新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

鍋島直茂 化け猫騒動(第一話) 竜造寺の後家

2021-07-24 17:03:15 | 新日本意外史 古代から現代まで


    鍋島直茂 化け猫騒動(第一話)
                                    
     竜造寺の後家



始めに、この竜造寺という姓は非常に珍しく、現在はほとんど聞かない。姓としてこの「り」という姓は戦国人名辞典にも「竜造寺」と、
豊臣秀次に仕え、後浅野家に仕えたという「竜神覚太夫」のみである。
現在でも、竜崎、林保、陸田、笠、くらいなのである。元々が原住農耕系の民族で、朝鮮半島からの移住民と想われる。
だから、竜造寺家は地理的に近い九州で覇を唱えてはいたが鍋島家に乗っ取られてしまうのも、少数民族ゆえの帰結なのであろう。

豊臣秀吉が絶賛した竜造寺の後家、その名を「寧子」という。

 昭和28年頃、清純なお嬢様女優だった入江たか子は、化け猫女優として鮮烈なデビューを果たした。
鍋島の猫騒動を扱った「怪談佐賀屋敷」などの御家騒動、化け猫映画が一世を風靡したものである。
このため、「猫を虐めると化けて出るぞ」と、寧子を猫と間違えられた猫族は「なんとも不気味な生き物」として大変な迷惑を被ったようで猫の受難時代だった。
現在はペットとして大人気で、誠に結構である。


日本には映画やテレビ、小説の時代物を実際の歴史だと信じ込んでいる御脳の弱い人間が多いが、
以下は面白く書いた部分もあるが、史資料を読み解き、一応その出典も書き込んでおいた。
面白可笑しく読んで下さるも可。
またこれを基礎に新しく日本史を見直されるも結構と、私は思っている。
歴史好きの方は、字数の関係で五部に分割してあるので、プリントアウトしてじっくりと読んで頂きたい(推敲はしているが、誤字脱字は御容赦)。


 文禄元年(1592年)七月のことである。
 征韓の役のため九州名護屋に新たに城をきずき、そこに駐留していた秀吉の許へ、「大政所さま御発病」の知らせが届いた。
「ご高齢のことゆえ気遣われる。なんとしてでもお目もじせねばなるまい」と、
 とる物もとりあえず秀吉は駕罷にのり、前後八人に担がせ引かせ京へ急がせた。
「供廻りの者など不要。ついてこんでもよいぞ」と秀吉は下知したが、それでも、
「床几廻り」とよばれる小姓や近習五十名余りが、着のみ着の儘で後を追ってきた。
 のち佐賀街道となってからは石ころが除かれ急坂も直されたが、その頃の、
「佐嘉上道」というのは昔の壱岐街道のままで、胸突き八丁といった険しい難所が、眩しい白い陽ざしに照りつけられ続いていた。
 それゆえ、駕籠かきの者たちも犬みたいに舌をだし、
「ハア、ハア」息を切らせて苦しがったが、後を追ってきた者達も急なことなので、弁当や呑み水も持ってきてはおらず、みな、乾きと飢えにへこたれかけていた。


 秀吉も瓢箪は一つ駕籠に入れてあったが、これは酒である。咽喉の乾きに疂めるものではない。
 そこで駕籠の中から喘ぎつつ、砂埃で白くなった叢を睨みつけていたが、
 「やや、あれなるは……」と転がり出しそうに身体をのりだし、手にしていた芭焦団扇で指さした。もちの木の木蔭に白布をちぎって目印につけた笹が眼に入ったからである。
 「さ、探してみい」喘ぎながら秀吉はいった。すると、「水……ま水にござりました」
 柄杓がそえられた手桶を、駈けていった小姓が抱えもって戻ってきた。「とめい」秀吉は手をだした儘で駕籠をとめさせた。
 そして、毒見をしようとする小姓に向かって、その手を烈しくふり、「構わぬ。早うにもて」
 さしだす柄杓をもぎとるように取りあげ、ゴクゴク咽喉をならしながら、続けざまに何杯も浴びるように呑みほした。
 そして、ようやく人心地がついたごとく、「フウッ」肩で息を入れると、「うぬらも早うに呑め」辛抱している供廻りの者たちにも、にっこりして許しを与えた。


