新令和日本史編纂所

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源実朝と金槐集の考察 頼朝の子として生まれながら、悲しくも哀れな生涯の実朝

2021-11-18 11:53:22 | 新日本意外史 古代から現代まで
源実朝と金槐集の考察   
頼朝の子として生まれながら、悲しくも哀れな生涯の実朝

現在ウイキペディア等ではこの歌集は次のように解説されている。
『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)は、鎌倉時代前期の源実朝の家集(歌集)。略称で『金槐集』とも呼ばれる。
成立は藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られた建暦3年(1213年)12月18日頃とする説が有力。全一巻、663首(貞亨本では719首)掲載されている。『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、別名鎌倉右大臣家集といわれている。但し、実朝の大納言(亜槐)や大臣(内大臣、右大臣)叙任は建保6年1218年である。
昭和4年(1929年)に佐佐木信綱によって発見された定家所伝本と、貞享4年(1687年)に版行された貞享本の2系統が伝えられている。前者は自撰・他撰(定家による撰)両説あるが未詳。後者も、奥書に「柳営亜槐」による改編とあるが、「柳営亜槐(征夷大将軍と大納言)」が誰であるかは諸説ある。江戸時代の国学者賀茂真淵に称賛されて以来『万葉調』の歌人ということになっている源実朝の家集であるが、実際は万葉調の歌は少ない。所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。
しかしこの解説では、実朝がどんな状況で何故にこんな寂しい歌を、こんなにも沢山詠まなければならなかったのかには触れていない。

以下に実朝の歌の幾つかを抜粋したが、読んで判るようにいずれの歌も詠歎調で寂しげで、無常観が読み取れる。
それはまるで、ロドリーゴの奏でるアランフェス協奏曲のような、哀調を帯びた十弦ギターの音色が想起される。

◎神風や朝日の宮の宮遷 かげのどかなる世にこそ有りけれ
◎み熊野の梛の葉しだり雪降らば 神のかけたる四手にぞ有らし 
◎いそのかみふるき都は神さびて たたかにしあらや人も通わぬ
◎塔をくみ堂をつくるも人なげき 懺悔にまさる功徳やはある 
◎世の中は鏡にうつる影にあれ あるにもあらずなきにもあらず
◎神といひ佛といふも世中の ひとのこころのほかのものかは
◎黒木もて君が作れる宿なれば 萬世ふともふりずも有りなむ
◎山はさけ海はあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめらも
◎大海の磯もとどろに寄する波 われて砕けて裂けて散るかも 
◎みちのくにこににやいづく鹽釜の浦とはなしに煙立つ見ゆ 
◎いとほしやや見るに涙もとどまらず 親なき子の母を尋ぬる

実朝は源頼朝の次男に生まれている。嫡男は頼家で、長女が大姫、次女は三幡となっている。
嫡男の頼家には公暁と、一幡の二男が居た。

    父頼朝の怪死

時は正治元年(1199年)。当時千幡と呼ばれていた八歳の実朝の元に、「落馬して頭を強く打った」と父の頼朝の死体が運ばれてきた。
だが、その後にすぐ、誰かが待ち伏せして木の枝から飛び掛かって、切り石の角で滅多打ちをして撲殺したのけたのが死因との風評がすぐに広まった。
そしてすぐさま、梶原景時の郎党を捕まえた政子が、頼朝を襲ったのは梶原の家人の仕業だと発表した。
だから、その年の暮れになると、梶原の武者が六浦の赤松林に忍んでいたのを見たという証人や、密かに逃げ出していくのを目にしたと、訴える目撃者まで捕らえられた。

そこまで生き証人が揃っては、この時十八歳だった兄頼家は激怒してしまった。
それゆえ、屋島や壇ノ浦合戦に大功のあった梶原源太景時だったが、「所領召し上げ追放」の沙汰を十二月十八日に布令した。
驚いた梶原が「いわれなき濡れ衣でござる」と、家人を伴って鎌倉へ向かっているとの知らせが伝わると、
「梶原の郎党一人ずつの面体もよく知る三浦義村に討手を命じよ」と政子は頼家に代わって指図し、駿河の清見潟で、景時以下郎党の末に到まで一人残らず殺させてしまった。
この時実朝九歳の冬であった。

政子や北条一門の首脳たちは、頼朝の死後、順序から言えば次の将軍は実朝の兄である頼家だが、跡目にしたくなかったのだろう。
だからずっとほおっておかれた。しかし侍所別当和田義盛を初め、よってたかって皆が何度も進言したので、ついに健仁二年七月二十三日、ようやく二十一歳になった兄頼家が、
征夷大将軍になることが出来た。(これは日本史にも記されている)
こうした政子や北条一族の恐怖政治を目の当たりにした実朝としては、恐ろしい相手だと、政子に睨まれては命とりだと、毎日がまるで薄氷を踏む心地だった。
翌年健仁三年八月二十三日、「将軍となりたるが頼家は病弱の身、よって関東二十八か国の地頭取締の総守護は、頼家の子一幡、関西三十八か国は頼家の弟千幡にまかす」
といった発令が政所から出された。実朝はこれで当分殺されずにすもうとほっとした。
ところがである。(もはやこうなっては早晩、父頼朝の如く吾身も横死させられるは必定)と兄頼家は比企の手勢を頼みにして政所を攻めようとした。
だが、予期していたのか政子によって九月二日の夜、逆に軍議中の頼家の館は包囲され、火をかけられ、幼い一幡までもが焼死した。
そして五日後、実朝は政所へ呼び出され、政子よりいきなり兄に代わって将軍になるよう命じられた。

