ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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今日の祈り34(諸聖徒日・召天者記念日)

2007-11-02 15:17:16 | 今日の祈り
いのちの源である神よ。
あなたは罪人であった私たちを愛し、御子キリストを十字架につけ、
その死と復活によって永遠の命の希望を確かにして下さいました。

諸聖徒の日に際して祈る私たちの祈りに耳を傾けて下さい。

復活の主よ。
世を去ったすべての逝去者を覚えて祈ります。
愛するものをあわれみ、あなたの平安と慰めの御腕に憩わせてください。

私たちもいつの日か、あなたの御国に迎えられ、永遠の喜びに与る
ことができますように。
アーメン

子供説教「ペテロ」ルカ5:1-11

2007-10-27 18:17:23 | 子供の説教
子供説教「ペテロ」 ルカ5:1-11.

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


 イエス様と出会った人たちのお話を続けてきました。
 今日は、イエス様に出会ったシモンという人のことをお話ししたいと思います。
シモンという漁師さんは、ガリラヤ湖という大きな湖の漁師さんをしていて、船をガリラヤ湖に漕ぎ出して、網をおろして漁をする。そういうお仕事をしていた人です。ある日、イエス様は、このシモンという若い男の人が舟から上がって網を洗っていたとき、このシモンの側にやってこられました。

 そこでイエス様は、シモンの舟に乗って、シモンに言われました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えて、イエス様のおっしゃるとおり、網をおろしてみたのです。すると、数え切れないほど沢山の魚がかかって、網が破れそうになりました。
 イエス様はシモンに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエス様に従っていったのです。

 シモンはお魚をとる仕事をしていたのですが、イエス様に呼ばれて、イエス様に従っていきました。実は、わたしたちも、イエス様に呼ばれているのです。
聞こえるでしょうか。イエス様の呼んでおられる声が。心を静かにしないと聞こえない、小さな小さな声かもしれません。

 みなさん、呼ばれているって嬉しいことだと思いませんか?
 わたしのことを、呼んでくれる、期待してくれる人がいる。しかもそれがイエス様だって、何と素晴らしいことだと思いませんか。私に何か出来るからイエス様が呼ばれたのではないのです。シモンは漁師さんです。しかしイエス様は、シモンを、イエス様のことを世界に伝える人になるように、呼ばれたのです。
何もかも立派にできる人を、イエス様が呼ばれたのではありませんでした。

 シモンさんは、後でイエス様からペテロという名前をつけて頂きました。
ですから、聖書は、シモン・ペテロと言います。
 ペテロさんは、イエス様のお弟子さんですけれど、実は失敗も沢山したのです。ある日、「オマエはイエスと一緒にいただろう?!」「さては、オマエもイエスの仲間だな?!!」と言われたとき、3回も違うと言ったのです。
 イエス様は、失敗することをご存知なのに、シモン、ペテロを呼ばれたのです。
神様のお言葉を伝えるために、シモン、ペテロはイエス様の呼びかけについていきました。
 イエス様は、失敗しない何でも出来る人だけを呼ばれるのではなくて、ここにいる、わたしたち一人一人に語りかけておられるのです。

 恐れなくていい。あなたは人間を獲る漁師、神様のお言葉を伝える人になるんだ。何も牧師さんになることだけではありません。みんな一人一人が、イエス様のお言葉を頂いて、沢山の人にそれを伝えるのです。そうして、沢山の人たちがイエス様のもとに集められ、本当の救い、喜びを頂くように、私たちをイエス様は呼んでおられる。用いてくださるのです。


お祈りいたしましょう。
 シモンに語りかけられたイエス様。あなたは、わたしたちのそばにも、今日おられます。そして、わたしたち一人一人に静かに語りかけておられます。「恐れなくていい。あなたを人間を獲る漁師にしてあげよう。」わたしたちを助けて、イエス様と一緒に歩むことができるようにしてください。聖霊がわたしたちを導いて、今週も元気に過ごすことができますように。あなたの助けを必要としている、すべての人たちのそばにいて下さい。イエス様のお名前によって、お祈り致します。アーメン

