ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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子供説教「十戒」出エ20章

2008-01-07 17:11:26 | 子供の説教
 新しい年を迎えました。神様が、わたしたちの新しい一年にどんなに素晴らしいことを用意して下さっているでしょうか。神様はわたしたちのことをいつも心にかけて下さる神様です。ですから、今年も毎日が神様の暖かい眼差しの中にあります。教会で神様を礼拝して力を頂き、そして一年を歩んでいきたいと思います。

 さて、みなさんは「十戒」というのを聞いたことがありますか? 
十戒は、旧約聖書の中に出てくる神様の10の戒めの言葉です。
こどもさんびかの183頁、後ろのほうにありますから、一緒に開いてみて下さい。

 ここに十戒が書かれています。
何が書いてあるのか、一緒に読んでみたいと思います。一緒に声に出して読んでみましょう。

■十戒
わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、
どれいの家から、みちびきだしたものである。 
1.あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
2.あなたは自分のためにきざんだ像をつくってはならない。
3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日をおぼえて、これを聖とせよ。
5.あなたの父と母をうやまえ。
6.あなたは、殺してはならない。
7.あなたは、姦淫してはならない。
8.あなたは、ぬすんではならない
9.あなたは、隣人について、偽証してはならない。
10.あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。

 これが十戒です。
 昔、イスラエルの人々はエジプトの奴隷になって、長い間エジプトの国で苦しい思いをして働かせられていました。みんな疲れきっていました。楽しいことなんて何にもない。本当に辛い毎日でした。ところが、神様はモーセという人を選んで、イスラエルの人たちをエジプトから脱出させられました。苦しいエジプトの生活から神様は救い出して下さったのです。そこでイスラエルの人たちは、神様が下さる素晴らしい約束の土地を目指して旅立ったのです。そういう旅の途中で、神様がイスラエルの人々にお与えになったのが、この十戒です。

 いま読みましたように、何々しなさい。何々してはいけない。沢山書いてあります。随分厳しいなぁ。そう思いませんか? 神様が救って下さったんだから、もう十戒なんていらないんじゃないかと思うかもしれません。
ところが神様は、苦しいエジプトの生活から救い出された人々に、この十戒をお与えになったのです。

 いま十戒は、救われた人たちに与えられたといいました。神様が奇跡的な力で救い出して下さった人々に与えられたのです。この十戒は、これを達成して救いのために励みなさいということではなくて、救われた私たちの新しい生き方を神様が示しておられるのです。
 神様に救われたものらしく生きるとはこういうことですよ。神様に自由にされた私たちの新しい生き方はこうですよと、主なる神様は教えて下さったのです。そして、この十戒によって神様の民、救われた私たちは守られているのです。

 十戒の一番初めは何と書いてあったでしょうか? そこには、「わたしはあなたの神である」と書いてありました。
 全能の、世界を治めておられる、最も高い所におられる栄光の神様が、わたしたちのような罪深い者を救い出して、「わたしはあなたの神である」とそう仰って下さっているのです。
 わたしたちは綺麗なものや立派なものをもっていると、これは私のものなんだと自慢したくなるでしょう。ところが、汚いものや失敗作は、「私のものだ」と周りの人にいうのも嫌です。
 神様は違います。なんの躊躇もなく、ここにいるみんなに「わたしはあなたの神だ」そう仰って下さっているのです。私たちは、この神様の救いを頂いて、感謝しながら新しい生き方をすることができるようにと、十戒を与えられているのです。
今年もこの神様に信頼して歩んでいきましょう。

お祈り致します。
天の父なる神様。あなたはわたしたちに新しい年を与えて下さり、今年も神様の子供として歩むことをゆるして下さりありがとうございます。あなたが私たちを救って下さったお恵みに感謝して歩むことができますように。今年も教会に集う大切なお友達の一人一人をお守り下さい。イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン

説教「涙の拭われるとき」Ⅱテサ1:1-12

2007-12-15 16:45:50 | 主日以外の説教
■聖書:Ⅱテサロニケ1:1-12■讃:171/290
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1:3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。1:4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。1:5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。1:6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、1:7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。1:9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。1:10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
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今年初めてのクリスマスカードが届きました。誰も、大切な方から手紙を頂くと嬉しいものです。
今日開かれていますテサロニケの信徒への手紙は、イエス・キリストに結ばれたテサロニケの教会へと宛てられた手紙です。しかし、この手紙はまた、いまここにある私たちの教会にあてられた手紙でもあるわけです。わたしたちは聖書に記された手紙を、2000年近く前の古文書のようにして読んでいるのではありません。今日、ここに生きているわたし達に宛てられた手紙、主のみ言葉として、今ここに開いているのです。

さて、テサロニケの教会はどのような教会だったのでしょうか?3節にこのようにあります。「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」
ところが、そういう神の恵みの中にある教会が、4節。
「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」というのです。神の恵みの中に生かされているはずの教会が、ありとあらゆる迫害と苦難の中にいるというのです。手紙を受け取った教会は、キリスト者は、苦しんでいるというのです。

■私たちの苦しみ
信仰が成長し、愛が豊かにされていた。そういう恵みの中に入れられたはずの教会が、キリスト者たちが、迫害され、苦しんでいるのです。いまわたし達の生活のすぐ側には、このテサロニケの教会が迫害されたような、信仰のために命をも脅かされる、そういった苦しみはないかもしれません。しかし、人それぞれに、とても簡単には言い切れない悲しみや痛みがあります。涙を流し、助けを求めて叫んでいる人々がいる。ほかならない神の民がそういう痛みの中にいるというのです。

今年6月、一年の闘病生活の末に親しい人を天に送りました。その前夜式、聖歌隊の歌った故人愛唱歌は讃美歌106番。「荒野の果てに」でした。前夜式では異例のことですが、どうしてもとの希望でこのクリスマスの讃美歌が歌われました。
「荒野の果てに、夕日は落ちて、たえなるしらべ、あめより響く。」この方は、奥様と高校生の子供2人を残して御許に召されました。遺された者にしてみれば、まさに荒野の果てに夕日が落ちた。自分たちの大切な暖かい団欒が崩れ落ちた、そういう痛みであります。荒野の果てに夕日が落ちるような経験をするわけです。ところが、讃美の歌はそれで終わらないのです。そこで、天から響く声を聞いた。「グローリア!!」「神に栄光あれ!!」わたしたちは、あまりに辛い出来事のゆえに、もう自分の光はどこにもないのではないか、まさに荒野の果てに夕日が落ちてしまったかのような気持ちに沈むとき、そこに暗闇を突き破って響く天からの声がある。「神に栄光あれ!!」そして、神の憐れみをうけた地の民に、ほかならないあなたに平安があるように。
愛するものを失うことだけではありません。とても人には理解してもらえないと思うような、痛みや苦しみの只中で、私たちは自分たちのすがっていたものが見事に崩れていくことを知ります。しかしそこではじめて見えるものがあるのです。それは主イエスのみ姿です。苦しみの中で、わたしたちはこのお方にすがるしかない。この方に信頼するしか立ち上がることができない、そういうお方に出会うのです。
 わたしたちの人生の光が落ちたと思える所で、天から響くなぐさめの声があるのです。

