新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

  日本花魁考 「縁は異なもの味なもの」 江戸の川柳に見る歴史の真実

2021-11-27 10:29:26 | 新日本意外史 古代から現代まで

    日本花魁考


  「縁は異なもの味なもの」

 江戸の川柳に見る歴史の真実

 
現代ではこの言葉は何気なく口にされている。 意味としては、

男女の縁はどこでどう結ばれるかわからず、非常に不思議でおもしろいものだということ。
理屈では説明できない縁があるという意。
多く思いもよらない二人が結ばれるようなときに使う。
「縁」とは、人の力を超えたところで、人と人を結びつける力の意。 単に「縁は異なもの」ともいう。

 こういう説明になっており歴史辞典なども同じである。 だがもともとの意味は違って、今言う「放送禁止用語」なのである。
というのは、これは元来、廓言葉から来ている。廓(くるわ)と謂っても若い人は判らないだろうが、江戸時代の幕府公認の売春場所なのである。
因みに現代の日本は「売春禁止法」により売春は禁止されている。が、これは表向きで、管理売春と未成年者の売春が眼目で、実態はざる法である。
その証拠に、大きな都市にはソープがあり、3万円も出せば堂々と本番ができる。
さらに、電話一本でデリヘルはホテルでも自宅にでも来てくれて、これも本番OK。
また、不倫サイトでは人妻から60代の婆さんまで、援助名目で3万円と手軽にできて盛況を博している。
ヨーロッパやアメリカでも売春は盛んで、一大産業にさえなっているのが現状である。
現代でもアムステルダムの「飾り窓の女」は有名だが、見聞記を記しておく。


オランダのアムステルダムには、映画でもお馴染みの「飾り窓」がある。
勿論映画はセットだから綺麗に見えたが、実物は古い石造りの家の通路に面した所へ硝子窓をくっつけただけの物が多い。
そして、それが一区画ずつ飛び飛びに繋がっている。水路と言っても五米幅の運河並のが、
その間にここからアムスの町を流れ、また二町おき位に横に細い水路が水を岸すれすれに満たしている。
初めて其処へ行った時、「こりゃあ日本の遊郭だ」と想った。

ただ違うところは、お歯黒溝(どぶ)がいつもすえたように臭かったのに、このアムスは海面より土地が低いせいで
水が速く流れるから、まるで澱んだ臭いがしないだけである。昔日本に遊里の在った頃、決まって入り口に交番があって、
うろん臭そうな眼で人相の悪いお巡りが立っていたものだが、この飾り窓のある一画の入り口にも、
「スコットランド・ヤード」と英国と同名のもののセカンドオフィス、つまり第二分署の建物がある。

そしてレストランみたいなガラスばりになっていて、十五、六人のポリスの勤務状態が、
彼らに給料を払っている納税者の市民から丸見えになっている。さぼって煙草ばかりくゆらしているのでも居ようものなら、
通行人がガラス戸を叩く。すると中からヤアと手を振って、ポリスは何の帳簿か判らないが、真面目くさってそれを拡げたりする。
日本みたいに官僚主義を発揮して、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とは脅さない。
さて第二分署の二階はジム・クラブになっている。警官達の武道練習所かと思ったら、
ここは別個の民間経営で、西部劇の補助シェリフみたいに第二分署で人手が足らない時などは、
日当で応援することもあるという。ここのジムに昔私と知り合いだったキムと呼ぶコリアが居て、マネージャーをしている。
だから私はアムスへ行くと決まってここへよく寄る。

するとキムも歓んで迎えてくれるが、もっと歓迎してくれるのは階下のポリス達である。
何しろ日本国内にそうした施設が無くなってからというもの、日本男子は台湾の北投へ往復十万円の飛行機代を払って
一晩五千円のクーニャンを買いに行くし、和蘭へ彼らが来るのも、観光用に市内に保存されている風車を見るためでもなく、
またダイヤを求める為でもない。男性自身をスパークさせるために来るのが多い。

随行員を十名あまりも引き連れ、溝川の鉄柵の所に突っ立っていた超一流会社の社長も見たが、
一晩に集まってくる日本男児は多く、なにしろ百名ではきかない。

ところが和蘭の貨幣はギルダーで計算が判りにくい。そこで日本男児は気前がよいわけでもないが、
勘定が厄介だから「良きに致せ」と財布ごと出してしまう。当人とすれば、相手が適当にその中から掴みだし
お釣りをくれるものと思っての事だろうが、女はレジスターではない。

