新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

信長は女も男も平等に殺した 織田信長はホモだった

2019-04-28 18:32:32 | 古代から現代史まで
     武家女性史
  織田信長はホモだった                        
 
 
     信長は女も男も平等に殺した
 
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今でも織田信長に非常に人気があるのは、罰するにしても男女を同等に扱ったからである。 というと、いささか不思議に思われるかも知れないが、通俗歴史家が、 戦国時代の女はとても哀れだった、などと書くから勘違いされるのであって、今とは全く男女の価値観が根本的に当時は違っていたのである。
ということは、その時代の女性たるや今では想像もつかぬくらい強かったのである。 なのに信長は遠慮容赦なく女を差別せずに叩き斬ったりして処分している点が、当時も高く買われて男供に好かれていたらしい。 竹生島へ行った時に無断で抜け出した腰元の女が連れ立って 寺詣りに行ったというだけで、六人ともぶち殺し、神徒側男性の立場を明確にしている。
つまり斬殺でなく撲殺させているぐらい露骨に示している。 勿論人的資源が大切な戦国時代のことゆえ、やむなく前に子を産んだ女達に次々と産ませた子供が十何人いるが、これとて彼としては、いうなれば武将としてやむなく作ったみたいなものである。なにしろ、
「傾城」という言葉があるが、信長は伊丹の荒木村重の小姓で絶世の美少年がいたのであるが、この美少年を一目見て取り上げてしまった為に、摂津、尼崎、伊丹花隅の四つの城を文字通り城を傾け抵抗して村重は戦ったのである。
   戦国美少年の嘘
 
さて日本の美少年であるが......... 先ず天草四郎だが、原城落城後、四郎の首級が三十個も出てきて、その中から細川家の陣左衛門の取った首級が本物と認定されたと伝わるが、三十個も似たりよったりの首が在ったのでは、類い希な美童とはいぬ。
また俗に美少年と言えば森乱丸の名前が出てくるけれども、彼の兄は鬼武蔵という異名があった程で、そんな男の弟に絶世の美少年が生まれる筈はなく間違っている。
『当代記』『信長記』といった史料に、はっきり名前の出てくるのは伊丹の万見仙千代だけで、日本で唯一の美少年だったが、その時にも織田信長は京三条の河原で荒木村重の家臣の妻女や娘達を三百五十人纏めて竹矢来の籠に入れ、当時はガソリンの無い時代であるから、周りに乾芝や薪を積み重ね火を付けて焼いてしまっている。
「村重が男色に走ったのは、女達にてんで可愛気がないからである」と、尼崎の千本松でついで見つけ出した百六十八人の女達は、雪中で張り付け柱にかけて、一人残らず刺殺している。
     