テサロニケの手紙は、様々な苦しみの中にある者に、慰めの御言葉を語っています。安息を与え、報いを与えるために主イエスが来られるというのです。再び来られる主イエスがお与えになる安息、慰めとは何でしょうか。

■神は裁いて下さる。
ところが、その先を読んでいきますと、厳しい裁きの言葉が続けて記されています。
1:8 主イエスは来られ、神を認めない者や、福音に聞き従わない者を罰し、彼らは、主の前から退けられ、切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受ける。
主イエスが来られるとは、私たちの「救いの時」であると同時に「裁きの時」でもあります。神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの聖書の箇所では、この「裁き」が語られています。しかし、本当の慰め、本当の休息は、この裁きなくしてはありえないのです。神は、わたしたちに全き慰めを与えるために、裁きを行われるのです。テサロニケの教会は、そしてここに集うキリスト者たちは、ほかならない私たちは、御子イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救われた者であります。神が、神を認めない者や、福音に聞き従わない者をまったく滅ぼされるというのは、わたしたちを苦しめている一切のものから、私たちを完全に解き放って下さるということであります。
けれども、このような裁きのみ言葉を聞きますと私たちは怖くなるのではないでしょうか。やはりわたしたちの内には罪があります、神の前に相応しくない者であったわけです。ですから、自分の姿を見ますと怖くなるのです。しかし手紙は、11節。「 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとして」くださるように。神があなたを相応しいものとして下さるように祈っていると言うのです。
手紙は、わたしたちを脅そうとしているのではなくて、痛み傷ついた教会を、わたしたちを癒そうと、励まそうとしているのです。元気付けようとしているのです。

主イエスを待つとは、恐れ不安に脅えて待つのではありません。この裁き主、主イエスは、自ら私たちの裁きを身に負って、わたしたちを贖って下さった救い主でもあるのです。罪と絶望の中にあった私たちを愛して、ベツレヘムの馬小屋に生まれ、わたしたちの罪、裁かれるべきわたしたちの裁きを身に負って十字架に死なれ、ただ滅びに向かうしかなかった者に、ほかならない私たちに、永遠の命の希望を与えて下さった。この主イエスが、再び来られ救いを完成して下さるのです。ですから、神の愛と救いの喜びに包まれた待望の時として、わたしたちは主イエスがふたたび来られるのを、まことの裁きをなし、救いを完成して下さることを待ち望んでいるのです。ここにわたしたちの慰めがあるからです。と同時に、わたしたちは神の裁きの前に生き方を問われているのです。

聖書は主イエスが来られるといいます。わたしたちは御言葉を信じて待つのです。そういう恵みへと主が私たちを招いて下さっているのです。
ベツレヘムに私たちの主がお生まれになったように、また主イエスは再び私たちのもとに来て下さる。そして全き平安と休息を下さるのです。苦しむテサロニケの教会の涙、地上を生きる私たちの涙を、主がぬぐって下さるのです。

そのとき、12節。
1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
という御言葉が、わたしたちの上に現実のものとなるのです。
神は独り子を賜うほどに、私たちを愛し、死から命へ、絶望から希望へ、十字架から復活へと導きのぼって下さる。わたしたちは、この愛の御手にすべてをゆだねて、再び来たりたもう主イエスを心待ちに歩んでいくのです。

クリスマス説教「クリスマスの王様」マタイ2:1-12

2007-12-13 23:11:22 | クリスマス説教
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
イザヤ書9章に記された、救い主の誕生の預言はこのように語ります。
ユダヤの民も、東の博士達も、暗闇の中に暮らしていました。夜の闇のように暗い、不安や恐れという闇の中に生きていたのです。今を生きるわたしたちも同じかもしれません。しかし時代を経た今、なお一層、暗闇は深くなっているのかもしれません。
クリスマス。街中が美しいイルミネーションで輝いています。ショーウィンドーは美しく飾られて、寒い暗い冬の夜を暖かく見せています。私たちは光がほしいのです。寒く冷え切った身体を温めてくれる光だけではなくて、私たちの冷え切った心を暖めてくれる光がほしいのです。先の見えない道を照らす光がほしいのです。

私たちの求めている光、私たちを照らす光とは何でしょうか。
その光とは、安定した生活が送れることでしょうか。決して病気をしない健康な身体でしょうか。自分の地位が脅かされない安心感でしょうか。願い事が何でも叶う達成感でしょうか。そういったものが、わたしたちの本当の光となることができるのでしょうか。
人間の願望、人間の欲望は尽きることがありません。欲しいものが、叶って欲しい願い事が、いくらでもあるのです。

今日の福音書を見ますと、ヘロデと言うユダヤを支配していた王が出てきます。
ヘロデには立派な王宮も、美しい飾りも、美味しい食事も、家来も、言うなれば金も富もすべてがあった訳です。ところが、ヘロデは不安なのです。立派な王宮の窓から見渡せば、見渡す限り自分の領土。あらゆるものを持ってみたけれど、それでもヘロデは恐れるのです。怖いのです。

ヘロデは自分が王でありつづけることに必死なのです。ヘロデは自分の力で、必死で今の地位を築いてきた人です。自分こそ人生の主だと思っているのです。そして自分こそ人生の王であり続けたいと思っているのです。一方の民衆もそうです。人間は誰しも、自分の人生は自分のものだ。自分の人生の主は自分だと思っているのです。
ですから、博士達からきいた救い主、新しい王の誕生に脅えます。新しい王が生まれる?! そう簡単に私の人生など渡すものかと必死なのです。
ヘロデは新しい王の誕生の知らせを聞いて不快になったのです。自分を脅かすものならば、二歳以下の幼子さえ皆殺しにする。ヘロデも、エルサレムの人々も、いまのままで十分、好き勝手できるいまが一番と思っていた。新しい王などこのわたしの人生に必要などないと思っているのです。