今日の祈り33

2007-10-24 18:52:54 | 今日の祈り
復活の主よ。
あなたのいのちの輝きで、わたしたちを満たしてください。
こころを潤し、渇きをいやし、あなたの聖霊によって
わたしたちの口に、主への讃美をさずけてください。

あぁ主よ。
あなたの十字架はわたしたちの唯一つの慰め。こころの希望。
世に勝った主イエスが、わたしたちと共にいてくださるとは。アーメン


今日の祈り32

2007-10-23 06:33:49 | 今日の祈り
いのちの源。父である神よ。
新しい朝、あなたの聖霊の息吹によって、わたしたちの内を
いのちに満たし、希望に溢れさせてください。

はじめの人間があなたに造られた日、あなたの息で人は生きたように、
この日わたしたちにも、あなたの息吹によって生かされる恵みを
お与えください。

御子キリストの十字架と復活が、いまここに生かされてある
ほかならない、このわたし自身のためであったことを
固く信じる信仰を、今日もお恵みください。アーメン


今日の祈り31

2007-10-21 16:57:50 | 今日の祈り
天の父よ
あなたは幼子のようになりなさいと、わたしたちを招いて下さいました。
しかしわたしたちは、いろいろなことを思い煩い、こころを囚われ、
あなたを見るよりも、目の前の現実に振り回されているかのようです。
不安や心配事で心がいっぱいになることもあるのです。

しかし父よ、
あなたはわたしたちを「わたしの子よ」と呼んで下さいました。
あなたのお側に居させてください。
あなたの御腕からひとときも離さないでください。
わたしの平安は、あなたの中にあるのですから。
いまも、とこしえに アーメン


【ある祈祷集より】

今日の祈り30

2007-09-23 17:14:55 | 今日の祈り
主なる神よ。
あなたに造られた世界と共に、聖なる御名を讃美します。
この日、あなたは私たちを礼拝へと招いて下さいましたことを、感謝致します。
憐れみ深い父よ。私たちの歩んだ、今日までの日々、そのすべての時が、わたしたちの気づくと気づかざるとに関わらず、あなたの深いご配慮の内にありましたことを、深く感謝致します。
しかし、わたしたちは、思い、ことば、行ない、また自らの怠慢によって、たびたび罪を犯しました。わたしたちをあわれみ、すべての悪からわたしたちを救い、永遠のいのちに導いて下さいますように。

教会の頭なる主よ。全世界に広がる主の教会に、平和と一致を、お与え下さい。
わたしたちの教会に、あなたがお立てになった、牧師のお働きを祝福し、聖霊を注いで絶えず導いて下さい。 教会員一同の上にも、おなじ御霊を注ぎ、一つの心で、あなたの御名を讃美する群れとならせて下さい。

天の父よ。病んでいる者に癒しを、悩み、困難の中にある者に平安と希望を与え、地震や争い、飢餓の中にある者には、平和と必要な助けとを、すみやかにお与え下さい。
神よ。すべての家庭を祝福し、信仰と希望をお与え下さい。いのちの源である神よ。あなたのご配慮は、わたしたちの思いを超えてあまりに大きく、わたしたちの計画の何よりも確かです。神よ。わたしたちのすべてがあなたの御手の中にあることを、そして、その御手が、この世の見える何ものよりも確かで、力強いものであることを信じる信仰を、お恵み下さい。

いのちの御言葉なる主よ。聖霊によって、御言葉を照らし、わたしたちの心に深く宿らせて下さい。あなたの御言葉に力づけられ、この所から立ち上がって行くことが出来ますように。

私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン

【主日礼拝・共同の祈り】


説教「ザアカイ」ルカ19:1-10

2007-09-10 08:27:56 | 主日礼拝説教
■説教「ザアカイ」 ルカによる福音書19章1節-10節

聖書 ルカによる福音書19章1節-10節
「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』
イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」【日本聖書協会・新共同訳聖書】

