信長の武将 滝川一益 やくざの発祥ヤシ テキヤ
織田信長の武将達には次の者達が有名である。
羽柴秀吉
前田犬千代
毛利新助
丹羽長秀
蜂屋頼隆
川尻与平
滝川一益
蜂須賀小六
明智光秀
柴田勝家
斉藤内蔵助
森乱丸
この者達は皆、永禄元年から天正年間に活躍しているが、藤吉郎時代の秀吉と同僚だった滝川一益の方はあまり知られては居ない。
秀吉が藤吉郎と呼ばれ、まだ小者だった時代、織田家の長屋で隣同士だったこともあまり知られていない。この二人の出世には後に大きな差がつく。
関東管領として五十万石も取っていたが、最後は三千石にまで落ちぶれた、悲劇の武将にここでは光を当ててみたい。
山科言継卿日記
<山科言継卿記第六巻>の、
「天文二年七月二日の条」を見ると、何しろ応仁の乱このかた戦国時代で、すっかり生計不如意になった京の公卿が、当時の言葉で言うなら「少しドサ廻りして稼いでくっか」ということになって、
後鳥羽院へお暇乞いに伺って、お餞別に御懐紙一折を頂き、蹴鞠の家元飛鳥井中納言を看板に、自分がマネージャーとなって、手土産に美濃紙一束と包丁一本を荷造りして出立したと出ている。
そして七日に桑名に出て八日に尾張の津島へ到着。そこで織田信長の父織田信秀の許へ、飛鳥井中納言の家来の速水兵部が、
「これは何処でも評判の見世物で、絶対に当たるが、手打ち興行でいくか、歩打ちにしますか」と、今で言う旅興行の先乗りをしている。
つまり掛け合いに織田信秀の勝幡城へ行っている。
儲かるならば是非とも手前の処で」と、信秀が弟と共に一行を迎えに来たが、その時の原文を引用すると、
即ち、在所名勝幡の彼の館へ罷り向かう。馬に乗る。織田信秀徒歩にて後からついてきたりて夜半に到着す。が、冷や麺吸物で一杯出す」翌々日は、天気晴天。夕方から蹴鞠興行開催。人数がたらぬから、信秀や弟も役者として登場。但し格式から言って自分や飛鳥井らは烏帽子をつけた。見物人は数百人集まった」
つまり大入り満員で、喜んだ信秀はその夜は晩飯に、とびっきりご馳走したと出ている。
これから八月まで、雨天は休みだが、天気が良いと毎晩この興行を続けている。
入場料をいくら取ったのかの記録はないが、
「京都軍の遠征チームが勝つか。郷里尾張軍が得点するか」といったトトカルチョ式の賭けを盛大にやらせ、大儲けしたらしい。
七月十四日の日記などには明確に、
「織田信秀きたり『盆の料』として飛鳥井中納言へ銭千枚、自分らには五百枚ずつよこした」と、このお公卿さんは書き残している。
従来の歴史では、戦国大名というのは、弓矢を持って戦ばかりしていたように書かれているが、現実は今も昔も先立つものは銭。
こうして興行したり、客に賭けさせて盆稼ぎをしていたのである。
これは戦国期、現代で謂う戦時公債発行の代わりでもあろう。そして、
<続応仁別記>には「信長が堺に『矢銭』をかけた」つまり戦時割当をしたと出ているが、
歴史書ではこれを「屋銭」つまり棟割税と間違っている。
本当はこうした興行を催す者も「矢師」といっていたので、戦をする費用を徴収したが正しい。
現代用語では「香具師」と当て字している。
後年清水の次郎長が、現在の静岡県一帯の興行権を握っていて、ここで旅芸人に芝居や芸をやらせておいて、さて彼らが興行を打ち上げて出立しようとする時、
「恐れ入りますが割り(出演料)を下さい」と頭を下げ貰いに行くと、
「清水港は鬼より怖い、大政、小政の声がする」の手合いが、どかどかと出てきて、
「なにおッ、銭が欲しいだと、もう一遍いってみやがれ」と追い払ってしまい、旅芸人を泣かせたのは有名な話だが、戦国時代だって同じだったらしい。
飛鳥井中納言のような一行に対しては、気を使ってご馳走もしたし、ちゃんと盆の分け前も払ったらしいが、
名もない連中には「なに銭を所望と申すか。この不届き者めが」と、
郎党どもに弓に矢をつがえさせて、脅かし追い払ったらしい。
そこで泣きの涙で只働きをさせられた旅の一座が、
「あいつらは・・・・・敵や、てきや」と恨んだ名残りから、今でも興行師やプロモーターの事を「てきや」という。
滝川一益
さてこの山科言継の七月二十二日の夜の蹴鞠興行のとき、大人数で開催したので、人手不足で俄か仕立てのスターとして「滝川彦九朗」の名が出てくるが、これが「滝川一勝」といって