先ほど歌いました讃美歌に、三人の博士が出て参りました。東の国の博士達は、救い主の誕生の知らせを聞いて旅立つのです。一つの星に導かれて、歩き出します。彼らは全てを置いて旅立ったのです。
一つの星に導かれた博士達は、長い旅の果てに、大きな光を目の当たりにします。博士達が見た大きな光。それは、飼い葉おけに眠る無力な幼子イエスでした。そして、この主イエスの前にひざまずくこと。主イエスを礼拝すること、ここに大きな光を見つけたのです。聖書は、博士達は喜びに溢れたというのです。
博士達は、主イエスのまえにひざまずくことによって、主イエスを自らの王として礼拝することによって、つまり、自分自身を主イエスの前にまるごと差し出したことによって、本当の喜び、消えることのない光を頂いたのです。
博士も、言ってみるなれば、この世において祝福された人生を歩んでいた人たちです。学識があり、立派な家があり、家来達がいて、不自由なく暮らしていたわけです。伝説ではこの3人の博士は東の国の三人の王様だったと言う話があります。いずれにしても、家族に、富に、持ち物に恵まれた人々です。しかし、博士達はそれを置いて旅立った。そして、それで良かった。それにもかえられないと思うほどの方に出会ったのです。博士は、聖書が「喜びに溢れた」と言うほどの主イエスとの出会いをしたのです。それがクリスマスの喜びです。

博士達は恵まれた日常を一度すべておいて、主イエスの前に出た。そして礼拝をするのです。その時、本当の光に出会った。本当の喜びを知ったのです。神様なんていなくても今日の幸せがあれば満足だと思って、必死で富をかき集め、地位ある王位に上り詰め、そして必死で権力の座を死守するヘロデ。あらゆるものを持っていましたがなお、不安と恐れで一杯なのです。博士とヘロデの間になんと大きな隔たりがあるでしょうか。

蝋燭は自らでは輝くことができません。誰かに光を灯されてはじめて輝くことが出来るのです。わたしたちの喜び、平安、そして人生の旅路の光は、主イエスに灯されて、主イエスから光を頂いてこそ輝くことが出来るものなのです。三人の博士達はその光が、まさにこの飼い葉桶に眠っておられる幼子主イエスであることを知ったのです。そして、そこから再び日常へと出て行ったのです。自分の王であるお方の前に、すべてをおいて礼拝するのです。
そこにわたしたちを照らす本当の光があるからです。そしてもはや来た道とは違う、別の道を通って帰っていく。いままでとは違う、主が示された道を旅するのです。今までとは別の道を備えられて、旅を続けるのです。地上の日常に戻っていくのです。この主イエスに出会って初めて、幼子イエス様を礼拝して初めて、博士達は本当の光を知ったのです。本当の平安を知ったのです。

クリスマスのこの時、わたしたちは自らの姿を静かにかえりみてみたいのです。ヘロデのように、この世のいろいろなもので着飾っている自分の飾りを、一つ一つ取り除いてみたいのです。そうしますと、そこに見えてくるのは傷だらけの自分の姿かもしれません。罪深い自分の姿かもしれません。しかし恐れないでよいのです。なぜなら、その汚く貧しいベツレヘムの馬小屋のような所にこそ、主イエスはお生まれ下さったのです。博士の3つめの贈り物は「没薬」です。先ほどの讃美歌にこうありました。「わが持ち来たれる、没薬ささげて、み苦しみの日に備えまつらん」生まれたばかりの幼子、主イエスは、私たちの罪のため、十字架の上に死なれるために、私たちの罪の身代わりとなるために、私たちの傷を癒すために、お生まれになったのです。神は、わたしたちを愛して下さいました。私たちはこの方にすべてを委ねて良いのです。自分の罪も、負いきれない重荷も、あなたのためにお生まれになった、十字架へと向かわれた幼子イエスに、すべて委ねてよいのです。主イエスは、私たちの罪を身代わりに死に、わたしたちの絶望を希望に変えて下さいました。暗闇に光を下さったのです。クリスマスの光は、私たちをキラキラと飾るアクセサリーのような光ではありません。私たちの奥底から、私たちの存在を根底から照らしあげるような、力強い決して消えることのない神からの光が輝くのです。
わたしたちの人生の光は、この飼い葉おけ、ベツレヘムの貧しい馬小屋の幼子、主イエスにこそ輝いているのです。聖書は、この方こそ王の王、主の主であると告げているのです。いま私たちも、博士達とともに幼子イエスの前にひざをかがめて、「あなたこそキリスト。わたしの救い主です。」と礼拝を捧げたいのです。

祈りましょう。
主イエス様。あなたは私たちの救いのためにベツレヘムの馬小屋にお生まれになりました。そして、暗闇に閉ざされた世界に大きく輝く光を下さいました。どうか主よ、あなたの光を御前にひざまずく私たちの心に輝かせて下さい。そして、恐れることなくあなたの光に照らされてこの地上の旅路を歩んでいくことが出来ますように。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

子供説教「バプテスマのヨハネ」マタイ3:1-6

2007-12-09 07:48:13 | 子供の説教
■待降節第二主日/子供説教/2007.12.9.

これはアドベントカレンダーといいます。毎日一つずつあけます。そうして、クリスマスを待っているのです。クリスマスを待つというのは、主イエス様のお生まれを待つことです。昔しユダヤの人々は、神様のお約束された、救い主イエス様のお生まれを長い間待ち続けてきました。

今日は「待つ」ということについて考えてみたいのですが、どうして私たちは「待つ」のでしょうか? クリスマスプレゼントを頂けるのを待ちますよね。クリスマスイブの夜は次の日の朝を楽しみにして寝ますね。わたしたちがまだもっていない、素敵なプレゼントを頂けるのを楽しみに待ちます。きっともう、みんなは今年のクリスマスプレゼントを楽しみにして待っていると思います。
お友達を待つ時もありますね。仲のいいお友達と会えるのはとても嬉しいです。どんなに仲のいいお友達でも、いつもずっと一緒にいれるのではありません。だから、わたしたちは次にお友達と会えるのを、遊びに来てくれるのを楽しみに待ちます。

昔しユダヤの人々は、イエス様のお生まれを待っていましたといいました。イエス様のお生まれを待っていた人々の中に、洗礼者ヨハネ。バプテスマのヨハネとも言いますけれど、ヨハネがいました。洗礼者ヨハネは、イエス様が来れられるのを待っていました。

洗礼者ヨハネは、どのような人だったのでしょうか?
聖書を読むと、ユダヤの荒野で、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯をしめ、いなごと、野蜜とを食べ物としていた。そして、ユダヤ中から、人々はヨハネの所に来て、罪を告白し、神様に背を向けていたことを悔い改めて、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたとあります。

洗礼者ヨハネは、荒野で何を叫んでいたのでしょうか?人々は何を聞いて悔い改めて、洗礼をうけたのでしょうか?
洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒野でこのように叫んだのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」洗礼者ヨハネは、天の国が近づいた。わたしたちの救いが近づいた。だから、悔い改めなさいと言ったのです。

