ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
・・・クリスマス説教はカテゴリからどうぞ・・・

最上のわざ

2009-05-14 14:22:07 | 今日の祈り
楽しい心で年をとり

働きたくても休み しゃべりたくても黙り

失望しそうな時に希望し

従順に 平静に おのれの十字架を担う


若者が 元気いっぱい神の道を歩むのを見ても妬まず

人のために働くよりも 素直に人の世話になり

弱って もはや人の為に役立たずとも

親切で柔和でありたい

そして何もできなくなれば それを謙虚に受け入れよう


老いの重荷は神の賜物

古びた心に これで最後のみがきをかける 

まことのふるさとへ行くために


おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは 

真にえらい仕事


神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる それは祈りだ

手は何もできないけれど 合掌はできる

愛するすべての人に、神の恵みを求めるために


そして すべてをなし終えたなら 臨終の床に神の声を聞くだろう

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と



詩:フォイベルス

復活祭の祈り

2009-04-12 16:19:01 | 今日の祈り
御子イエス・キリストを、死者の中から復活させられた聖なる天の父。
復活の光に照らされた喜びと希望のうちに、あなたへの讃美を歌います。

 あなたは御心に背いたアダムの罪を、十字架のキリストに負わせることを良しとされ、罪と死との呪いを御子イエス・キリストの十字架の死によって打ち砕き、信じるすべてのものに、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。ただ虚しく、深い闇でしかなかったわたしたちの死も、病も、嘆きも、十字架のキリストに担われ、望みの光によって照らされました。
 はじめの日に「光あれ」と仰せになったあなたは、自らの犯した罪のために滅びへと向かうわたしたちを、決してお見捨てになることなく、混沌とした闇から救い出し、あなたの光の中に、救いの喜びの中に生きることを望んでくださいました。深い感謝をもって御前にぬかずくわたしたちを憐れみ、貧しい讃美と感謝を、またわたしたち自身を、受け入れてください。

 御子の血によって教会を贖い、神の民を一つに集めてくださる神よ。
 御子のご復活を祝うこの日、洗礼によって新たに神の民に加えられる者をかえりみ、御心にとめてください。洗礼によって御子の死に結ばれたわたしたちが、その復活にも結ばれますように。
 キリストのからだである教会に集うあなたの民を、聖霊によって導いてください。主のお言葉の通り、教会に平和をお与えください。神の民の祈りを聞き、病める者に癒しを、傷つき悲しむ者に慰めを、困難の中にある者にすみやかな助けをお与えください。教会に集うことの適わない兄弟姉妹、信仰生活から離れていった者一人一人、それぞれが祈りのうちに覚えるすべての者をかえりみ、あなたの慈しみ深い御心のうちお守りください。
 また、プロテスタント日本伝道150年を迎えた日本の諸教会が、いよいよ聖霊の力に強められて、復活のキリストをのべ伝えていくことが出来ますように。

 いのちの源である神よ。世をさった全ての聖徒を御心にとめてください。御子を復活させられた父である神よ。御子の復活を信じるわたしたちの信仰を強くし、恐れることなく、望みのうちに、与えられたいのちを生き、また永遠のいのちを生きる者とならしめてくださいますように。

 わたしたちは御言葉を待ち望み聖霊の導きを祈ります。恐れおじ惑い、戸を堅く閉じた弟子たちのものに復活のキリストが臨み、御言葉を与えて下さったとおり、いまこの所に親しく臨み、あなたの御言葉を聞かせてください。
 世の救い主、わたしたちの復活の希望、また喜びの源となられた、御子イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン


こどものための復活祭メッセージ

2009-04-12 16:14:57 | 子供の説教
イースターおめでとうございます。

今日は何のお祭りなんでしょうか。
わたしたちは何をお祝いするために礼拝をしているんでしょう。
イースターというのは、日本語では復活祭と言います。復活をお祝いするんですね。
誰の復活をお祝いするんでしょうか。それはイエス様のご復活をお祝いするんですね。

 十字架におかかりになって、十字架の上に死なれたイエス様は、アリマタヤのヨセフという人が用意したお墓にうめられました。ところが、今日、日曜日の朝のことです。マリアたちが墓に行って見ると、イエス様の葬られたお墓をふさいでいた大きな石が転がしてあって、中にイエス様はおられなかった。そこには白い衣を着た神様の使いがいて、マリアたちに言いました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
 イエス様は十字架で死なれて、お墓に葬られた。うめられたわけですね。
 だけど、日曜日の朝、マリアたちがお墓に行って見ると、お墓は空っぽで、イエス様はそこにおられない。そこには神様の使いがいて、マリアたちに言いました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」

 死んだはずのイエス様を、父なる神様はお見捨てにはなりませんでした。父なる神様は、十字架に死んでお墓に葬られたイエス様をいのちに呼び出してくださいました。
 十字架に死んでくださったイエス様が、死なれたのにですね、父なる神様にいのちを与えられた。わたしたちはそのことをお祝いするんですね。
 
 クリスマスにわたしたちは、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった、赤ちゃんイエス様のお誕生をお祝いしました。
 今日、イースターの日にわたしたちは、死んでお墓に葬られたイエス様が、父なる神様によっていのちに呼び出された、復活させられたそのことをお祝いしているんですね。

