新令和日本史編纂所

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日本史解説 ラッパ、スッパ こがもん、いがもん ほら貝縁起

2021-11-23 10:21:29 | 新日本意外史 古代から現代まで


   日本史解説

ラッパ、スッパ こがもん、いがもん

 ほら貝縁起

 
(注)現代では彼らを忍者として、当て字で「乱波」「素破」と書くが間違いである。
 戦国乱世のころ、なんといっても山野をかけめぐって先陣を勤めたのは、このラッパとスッパなのである。
 さて、いまでも、サキソフォンや、トランペット、テナーサックスのような吹奏楽器のことを、どれもこれもバンドの連中は、ラッパとよんでいる。
 しかし真ちゅうの軍隊ラッパも、なかなか音をだすのに苦労したらしいが、その時代のラッパときたら何も、その目的にあわせて作ったものではなくて、ホラ貝のカラだった。
つまり他の生物の移動家屋を、勝手に人間が中の家主を追いだして、ラッパにしてしまったものだから、これまた大変だった。


 なにしろ大陸沿岸でとれる海のものが、日本列鳥の山で使われるのは、おかしな気もするが、法螺貝をラッパにつかいだしたのは、仏教伝来の時からで、鞍馬羽黒三山の山伏だそうである。
勿論、彼ら出身は、山ブセとは云わず、山ブシといっていた。これは今の時代、チョウリ士とか、ソクリョウ士とか、みな士をつけて「士業」と呼び、サムライに憬れるのと同しかもしれない。
だが、野武士と違って山武士は、盗みをしないことと云ったような、信仰に結ばれるという特殊な条件があったらしい。
が勿論、武士と名がつくからには、山の合戦には、彼らはすぐ加わって、「ブオーブオーブオー」と高らかに貝を吹いた。


 すると向うの山、こっちの谷から音がはね返ってきて、いまの時代のステレオみたいなコダマの音響効果をあげたと想える。
 それに「カッコがいい」ということは、どんな時代でももてるものらしい。とはいえ、山武士は護法の仏徙側につく僧兵で宗教団体だから、うっかり頼むと大変である。
 子供のゲンコぐらいの珠数玉を、ぐるぐるまわして、入信しなさいとシャクフクしにきたり、お守札を押しつけ、
時々は、「おどま勧進、勧進」といって、寄附金募集にくる。あれやこれやと、そこまで計算すると、音をだすだけに、なかなか経費がかかる。といって、それで音をあげていては、
これは戦をする上に士気に影響し、音のでぬ故障したテレビのように味気ない。
 
だから鳴物として、当時のしまつやの名将は、寺のボン鐘をもちだして代用品にした。三州岡崎城には、吝で有名な徳川家康が掻払ってきた吊鐘が、ずらりと今でも現物が飾ってある。
 つまり誰でも叩けば音がでる、もっと手頃なのは陣鉦と打太鼓だから家康などは、おおいにこれを用いたらしい。
 だが、こういう打楽器は、音響のサイクル周波数が狭いから、味方のカケヒキには使えるが、敵を威圧する程のステレオ式の音響効果はない。なにしろ、
 「ホラを吹く」という言葉があるくらいで、ホラ貝を鳴らすと、味方の人数が、敵には何倍にも多く印象づけられるから、これは心理作戦上まことに当時としては対敵用には重要な武器であったらしい。しかし、
 「フグは喰いたし、命は惜しし……なにぶん山武士どもを用いては、戦費が割高になる」と武将たちが頭をひねっているうちに、
「山武士ばかりが、やまものじゃない。山には、ヤマガツと呼ばれ山者がいる」と気づいた。


 ためしに、そうした山者を里へ連れてこさせて、ホラ貝を吹かせてみると、不器用なのは別だが、アジスアベバのアベベ選手ではないが山地居住民族というのは肺活量が大きいから、ホラ貝なんかさっさと吹きならしてしまう。
それにラッパ卒としては、比較にならぬ位給料もきわめて安い。経済的である。
 というのは、この連中は人買いが、一人でいくらと買ってくるので、奴隷みたいなもので一生の買切り制だったせいもある。
 実戦につかってみると、明治大正の修身の教科書にのった、日清戦争の木口小平の大先葷みたいに、矢に射たれても、石で叩かれても、「カレハ、シンデモ、クチカラ、ラッパヲハナシマセンデシタ」式にファイトがある。
といって、これは乱波がまじめだったというのよりも、この当時はホラ貝一個の方が、人間の乱波一人より高かったという貨幣価値の対差もあったろう。


 さて源平時代までは、頭巾ハットを、ちょこんと頭の上にのっけた修験者たちのラッパだったが、なみの山者でも吹けるとなると、今日のエレキみたいに、ホラ貝の需要が多くなった。
 だが、あんな大きなのは、日本近海では獲れぬ他国産である。


何処からかといえば当時のホラ貝全部これは明国から入ってきていた。もちろん貝ガラのままである。この尖端に孔をあけて吹奏口をつけ、携帯用バンドをつけていた所が、
忠臣蔵で名高い吉良上野介の先祖、三州吉良さまの領地浜松の庄だった。ここで明国の貝はきれいに天竜川の水で洗われ、山の葉で包まれ、日本楽器として生産され、
そして川の舟便で信州甲府方面へ。海上からは、弁天島の今切の渡しから、瀬戸内海方面へもへ販売されていた。
 しかし、明国からのホラ貝が、あまり一度に出まわると値下りをするから、西国では島の岩窟へ隠匿して、供給のバランスを計った。
現在のガソリン高騰を尻目に、産油国が増産しない構図と一緒である。
 