イエス様が来られるのを待つ時に、洗礼者ヨハネは、悔い改めて待つんですよと言いました。心を神様に向けて待つんですよといいました。聖書は、わたしたち人間は、悪いことをして、罪をおかして、神様に背中を向けているといいます。
悔い改めるというのは、背中をむけていた神様のほうへ、グルッとむきなおすことです。お祈りをするというのは、神様のほうにむきなおることです。

クリスマスが嬉しいのは、クリスマスが待ち遠しいのは、ただプレゼントがもらえるからだけではありません。美味しいケーキが食べれるからだけではありません。
わたしたちの罪が赦されるからです。

アダムとエバは罪を犯して、神様からあなたたちは死ぬと宣告されてしまいました。罪というのは、恐ろしいものです。悲しいことですが、人間は、どんなに頑張っても悪いことをしてしまいます。気がつくと神様の方に背中を向けています。
そういう人間、わたしたちを救うために、イエス様がお生まれになった。クリスマスの嬉しい気持ち、待ち遠しい気持ち、それは、このわたしたちの救われた喜びにあるのです。

今日歌う讃美歌は、「かみさまはそのひとりごを」という子供讃美歌です。みんなで一緒に歌詞を読んでみたいと思います。
『①かみさまは、そのひとりごを、よのなかにくださったほど、よのひとを、あいされました。②かみのこを、しんじるものが、あたらしい、いのちをうけて、
いつまでも、いきるためです。』

クリスマスは、神の子イエス様を信じる者が、決して一人も滅びることのないように、天の父なる神様が、イエス様をベツレヘムの馬小屋に生まれさせて下さった。そのことを喜ぶ日なのです。

今日は、洗礼者ヨハネのことを聞きました。
ヨハネは今日も、みんなに向かって叫んでいます。
『悔い改めなさい。天の国は近づいた。』
わたしたちも、神様のほうへと心を向けて、罪を赦されて、クリスマスを待ちたいと思います。


待降節説教「マリアの召命」

2007-12-05 11:32:20 | クリスマス説教
■讃94/95
■聖書 ルカによる福音書1章26~38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
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 待降節を迎えました。何となく慌しい季節、気がつくとクリスマスを迎え、年末を迎えていたというような12月ではありますけれど、忙しさ、慌しさの中にあっても、「待つ」ということを忘れずにいたいのです。イルミネーションやオーナメントで飾るだけのクリスマスではなくて、私たちの心を飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。私たちを着飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。そうして、主の前に、自分自身の姿を省みてみたいのです。そのとき、そこに見えるのは誰にも見せたことのない、ベツレヘムの馬小屋のような汚く貧しい自分の姿かもしれません。しかしそのとき、本当にこの私のために、主のご降誕が必要なんだと思い知らされるのです。
 慌しさの中に生きているからこそ、また、クリスマスの行事やプログラムが盛りだくさんだからこそ、心静かに主の前で心を備える、そういう時を大切にしたいと思うのです。イスラエルの民が主の降誕を長い間待ち望んだように、私たちも祈りのうちに待降節の歩みを歩んでいきたいと思うのです。

 今朝開かれています福音書のみ言葉は、受胎告知の箇所です。
マリアは天使のみ告げを聞きます。「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」マリアは言います。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに。」
 ナザレの貧しい処女マリア。そのマリアが、ある日、思いもかけない声を聞いたのです。「あなたは身ごもって男の子を産む」。 「どうしてそのようなことがありえましょう」とはマリアの心情そのままの言葉であります。マリアは納得がいかないのです。おじまどう訳です。

 この聖書の箇所は受胎告知と言われていますけれども、言い換えますならば、「マリアの召命」と言うこともできます。マリアが召された。ナザレの貧しい処女、マリアが、突如として主に召しだされたということであります。しかも、神の子を身ごもると言うのです。

 今朝私たちは、マリアがどのようにこの主の召しに応えたかということに心を向けたいのです。マリアは確かにおじまどいます。納得がいかないのです。そうです。起きているのは納得がいくような出来事ではないのです。まさに、納得などいくはずのないことがここに起きているのです。それが召し出しということです。召し出されるとりえなど全くない罪人の私たちが、神の召しを聞いた。ですから、ありえないことが起こっているのです。
 マリアにしてみれば、言うなれば絶望的な事態がおこったわけです。まだ未婚のマリアが神の子をみごもるというのです。ところが、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉の通り、この身になりますように」と言います。「お言葉通りこの身になりますように」どうしてマリアは、この召しを受け取ることができたのでしょうか。マリアの決心がついたからでしょうか。それとも、どうにでもなれと諦めたからでしょうか。どちらとも違います。

「お言葉の通りなりますように。」マリアはそのお言葉。神のみ言葉に信頼したのです。マリアは思いがけない召しの言葉に、恐れ、おじまどいます。マリアはあまりに重い召しを受けたわけです。ルカ5章を見ますと、ペトロの召命の記事が記されています。ペトロは主の召し出しの前に「私は罪人です」と叫びます。主の前に立つときに気づいたのは、ほかならないこの私が、罪人だったということであります。
 私たちも同じです。主が私たちを召されたというのは、あまりにおそれ多い、重い出来事であります。あまりに自分が無力で、私の内には到底この召しに応える力などないことを思い知らされるのです。しかし、あまりに相応しくないからこそ、もはや私たちは神にすがるほかないのです。

 恐れ、不安に満ちた私たちの心、思い乱れた心に、主のみ声が響きます。
「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」マリアは自分の力。自分の足元を見て納得がいったから主の召しを受け入れたのではないのです。納得など到底いかない出来事。まさにマリアが全身全霊で御子イエスを身ごもる。そういう事態の中で、それでも「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」そう言われる、神のみ言葉に信頼したのです。

 マリアは、主の召し出しの前にあって、もはや自分の貧しさ、みすぼらしさ、足りなさを思い煩うのではなく、神のみ言葉に信頼したのです。わたしたちもまた、この神のみ言葉に信頼して主の召しだしに応えていくのです。それが、マリアの召命の出来事です。

 しかし、そこにこそ恵みがあらわになるのです。ここで明らかになるのは、マリアの立派さ、つまり召された者がほめられることではなくて、神がそういう何の相応しさもない罪びとの我々を選び、憐れんで用いたもう神の恵みそのものであります。
 み使いは告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この「おめでとう」とは「喜びなさい、マリア」そういう言葉であります。おめでとう。喜びなさい。主があなたを召して下さった。恐れなくていい。あなたは神から恵みを頂いた。私たちの貧しさ、にもかかわらず、神があなたを召しておられる。ただほめたたえられるのは、この神のみなのです。
 私の生きているのは、私が召されたのは、ただ神の恵みによる。わたしは神をたたえるほかない。数に足らぬ私をも、主はお見捨てにならなかった。そのことであります。
 待降節の歩みにあって、わたしたちもまた、「お言葉通りこの身になりますように」、そのような心を整えたいと思うのです。

■祈り
 主なる神よ、自らの姿を見れば、小さく、貧しいものであり、悩みと迷いとのうちにある、弱い私たちを助け支えてください。どうか主の全き愛、神のみ言葉にすべてをゆだね、あなたの召しに応える者とならせて下さい。私たちの主。イエス・キリストによってお祈り致します。アーメン


東京神学大学・礼拝説教2007/12/05.Wed.