教会のお祭りはいのちのお祭りです。
いのちに満ちて生きておられるイエス様をお祝いするんですね。

 普通、わたしたちの知っているお祭りっていうのは、沢山の収穫があった秋に、その収穫を喜んでお祭りをしたり、お正月には新しい年が来たからといってお祝いをしたりしますよね。
 でも教会のお祭りはちょっと違うんですね。沢山の食べ物やいいことがあったことを喜んでお祭りをするのではないんです。
 では、何を喜んでお祭りをするんでしょうか。それは、いのちを喜んでお祝いをするんですね。イエス様がお生まれになった。イエス様が復活させられた。このイエス様がいのちに満ちて生きておられる。だからお祝いをするんです。

 ただイエス様が生きておられることだけをお祝いするのではありません。イエス様にいのちをお与えになった父なる神様は、わたしたち一人一人にも、いのちを与えて下さっていて、それをとても喜んでくださっている。みんなのいのちを心から慈しんでくださっている。大切にしてくださっているんですね。だから、みんなのいのちが失われてはいけない。滅びてはいけない。そうお望みになって、イエス様の十字架によって、わたしたちの罪を赦して、わたしたちがたとえ死んでも、イエス様をいのちに呼び出してくださった神様は、わたしたちを、みんなのことをも、いのちに呼び出して下さるのです。

 みんながお母さんから生まれてきた日、お父さんやお母さん、家族のみんなは何ていってお祝いしてくれたでしょうか?きっと「おめでとう」と言ってお祝いしてくれたと思います。イエス様のご復活を「おめでとう」と言ってお祝いするわたしたちは、そのイエス様から永遠のいのちを頂いて、神様から「おめでとう」と喜ばれている一人ひとりなんですね。
 イエス様が生きておられるというのは、わたしたちも生きるようにという父なる神様の御心です。与えられたいのちを楽しく喜んで生きるように、そして自分のいのちの終わりを迎えるときには、イエス様に罪を赦されて、永遠のいのちを頂いて、また神様によって生かされるように、そう父なる神様は望んでくださっているんですね。

 復活されたイエス様は、いつもみんなと一緒にいてくださって、みんな一人一人のことをお守りくださいます。わたしたちを大切にし、何よりも心にかけてくださるイエス様に感謝して、毎日を大切に生きて生きたいと思います。


説教「光の子として歩みなさい」

2009-03-02 16:55:26 | 主日以外の説教
「光の子として歩みなさい。」神の御言葉はわたしたちに今日、そのように呼びかけています。「光の子として歩みなさい。」
しかし、わたしたちは自分自身の姿を正直に見つめるとき、この自分のどこに光の子らしさがあるのかと思わされるのではないでしょうか。しばしば神に背を向けて歩み、人を傷つけたり、不誠実であったりするわけです。しかし御言葉は「光の子として歩みなさい」とそう告げているのです。光の子として立派に生きていく決断を求められているのでしょうか。更には光の子となるように何か努力精進することが求められているのでしょうか。けれども、わたしたちは光の子としてやっていこうと決意し、努力してもそれは長くは続かない者であることを思い知らされると思うのです。光の子として生きていきたいと願っても、なかなかそう上手くいかない。そこで、何とかして光の子になりたいと思うのではないでしょうか。
しかし今日、神の御言葉は、あなたに「光の子になりなさい」と言っているのではないのです。光の子として歩みなさいと神の御言葉は告げているのです。別の聖書では「光の子らしく歩みなさい。」と、そう訳されています。光の子として歩め、光の子らしく歩め。それは、あなたはすでに光の子とされているんだという、神の救いの約束に裏打ちされている御言葉です。光の子らくし歩め。なぜなら、あなたは光の子とされているのだからということが語られているのです。
では、どうしてわたしたちは既に光の子とされているのだと聖書は告げるのでしょうか。
わたしたちは知らず知らずのうちに信仰生活をやっていく中で光の子とされていたんだということでしょうか。それとも、これから教会でキリストを信じて歩んでいく中で、いつかわたしもキリストの光の子とされるということでしょうか。どちらも違います。罪人が自らの力で光となることができるというのでしょうか。

わたしたちはどんなに努力してもどんなに熱心になっても、自分の力で自分の救いを手に入れることはできません。暗闇の中に住むわたしたちは、光の中に入りたいとどんなに励んだとしても自分の力ではそれが適わないのです。暗闇と光との間には大きな断絶があって、それを容易に飛び越えていくことが出来ないのです。つまり、罪人である人間は自分の力で、自分の決意で、この闇から光へと入っていくことができない。光の子となることができないのです。
けれども、それでも神の御言葉は、あなたは「光の子」であると告げています。光の子として歩め。光の子らしく歩めと告げるのです。

今日パウロは手紙の中でこのように言っています。5章8節です。「5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
ここに、あなたがたは以前は闇でしたが、今は主に結ばれて光となっている。そう語られていました。以前は闇であったけれど、今は主に結ばれて光となっている。ここでは主に結ばれるという一回的な出来事、洗礼のことが意識されています。あなたは、主に結ばれて、つまりイエス・キリストの十字架の死と復活に結ばれる洗礼によって、以前は闇であったけれど、いまは光となっていると言うのです。光の子となるというのは、何かわたしたちの努力で得るものではないということがこの御言葉からも分かってきます。神の恵みとして与えられている十字架の救いに与る、それは洗礼によってということですけれど、与えられている神の恵みに自分自身をまったく委ねるその洗礼によって、暗闇の属する者が丸ごと光の中に移される。以前は闇であったけれど、光とされる。それが主に結ばれるということ、洗礼の恵みに与るということです。ですから、キリストに結ばれた者に、パウロは「光の子として歩みなさい」「光の子らしく歩みなさい」と、そう新しい生き方を薦めているのです。わたしたちが、光の子とされるのは、ただキリストの十字架に結ばれると言うこの一つのことにおいてのみ可能となります。キリストの十字架により頼む以外に、わたしたちはいかにしても光の子となることはできません。

