朝倉山。木材加工の大きな工場の上に頭を覗かせる朝倉山。

 三里浜 南西鷹巣方向 少し小高くなったところに糸崎がある

 北東方向 石油備蓄基地が見える。

永禄4年(1561)4月4日、義景は一乗谷を出発。川西経由で龍興寺に一泊。龍興寺は山中の禅寺だったが、後に一向一揆に焼かれ廃寺となった。翌日は鷹巣の糸崎寺に参詣し一泊。糸崎寺は現在もある。仏の舞という地味な僧服を着た数人が金色のお面をつけて舞う民俗芸能が伝わっているが、どこでそんな奉納をするのだというような寺である。往時はそれなりの大きな寺だったかもしれない
*仏の舞の里の碑、越前海岸らしく水仙が咲く

 糸崎寺前から鷹巣の海が見える

*糸崎寺 お堂の脇の五輪塔の台座に糸崎寺と彫られている
翌4月6日が犬追物の興行日になる。
景連は三里浜の直近、河尻の道場に泊まっていた。当日現れた景連の様子は、弓取り30人統べて金細工付き腰刀、太刀の30人は金鍔も鞘尻の金具も金貼り、本人は烏帽子にかちん染め上着・袴、立派な黒馬に家紋を金具に刷り込んだ金覆輪の鞍・厚い倉掛に乗る。武将100余人を2列に並ばせ、白柄の長刀・銀金具の槍30本 総勢500人と凄まじい。
続いて、小林新助・朝倉右兵衛尉景高・朝倉次郎左衛門景尚・与七景友・前波左衛門五郎景当・前波九郎兵衛吉継・福岡三郎右衛門吉清・堀平右衛門吉重・山崎七郎左衛門・魚住・侘美・桜井・斎藤・窪田 他がそれぞれ衣装を競い・兵を従えている。
義景は、下級家臣200人 外様も参加し1千余騎を従える。総勢1万に参加の大イベント。ちょっと気になるのは大野城主朝倉景鏡と敦賀城主朝倉景恒の名が見えないことだ。来なかったのか、呼ばれなかったのか。

犬追物といえば、なんと残虐な、とぺット愛好家から猛抗議を受けかねないが、実際には犬を殺すことはまずないそうである。鏃は蟇目という鏑矢の一種で、先は丸めで中は空洞、刺さらない。当たれば痛いだろうし、事故がなかったとは言えないが、当時の犬は愛玩用ではないし、昔のことだから勘弁してもらおう。それにしても犬はどうやって集めたのか。それ用に飼われていたとは思えない。鷹狩り・巻狩り様に飼われていた犬は、ちゃんと訓練した猟犬だろう。犬追物には使わなかっただろう。野犬を集めたのだろうか。集落ごとにうろついていた野良犬を集めたのだろうか。更にイベントの終わった後はどうしたのだろうか。
2020年11月から12月にかけて、福井県立美術館であった「初公開 犬追物図屏風と江戸絵画名品展」のパンフによれば、約160メートル四方に囲まれた馬場に、射手36人、犬150匹。射手12人づつ上・中・下手に分け、犬は一回に10頭づつ放し、15回にわたって行うとある。検見という審判役、結果を知らせる呼ばわり、記録係、射手の補助役、犬引き等の役がいるし、その他の準備に人手がかかる。はじめは流鏑馬・笠懸同様、武術を競うものだったが次第に儀式化し、終いには娯楽になったようだ。

永禄4年の朝倉の犬追物は大部大掛かりなものだったのだろう。朝倉始末記は、昔鎌倉の頼朝殿が由比ガ浜で行ったものより盛大であったろうと誇っている。
確かに1万人規模の人員の移動・食事・宿所の手配考えるだけで、えらいことだ。しかし、いざ合戦ともなれば、すぐこれくらいの兵は動員しなければならないのだから、確かに戦のシミュレーションにはなっただろう。それに国威高揚の大イベント開催だから、一族の意気は上がるかもしれない。それでも犬追物の後は舟遊び、と続き、めちゃくちゃお金が掛かりそうである。しかも時代は鉄砲の時代に変化しつつあった。一乗谷朝倉氏遺跡からは、鉄砲職人の工房らしきものも発掘されてはいるが、義景は新兵器より古式のイベントにこだわったように見える。朝倉の大イベントは曲水の宴・将軍足利義昭を迎えた歓送迎会へと続く。辻川達雄はこの浪費が朝倉家の財政を圧迫し、滅亡の一因となったのではないかと書いているが、正しいと思う。


根上の松 小松市根上町

2023-12-20 | 行った所

根上の松は小松IC の近くの松井秀喜記念館から更に1キロ程北へ行ったところにある。小さな松林であるが、かなりよく整備されている。


根上りは、樹木の根が地上に露出していることだから、ここの松に限ったことではないがが、地名になるくらいだから、根上しやすい条件が何かあるのかもしれない。少なくとも「源平盛衰記」が世に現れてきたころにはあったのだろうか。この松は何代目かの「根上の松」だそうだ。


寿永2年(1183)平家の北国下向軍がやってくる。越前今庄の火打城を落とされた越前・加賀・能登・越中の義仲与党は、大した抵抗もできないまま加賀平野を敗走する。その敗走軍の中から井家(いのいえ)次郎範方という武者が17騎で反転攻撃にでる。「源平盛衰記」の記事である。

海岸に沿って松林の中に細い道が続く。反対側は沼地。大軍が通るに有利な地形とは言えない。加賀の住人井家はここを反撃の場所と思ったのだろう。しかしあまりに多勢に無勢、何度も攻撃を繰り返すうち、次々討たれ、全滅する。しかしこのおかげで多少の時は稼げたのか、逃げ延びたものも多かったようだ。

井家という名は、加賀国河北郡津幡にあった井家荘、または石川郡井家郷を起源としたらしいが、津幡よりは小松の井家郷の方がより地元感がある。

義経記によれば安宅関を越えた一行はこの地で白山を遥拝したということらしい。小松からよく見える白山は越前から見る山とは違う形に見える