 
         人質は何故女なのか
 
また戦国時代は人質といえば決まって奥方や姫御前に決まっていたが、だからといえまさか交戦中に相手方へ「男子を人質に取ったのでは戦闘用員が減ってお困りでしょうから、女の方で結構です」等と言う訳はない。 これはおかしいし常識で考えてみるべきである。
質というのは、値打ちのある方を比べて取るものなのである。だからその頃は今日とは違い男女同権ではなく、遥かに女性の方が人間的価値が高かったようである。でないと話の辻褄が合わない。 戦は真剣なもの故、女性の位置が低くければ人質に取りはしない。
女というとすぐ性的なことしか考えぬような人が多いので、さぞかし美しい奥方や姫君に目を付け人質にとって、言うことを聞かぬと怒って張付けにかけて殺し腹いせにしたのだろう、哀れな事ではないかといったように、誤伝されている故判らなくなっているようだ。
徳川四天王の一人で本多平八郎という人が、その生前に書きとめておいた物が見つかって今は国書刊行会の<松のさかえ>の中の一章に「本多平八郎聞書」として入っている。だから活字でも読めるが、その中にはっきりと、
「わしがまだ若かった頃は、戦国時代の名残が濃く、女が強かったのは当今の男共と比べようもない。何しろ女の顔で優しげに見える眉はすり落として、炭やたどんで太く描き眉を恐ろしげにつけ、口の中へは、びんろうじゅの実を放りこんで噛み、まるで人を喰ったように赤黒く歯を染めて敵を脅し刃物を持って、男勝りの働きをしたものだ」と書き残している。
江戸期の武家の女房が皆眉をすり落としていたのは、一旦緩急あった際に、すぐ眉が太く恐く描ける為であったし、また「お歯黒」と呼んで口中を黒く染めていたのもその名残りなのであろう。 (注) 以前、黒沢明監督の映画で、当時大女優の京マチ子は眉をすり、お歯黒で出演していたものである。当時は時代考証がしっかりしていたが、現在ではタレントに気兼ねしてか、町屋の女房も武家の女房も一緒くたにしている。 原作が悪いのか、脚本なのか知れぬが、こういうのを”手ヌキ”というのだろう。
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つまり歴史家が何と言おうと、その頃に生きていた本多平八郎が書き残していったのが掛値無しの間違いない武家女性史であるといえる。
が、どうしてそんなに女が強かったのかといえば、先ず言える事は、騎馬民族系やそれ以前に日本へ移住してきた天の朝の残党が、藤原体制に追われて山中へ隠れ住んだ俘囚の裔が武士の本源ゆえ、アマから転じて、「あまッ」「あまっちょ」と呼ばれるように、女尊男卑型のシャクテイ思想が、おシラ信仰と一つになって、
「女なくては夜の明けぬ国」といった風習になっていたものらしい。 それと、まだまだ食糧不足の頃だし、それに騎馬民族系は農耕をしない人種である。 だから入手した穀物や食料は貴重品ゆえ、女が厳重に保管していて男は近づけなかった。今のようにエプロン亭主や、食事の後片付けなと゛男はするものではなく、又したくても用心し、させられなかった。なにしろ戦前までは、 「....男は台所へなど絶対に近づくものではありませんよ」とか、 「男が廚(勝手、台所)へ入って、物探しをするとは何ですか」と、
私も幼少の頃に、祖母からよく叱りつけられたものだが、 それを「聖人は包丁を遠ざける」といった論語からきた道徳観だと思っていたが、 そうではなくて、台所とか食物の保管所は女の場として、男子禁制の「御台所」とか女の神聖な場所とされていた名残であったらしい。
つまり武家の奥方をば崇め奉って敬称として 「北の方」と呼び、恐れられていたのも、冷蔵庫の無かった昔は南や西には置けぬゆえ、北とは食物を保管して置いて有る女の場で、そこを管理するのが、北の御方さまで奥方であったからである。
豪かったのは飢えの時代に、食物を仕切って押さえていた事にこれは起因している。 なにしろ「フロイス日本史」によれば、荷物を妻のために持つ夫に呆れて、「日本へ来て驚いたことは従者かと思ったら夫である」と、魔女狩りの死刑執行人を向こうでは勤めてきたバスク人のイゼズス派の彼らを驚かし、
「城の一切を押さえるだけでなく里方より銀を廻して貰って城や領地の収穫まで取り上げたり、前取りしてしまう北の方も多く、煩わしい事は夫を表面に立て戦とか厄介なことをさせ、実質的に城を確保している者や、女で城主になっている者も多い」と、本国へのレポートへ書き送っている。 しかし、と言って美女は当時の日本には滅多に見られなかったそうである。
死せる子は眉目(みめ)よかりき、等と言うが、どうも故人となった女は、死者への礼でもあろうか誰もがみな美人扱いされてしまう傾向が日本には古来からある。
しかし本当の美女はそうざらには居なかったらしい。が、誰もが異存なく美人と指摘するのはやはり於市の方であろう。
父の織田信秀は勝幡の小城から、尾張八郡を平定するようになる迄、普通では兵も馬も集まらぬから、 「平手の庄の政秀には年頃の娘が居る.....」と聞けばその娘に後の三郎信長を産ませ、「阿古井の豪族土田久安に妙齢な女子」と耳にすれば、それに後の四郎信行を作らせるように、一夫一婦の時代でなかったからその生涯に男子は一郎信常から十一郎長益(織田有楽)まで、女子も於市の他に八人をそれぞれ尾張の豪族の娘達に産ませている。
      信長の妹、於市は美人だった
そしてそれらの親兄弟を味方にして、今で言えば同族会社のようなやり方で、尾張一国を掌握し得たのである。だから信長と於市は異母兄弟の間柄に当たる。 さて、信長は美少年万見仙千代を奪うため、摂津の荒木村重と戦ったような男色のホモ型だが、戦国時代ゆえ人的資源の必要上、生駒将監の後家娘に信忠、信雄を産ませたり、神戸の板御前と呼ぶ未亡人に信孝らを作らせているが、極めて女嫌いで女性には酷かった。
それが於市だけは可愛がり浅井長政へ嫁入りさせる時も、前に居た長政の女はそっくり追放させ、先に当人をとっくり確かめてから信長は己の長の名乗りを与え縁づけている。 信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろう。 この於市に三人の娘が生まれた。長女は「やや」と呼ばれた茶々で後の淀君である。
この人を於市の娘ゆえ美女と誤る向きもあるが、秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になってからの話しゆえ、それまでは放って置かれたという事実は、淀君が美女でなく、あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。
『当代記』『大阪御陣記』によれば、「騎馬女中三十人ばかりいつも引き連れ、緋威しの大鎧をつけ七寸(ななき)の馬にめされ」と出ているのを見ると、母親似ではなく、
父浅井長政生き写しの骨太な大女であったろうと推理される。次女の京極高次夫人になった常高院は 「細身ながら気性烈しく」と残っているが、まあ十人並だったろう。 処が三女の「ごう」と呼ばれたのは、これは母於市をさえしのぐ抜群の美人だったらしい。
「栴檀は双葉より芳し」というが、十二歳の時すでに母方の尾張大野の佐治与九郎に求められて人形のように嫁ぎ、翌年は連れ戻されて秀吉の養子だった信長の四男於次丸秀勝にめあわされ、十六歳になった時、秀吉がその秀勝を殺して己の甥の秀次の弟小吉に同名を継がせたが、帝位を狙った秀吉の道具として彼女は左大臣九条道房の許へやられ、やがて取り戻され、 「江戸へ与えるのだから、江与と改名せい」と徳川秀忠の許へ又嫁入りさせられる。 まあ、余程の美女でなくては、こうたらい廻しさせられるものではい。 あまり知られていないが美しかったらしく、この為春日局から苛められるようになる。
江与は秀忠との間に、後の駿河大納言忠長を産み、彼を三代将軍にしようとするが 春日局と家康の間に生まれたとされる家光が三代将軍となり、忠長は殺される。これによって織田家の血脈は絶たれ、家光以降の徳川家は神徒系から仏教系に代わり、ここに混沌の徳川史観が続くことになる。
 
 

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