「わたしのもとに来させなさい」マルコ10:13-16

2007-11-30 21:57:24 | 主日以外の説教
「わたしのもとに来させなさい」マルコ10:13-16

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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 主イエスが子供達を腕に抱いて祝福しておられる。今朝開かれております福音書の箇所は、まことに美しい情景を描き出しております、またそれゆえに沢山のキリスト教絵画の題材にもなってきました。
 この朝、私たちに与えられた神の御言葉に共に聞きたいと思います。
マルコによる福音書10章13節 新約聖書の81頁です。
10:13 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」

 人々は、自分の子供達を主イエスに祝福していただこうと、主イエスに触れて頂くために、み側に連れてまいりました。主イエスがおられた当時のユダヤでは、子供達を礼拝所に連れて行って、祝福をしてもらうという習慣があったようです。ですから、この日もまた、主イエスに触って頂けば、子供達が祝福されると単純に考えて、人々は子供達を、み側に連れてきたと言えますでしょう。

 ところが福音書の御言葉は、「弟子達はこの人々を叱った」と伝えております。弟子達は、主イエスのみ側に来ようとする幼子達をさえぎろうとします。主イエスのお側に子供が来ては煩わしいと思ったのです。弟子達なりに、主イエスのもとに行くものの姿はこうあるべきだと考えていたのであります。
その時、主イエスは14節。
10:14 これを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と仰せになります。
 主イエスはこれを憤られたと、非常に強い言葉が用いられています。
弟子達は、彼らなりの見方で主イエスのもとに子供達が来ては煩わしいと思ったのでした。ところが、当の弟子達は、彼らが主の前に相応しかったから主イエスに召し出され、主イエスの弟子とされたのでしょうか。ここに集うわたしたちもまた、私たちが主イエスのみ側にいるに相応しかったから主イエスの救いに預かり、私たちが相応しかったから主の召しに与ったのでしょうか。この日、主イエスのもとに集った弟子達もまた、欠けだらけの存在でした。
 主イエスのもとに招かれ、迎えられているというのは、私たちの相応しさの問題ではありません。私たちが相応しくないにもかかわらず、主イエスが私たちのもとに来られ、またこの私たちを神の国へと招いておられるのであります。
主の前に出るものの相応しさを問おうとした弟子達、一方で、主を求めた子供達とその子供達を連れてきた人々。ここには何と大きな差があることでしょうか。

 私たちを求めるキリスト。主イエスは、わたしたちの相応しさゆえに、わたしたちを救おうとしておられるのではありません。私たちの姿、にもかかわらず、救おうとなさるのです。
 その意味で、私たちは、この主イエスの前に、赦されるにまかせ、救われるにまかせるほかないのです。ところが、これこそ、神の前に出るものの姿なのです。イエスは人々からすれば、世間一般からすれば、到底相応しくないと思われる者、そういう者を救わんと世に来られたのであります。

 私たちは、幼子のようになりなさいと言われますと、なるほど、純真で
心が清められなければ神の国に入れない。さあ一生懸命精進して、神の国に相応しい者になろうと思い違いをしやすいのです。幼子のような純真さを持たなければならないと、また律法主義的な発想をしてしまうのです。しかし、今日の福音書の御言葉が語っているのは、そういうことではありません。
 聖書の記された時代にあって、現代のわれわれが考えるように、子供を理想化して見るそのような見方はありませんでした。子供たちは、その資格においても、一人の個人として見られず、当然地位も権力もありません。この当時のユダヤ教の世界では、その人が律法を守っているかどうかが、人を判断する基準でありました。子供は律法を知らず、覚えておらず、守ることも出来ない。そうしますと、子供は神様のみ前で弱い存在、取るに足りない存在として扱われてきたわけです。神様の御前に誇ることが出来るものを何も持っていない存在、それが子供でありました。
つまり、「幼子のようになれ」と主イエスが仰せになるとき、現代の私たちが思うような罪汚れのない、純真で素直な子供の姿を思い描く時代ではありませんでした。先ほど申しましたように、主イエスが「幼子のようにならなければ」と仰せになるとき、それは、自らの力では一人前のことが出来ない、父に依存するしか生きるすべがない、そういう子供たちの姿を語っておられるのです。
 子供たちは何も持たない空手のままで、主イエスのもとに参ります。そして主イエスは、その子供達を喜んで迎えてくださる。そればかりが、子供達は主イエスの御手から良きものを受ける。神の国を受けるのです。上から与えられるものを、与えられるままに素直に受け入れる、そのことが語られているのです。

 この朝開かれています聖書の箇所に続いて、富める青年の話が記されています。この青年は、神の前に出る者の相応しさを問おうとしたわけです。「善い先生。どんな良いことすればよいでしょうか」つまり、自分の相応しさを求め、良い方ご自身を求めてはいなかったのです。ここにも、幼子と青年の大きな違いがあります。

15節にはこのようにあります。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 自分でしようとするのではない、そうではなくて、神のなされるままに任せる、そういう子供の姿を主イエスは教えておられるのです。われわれ人間が神の国に入るに相応しい条件を作ることも、それに合格することも出来ません。
神の国は、神の側からわれわれに与えられる一方的な恵みの賜物そのものであります。

■新しいアダム
 聖書の一番初めに、創世記という書物があります。ここには、神に創造された最初の人物「アダム」という人が出て参ります。アダムは神に創造され、神の造られた主の恵みに満ちた園に生かされていました。ところが、神に食べるなと禁じられていた木から、その木の実を取って食べたことで眼が開かれ、自分が裸であることに気づくのです。アダムはその罪の結果、自分が裸であること、あらゆるものに不足していることに気がついたのです。そして神から逃げます。アダムは神の前に相応しくない姿であると思ったわけです。