メルシー・ボウク。フィーレン・ダンケ。モテル・グラツィエ。
ムーチャス・グラシアス。どうもありがと。女は財布ごとの頂きである。

チップと認めて何も返してはくれない。諦めてしまうのもいるが、旅費まで盗られたと第二分署へ泣きこんでくるのも多い。
ところが日本人がオランダ語が苦手のように、アムスのポリスも日本語にはてんて゜弱い。
だからキムの友達の日本人と判るとバッジなど貸してくれて、仲裁役を頼んでくる。ところがこのバッジさえ持っていると役得で、
何処の店へものこのこ入っていける。
さて、アムスの飾り窓の通りに、いつもひしめき合い覗き込んで通るアベックの群を、初めは何の冷やかしかと怪しみ、

(未だものにしていない相手を同伴して、もし要求を受け入れなければ、おれはここの女と寝てしまうぞと脅かすための作為ではあるまいか)とも考えたたが、さてバッジを付けて、
カーテンを閉めたままの店へでも横から入れるようになると、 事の意外に驚かされたものである。

なにしろアベックは男女一組のまま店に入り、そこで店の女から実地教育指導を受けているので、
初めは偶然かと思ったがそうでもないらしい。アベックの殆どは若夫婦か婚前交際中らしく、
カーテンをこした硝子窓の向こうを通るさんざめく群衆ににも頓着無く、熱心に彼らはノートまで取って教示を仰いでいる。

客のアベックを裸体にしてベッドに重ね、店の女が体操教師のように位置を直しているのも見たし、
店の女によって夫が満足してゆく過程を、ぐるぐる周囲を廻って覗きこみ、その途中で交替を申し込んだ妻が、
自分も観察した通りに振舞い、女からフォームを直して貰っている状況も見た。

日本にもセックス・カウンセラーを名乗って物を書く人も居るが、ここでは全てが実技指導である。
だから「夫婦生活の知恵」なんていう本は書店には売っていない訳で、 もっと判りやすく手をとり腰を引っ張って二人に向くような体勢を伝授しているのである。

但し、そうはいっても飾り窓の女が全部そうではなく、
Klove niers河岸のHoogsir 通りに固まっている三十代のベテラン揃いの所に限定されている。
目下修行中の十代ぐらいの若い娘の所では、未だ自分が勉強するのに精一杯らしく、
通りかかる男達にウエスタンのカウボーイ・スタイルまでして「ヘエイ・ユウ」と黄色い声で呼びかける。
こうして訓練してやがては人に教えられるような立派なプロフェッショナルになるのだろう。
日本の吉原の遊女も「職人」と謂われていて、男を喜ばせるためのプロで洋の東西の類似性に感心する。  
 
   江戸時代の吉原遊郭


 江戸時代、明暦年間に大火があって、それまで日本橋の葦(芳)町にあった葦原遊郭(吉原)が隅田川の向こうの新地へ移転することになった。
それで今までと違い、建物を豪華にし、現今の設備投資をふんだんにし、営業形態も変更した。
引き手茶屋とよぶ、待合所を作り、ここでは中間搾取させたのである。これが吉原会所で此処の支配は弾左衛門の六人の手代の一人、花川戸介六にさせた。
この新吉原は先ず大門を入ると、美人ばかりをずらりと並べ顔見世をさせ、器量の良いのを売り物にして茶屋を仲介させた。
処が同じ新吉原の敷地ではあるが、羅生門河岸の方と言えば、奴女郎といって泊まり賃が百文。
 
チョンの間で三十文だった。というのは、夜たかよりも大変に安いということである。
何故ならば、女は女だが、人三化け七と当時は言ったくらい、大門の中へ置いてはおけぬ、まこと見かけの良くない女達がバーゲンしていたのである。
鬼のようなツラをした女ばかり、というので羅生門の名が付いたくらいのものだが、女は顔でもなく、
 心でもなく、女性自身、即ちあそこが問題なのだが、此処の女達は天は二物を与えずで、
御面相は酷いが、「あんまが泣いて喜ぶ羅生門」との江戸期の川柳さえ残っている。

 つまり羅生門河岸には、吉原大門を潜った張り見世には並べて置けないが、床の良い(セックスの上手い)女だけが、薄暗がり置かれていた。

 江戸後期には産婦人科の用語として、大陰唇を大股とか小陰唇を小股とも呼んだから
 (華岡青洲も書いている)「小股の切れ上がった良い女」とは現代も良く使われるが、本来の意味がわかっていない。
何しろミミズ千匹とか潮吹き、タコ、キンチャクなど、掘り出し物の生まれつきの珍品所有者だけを揃え、顔は般若やおかめでも、明かりを暗くして並べておいたから、
酔眼朦朧とした酔っ払いや、冷やかしで「......そんなに安く遊べるなら」と登楼すると、灯油代が高くつくからと真っ暗闇にされたが、「おう、これは凄い、味なもの」とすっかり有頂天にさせられて、
又忘れられずに夜毎に通いだすことを「縁は異なもの羅生門河岸」の川柳すらも 「末摘花」に在るほどで、現今の俗説とは違い、真実の語源はこれから来ている。