「滝川左近将監一益」の父である。
勿論この当時は主人の信秀でさえ、自分の馬をお公卿さんに貸してしまうと代わりが無く、津島から勝幡までてくてく後から歩いてついてきたと、山科日記に出ているくらいだから、一勝もたいした事はなく、名門だの良家という程の事はない。
永禄七年の織田信長美濃攻め四年目のときも、精々滝川一益は馬に乗れる身分が関の山だったろう。
しかし信長にしてみれば父信秀の代から、盆のあかをなめてきた譜代の一勝の倅ゆえ、そこは目をかけられ信用もされていただろう。
さて滝川左近将監の嫁の名は、奈也という。
<加賀藩史料>には「名益氏の出」とあり、後伊勢峯城で秀吉三万の軍を悩ました滝川儀太夫が、やはり、その名益氏で、この奈也の甥にあたるとでているが、正否は不明で、勿論豪族といった出自でもないらしい。
ついでに蛇足を付け加えておくが、信長のような戦国武者の流れが、江戸の元禄期以降は弾圧されて逼塞していたが、これが天保以降の世の乱れと共に、又勢いを盛り返してきたが、
もはや戦国時代ではないから、もっぱら盆のしろばかり稼いだ。俗に、
「無頼」と書いてこれに(やくざ)と読ませるが、<語句淵源>などという古書には明白に、
「矢屑」とかいてこれに(やくざ)と注が入っている。
つまり「矢師」の屑扱いで、このため田村栄太郎の著などでは、
「神農さまを祭る高市香具師は、自分らをやくざとは別扱いにする」とある。
とはいえ、現在は味噌も糞も一緒くたにして「暴力団」とか「反社会的集団」などという新語で
括るが、「ヤーコウ」「ヤーサン」と呼ばれる大きな組が、つい何年か前までは全国の興行を押さえていたのも、暴力団の資金源などという、そんな末端的なみみっちいことではなく、
きわめてこれは歴史的な必然性なのである。
信長の美濃攻略
さて、戦国期、越後の上杉景虎は佐渡金山。武田信玄は増富金山。駿河の今川義元は安陪金山。
みんな鉱山を掘って金銀をえて戦費に当てていた。
この当時の信長は、今川義元を桶狭間で騙まし討ちにし、五百丁からの鉄砲を分捕った。
これに勢いを得て美濃を占領して武儀金山を奪おうと、毎年のように美濃攻めを敢行したが連戦連敗状態だった。ある日一益は信長に呼ばれ、美濃攻めは正攻法では勝ち目がないから
当時清洲城に住んでいた、斉藤道三の娘、妻の奇蝶に何とか実家である美濃の武将達を調略して貰うため、一益が使いに選ばれた。
美濃御前 奇蝶
この奇蝶は美濃から来た御新造様なので「美濃御前」とか略して「美濃の方」ともいう。
だが「み」の発音は敬語に通じる。
何で女房に敬語がいるものかと、信長は上を略してしまって只単に「のう」と呼んでいた。
そして八年前の弘治二年に、父の斉藤道三が、今の美濃国主斉藤龍興の父の義龍に長良川畔で討たれてからというもの、夫婦とは名ばかりのようで、昨今小牧山へ築城すると
信長は、これまでの清洲城へ美濃御前を置いてきていた。
つまり目下別居中という訳である。
だいたい信長のことを「うつけ」だの「たわけ」だのと馬鹿扱いしだしたのは余人ではなく、もともとこの奇蝶なのである。
十五歳のときに、美濃国主斉藤山城守道三の一人娘として、嫁入りしてきたが、一つ違いの婿殿信長は、てんで野育ちで、当時は部屋住みの身分だった。
そしてやることなすことが、姫育ちの奇蝶の目からみれば、まこと風変わりである。
しかし信長の方は、金襴緞子の帯締めながら、花嫁は何故に呆れるのだろうと、
全く意にもかえさない。だから腹を立てた姫は平気で面と向かって信長に、「阿呆」とか「ばかたわけ」と罵りだした。
信長にすれば、姫よりも父親の斉藤道三が恐いから、いくら面罵されても大人しくしていたらしいが、その恐いのが死ぬと話が違ってくる。
今では小牧の城の方へ堂々と奇妙丸(のちの信忠)三介(のちの信雄)らの御腹様の生駒将監の後家娘、伊勢の荒神山の神戸の小島の後家さんで、三七(のちの信孝)の御腹様の「板御前」という新しい女どもを連れてきている。
ということは気の強い美濃御前が、清洲に置いてけぼりにされ、いかにかっかと燃え上がって嫉妬の焔を燃やしていることか。