                                                      

「ザアカイ」わたしたちに強烈な印象をもって迫ってくる一人の人物です。今日開かれている福音書、ルカ19章の1節以下には、このザアカイの記事が四つの福音書の中でただ一箇所だけ記されています。

わたしたちの人生には様々な出会いがあり、皆それぞれにその出会いの中で今日まで生きてきたと言えるでしょう。その出会いというのは、通りすがりや、顔見知りということとは違います。

ザアカイはその日、イエスがザアカイの町に訪れるという噂を聞きつけるのです。ザアカイは興味本位でしょうか、それとも今の自分のあり方を変えて頂きたかったのでしょうか、いずれにしましてもこのイエスに会いたいと、出て行くわけです。
しかしあまりの人の多さに、背の低いザアカイは主イエスのお姿を見ることができません。思いついたザアカイはイチヂク桑の木に駆け登ります。道の向こうから、群集がこちらに向かってきます。その真ん中に、あの主イエスのお姿が見えたのです。
ザアカイの胸は高鳴ります。イエスを見るというザアカイの願いは叶えられたわけです。ところが、主イエスは、ザアカイの登っている木の真下に来ると、ザアカイを見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)
ザアカイは驚きます。「あなたの家に泊まりたい」と、主イエスの御声を聞いたのです。ザアカイは急いで降りてきて、主イエスを家に迎えます。
しかし、その出来事を見ていた人々はつぶやきます。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7節)

ここに、主イエスを見た人々の、二つのあり方が見えてきます。
ザアカイは、主イエスを見て自分は罪人だと気づいた。それで「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)と、言うわけです。ところが、それとは正反対に、多くの群集は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7節)つまり、罪人の家に入っていく男、あのイエスも所詮罪人だと言うわけです。
イエスを見て、ほかならないこの自分自身が罪人だったのだと気づいたザアカイ、同じようにイエスを見て、あいつも罪人だと思った群集。ここには何と大きな差があるでしょうか。

主イエスに出会うというのは、自分の内側からまるごと変えられていく、そのような出会いです。ザアカイの生涯はまるごと変えられたのです。しかし、横目でイエスを見ていた多くの人々は何も変わらないのです。

主イエスはザアカイに仰せになります。「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)
当時ザアカイのしていた仕事「徴税人」というのは、いまの日本の税務署であるとか税金の仕事とは全く違う意味をもっていました。ローマの属国とされたイスラエルの国で、人々から税金を取り立ててその税金をローマ帝国に納める。ユダヤの人々からは、自分たちの民族を裏切る者として、律法に背く罪人として嫌われていました。ローマに税金をおさめるというのは、自分たちの神以外の神に仕えるという偶像礼拝とも等しい罪だと考えていたからなのです。そういう背景がありますので、ザアカイは人々から徹底的に疎外され、嫌われていたわけです。
そういうザアカイの所に、主イエスが来られた。「今日救いがこの家を訪れた」と聖書は語るわけです。

このエリコの町を通られた主イエスは、どこへ向かって旅をしておられたのでしょうか。それはまさに十字架であります。主イエスの旅は十字架へと向かっているのです。
ザアカイ、それはあの人この人のことではなくて、ほかならない私のことです。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とは、木の上に登って、ちょっとイエスの姿を見てみようと思っていた私たち一人一人に語りかけられた言葉にほかなりません。
主イエスは「今日救いがこの家を訪れた。」との御言葉につづいて、このように言われました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節)
主イエスは、失われたもの、そうですザアカイを捜すために、捜して救い出すために、ザアカイの所に来られたのです。

ザアカイが悔い改めたから、主イエスが来られ、救いを下さったというのではありません。主イエスが来られたからこそ、ザアカイは自分の本当の姿、罪に気づくことが出来、悔い改めることができたのです。私たちの行為が救いをもたらせるのではありません。ザアカイが人々に施しを与えると言ったから救われたのではないのです。主イエスが私たちのところに来てくださった!そこに救いがあるのです。