 主イエスは、最後のアダム であると聖書は告げます。主イエスは、子としての生き方をわれわれに示されました。主イエスは、どこまでも天の父に信頼して生きたお方です。主イエスのご生涯は、全き天の御父への信頼によるご生涯であったと言えますでしょう。
 マルコ1章10節以下に主イエスの洗礼の記事があります。主イエスが、公生涯の初めにバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったとき、天からの声がこのように告げます。「あなたは私の愛する子。わたしのこころにかなうものである。」これこそ、主イエスのご生涯をあらわす言葉であります。今日開かれておりますマルコによる福音書は、「神の子」「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と一章一節を書き出しています。
 イエスの本当の姿が示された言葉、神の宣言であります。
 主イエスは、神の愛される子であった。主イエスは、世に遣わされ、この主イエスを通してまた、すべての人が自分も神に愛されている存在であり、神の子とされているのだと知る。天の父は、御子イエス・キリストのゆえに、今朝ここに集う私たちをも、子として招いて下さっているのです。
 この世の声は、「愛する子」と呼びたもうお方の声から、私たちを遠ざけようとします。しかし、わたしたちの存在は、このような私たちにもかかわらず愛し、無条件に愛し求めたもう神の熱愛によって求められ、探されている存在なのであります。

 15節にお目をお留め下さい。15節。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ここにあります「はっきり言っておく」とは、「アーメン。私は言う」そういう荘厳な言葉。宣言であります。子供のようにならなければ、つまり、自分で自分を守ろうとするのではなく、保護者である方に全く信頼して任せる、そういうものでなければ神の国を受けることはできないというのです。しかし、それこそまさに福音そのものなのであります。自らの相応しさに合格したものしか救われない、神の国に招かれないとしたならば、誰がその相応しさに適すると認められるでありましょうか。
 私たちは、自らの相応しさを求めようとすればするほど、自らの貧しさに気づきます。
 しかし、キリストは、そういうわれわれの救いのための一切をなして下さったのです。われわれは、この方に一切を信頼するほかないのです。

 主イエスは、わたしたちがまだ相応しくない時、まだ罪人であったときに十字架を負い、死んで下さり、わたしたちの贖いとなって下さったのです。
私たちが純真でも、心清くもない、そういう罪の中にあった時、神は独り子を世に遣わし、私たちに対する愛を示されたのです。

 子供とは先程申し上げましたように、神様のみ前に誇ることが何もない以上、ただ神様の恵みにすがるしかできない存在です。この恵みにすがるしかできない生き方のことを『子供のように神の国を受け入れる』とイエス様はおっしゃっているのです。
 神の国は、神の御前に何も誇ることが出来ない存在、他人から取るに足りない存在と思われている人たちのものなのです。自分の力で何かをなすことが出来ないことを知り、神様にすがって生きていくものが神の国にはいることが出来る。そう言った人たちこそ、一方的な神様の賜物である救いを与えられると御言葉は語るのです。
 ここに集う私たちもまた、主イエスのみ前に連れてこられた、主イエスのもとに集いきた者の一人であります。御子イエス・キリストを世に賜い、その死と復活とによって私たちを神の子としたもう天の父は、御許に集う幼子にすぎない私たちを、腕に抱き、ねんごろに祝福を下さる。神の国の豊かな恵みを下さるのです。
主イエスは今日もまた、神の国へと人々を招いておられるのです。

説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34

2007-11-18 18:53:22 | 主日礼拝説教
説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34/讃312

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

■わたしの試みの日
今朝、少し早く起きまして、西公園の殉教碑というのを見て参りました。1624年の広瀬河畔の殉教については、少し存じていたのですが、今回改めて知ることができました。
殉教者たちは、キリストを否めば助かるわけですが、寒い冬の日に、川の中に連れて行かれ、水責めによって殉教していったと記されていました。今日の福音書の御言葉で言いますと、厳しい試みにふるわれてもなお、神への信頼に生きたわけです。

今朝私たちに与えられた福音書の御言葉を見てまいりますと、サタンが神にペトロを試みることを願い出て、許しを得た。 そしてペトロは試みられ、ついにペトロは、三度キリストを知らないと告げたわけです。
今日に生きる私たちは、殉教や、最後の晩餐の夜のペトロのような試練に直面することはないかもしれませんが、やはり私たちにも、皆それぞれに人には言えないような試みや、苦しみ、痛みがあって、麦がふるいの上でふるわれるように、自らの力ではもうどうすることも出来ないような無力さの中でふるわれる。そのような事が時として起こるわけです。
そういたしますと、ここにありますペトロの出来事は、ほかならない私自身の、身につまされる出来事となって参ります。

この朝、私たちに与えられた主の御言葉に共に聞きたいと思います。
ルカによる福音書22章の31節。新約聖書154頁です。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。」

御言葉は、サタンがペトロを試みることを神に願い、それが聞き入れられたというのです。そこで私たちは疑問を抱くわけです。
聖書の神は、愛の神である。わたしたちを愛して、いつも共に居てくださる神であるはずなのに、どうして試みからお守り下さらなかったのか?! 助けて下さらなかったのかと思ったりするわけです。ここにいる私たち自身の試みの日に、苦しみ、悩みの日に、神はどうして私を、このような試みに、あわせられるのだろうかと問うのです。なぜこのような苦しみを背負って生きていかなければならないのかと問うわけです。けれども、今日の聖書の箇所にもその答えは書いてありません。よくわからないのです。

■ヨブの試み
旧約聖書を読んで参りますと、詩編の一つ前に「ヨブ記」という書物があります。そこにヨブという人物が出て参ります。ペトロとよく似た体験をするわけです。ヨブは正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきた。沢山のものに恵まれ、国一番の富豪であったと記されています。ところが、サタンはこのヨブを試みることを神に願い出るのです。神はサタンにヨブを試みることを、お許しになりました。

ヨブ記を見ますと1章8節に、神はヨブを「私のしもべヨブ」と呼んでおられるのです。神が「わたしのしもべヨブ」と呼んで下さる存在でありました。同じように、ここにいる私たちも、洗礼によって確かに、天の父の「子」とされた存在であります。

ところが、そういうヨブ、ペトロ、ほかならない私たち一人一人が試みにあう。神様を信じて生きているのに、どうしてこうも試みがあるだろうか、神はどこに行ってしまわれたのだろうかと思うのです。
私たちは、試みの中で、また長い間その試みが続くほどに、もがき苦しみます。けれども、ヨブはやはり「神のしもべ」に変わりない。ペトロはキリストの弟子であることに変わりなく、私たちもまた、それでも神の子であることに変わりありません。
試みの中にあってもただ一つ確かなこと。それは、神がサタンの手に、ペトロやヨブ、またここにいる私たちを、決して渡されたのではないということです。神は、試みをお許しになられたのではありますが、その愛する者を、決してその手から離されたのでも、見捨てられたのでもないということです。試みの只中にあっても、わたしたちの存在は神の手の中にある。神の許しの中にある。
ですから、たとえ試みの中にあったとしても、むなしく痛めつけられるのではない。ヨブはその試みを通して、神に守られ、なお神への信頼を篤くしました。ヨブにとっては、すべてから打ち捨てられたかのような日々でありましたけれども、それによって、ヨブが神の僕であることが再確認されたのであります。
ペトロも同じです。キリストを裏切り、外に出て激しく泣きます。しかし、自らの罪の姿に気づき、キリストの愛の眼差しに触れて悔い改め、またペトロも神の僕、まことの宣教者として立ち上がって行くのです。