 ですから、あなたが光の子とされるというのは、あなたの何か良い行いや信心深さによって手に入れるものではなくて、神の恵みによって洗礼の水が注がれたあの時に既に与えられている決して消えることのない恵みの事実なのです。神が、イエス・キリストの十字架でわたしたちの罪を担ってくださり、死んで下さった、その罪の赦しの御業によってのみ人間は光の子とされることができたのです。キリストの十字架のみが私たちを暗闇の力から解き放って、自由にし、光の子、神の子としたのです。それ以外に、あなたを光の子とするいかなる手段も方法もありません。つまり、先ほどから申し上げているように、神の恵みだけがあなたを光の子とし、神の子としてくださったのです。

使徒ペトロは手紙の中にこのように言っています。ペトロの手紙二2章9節です。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(2ペト2:9)」あなたがたを暗闇の中から、驚くべき光の中へと招き入れてくださった方がおられるということです。だから、あなたは、神のものとなった。神の民となった。神に選ばれ、祭司、聖なる国民とされていると、そう語っているのです。
 光の子として歩みなさい。それは、ご自身のいのちを十字架に差し出して、罪人の罪をすべてその身に負い、罪人の死ではなく罪人の救いを望んで下さった神に愛によって裏打ちされた御言葉なのです。驚くべき光の中に招きいれてくださる方がおられる。神の救いが差し出され、あなたは神の救いの中に入れられている。さぁ、光の子として歩みなさいと、そう御言葉は告げているのです。
 この暗闇に閉ざされたと思える現代にあって、輝く光の子として勇気を出して歩みなさい、わたしがあなたを光の子とした。あなたを照らす。だから、さぁ恐れる事なく光の子として、光の子らしく歩んでいきなさい。そう御言葉は語っているのです。

さて、今日開かれている5章6節から20節までの箇所には、闇と光が対応されているように、それ以外にもそのような形で語られているものがあります。
15節には、愚かな者ではなく、賢い者として歩めと薦められています。
16節には悪い時代とあって、その後半同じ16節に良い時代ではなくて、主の御心ということが言われていますけれど、それには良い時代が対比するのではなくて、悪い時代にあって神の御心が対比している。これも非常に慰めに満ちた神のみ言葉であると思います。悪い時代にあって、それに神の御心が対している。悪い時代にあって、それに対するのは良い時代ではなく、神の御心と言うこと、神の御心がなされるということが対しているということが語られているわけです。
前後しますが、6節の冒頭には、「むなしい言葉」という表現がありますけれど、これに対応するのが何かと言いますと、少し間を空けまして、18節から19節ですけれど、「霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」この御言葉が対応しているわけです。虚しい言葉が、光の子としてくださる神の恵みが語られることによって、最後には、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていくのです。
わたしたちの言葉が変えられていくのです。虚しい言葉。それは、その言葉の通り、人生を虚しくさせるような言葉でしょう。自分の人生に意味なんてない。どうせいいことなんてない。そういう非創造的な言葉がわたしたちの周囲には溢れています。パウロはそれを「実を結ばない暗闇の業」「口にするのも恥ずかしいこと」と言っています。
しかし、そういう現代にあって、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていく、そういう神の恵みが与えられているのです。これは、神の光の中に移された者の新しい生き方でもあります。
 闇が光に変えられていく。愚かな者が賢い者に変えられていく。虚しい言葉が神への讃美、いのちの喜びを歌う歌へと変えられていく。そういう神の恵みが与えられているのです。この闇から光へと移された者の神への讃美の歌が、又、いのちの喜びを語る言葉が、わたしたちだけでなく、この暗い世界に光をもたらす、闇に光を照らすものとして用いられていくのです。

■祈りましょう
神よ。
光の子として歩め。光の子らしく歩め。そうわたしたちに語りかけてくださり、わたしたちを暗闇から光へと、ご自身の御子のいのちによって移してくださったその恵みを深く感謝いたします。どうか、この暗い現代にあって、キリストの光の子とされた明るさ、喜びのうちに歩むことを得させてください。
イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン



「ラザロ」ヨハネ11章

2008-10-06 12:59:29 | 主日礼拝説教
■主イエスが愛されたラザロ
ある病人がいたと今日の福音書の御言葉は書き出しています。ある病人がいた。マリアとマルタは、その病人であるラザロを助けて頂きたいと、主イエスを呼びに、使いを送るわけです。
そして、3節でマリアとマルタは、主イエスのもとへ使いを送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言います。マリアとマルタは兄弟ラザロが病んでいるということを主イエスに告げるわけです。