私たちの重荷、罪、それらを身代わりに自ら背負い、十字架に死なれる主イエスが、ザアカイを招いておられる。私たちを招いておられるのです。ザアカイは一人ぼっちでした。ザアカイは、社会の片隅で疎外されて生きてきた一人だったのです。しかし、そういうザアカイの所に主イエスがこられた。ザアカイはもう一人ではないのです。主イエスと共に歩む者とされたのです。
ザアカイの生き様は、まるごと変えられました。主イエスとの出会いが、ザアカイにいのちを与えたのです。

出会いというのは、わたしたちの生き様を変えます。ザアカイの町をたずねられた主イエスは、今日も私たちのもとをたずねて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)

詩編説教「来るべき世代に語り伝えさせてください」詩71:18-19

2007-08-11 14:15:06 | 詩篇小説教
詩編71:18-19
71:18 わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。71:19 神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私が年老いて白髪になっても―― 御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。」(詩71:18)何と力強い御言葉でしょうか。別の訳では「私は宣べ伝えよう。次の世代のすべての人に」とあります。どちらも信仰の熱気が伝わってくるような御言葉です。

神は、私たち一人一人を創造し、いのちの息を吹き入れて生かして下さいます。その生涯のすべての日々は、順境であれ逆境であれ、ひと時も神のご配慮から漏れることはないのです。こんな詩があります。

「ある夜 私は夢をみた。主と二人、私は砂浜を歩いていた。いつも砂の上に二組の足跡が残されていた。一つは私、もう一つは主の足跡。これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生でいちばん辛く悲しい時だった。私は主に尋ねた。『主よ。あなたはいつも、私と共に歩んでくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一つの足跡しかなかったのです。一番あなたを必要とした時、なぜ私を捨てられたのですか。』主はささやかれた。『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てない。あなたの苦しみや試みの日、足跡が一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた。』」(M・F・パワーズ)

信仰生活を長く歩んだ者には、その者にしか語れない神への感謝、信仰の証があります。ペトロは、聖霊降臨日の説教でこう語りました。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」(使2:17) 神は老若男女すべての者を用いて、教会を建て上げてくださいます。教会は信仰を継承し、恵みを語りついできたのです。年老いてなお信仰者には夢がありました。次の世代、子供たちが御言葉を語り、孫たちが主に仕えている姿を信じたのです。そして「神の恵みの生涯を『来るべき世代』に証しさせて下さい」と祈ったのです。なにも語るだけが証しなのではありません。信仰者の生きざま、祈りの生活、それは尊い生きた証しそのものなのです。キリスト者の生涯というのは、御国に行くまで希望に溢れ、信仰に生かされます。主が共にいてくださるからです。

主日礼拝説教「主の祈り」マタイ6:9-13

2007-08-05 16:30:24 | 主日礼拝説教
■主日礼拝説教「主の祈り」マタイ6:9-13 列上8:54-61 讃562/67/536/310/514 交6

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 祈りとは何でしょうか。今朝開かれている福音書の御言葉は、主イエスが「主の祈り」を教えて下さった、そういう箇所です。教会はこの祈りをとても大切にしてきました。ある人は、この主の祈りこそ福音の要約である。ここにこそ、キリスト教の福音の根本があると言いました。

私たちの度々聞いてきた御言葉、長い間祈り続けてきた主の祈り。しかし御言葉は汲んで尽きるような貧しいものではありません。いま改めて、主が教えて下さった祈りに、主の声に、耳を傾けたいと思うのです。