今朝は、この福音書に記されていますペトロについて、特に取り上げてみたいと思うのです。

■救われるべきは自分だった
ミラノの司教をされていましたマルティーニという方の本に、「宣教者を育てるキリスト」というものがあります。その中で今日の福音書の箇所に出てきますペトロの姿についてこのように言われています。
マルティーニは、ここに出てくるペトロの問題というのは、「兄弟たちを力づけてやりなさい」という自分の役割にばかり注目して、「あなたのために祈った」というキリストの言葉を聞こうとしなかったことだと書いています。

主イエスはペトロに、あなたがたは試みられるが、「あなたの信仰がなくならないように祈った」と、仰るわけです。ところが、その主イエスに対してペトロは「主よ。御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言います。何とも勇ましい言葉です。言い換えますならば、「イエス様、わたくしはあなたがどこに行くにも、あなたと共にいます。たとえ牢にも一緒に参ります。あなたの身に危害が及ぶようなことがあれば、私が全力でお守りいたします。心配しないで下さい。恐れないで下さい。」このような内容のことであります。ペトロは熱心だったのです。真心からこういう態度をとったのでしょう。ところが、ペトロの間違いというのは、ペトロのほうが主イエスをお助けしようとしていたという所にあります。ペトロが主イエスを助けようと、救おうと思い、自分の方こそキリストに助けられ、救われなければならないことを忘れていたのです。
つまり、ペトロは主イエスをお助けしたかったのですが、救われなければならなかったのは、他ならないペトロ自身であることに気づいていなかったのでした。
自分に頼ることには沢山の魅力があります。自分の実力も達成感も感じます。自分で自分の人生を支えているという満足感もあります。
この日までのペトロは、自分で主に従えると思っていた。自分の力量をみて、主イエスに従っていけると思っていた。ですから、私はたとえ死んでもあなたに従っていきますというようなことを言うわけです。自分の力量をみて、自分の努力で、熱心さで信仰が建て上げられると思い込んでいた。
ところがそこが大きな間違いだったわけです。
このペトロの勇ましい告白、ペトロの自己依存は、ものの見事に崩れ落ちるのです。ペトロはこの告白の僅か数時間後には、キリストを知らないと三度主イエスを否むのです。
キリストを信じ、従うというのは、自分の忠誠の問題ではありません。ペトロの人生、キリスト者、更には主に召しだされた者の歩みというのは、自分の力ではなく、主イエスのとりなしによってこそ立ち続けることが出来るものなのです。
その意味で、ペトロは自分の務め、自分の役割や力ばかりを見て、主イエスの「あなたのために祈った」という御言葉を聞こうとしていなかったと言えますでしょう。

■どん底の恵み
34節の御言葉にお眼をお留め下さい。
「イエスは言われた。『ペトロ。言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」
ペトロは、たとえ死んでもあなたに従っていきますと言った直後、三度主を知らないと否むわけです。ペトロも、まさか自分がここまで落ちるとは思っていなかった。言ってみるならば、人生のどん底を体験したわけです。これ以上に落ちるところはない所まで突き落とされたわけです。ヨブの場合とは違う人生のどん底を体験したのです。
しかし、そのどん底で、まさしく主イエスが言われたように、麦がふるいの上でふるわれるにまかせ、もはや自分の力では立つことも起きることもできない、命の抜けきったようなどん底の中で、ペトロは気づいたのです。
もはや、この自分は、神の前で、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるほか、何も出来ないことを知るわけです。それが宣教者ペトロ、神に召し出されたペトロの新しい土台となったのです。

イエスのために死ぬことさえいとわないと言ったペトロでしたが、実は主イエスの方こそ、ペトロのために死んで下さった。信頼し、身を任せるべきは、ほかならないこの私自身なのです。

クリスチャンとは、何の試みも痛みもないそういう安穏な人生をいく人々のことではありません。たとえ、そういう試みや問題の中にあっても、今日のペトロのように、主イエスの祈りに支えられ、たとえ倒れても、失敗しても、再び立ち上がっていく。私たちはそういう歩みを歩むことが出来る。
今日の福音書の御言葉をみますと、信仰者がふるわれる、そしてことによると主イエスを裏切るほどに失敗することがあることがよくわかります。しかし、失敗したとしても、話しはそれで終わらないのです。キリストのとりなしの祈りによってそこから立ち上がり、「立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、主がそういうペトロに、私たちに新しい務めを委ねてくださるのです。言うなれば、主イエスは、失敗者の前に、将来を描き出して下さったのです。
キリスト者に求められているのは、決して失敗しないことではなくて、たとえ失敗したとしても、試みの中にあったとしても、再びそこから立ち上がっていく、そのことであります。そしてそのための一切を、主イエスがなして下さったのです。

■十字架のキリストによって
「あなたのために祈った」そう仰せになる主イエスは、ゲッセマネへと向かい、そして十字架へと向かって行かれました。主イエスのとりなし、その究極は、まさにあの十字架にあります。自らの罪のために、神のもとを離れ、ただ滅びに向かうしかなかった私たちの為に、天の父は御子イエス・キリストを世に遣わし、キリストは自ら十字架を負って、わたしたちの罪の身代わりとなられました。
私たちは、私たちの悲惨の姿を自分の中に見て、自分は何と惨めな存在なのだと悲嘆に暮れます。自らの惨めさを自分の中に見て絶望しそうになるのです。
しかし、あの十字架の上に、そこに苦しむ主イエスの御顔を仰ぐとき、そこにこそ私たちの苦難、絶望の姿がまざまざと示されているのであります。もはや私たちの身代わりに主イエスがそれらすべてを負って死なれた、そして復活された!!
私たちを絶望から解き放ったのは、神の愛、しかも独り子をたもう程に愛したもう天の父の熱情以外の何ものでもないのです。
主イエスの十字架!! 主イエスのこの苦しみの只中にこそ、この私たちが復活の朝へと向かう希望が示されていることを知るのです。
ドイツのある牧師が自らの愛するものを壮絶な仕方で亡くしました。そのしばらく後にラジオでこのような説教をしました。「すべての試みに潜む危険は、わたしたちが諦めてしまうことです。苦難と悲しみの中にあっても、神が将来への道を開いて下さる。過去の自分しか見ることのできない私たちを、将来へと向かわせて下さるのです。」
まさに、私たちの救いのための一切を、主イエスは成して下さいました。ですから、私たちは、無力さの只中でも、人生のどん底でも、ただこの主イエスに信頼し、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるのです。たった一人だと思っていた私たち、誰も私のことなどわかってくれないと思っていた私たちのそばに、主キリストが立っておられるのです。