そこで、そういう穴を今でもホラ貝の孔から転じて「ホラアナ」というようになっている。さてその後、応仁の乱の時は需要が多すぎて、能島、来島の海賊衆が、貝の隠してあるアナバを探してあるき、
大穴をあてては儲けて、それで、大をなしたそうである。今も「競馬で大穴を当てた」などと使われる。
だからこの話はホラではない。「能島水軍伝書」に書かれている話である。


 さて毛利元就が強くなったのも、この能島水軍の大将河野通有の養女を後妻に迎え、のち村上武吉の伯父の乃美宗勝などを重く用い、そのホラ貝を借りたからである。
だから当時、こういう「貝ルート」をもってる武将を、「カイしょうがある殿」とよんでいた。
現代でもこの言葉は残っていて「うちの夫はかいしょうがない」とか「努力したかいがなかった」と多く使われている。


 なにしろ、その頃の兵制は、五人で一組になっていたが、十組に貝一つというのが、最高の装備だったらしく、そのホラ貝の割りあてがないと、戦にまけた武者衆は、責任転嫁に、
 「カイなければ」とか、「カイもなし」と堂々と、自己弁護をしてたそうである。だから、この縁起をかついで、鼠を沢山とらせる武運長久を祈って、アワビ貝ガラで、ネコには昔し餌をやったものだそうだ。
近頃の猫はネズミも獲らずゴロゴロしているだけの愛玩動物になったので、プラスチックの食器で合成食で済まされている。
 さて世の中が戦国時代に入ると、カイしょうのある武将は、吹奏者、つまり、ラッパ吹きをあつめ、専属バンドを編成するようになった。
 尼子の出雲ラッパ。武田の甲斐ラッパ。北条ラッパの方が、解明する史料もあるのだが、なにしろ後世になると、甲賀ラッパや伊賀ラッパの方が有名になってしまった。


だがこの頃は、マンガ本やテレビもなかったし、「忍びの者」をでっち上げた村山知義も生れなかったから、伊賀ラッパなんか、全く見とめられていなかった。忍術など話としては面白いが、あれは出鱈目で嘘八百のシロモノなので、現実はキビシイものである。


 臆病というか、警戒心が強いのか、彼らは、いつも山栗のいがを懐中にしていて、すぐそれをまく癖があった。十一世紀の康平年間、藤原の兼頼が、彼らの撒布した栗のいがで足の裏をいため、
化膿して苦しみ死んでからというもの、「イガをまくから、あいつらはイガモンだ」と世人にきらわれ、コウガの者のほうが、後年になっても、足利将軍家に用いられ、俗に甲賀ラッパ五十三家といい、
その首領として室町御所へ奉公していた和田氏の城跡も、現在、滋賀県甲賀郡油日村に残っている。コウガとは現在のくこ、からたちの古語である。
 現在でも日本には鉄の産出がすくなく殆どが輸入である。テレビや小説みたいに忍者が「まきびし」という鉄をまくのは嘘であって、菱の実や栗のイガ、からたちの殼をまいたのである。


甲斐の武田信玄が「四っ目菱」を家紋にしたのも、意味がある。
(当時甲斐の野山には沼が多く、固い棘で覆われているが、たぎった熱湯に素早く入れて、荒莚に並べ、外穀を平べったくするよう切れ目を入れ、中の果肉を取り出すと栄養価のある戦場食にもなる。
なにしろ昭和の戦前までは露店で、子供の菓子代わりに売っていた位だからすこぶる美味しい。現在忍者が鉄資源のないこの国なのに、大量に鉄製の「撒きビシ」なるものを投げる場面があるが、あれは与太話で、
実際は差別され、隠れ住んでいた日本原住民がその囲い地から脱出する際、追っ手をまくのに撒き散らしたものが、菱の殻なのである。
だから忍者とは、迫害に隠れ耐え忍ぶ者という意味。黒装束で屋根から屋根へ飛び跳ねる者などは、これ講談や劇画の話で実際は居なかった。)


後、信玄は本願寺門跡の妹を妻に貰い、仏教勢力とも手を握って、権大僧正の位も貰い、その説教僧を近隣諸国に派遣し「甲斐のごんそじょ鬼より怖い、どどっと来たって人を斬る」と大いに宣伝し恐怖を与えた。
この唄が江戸時代になると、やくざの武井村のども安が人斬りとして怖れられたので「武井のども安鬼より怖い、どどっとどもれば人を斬る」と転化された。
 とは云え、せめてもう五百年早く今の「忍者ブーム」が、まき起っていたら、彼らのコマーシャルになって、良かったんだろうが、〈運〉とか〈ラッキー〉は、いつも後手にまわって遅れてくるものであるから、仕様がない。

この甲賀の「山がつ部族」から大名になったのは信長に仕えた滝川左近将監一益が居る。
 彼ら山がつのラッパ衆は戦となればいつも先陣の真っ先で奉公した。
だから信長に目をかけられ天正九年には、上野と信濃半国を賜り、信州小諸城主となった。
彼は信長に忠義を尽くし、信長が本能寺で爆殺された後も秀吉と戦い、一益の養子・滝川義太夫が僅か五百の兵で伊勢峰城を守り、
秀吉二万の大軍を食い止めたのは有名な話でこれは「甲賀軍代記」に出ている。
  滝川一益の詳細は私のアメーバブログの以下に在ります。


   https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12646463072.html