キリスト者の歩みは祈りと切り離すことができません。この朝開かれている「主の祈り」は、主イエスが、弟子達に教えて下さった祈りです。この祈りを深く心に思いますと、キリスト教の祈りというものが、どういうものであるかということが見えてきます。私たちは祈りが大切だとよく判っております。しかし振り返って自らをみると、以外と要求ばかりで神様に願いを聞いてもらおうと、そのことばかりに一生懸命になっていたりするのです。一生懸命祈って、神様の心を動かして自分の願いを叶えてもらおうとしたりします。
ある日、キリストはこのような譬え話をされました。

ある女性が自分のために正しい裁判をしてほしいと、ひっきりなしにやってきて裁判官に申し立てるわけです。すると裁判官はうるさくてかなわないから裁判をしてやることにした。という譬え話です。

こういうのを聞くと私たちは、この女性が一生懸命願ったから、悪い裁判官も願いを聞き届けた。私たちも一生懸命祈り続ければ、神様はいつかお祈りを聞いてくださるということを言っているのだろうと思います。
しかしキリストがこの後に言われた事が大切なのです。「まして天の父は・・・放っておかれるだろうか。」神様は悪い裁判官ではありません。私たちが煩わしいから祈りを聞いて下さるのではありません。願う前から私たちの必要をご存知で、私たちのことを一時も忘れず心にかけて下さる神様です。主イエスは、今日の御言葉の少し前で、異邦人のようにくどくどと祈るなと言われました。祈らなくてよいと言われたのではありません。神に信頼して祈りなさいと言われたのです。なぜなら、神は、悪い裁判官ではなく、また地上の父とも違う、いつくしみ深い天の父であるからだというのです。

今日、キリストは、「天の父よ」と祈るように教えて下さいました。
聖書は、人間は神に創造されたものだといいます。しかしその人間が罪を犯して父なる神のもとを離れていく。私たちはとうてい天の父よなどと祈ることが出来ない罪人なのです。しかしキリストは世に来て、十字架の上に死なれ、もはや神を父と呼べない罪人に、ひとたび父のもとへと帰る道を下さったのです。このキリストによって私たちは「アバ、父よ」と呼ぶ恵みに招かれているのです。私たちが神を天の父と決めたのではありません。神が、私たちを天の父の子として下さったのです。

私たちは、聖書を読んでいますと、キリストの祈っておられる姿に出会います。 多くの人は、願い事を神様にお願いすることが祈りであると思ったりします。しかし、キリストの祈りの姿をたどっていきますと、私たちの考えているお祈りとは違う、別の祈りの姿が見えるのです。それは、神様の方へとグルッと自分の全存在を向けていく、そういうキリストの姿です。
願い事をすることも確かに祈りの一つの側面ではあります。けれど、それがすべてではありません。祈りは、自分の願い事が叶うことに心を向けることではなくて、自分の全存在を丸ごと神様の前に置いてみる、自分の捕われていたすべてのことから、神様の方へと向きなおしてみる。そういうことです。

私たちが神様の方に向いて生きているかどうかということが重要なのです。そうでないと、人間は自分で生きているのだと思い違いをしてしまうのです。そればかりか、この忙しさの極みのような社会にあって、どれだけ沢山の人が生きる目的を失っているかわかりません。何に向かって歩めばいいか分からなくなっているのです。そういう時に、神様の前に自らをグルッと丸ごと向ける。そして、この神様に向かって生きていく、そういう姿を、キリストの祈りの姿に見るのです。

そうする時に、ただ私たちの要求、ほしいもの、叶えてほしいことを並べるだけの願い事ではなくて、もっと大きな恵みがあることに気づくのです。私たちの事をなにより心にかけて下さる、父なる神様の存在に気づく、この自分は、神様の恵みに生かされている子供なんだと気づくのです。この天の父に信頼する祈りこそ、主の祈りです。「天にまします我らの父よ」そう祈ることで、私たちの想像するよりもはるかに、どこまでもいつくしみ深く、わたしたちを限りなく愛して下さる天の父に、全幅の信頼をする。
そのとき初めて、わたしたちのいのちに力が溢れてきます。