■それでも召された私たち
主イエスは、自分を裏切る、失敗をする、そういうペトロの弱さをご存知の上で、なおペトロを召し、主の弟子とされたのです。ここにいる私たち一人一人も同じです。神はそれでもなお、そういうあなたを、私たち一人一人を、お召しになったのです。まさに、神の一方的な恵みによって選ばれたということであります。
わたしたちは、弱く、貧しく、情けない、嵐がくるとたちどころに揺れて進まない舟のような存在です。けれども、そういう自分も神の子とされた。もはや、キリスト者の生は、神の御手の中にしっかりと握られているのです。神は決してその手をお放しにならないのです。

■教会に生きる私たち
この朝、私たちは教会に集い、主の日の礼拝を共に捧げております。教会は、この主イエスの祈りによって再び立ち上がった者たちの集いです。わたしたちは一人で空しく生きているのではありません。主イエスは教会へと私たちを迎えて下さったのです。もし私たちが神への讃美を歌えない悲しみの時にも、教会は神への讃美を歌い、祈れないその日にも、教会は神の民のために、あなたのために、祈りを捧げ続けているのです。わたしたちは、そういう共同体の中に生かされる恵みを頂いているのです。何と心強いことでしょうか。

あなたのために祈った。わたしたちの歩みは、このキリストの祈りに支えられ、再び立ち上がる希望を頂いた歩みなのです。
主は皆さんと共におられます。主が下さる平安のうちに、この所から立ち上がって行きましょう。

今日の祈り36

2007-11-16 08:12:26 | 今日の祈り
愛の主よ。

わたしは、わたしがあなたと共に歩んでいると
思っていました。

けれども主よ、
わたしと共に歩んで下さっているのは、
ほかならないあなたご自身であることを知りました。

わたしがあなたを見上げることの出来ないほどに
思い煩い、苦しむとき、
あなたは私の手を離されませんでした。
わたしを祝福し、わたしの生涯に希望を与えて下さいました。
アーメン


子供説教「サマリヤの女」ヨハネ4章

2007-11-11 07:59:11 | 子供の説教
イエス様に出会った人たちのお話を続けています。
今日は、イエス様がユダヤからガリラヤへと旅をしておられるとき、サマリヤのシカルという町を通られたときのお話です。
暑いお昼頃のことでした。このサマリヤのシカルという町の井戸の側で、旅に疲れたイエス様は休んでおられました。すると、一人の女の人が井戸に水を汲みにきたのです。
そのとき、イエス様はこのサマリヤの女の人に話しかけられたのです。

聖書をお読みしますので、どうぞ聞いて下さい。
ヨハネによる福音書の4章7節から14節です。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

イエス様は、井戸のそばで、わたしがあなたにあげることのできる水がある。それは、決して乾くことのない永遠の命の水だとおっしゃいました。

いまは、あまり井戸をみることがないのですけれど、みなさんは見たことがありますか?
僕も何度か見たことがあります。深い穴を掘ると、その底から水が沸いてきますから、それを長いロープの先にバケツをくくりつけたものなどで汲み上げるわけです。もう少し最近まで使われていた井戸は、それとは違って、ポンプで汲み上げる井戸もあります。そして、生活に使うのですけれど、井戸の水は雨が降らない日が続くと、カラカラに乾いて水がなくなってしまうことがあります。

イエス様は、わたしのあげる水は乾かない。しかも永遠のいのちの水をあげると言われました。
乾かない永遠のいのちの水って何でしょうか?

イエス様はサマリヤの女の人の心をよくご存知でした。
女の人が、飲む水はここにあっても、心の中は本当は乾いたままだったことをよくご存知でした。
この女の人は、あまり人には言いたくないような人生を過ごしてきた人でした。暑い昼間に水を汲みに来なくても、朝涼しいうちに水を汲みにきたらいいのです。でも、この女の人は人目を避けて、誰も出てこない熱い昼間に水を汲みにきていたのです。


今日はここに一杯のお水を持ってきました。(金色の箱をあける)
わたしたちは喉が渇くと、お水がほしくなります。人間はずっとお水を飲まないでいると、身体の力がなくって、いのちも危なくなります。私たちの心も同じです。こころが乾くと、本当につらいと思います。わたしたちの心も水を必要としています。それは、このコップにあるような水ではなくて、イエス様が今日下さろうとしている永遠の命にいたる水です。

サマリヤの女の人が抱えていた罪は、イエス様によって赦されました。
女の人の心の中に、救われた喜びが溢れてきました。
この女の人もイエス様に祝福された人なのです。

自分は罪人だと、自分は人にあわせる顔なんてないと思っていた女の人が、イエス様に出会って、わたしはイエス様に救われたんだ、罪赦されたんだ、イエス様に祝福された人生を歩めるんだ。そういう希みを頂いたのです。

イエス様は、むかし井戸のそばで女の人に下さったように、今日ここにいる私たちにも、永遠の命の水を下さろうとしているのです。わたしたちに、けっして乾くことのない永遠の命の水を豊かに下さるのです。そして、弱った心を元気付け、新しい力を頂いて歩むことができるようにとしてくださるのです。そのとき、イエス様こそ、本当に私の救い主なんだと告白することができるのです。

お祈りいたします。
天の父なる神様。わたしたちを礼拝に招いて下さってありがとうございます。
今日あなたの御言葉を聞きました。あなたは、わたしたちに、決して乾くことのない永遠の命に至る水を下さるとおっしゃいました。わたしたちにも、そのお恵みをお与え下さい。そして、わたしたちも救われた喜びをまわりの人々に伝えることができますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

今日の祈り35

2007-11-07 06:51:19 | 今日の祈り
わたしたちの喜び、旅路の光である主よ。

あなたからの光に照らされた世界と共に
讃美の歌を歌います。

地上の旅路を歩むわたしたちの唇に、絶えず
あなたへの讃美を歌わせてください。

あなたが私にくださった、数え切れない恵みを、
あなたの愛の深さ、広さを、
そして、独り子をも下さるほどに愛された天の父を、
いつまでもほめたたえることができますように。

そして、あなたの御国に迎えられるその日まで、
わたしたちの口に讃美の歌を歌わせて下さい。
アーメン