そこへ行ってこいという命令は滝川一益にしても、すっかり恐れをなした。
しかし恐る々美濃御前の前に行くと、美濃の武将安藤伊賀宛の書面をくれて、美濃へ発てと
送り出してくれた。
この安藤伊賀というのは、先代信秀が時疾(はやりやまい)で一晩で急死した際、
跡目が決まらず内輪もめで大騒ぎになったとき、「姫様の婿殿の三郎信長さまをこそ、尾張の跡目」と千余の軍勢を率いて境目の木曽川べりまで出張ってきたのが、この男である。
また、村木砦の今川勢がどんどん尾張へ侵略してきて、那古屋城が危なくなってきた時、
「斉藤道三名代」として、物取新五らの豪傑を従えて颯爽と乗り込んできて守備したのも彼である。
斉藤道三の死後も、この伊賀は陰ながらその愛娘の美濃御前をそれとなく守護していた。
この頃の奇蝶は亡き父斉藤山城守道三の居た稲葉山の井の口城を取り戻して道三の供養をしたいというのが悲願だった。
だから美濃武儀金山の匿し銀をもって、稲葉一鉄、安藤伊賀、氏家卜全らの美濃三人衆の調略に成功した。
これによって美濃一国は併呑でき、信長は家臣たちに所領を増やしてやり、滝川も百貫どりになれた。
この後滝川はおおいに発奮して働き、木下藤吉郎が羽柴筑前となって、「毛利攻めの司令官」に抜擢された時には、滝川左近も「将監一益」の名になって、彼もやはり「武田攻めの指揮官」として
甲州へ出陣した。
そして武田勝頼を攻め滅ぼすと、上野一国と信濃の内の佐久、小県の二群を与えられ、
「関東管領」五十万石の身分にまで立身出世した。
しかし天正十六年六月本能寺の変が起きた。
左近は神流川合戦で最期に北条氏と戦って破れ、上州厩橋の城を捨て伊勢長島へ引き上げた。だが秀吉の方は、山崎円明寺合戦で明智を破って日の出の勢い。
こうなると滝川も面白くなかったろう。というのは、
天正十年の清洲会議に、秀吉は柴田勝家、丹羽長秀、それに池田恒輿だけを招いた。
つまり滝川はてんで無視され、のけ者に扱われたからである。
これでは全く面白かろう筈もない。なのに翌天正十一年の正月。
滝川一益の部下である伊勢亀山城主の関盛信と一政の親子を調略して、秀吉はこれを
自分の家来にしてしまった。一益は直ぐにその家老の佐治新助を向かわせ亀山城を奪還した。
ついで甥の滝川義太夫をもって、伊勢鈴鹿の峯城を攻略し、そこの守将にさせた。
こうなると秀吉もすっかり激怒して、二月二十八日になると、土岐多羅越えの左から、秀吉の甥の三好秀次が一万の軍勢。安楽山越えの右から秀吉の弟の羽柴秀長に一万。
そして秀吉自身も中央の大君ケ畑を突破して、一万五千の兵。
合計三万五千の大軍をもって亀山城と峯城を攻めた。
<渡辺勘兵衛記>というのによると、
「この時、滝川一益は、その居城の長島の他に桑名城とその付け城の中井城の三つを守り、秀吉の方の中村一氏が先手となって押寄せるや、中井の西の矢田山砦へ一益は鉄砲隊と足軽を向けてこれを奪い返した」と、その敢闘ぶりが書き残されている。
亀山城の方も<秀吉事記>によれば、
「難攻不落につき、金堀人足数百人を呼んだ秀吉は、この後は地下より石垣を崩して攻撃。よって三月三日に至り、城代佐治新助は滝川一益より見かねて開城するようにいわれ、ここに始めて和平。
秀吉はその敢闘ぶりを讃えて新助以下五百の将兵が長島へ戻るを許された」とある。
峯城の方も、正面からの戦では勝っていたが、やはり金堀人足に地下から掘り進められて城が傾斜して倒れかけ、止む無く四月十七日に開城。滝川儀太夫以下は、その武辺を誉められ長島へ引き揚げたと<亀井文書>に残っている。
しかし、いくら滝川一益やその家来共が勇戦力闘しても、同盟軍の柴田勝家が北の庄で自決してしまっては、もう終いである。
そして七月になって無念だか滝川は秀吉に降参した。
するとその翌年の天正十二年に小牧長久手合戦が起きた。滝川は秀吉のために尾張蟹江城を奪ったりして手柄を立てたので、秀吉は
「なんせ、昔は信長様の下で隣同志に住んでいたのじゃから、当時の誼もある」と滝川一益に三千石をくれた。
この後秀吉について織田信雄・家康連合軍と戦ったが破れ、降伏する。
一命は許され、妻奈也と共に京へ流れ僧籍に入り漂白の人生を閉じた。
羽柴秀吉
前田犬千代
毛利新助
丹羽長秀
蜂屋頼隆
川尻与平
滝川一益