将軍になった実朝だが、全くの御飾りで権限もないから、毎日なすこともなく無聊をかこっていた。
この時期に政子から押し付けられた結婚相手が足利義兼の娘だった。しかし精一杯の政子に対する反抗で、足利の娘を拒み、坊門大納言信清の息女をを迎えた。
他の事ならこんな勝手は絶対に許さぬ政子だが、初めて言い分を許してくれた、これが最初にして、それも最後でもあったのた。

「あの海原の向こうに契丹国(宋)があるのか?」今は東大寺の仏像工として、鎌倉に来ている契丹の国人で、陳和卿に実朝は聞いた。
何時政子に殺されるかも判らぬ現実を脱出したいがため、実朝は聞いたのである。
そして大海を渡れる船の建造をするため、船造りもできる陳に設計させ、大江広元に造船工事を四か月かけてさせた。
由比ガ浜に宋船もどきの大船が出来上がった。だがこれが政子に知れて、進水差し止めの命令が来た。
いつ政子の命令で殺されるかも判らぬ鎌倉にいるより、実朝にしてみれば、契丹でも天竺でも何処でもいいから脱出したかったのである。

    北条焚書

承元二年正月二十六日。政所の廓内を避け、武者大路の端に設けてあった問注所が、政子の命令で火をかけられ、これまでの公事記録の入っていた土倉までが灰にされた。
頼朝の頃からの文書も全てが焼け灰となってしまった。(これを日本史では北条焚書という)

この後、政子とその母である牧御前が溺愛していた娘婿の平賀朝雄を、熊野浦から伊勢伊賀へ逃げ込んでいた敵側の残党を討伐した手柄で「将軍に換えよう」と、
夫の北条時政と画策した。しかし源氏の武者たちがまだまだ鎌倉に多かったため、時期尚早とみたか、政子と意見が合わず、父の時政は執権職をその子の義時に譲って引退した。
が、その代わり実朝が己が猶子にし跡目にした頼家の子の善哉を、
「鶴岡八幡宮の別当尊暁が承元三年に亡くなられてより、空位のままゆえ・・・・」と政子はさっさと命令して、公暁と改名させて鶴岡の別当にしてしまった。
時に実朝は二十歳に成人していた。そして実朝が幼児より頼りにしていた和田義盛の倅の義直、義重、胤長らが、いきなり謀叛容疑で捕らわれたり、殺されたり陸奥へ流されてしまった。
実朝にすれば、「さながら二階堂の大きな柿の木の実が一つずつ、もげ落ちるような有様じゃな」と心細かったろう。
だから、実朝は京の権中納言藤原定家(新古今和歌集の作者)と歌のやり取りをして、心細さを紛らわしていたのである。

今日、『金槐集』として残っている実朝の歌集は、渡宋に失敗した後の実朝自身の挫折した心の痛みなのである。
北条政子が、天照女神のお告げであると、甥の泰時に三十万余の軍勢を授けて京を討ち、天皇や上皇を隠岐の島や佐渡島に流罪にしてのけた、承久の役が、すでに数年後に迫っていた。
だからこの慌ただしい雲行きに京の朝廷では憂慮され、「何卒よしなに・・・・」との後鳥羽上皇よりの密書が、藤原定家卿の歌の添削の束に収まって届けられてきたのもこの時である。
(当てにして頂いても、将軍職といえ名ばかりの私めの立場でございまする・・・・・)と実朝は侘しくなりはしたが、それでも、
「山はさけ海はあせなん世なりとも、君にふた心われあらめやも」
といった三首を、定家を通じて上皇へ献じた。が、これがまずかった。
「歌作りなどに精を出しているいるゆえ、無難と思って放っておいたが、これから成敗せねばならぬ京方と通じ合っていては許せぬ」
実朝の側近につけてあった次女からの知らせを聞くなり、政子は直ちに鶴岡八幡の別当公暁をを呼び寄せた。

「今までいわずもがなと黙っていたが、そちの父の頼家や兄の一幡を殺させたのは、自分が取って代りたいため実朝めの野心のなせる業。よってそのほうの身も危ないと思えばこそ、
実朝の猶子より安全な鎌倉八幡宮の別当職につけたのである。」
まことしやかに政子にたきつけられると、まだ十九歳になったばかりの公暁はすっかり本気にしてしまった。
承久元年正月二十七日。
八幡宮の石段の銀杏の樹陰に身を潜めていた公暁は、体当たりで参拝に来た実朝めがけて飛び掛かり、力任せに一突きした。
こうして政子は源氏の血を根絶やしにし、頼朝の妹の孫にあたる九条家へ嫁していた倫子の二歳になる頼経を次の将軍にし、鎌倉へ迎えた。

すぐに北条一族の者に将軍職を渡してしまっては、まだ早きにすぎるととの深謀遠慮であったらしい。
そして有名無実の赤子の将軍頼経の後見役に、気に入りの兄の北条義時をたてて、政子は執権職になったのである。
こうしてこれ以後、北条九代の政権が続くのである。