 まるで蝗の群のように水桶に群がって、てんでにがぶ呑みしている者たちが、
「陽なた水……と思うたら冷えとる。こりゃあ甘露じゃ」と騒いでいるのを聞きつけ、
「そうか……渇えきっていたゆえ気のせいかとも迷うたがl‘やはり溜水ではあらざりしか」
 秀吉は駕をおり水桶の並んでいる所までゆき、屋根の恰好の葭簀を下から仰ぎ見ていたが、「……ふうむ」と唸り、
「見てみい筧が覗いていようが……山の岩の割れ目からしたたり落ちる水を、竹の樋で集めてきて、ここまで導き桶にためているのじゃから、こりゃ冷たいも道理の流水ぞ。
それにしても、よう才覚が届いておるのう」すっかり感心しきった。そして秀吉は、
 「手分けして薮を探し太い青竹を見つけ、その節ごとに小さく孔をあけて、この谷清水をつめて栓をなし、槍代わりに長い青竹を何人かが担いで歩け……。
咽喉をからからにさせるのは難儀じゃ。もうしとうはないでのう」
 といいつけた。そして青竹の水筒のできる間にと樹蔭に入り、もろ肌ぬぎとなって小姓に身体をふかせていると、何やら前方のあじさいの咲いている辺りで、
駕籠担ぎや近習の者たちが騒いでいる。そこで、秀吉が何事ならんと、「誰ぞみて参れ」
 かしこまっている者にいいつけた。すると、「……恐れながら」
 戻ってきた小姓は、赤黒い素焼きの肌にのせた芋の蘂包みの結飯をもってきて、
「あれなる陽かげの戸板に並べ、上に虻や蠅がとまらぬように蓮の大きな葉がかぶせてありました」
 振返って指さした。秀吉はうなずき、「これは竜造寺後家の配慮ならん。よく気のつくことよ」と
 ロヘ入れかけたが、はっとしたように、
「さすが武辺の家に生まれ育った女とは、かくこのように嗜みがあるものか」
 まるで猿蟹合戦にでてくる猿が、握飯をせしめた時のように飯粒だらけの口許で、又しても秀吉はうなった。
 そこで近習の者が、何なのかと伺いをたてるような眼ざしを向けたところ、
「この固く握った具合をみよ。そもそも結飯とは忙しい時に食すもの。これならば手にもって走りながらでも食せるじやろが……」
 と握ったのを振り廻してみせ、
 「さすが竜造寺隆信をうんだ女ごじや、武人の女ごは、こうでなくてはかなうまい。うぬらの嫁にも竜造寺の後家を見習わせ、ようく真似させるようしたがよい」
 すこぶる上機嫌で秀吉は、供廻りの者共にいい渡しだのだが、命じられた面々は、「うへッ」とは答えたものの、竜造寺の後家ときいては、みな当惑げに顔を見合わせてしまった。
 といってこの時代はまだ、
「おむすび屋」などという店があって、木枠でふんわりとした握り飯をこしらえ、家庭でもプラスチックの握飯器で、やはりふくらし粉入りのようにやわらかな結飯を、
嫁どもが作っていたからのせいではないのである。


佐賀の鍋島、女の夜這い、
刀ぶちこみ、しりまくり
とか、また、
夜の夜中にねこではないか
行燈なめつつ這ってくる



 といった戯れ唄を、秀吉は知らないらしいが、九州名護屋では当時ひろく歌われていたせいである。
 そこで供廻りの面々は、(いくら太閤殿下の思召しにせよ、自分らの嫁に竜造寺の後家のように、勝手に他の男の許へ夜ばいにゆくような真似をされてはどもならん)
と顔をみあわせ、しかめつらをしたのである。                                            
 なお『肥前旧記』ともよばれる九州史料の中の、『普聞集』には、
 「竜造寺第十六代胤和の娘寧子、のち慶闘尼という。勇気あって常に短刀を携え」
 などと、この後家のことは出ているが、短刀といっても、江戸時代の女が胸にさしていた懐剣のような小さなものではない。
 戦国時代の刀は、大太刀といって刃渡りIメートルはあったから、短刀というのも後世の脇差位の寸法はあった。
 それを寧子の方はいつも腰にさし、男まさりに戦場へでて武者働きもしていた。
 なにしろ、この竜造寺隆信の母の寧子というのは、戦国時代では代表的な女丈夫だったらしく、口やかましくうるさいことも、人並みはずれて度がすぎていたらしい。
 だから後年、徳川家康が、嫉妬深い侍妾の阿茶の局に、あけくれ文句ばかりいわれて手をやいたとき、
 「……汝は話にきく竜造寺の後家どのにそっくりではないか」
堪りかねて悲鳴をあげたという話を、当時家康の側近に侍していた円光寺の閨室元供という僧が、その日録に書き残している程である。
 もちろん寧子は九州佐賀で十九代続いた竜造寺の嫡流で、当主隆信の生母に当たっていたから、
我儘放題もしたろうが、またその反面、秀吉が感心するような嗜みもあったらしい。
今も佐賀名物となっている木蝋などは、「夜討ち用」にと寧子がハゼの木の実から取った生蝋に、麻糸の芯を入れて作り、
風に立ち消えぬように「龕燈」仕立てにしたから広まったものだというし、塩作りを田ごしらえで始めたのも九州では竜造寺の後家が開祖だともいかれている。
しかしよく、「英雄は色を好む」というが、これはあえて男だけでなく、女人にも当てはまるものであるらしい。
 とはいえ後家時代の寧子の色好みは、相当以上にひどかったらしく、輪番制というか、
「おふしど御用」という若侍が一日三人ずつ交替制で詰めていたなどとも『鎮西奇談』という本には面白おかしくでている。
封建時代の女の権力者は、洋の東西を問わず、あの方は激しかったらしい。
イギリスのエリザベス女王も、夜ごと若い貴族を、とっかえひっかえ、ベットに呼び込んで御乱行。だから彼らのことを「ナイト」と呼んでいたくらいのものである。


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