ラザロがどういう人物なのか、このヨハネ福音書の11章は、はっきりと記していません。しかし3節で、福音書の御言葉は、ラザロとは「あなたの愛しておられる者」つまり主イエスの愛しておられる存在なんだということを告げています。それは続く5節においては、よりハッキリと、「11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と、主イエスがラザロを愛しておられた。ラザロだけでなく、マリア、マルタを愛しておられたとハッキリと示されているのです。マリアとマルタは、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言います。
しかし、私たちが思っている以上に、主イエスはラザロのことを愛しておられた。私たちが思っている以上に、主の愛はわたしたちに向けられていた。それは、いま病の床で、主イエスに助けを求めることも出来ない、また、やがて墓の中に葬られて、もう自分の力では主よと呼ぶことさえできない、そういうラザロ、主キリストの前にもはや何事もなすことができない、そういう者にさえ、主の愛は向けられていたのです。そういう愛が、このラザロの物語にしめされている神の愛なのです。
ラザロとはどういう人物であったのか、聖書は詳しく記していません。しかし聖書がはっきりと示していることがあります。ラザロとは誰か? それは主に愛されたものであるということです。ラザロとは、主イエスに愛された者である。聖書があえてそれ以上に述べていないのにはわけがあります。それは、あなたも主に愛されたものであるということを伝えたいからなのです。今日開かれているヨハネによる福音書の11章には、昔生きたある一人の人物ラザロの出来事ということにとどまりませんで、今、確かに主に愛されているあなたと主イエスとの出来事としてのラザロの復活の出来事がしるされているということを覚えておきたいのです。


■主イエスの愛とは
今日、わたしたちはラザロの死とよみがえりの出来事を、聖書の御言葉から聞いています。そこで御言葉は、先ほどから申し上げていますように、ラザロとは主イエスが愛しておられた、そういう存在だということを伝えていました。主イエスがラザロを愛された愛、ヨハネによる福音書が語る主イエスの愛、更には神の愛とは一体どのような愛なのでしようか。
ヨハネは、神の愛ということを非常に特別な意味を込めて語っています。ヨハネによる福音書3章16節には、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠のいのちを得るためである」と語られています。
ヨハネが語る神の愛とは何か、それは、罪人の死を望まれない、罪人の滅びる事を望まれず、ご自分の独り子を、つまり主イエスを十字架の上に死へと引き渡される。罪人の私たちが、自ら侵した罪と過ちの結果、その厳しい裁きを負って滅びるしかない、そういう中にあったときに、私たち一人ひとりの滅びることを神はお望みにならず、私たちの滅びることではなく、わたしたちの救われることをお望みになって、私たちの負うべき十字架を身代わりにご自身の御子イエス・キリストに負わせられたのです。ご自分の愛する御子を十字架に差し出してまでも、あなたを救いたいと願われ、あなたのいのちが滅びては、失われてはならないと、善人ではない、罪人のわたしたちを愛して下さった。そういう愛です。
 このヨハネ福音書の語る愛と言うのは、罪人に向けられた愛です。受ける相応しさが何も無い、そういう者に向けられた、神様からの一方的な恵みによる愛です。
 ヨハネの語る神の愛というのは、キリストの十字架に示された愛です。この十字架に示された愛というのは、罪の赦し、更には復活とも緊密に結び付けられた神の愛です。神の愛というのは、わたしたちをいのちへと結びつける愛、十字架の上に示された主イエスの愛は、わたしたちを永遠のいのちへと呼び出す、そういう愛であるということができるわけです。

どうしてラザロの復活の出来事を語るときに、福音書記者のヨハネは「主の愛しておられた者」とあえて語ったのか、それは、主の愛こそがわたしたちをいのちへと結びつける。主の愛こそがわたしたちを復活へと結びつけるものであるということを伝えたいからに違いありません。
神の愛というのは、わたしたち罪人のために、独り子を与え、御子イエス・キリストを十字架につけ、そこから復活へとわたしたちを結び付けていくのです。ラザロの出来事を通して御言葉がわたしたちに語りかけている神の愛と言うのは、死んだ者を生かそうとする神の愛です。死んだ者をいのちへと呼び出す愛、それが主イエス・キリストにおいて示された神の愛なのです。

■主イエスがラザロを愛された愛が、十字架と復活に結び付けられる

さて7節からの御言葉をご覧ください。
「11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」」すこし飛ばしまして、11節から。「11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」」
 
 ここで、主イエスは、ラザロを起こすためにユダヤに行こうと仰せになります。このラザロを起こしにユダヤに行くというのは、ある意味を含んでいます。8節で弟子たちが、「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言っていますように、主イエスがユダヤに行かれるということは、そこで石打ちにされるかもしれない。殺されるかもしれない。ラザロを生かすために、自らのいのちを犠牲にしなければならない。そういった意味を含んでいるわけです。主イエスはラザロを愛された。そしてユダヤへと来られるのです。それはラザロを起こすため、死んだ者をいのちに呼び出すために、ユダヤへと来られるのです。しかし、死んだ者をいのちへと呼び出すためには、そこに主イエスの犠牲が、十字架があるということでもあったわけです。

主イエスは、愛するものをよみがえらせるために、自らいのちを危険にさらすことも良しとされたのです。7節の「もう一度ユダヤに行こう」というのは、この先に起こる主イエスの受難、十字架ということを、はっきりと指し示しています。主イエスは、ご自分のいのちを差し出して、死んだ者をいのちへと呼び出してくださる。それが、愛する者のために命がけでなしてくださった、主イエスの業なのです。


■来る方
17節をご覧ください。「11:17 さてイエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」ここに「さてイエスが行って御覧になると」とありますけれど、これは「さてイエスが来てご覧になると」と言うほうが本来の意味に近いようです。主イエスが来られるということがここで語られているわけです。
「さて、イエスが来てご覧になると」というそういう書き出しであるわけです。主イエスは、わたしたちが苦しむとき、わたしたちのもとに来て下さる方であるということを御言葉は語っているのです。主イエスはどこまでも来られる方であって、わたしたちのもとを過ぎ去って、どこかに行ってしまう方ではないのです。主イエスは、苦しみ、涙を流す者の側を、通り過ぎる方ではないのです。そういう者のもとに来てくださるお方なのです。来て、わたしたちのもとに留まってくださるお方なのです。
 