もし願い事がキリスト教の祈りであったなら、こんなに祈っているのに、自分の祈りは叶わないから神様などいるものかとなるわけです。しかし、願い事に心を注ぐのではなくて、わたしたちの事を一時も忘れず配慮し、養い、育ててくださる父なる神様に心を向けるとき、この神様に信頼するとき、わたしたちは願い事が叶う以上に大きな平安、父なる神様の子供とさせて頂いた計り知れない恵みに気づくのです。この父の愛に生かされていることに気づくのです。
そのとき、わたしたちは目の前の黒雲がわかれて、青空が広がっていくような、晴れ晴れとした気持ちで歩むことができます。
イエス・キリストの地上での歩みは、決して楽しく陽気な日々ではありませんでした。私たちも、キリストが歩まれた同じ地上を、天に向かって歩んでいるのです。その天へと向かう地上の旅路で、皆それぞれに、人には分からない痛みや悲しみ、そういうものを抱えて歩んでいます。キリストの弟子になったらすぐに何の苦労もなくなったというのではありません。
キリストの生涯と十字架の向こう側にしか復活はなかったように、わたしたちに与えられた生涯を生きるようにと神が招いておられるのです。主イエスは、キリストに従って生きようとする弟子達に、主の祈りを教えられました。この主の祈りを祈りつつ歩む、そういう生涯こそ、キリスト者の生涯なのです。

福音書にもう一度目をとめましょう。主の祈りは、御国が来ますように。御心が行なわれますようにと祈りを導きます。わたしたちはこのように祈っていますと、早く御国が来て何の痛みも苦難もない平安の中に移されたらどんない素晴らしいだろうと思います。この世で色々と思い煩って生きるよりも、神様の所に行ったほうがいい。早く天国に行きたい。死んだら楽になると思ったりします。ところが、聖書は、神の国はもうあなたがたの只中に来ているのだといいます。驚きます。神の国はもう私たちの只中に来ている。どういうことだろうか?と思います。それならどうして、こうも不安があり、痛みがあり、悩みも、心配事も、山のようにあるのだろうか。
ところが、神の国が来たというのは、わたしたちのそういう問題が全く取り去られることではないようです。
神の国に生きるということは、主イエスの地上での歩みがそうであったように、悩みや痛みの中でも、神が共にいて、そういう自分を支えていて下さることを信じて生きる事なのです。天国に行くこと。それは素晴らしいお恵みです。しかしそれだけでなくて、この世の苦しみから抜け出すことによって平安が与えられるのではなくて、この世の只中で、神の大きな恵みに支えられて歩む。そういうことを聖書は語っているのです。そしてその地上の歩みの先に、主イエスのご再臨によってもたらされる、天地の新たなる日、神の国の完成を待ち望んでいるのです。
天にまします我らの父よ。そう祈るとき、私たちは父に向かって祈り、天を目指して旅を続けているものであることに気づきます。行くべき、帰るべき天があることを信じているのです。

「御国を来たらせたまえ」と祈るのは、終わりの日のことはもちろんのこと、今ここに生きるこの私が、神の国の恵みに生きる事ができるように、主の御心を信じて生きる事ができるようにという祈りなのです。

私たちは、この父に向き合うことによってはじめて、地上に与えられたいのちを神に委ね、精一杯生かしていく事ができるのです。

天の父よと祈る私たちはもはや一人ではありません。キリストによってアバ父よと呼ばせてくださる聖霊が共におられ、誰よりも私たちを心にかけて下さる天の父と、向き合っているのです。
そればかりではありません。「われらの父よ」と祈ったように、この地上の旅路は、「わたし」だけでなく「われら」の旅です。主の教会の交わり、兄弟姉妹の祈りの中に支えられて歩むことが出来るのです。