一方19節を見ますと、多くのユダヤ人たちも来たということが記されています。11章19節です。「11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」とあります。
多くのユダヤ人たちが、死んでしまったラザロのことでマリアやマルタを慰めようと、訪ねて来てくれていたわけです。しかし、どんなに沢山の人が来てくれても、本当の慰め、死の悲しみの涙を拭うことは、そう簡単なことではないのです。人間は、愛するものを失ったときに、傍らにある人々がいてくれることでどんなに励まされ、勇気付けられるかわかりません。しかし、多くのユダヤ人たちがマリアやマルタのもとを訪れましたけれど、そこにマリアとマルタの本当の慰め、死の力からの解放というのは見出すことができなかったのです。

マリアやマルタの慰めというのは、どこにあるのでしょうか。だれが来て、愛する家族との別れに、苦しみ、止まることのない涙を、拭ってくれるというのでしょうか。どこに死の力をも超えさせる慰めがあるのでしょうか。それは、主キリストが来られるという事に他なりませんでした。主キリストが来られる。主キリストが来て、死んだラザロ、墓に葬られたラザロをいのちに呼び出してくださる。主キリストがこられる、悲しんでいるもの、涙を流すものの傍らに主キリストが来られる。ここに慰めがあるのです。
主キリストが来て、死んだラザロを、主が愛される者をいきかえらせてくださる。新しいいのちに呼び出してくださるのです。

ユダヤ人の多くの人々が、来ていました。しかし誰一人、本当の慰めを与えることはできませんでした。主キリストが来られる。ここに私たちは一つの確かで誰も決して私たちの手から奪うことの出来ない希望を与えられているのです。キリストが来られる。死んだ者のもとに、もう自分の力では主よと助けを呼び求めることも、なにも手立てが無い、そういう者のもとに主が来られるのです。わたしたちのもとに来られるキリストは、マリアとマルタを愛し、ラザロを愛してくださる主なのです。私たちはこの主の愛によって、氏からいのちに招かれ、死んだ者がいのちへと呼び出されていくのです。わたしたちのいのちは、神の愛によって、しかも独り子のいのちをも差し出すという神の愛によってしっかりと、神の国に結び付けられていくのです。

■命を与える主イエス
さて、先ほどの続きですけれど、25節以下にこのようにありました。
「11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」
ラザロの出来事の中でもおそらく最も有名な御言葉です。主イエスは、わたしが復活であり、いのちであると言われるのです。イエス・キリストが復活であり、命であるということが、イエス・キリストが主であるということの実体なのです。つまり、イエス・キリストとはどなたか? イエス・キリストとはいのちを与える方であるということなのです。イエス・キリストとは死んだ者を復活させる方であるということなのです。主イエスのおられるところに、復活といのちがある。なぜなら、主イエスがまさに復活でありいのちそのものであるからなのです。

■結
主イエスは、来られるのです。何のために来られるのでしょうか。それは、死んだ者を生かすため、わたしたちを永遠のいのちに生かすために来てくださるのです。誰のもとに来られるのでしょうか。主が愛しておられる者のもとに、主があいしておられる、あの人、この人、ほかならないあなたのもとに、復活でありいのちである、主イエスが来てくださるのです。
今日の聖書の箇所を読んで、もうお気づきでしょうか。ここにはラザロの言葉は出てこないのです。ラザロは何も語らないのです。それどころか、ラザロは墓の中に眠り、もう4日もたっている。それがラザロなのです。4日もたっているというのは、ユダヤでは、もう復活の希望がまったくないということ、生き返る望みがまったくないということ、完全に死んだということを現すわけです。ラザロは何も語らない。ラザロは完全に死んだ。もはや何事もなすことができない。ただ主イエスの愛に委ねるほかない者の姿を聖書は語っているのです。それでも、主イエスは、そういうラザロをお見捨てにはならなかったのです。ラザロを愛する主イエスは、墓に葬られてもう4日も経っている、そういうラザロのもとに来てくださり、ラザロを墓からいのちへと呼び出してくださるのです。
復活というのは、神の愛の業なのです。復活というのは、こちら側からの行為ではなくて、向こう側から、つまり神様の側からなされる神様の愛の業なのです。しかし、そこには、確かにしっかりと、復活の主キリストの手が差し出され、確かに私たちを死からいのちへと呼び出してくださる主が立っておられるのです。

■祈りましょう
すべてのいのちの源である神よ。
あなたは、ラザロを愛し、その愛によってはかに眠るラザロを、いのちへと呼び出してくださいました。どうか神よ、わたしたちの傍らに来て、わたしたちを死から命へと呼び出だしくださるあなたに信頼することを得させてください。
わたしたちの救い主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン


「花の日」・「こどもの日」 について

2008-06-05 22:59:05 | キリスト教講座
六月の第二日曜日は、「花の日」「こどもの日」という、2つの名前を持った主日です。

生い立ちからすると、「花の日」よりも「こどもの日」のほうが古く、1856年の6月第二日曜日に、マサチューセッツのチャールズ・レオナルドという牧師が、自らの牧するファースト・ユニバーサリスト・チャーチで児童が信仰に歩むようにと、両親が子供を神に捧げる主日として礼拝をはじめたのが最初です。この子供のための主日は、様々な教会でも試みがなされ、当時のアメリカの教会全域へと拡大していきました。
1868年にはアメリカメソジスト教会が六月第二主日を「こどもの日」として定めました。1883年には長老派や組合派の教会でも同様の決議がなされ、全米で覚えられることとなりました。
こういうアメリカの教会全体の流れの中で、次第に献児式や祝福を受けた子供に聖書やお花を贈る習慣が生まれてきたようです。1870年にはある教会で「シャロンのバラの主日」として礼拝が守られ、より今日の花の日に近いかたちの礼拝となりました。
次第に子供祝福の礼拝に花が持ち込まれることとなり、持ち寄った花を礼拝の後に病者やお世話になった人々に届けるという習慣が生まれてきました。
いずれにしても、子供の教育のためという要素は否めず、背後には19世紀アメリカの児童中心主義の色彩がある。
そもそもは子供を神に捧げる主日であったが、次第に様々な要素が組み合わされ、子供の教育的観点からもこの日は位置づけられることとなった。
このような経緯も含めて、典礼、礼拝学的に見ても、他の特定主日(復活祭、三位一体主日など)と同レベルで位置づけることはできない。現在は神学的に様々な意見が出されている主日でもある。その一方で改めてこの主日の持つ意味を考える必要もあるのではないだろうか。


*この花の日、こどもの日についての記事は、来る六月第二日曜日が花の日にあたるため掲載しました。花の日、こどもの日についての資料は極めて乏しく、国内の出版物などではあまりはっきりとしない。ここに取り扱ったものは、教会学校資料やアメリカの教会の出版物など、可能な限り調べてみた範囲での内容です。

子供説教「いなくなったひつじ」

2008-03-11 12:37:01 | 子供の説教
「小さい羊が家を離れ」という讃美歌を知っていますか? 今年も何度か礼拝で歌いました。僕はこの子供讃美歌が大好きです。どういう歌だったか覚えていますか?
こんなおはなしです。

小さい羊が家を離れて遊びにいった。すると綺麗なお花畑や、おもしろいことが沢山あって、あっという間に一日が過ぎて、気がつくと辺りは暗くなってしまっていた。一匹の小さな羊は、羊飼いのもとを離れて、迷子になってしまっていたのです。帰る道がわからなくなって、悲しそうに泣いています。優しい羊飼いさんの声が聞こえない。仲良しのお友達もいない。この小さな羊は悲しくて寂しくて鳴いているのです。
そのころ、一日の仕事を終えて羊飼いは、一匹二匹・・・と羊を数えながら羊を家につれて帰ります。すると、何度数えても一匹足りないのです。大変です。迷子になったと気づいたのです。あの小さな羊の一匹がいなくなってしまった。
羊飼いは暗くて寒い夜がもうすぐにやってくるという中を、杖を手に取り、用意をして、この一匹の羊を探しに野原に出て行くのです。羊飼いは必死で探します。「おぉーい!!」もう辺りは真っ暗です。
羊飼いのもとを離れて、迷子になった羊は暗闇が迫ってきて、怖くて、悲しくて、メェメェ泣いています。どんなに寂しかったでしょう。真っ暗な夜、お家に帰る道がわからなくなって、どこかわからない所でひとりぼっち。もし私たちがそうだったら、きっと怖くて、悲しくて、何も出来なくて、立ち尽くして泣いてしまうかもしれません。

優しい羊飼いさんは、必死で探します。お花畑も、楽しい広い野原も、お昼ご飯を食べた草っ原も・・・。でも迷子の羊はいません。羊飼いはおもいつきました。あの暗く深い谷に落ちたのかもしれない。岩だらけで、危険な誰も近寄らない谷があったのです。
羊飼いは一歩一歩その谷に降りていきます。大声で羊の名前を呼ぶのです。
すると、遠くから、小さな泣き声が聞こえてきました。メェメェ・・・。
優しい羊飼いは、すぐに気づきました。私の大切な小さな羊。あの羊の声に間違いない!!
羊飼いは大急ぎで迷子の羊のところにかけて行き、急いで腕に抱き上げました。
迷子の羊は優しい羊飼いに会えた喜びで、こころがホッとしました。嬉しくなったのです。
羊飼いはこの迷子の羊を大切に腕に抱いて、お家に連れて帰ってくれたのです。


皆さん。この羊は誰でしょうか? 
それは、みんなのことです。この羊に名前をつけるのなら、みんなの名前をつけてあげてください。花ちゃん羊さん。太郎君羊さん。みんなの名前を入れた羊さんです。
どうしてこの迷子の小さな羊が私のことなのでしょうか。

イエス様は教えて下さいました。
私たちは神様につくられた、神様のもとにいるはずの、神様の大切な子供たちです。
ところが、この迷子の羊のように、羊飼いである神様のもとを離れて、楽しい野原、綺麗なお花畑、自分の好き勝手な方向へ向っていって、神様のもとを離れて行ってしまった。良い羊飼いであるイエス様のもとを離れて、自分勝手に生きている。それが迷子の羊さんなんだよと仰います。
しかし、そういう迷子の羊さんをイエス様はお見捨てになりませんでした。迷子の羊さんである私たちを救うために、イエス様はこの世にこられたのです。

教会や教会の絵本などを見ると、よくイエス様が羊を抱いておられる絵があります。それは、この聖書のお話しを描いたものです。
有名な詩編にこのようにあります。
主はわたしの羊飼い。わたしには何もかけることがありません。