主イエスは、天の父に向かって祈ることを弟子達に教えて下さいました。そしてそれだけでなく、父よと呼ぶことが出来るように、聖霊を注いでくださったのです。自分でしようとする歩みから、父に委ねて歩む歩みへと、わたしたちの方向を向けるとき、私たちは自分に与えられた生を、精一杯生かすことができるのです。
自分のいのちは、神から来ていることを知るとき、それをどう生かすべきかわかってくるのです。神に向かって、どう生きたら良いのかを知るのです。

主の祈りは、どこの教会においても最も大切にされている祈りです。こうして今日、福音書の御言葉から、主の祈りを聞いています。しかし、その深さ、恵みの大きさは、とても汲みつくすことができません。それでも私たちは父よと呼ぶ、そうさせてくださる聖霊に促されて、キリストによって、天の父に向かって祈るのです。この祈りを通して、私たちはキリストと出会い、天の父と出会うのです。

祈りとは、父に向かって生きるように招かれたキリストの愛に応えて、天の父にこの自分を丸ごと向けていくことだと申し上げました。しかし最後に、私たちは決して忘れてはいけません。私たちが天を向く、天の父に向かって歩みだすずっと前に、天の父がこの私のほうに向かって手を伸ばして下さった。独り子を世に遣わして、何の値打ちもない罪人の、この私のほうに、丸ごと向いて下さった。御子イエス・キリストのいのちをかけてまで、わたしたちの方を向いてくださった神がおられるということです。
何と大きな父なる神の愛でしょうか。

私たちは、この計り知れない愛の神、天の父に全く信頼して祈ります。
「天にまします我らの父よ」
そう祈りつつ、天の御国、父なる神へと向かって歩む歩み、そういう祈りの歩みを続けていきたいのです。

祈りましょう。

天におられる、わたしたちの父よ
御名があがめられますように。
御国がきますように。
あなたは、御子キリストを世に遣わし、罪人にすぎないこの私たちを救い、計り知れない恵みによって、あなたを父と呼ぶことをゆるして下さいました。
聖霊の助けによって、神の子とされた喜びのうちに、あなたの御国へと向かうこの地上での旅路を導いて下さい。
私たちの救い主、御子イエス・キリストによってお祈り致します。
アーメン


「主の祈り」マタイ6:9-13

2007-07-28 19:54:55 | 主日以外の説教
6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 クリスチャンの歩みは祈りと切り離すことができません。主イエスは、弟子達に祈りを教えられました。それが今日の福音書の箇所にある『主の祈り』です。カトリック教会も、プロテスタント教会も、東方教会も、すべての教会が祈り続けてきた祈りです。一度祈ったらおしまいというような祈りではありません。繰り返し繰り返し、教会は祈り続けてきたのです。そして、皆さんは祈り続けてこられました。『主の祈り』を祈りつつ歩む歩み、それがまさにキリスト者の歩みなのです。
主の祈りは弟子達が考え出した祈りではありません。主イエスご自身が、このように祈ったらいいんだと教えて下さったのです。

 この主の祈りの中に、わたしたちの主の姿が見えてきます。わたしたちの父となり、御国を備え、日ごとの糧を与えて下さり、試みから守り、悪から救い出してくださる神がおられるのです。それと同時に、わたしたちの本当の必要が何であるか見えてくるのです。主の祈りを味わってみてください。これほどまで、私たちのこころ、私たちの必要をあらわした祈りがあるでしょうか。

 この祈りは決して空しく地に落ちることはありません。なぜなら、こう祈りなさいと言われた主イエスがおられる。そして、この祈りにあるとおり、天の父がおられるからなのです。
 私たちは、この主が下さった祈りを祈ることで、神様にどこまでも信頼するのです。わたしたちの天の父は、私たち一人一人を深く配慮し心にかけて下さるのです。同じマタイ6章にこのような御言葉があります。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」

『子よ』と、あなたのことを呼んで下さる天の父への信頼、それがキリスト者の祈りの根底にあるのです。キリストが父なる神にどこまでも信頼されたようにです。

祈りましょう。

天にまします 我らの父よ、
ねがわくは み名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。アーメン。