聖書は、イエス様はわたしたちを本当に大切に養い、育てて下さる羊飼いであるといいます。わたしたちはイエス様の羊です。良い羊飼いであるイエス様は、自分のいのちよりも、わたしたちを大切に思ってくださるのです。イエス様はわたしたちのためになら、自分のいのちさえ惜しくないと思われるほどに、わたしたちを大切に思ってくださるのです。
良い羊飼いであるイエス様は、迷子のわたしたちを探し出して下さいました。
イエス様のおそばで生きて生きたいと思うのです。

お祈りしましょう。            
よい羊飼いであるイエス様。
あなたがいつも、わたしたちのことを大切に思って下さる、良い羊飼いでいらっしゃることを感謝します。どうかイエス様のおそばに、いつも私たちをいさせて下さい。
イエス様のお名前によって、お祈り致します。アーメン

「受難節の歩み」

2008-02-07 23:58:17 | 主日以外の説教
「受難節の歩み ~十字架から復活の朝へ~」 

6日の水曜日は、「灰の水曜日」でした。この日から「受難節」(四旬節)がはじまりました。「受難節」とは、主イエス・キリストが十字架にかけられた聖金曜日、そして復活の主日(イースター)に向けての40日間の歩みです。
 古くから教会は復活祭の朝に洗礼式を行ってきました。この受難節は、いよいよ復活祭に洗礼を受ける者たちにとって最後の準備期間でした。受洗者が、キリストの復活にふさわしく与るための準備期間とも言えます。その意味では、既に洗礼を受けたすべてのキリスト者にとっても受難節は意味深い歩みなのです。自らの罪を悔い改め、罪の自分を十字架につけると共に、キリストの復活に共に与らせて頂くのです。
 騒がしい日常にあって私たちは、気がついたら受難週を迎え、イースターを迎えていたという事もしばしばです。しかしそういう日常にあるからこそ、一日にひとときでも十字架にすべてを差し出して、私たちを探し求めておられる主イエスの前に心を静めて祈る。主イエスの方へと丸ごと自分を向けてみる。そうして受難節の歩みを歩んでいきたいのです。
 受難節の開始にあたって朗読される福音書はマタイ4章1節以下です。主イエスが荒野で試みられた出来事が記されています。荒野とは人間の生きることの限界を示す場所です。そこでパンにすがるのか、パンを与えて下さる神にすがるのか、そのことが問われているのです。主イエスは「わたしはいのちのパンである」(ヨハネ6章)と仰せになりました。私たちは聖餐の度に、十字架に裂かれた主イエスのからだに与ります。小さなパンですが、これこそ私たちのいのちの糧なのです。私たちを真に生かし、天への旅路を導くのはこのいのちのパン、主イエスご自身なのです。私たちは、見えるパンがあるからではなく、このいのちのパンであるお方にすがるからこそ、平安のうちに地上の旅路を歩むことができるのです。




説教「忍耐される神」Ⅱペト3:8-18

2008-01-19 16:46:10 | 主日以外の説教
ペトロの手紙Ⅱ.3章8節~18節 讃美歌 242. 170.

先ほど讃美いたしました、讃美歌242番にはこのようにありました。
「悩む者よ、我に来よと、恵みの主は招きたもう。光の主、救いの主は招きたもう。主のみもとに来たり憩え。」
私たちを招いて下さる主がおられるという讃美を歌ったのです。
今日開かれています神のみ言葉は、9節に、主は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」とありました。一人も滅びることなく、救いに与ることができるようにと、忍耐し待ちたもう神がおられるというのです。

しかし、わたしたちを忍耐し、待ちたもう神がおられるということは、残念なことではありますけれど、神とかけ離れたところに、わたしたちがいるということでもあります。聖書は、それが人間の罪の姿であるといいます。

聖書が語る人間の姿。聖書が語る人間の罪とは一体なんでしょうか。
それは、いなくなった一匹の羊のように、飼い主のもとを離れ、好き勝手な方向へと出てゆき、もはや帰る路すらわからなくなってさ迷っている、そういう迷える羊のような存在。また、神の前に罪を犯した人間は、失われた一枚の銀貨のように、持ち主のもとから失われ、自分で自分の持ち主を見出す力などとうていない、助けの声すらあげることができない、そういう存在であると聖書は語ります。
それに続く放蕩息子の譬も、父に背をむけて父のもとを去り、放蕩三昧する弟息子の姿を語ります。人間というのは、飼い主、持ち主、父である神のもとを離れて、好き勝手な方向へと向かっている。聖書が言う人間の罪の姿とは、神に背を向け、好き勝手な方向へと歩む、そしてもはや自分ではどうすることもできない絶望の中に叩き落されたかのようになっている。望みを見出すことができなくなっている。そういう存在であるといいます。ここに共通しているのは、神のもとを離れた存在であるということです。
そのような、神の前から失われてしまった所で、もはや先に進むことも、立ち上がることすらも出来ない私たちを、神はお見捨てにならなかったのです。
わたしたちを救うために独り子イエス・キリストを、この世にお遣わしになりました。そして、失われたものを必死で探し出して下さったのです。

神がわたしたちを招いておられるというのは、神が長く忍耐し、私たちの悔い改めを待っておられるというのは、あなたを誰にも変えられない尊い一人として、何をもってしても穴埋めすることのできない尊い一人として、あなたのいのちを肯定しておられるからに違いありません。あなたのいのちが失われてはならない。いのちがけであなたのいのちを肯定しておられる神の招き、それが語られているのであります。

神がわたしたちを長く忍耐し、悔い改めを待っておられるとは、言い換えますならば、確かにあなたの罪を赦し、あなたを救う方がおられるということでもあります。
そういう罪を赦す方、救い主である方が、わたしたちを待っておられるのです。ですから、わたしたちは絶望するのではなく、真心から悔い改めることができるのであり、罪を背負ってなお、苦しみ、痛みを背負ってなお、ゆるしと憐れみに豊かな父である神の前に出て行くことができるのです。
神の招きに応えて、いとながく待っておられる神のみ前に進んで行きたいのです。

救い主である神は、私たちの救いを完成するため、再び来られる。キリストの再臨を、今日のみ言葉は語っています。教会は、2000年前に十字架にかかり救いのみ業をなして下さった主イエスが、約束の通り、再びわたしたちを迎えに来て下さることを信じ告白して歩んできました。
しかし、主の再臨は今日も主の民に待ち望まれているのです。今日の聖書のみ言葉が記された時代にも、主はいつ来られるのか、いつまで私たちは待つのかといった、再臨がなかなか来ないということについての思いが教会の中にあったのです。
しかし、ペトロは、いやそうではないんだ。再臨がいまだないということは、一人も滅びることのないように、神が人間の悔い改めを待ってくださっている。そういう恵みの時なのだというのです。だから、真心から悔い改めて、神に帰ろうと語るのです。

この神は、ただ時が過ぎるのを黙って待っておられるのではありません。人間の罪はあまりに重く、わたしたちの負う重荷もまた、あまりに重くあります。もはや自分でそれを到底負い切れない、生きることの限界すら覚える人間を救うために、時至って独り子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に私たちの贖いとし、いまなお聖霊によって救いのみ業をわたしたちの内に確かになしたもうお方なのです。

神は、わたしたちの救いのための一切をなして下さいました。そのようにして、神はわたしたちを待っておられるのです。悔い改めるとは、背中を向けていた神の方へと、丸ごと自分を向けること。いのちの源である神のほうへと、丸ごと方向転換することであります。
その時はじめて、わたしたちは本当にいのちの喜びに溢れて生きる事ができるのです。そのように神が招いておられるのです。

その主は、やがてわたしたちを迎えに再び来られると聖書は語ります。神は、なんと言う慰めに満ちた御言葉を私たちに語っておられるのでしょうか。

私たちは荒涼とした世界に生きています。命が失われ、生きる気力が奪われたかのような現代にあって、皆それぞれに、必死で生きているのが現実ではないでしょうか。
しかし、そういう現実にあって、命を与えようと待っておられる神がおられる。一人も滅びることのなく、生きるようにと招いておられる神がおられる。教会は、その福音。神の救いを語っているのです。私たちの悔い改めを忍耐し、私たちの帰りを待っておられる、主のみもとへと、共に進んで参りましょう。

■祈りましょう。
 いのちの源である神よ。
 あなたは造られたものの、一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、長く忍耐しておられると聞きました。どうか、わたしたちが、招きたもう主に応えて、あなたのみ前に出てゆくことができますように。
 慈しみ深い神よ、わたしたちの愛する人々、ことに、生きる事に困難を覚える者、病の床にあってこころ沈める者、愛するものを失った悲しみの中にある者に、側近く居てください。また、様々な痛みや悲しみの中で、希望を失おうとしている人々に目をとめて下さい。
 どうか慈愛のみ手を伸べて、この世の現実の中から、主を仰ぎ見る力を与え、
その悩み、苦しみ、すべてが相働いて益となるように導いて下さい。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせて下さるように。
私たちの主、イエス・キリストによってお捧げ致します。 アーメン

説教「永遠の福音」黙14:6-7

2008-01-15 18:20:31 | 主日以外の説教
「永遠の福音」

ヨハネの黙示録14章6節には、天使は地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、『永遠の福音』を携えて来たとあります。そして大声で告げるのです。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。」神からの声は黙していないのです。神の使いの声『永遠の福音』は、くまなく全世界に響き渡るのです。
その福音の内容とは何でしょうか。御言葉は「神の裁きの時が来たからである」と言います。福音は一方で裁きのメッセージでもあります。何が裁かれるのでしょうか。
当時の教会は激しい迫害の中にありました。神の民は苦しんでいるのです。ローマ皇帝は、皇帝をこそ礼拝しろと強要するのです。皇帝こそ礼拝されるべきであるというのです。そしてこの皇帝礼拝を拒んだキリスト者たちを激しく迫害したのです。神の裁きとは、心から神を礼拝するキリスト者たち、苦しんでいるキリスト者たちをただしく裁いて下さる裁きなのです。神の裁きとは、非常に恐ろしく思われるかもしれません。しかし、この裁き主は、私たちのために命をも差し出して下さった救い主でもあるのです。
 キリストの裁きとは、私たちをビクビク脅えさせて、神に従わせようとするものではありません。神は義しい裁きを行って、私たちを脅かす闇の力、悪の力から、私たちを全く解き放って下さるのです。ですから裁きは私たちの福音となるのです。それと同時に、私たちの生き方が問われているのです。
 天使のみ告げは、更にこのように続きます。「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」皇帝ではない、つまりこの世のものではなく、創造主であり、真の神である方をこそ礼拝するようにと招いているのです。すべての造られたものが、神への礼拝へと招かれているのです。