蜂須賀小六
明智光秀
柴田勝家
斉藤内蔵助
森乱丸
この者達は皆、永禄元年から天正年間に活躍しているが、藤吉郎時代の秀吉と同僚だった滝川一益の方はあまり知られては居ない。
秀吉が藤吉郎と呼ばれ、まだ小者だった時代、織田家の長屋で隣同士だったこともあまり知られていない。この二人の出世には後に大きな差がつく。
関東管領として五十万石も取っていたが、最後は三千石にまで落ちぶれた、悲劇の武将にここでは光を当ててみたい。
山科言継卿日記
<山科言継卿記第六巻>の、
「天文二年七月二日の条」を見ると、何しろ応仁の乱このかた戦国時代で、すっかり生計不如意になった京の公卿が、当時の言葉で言うなら「少しドサ廻りして稼いでくっか」ということになって、
後鳥羽院へお暇乞いに伺って、お餞別に御懐紙一折を頂き、蹴鞠の家元飛鳥井中納言を看板に、自分がマネージャーとなって、手土産に美濃紙一束と包丁一本を荷造りして出立したと出ている。
そして七日に桑名に出て八日に尾張の津島へ到着。そこで織田信長の父織田信秀の許へ、飛鳥井中納言の家来の速水兵部が、
「これは何処でも評判の見世物で、絶対に当たるが、手打ち興行でいくか、歩打ちにしますか」と、今で言う旅興行の先乗りをしている。
つまり掛け合いに織田信秀の勝幡城へ行っている。
儲かるならば是非とも手前の処で」と、信秀が弟と共に一行を迎えに来たが、その時の原文を引用すると、
即ち、在所名勝幡の彼の館へ罷り向かう。馬に乗る。織田信秀徒歩にて後からついてきたりて夜半に到着す。が、冷や麺吸物で一杯出す」翌々日は、天気晴天。夕方から蹴鞠興行開催。人数がたらぬから、信秀や弟も役者として登場。但し格式から言って自分や飛鳥井らは烏帽子をつけた。見物人は数百人集まった」
つまり大入り満員で、喜んだ信秀はその夜は晩飯に、とびっきりご馳走したと出ている。
これから八月まで、雨天は休みだが、天気が良いと毎晩この興行を続けている。
入場料をいくら取ったのかの記録はないが、
「京都軍の遠征チームが勝つか。郷里尾張軍が得点するか」といったトトカルチョ式の賭けを盛大にやらせ、大儲けしたらしい。
七月十四日の日記などには明確に、
「織田信秀きたり『盆の料』として飛鳥井中納言へ銭千枚、自分らには五百枚ずつよこした」と、このお公卿さんは書き残している。
従来の歴史では、戦国大名というのは、弓矢を持って戦ばかりしていたように書かれているが、現実は今も昔も先立つものは銭。
こうして興行したり、客に賭けさせて盆稼ぎをしていたのである。
これは戦国期、現代で謂う戦時公債発行の代わりでもあろう。そして、
<続応仁別記>には「信長が堺に『矢銭』をかけた」つまり戦時割当をしたと出ているが、
歴史書ではこれを「屋銭」つまり棟割税と間違っている。
本当はこうした興行を催す者も「矢師」といっていたので、戦をする費用を徴収したが正しい。
現代用語では「香具師」と当て字している。
後年清水の次郎長が、現在の静岡県一帯の興行権を握っていて、ここで旅芸人に芝居や芸をやらせておいて、さて彼らが興行を打ち上げて出立しようとする時、
「恐れ入りますが割り(出演料)を下さい」と頭を下げ貰いに行くと、
「清水港は鬼より怖い、大政、小政の声がする」の手合いが、どかどかと出てきて、
「なにおッ、銭が欲しいだと、もう一遍いってみやがれ」と追い払ってしまい、旅芸人を泣かせたのは有名な話だが、戦国時代だって同じだったらしい。
飛鳥井中納言のような一行に対しては、気を使ってご馳走もしたし、ちゃんと盆の分け前も払ったらしいが、
名もない連中には「なに銭を所望と申すか。この不届き者めが」と、
郎党どもに弓に矢をつがえさせて、脅かし追い払ったらしい。
そこで泣きの涙で只働きをさせられた旅の一座が、
「あいつらは・・・・・敵や、てきや」と恨んだ名残りから、今でも興行師やプロモーターの事を「てきや」という。
滝川一益
さてこの山科言継の七月二十二日の夜の蹴鞠興行のとき、大人数で開催したので、人手不足で俄か仕立てのスターとして「滝川彦九朗」の名が出てくるが、これが「滝川一勝」といって
「滝川左近将監一益」の父である。
勿論この当時は主人の信秀でさえ、自分の馬をお公卿さんに貸してしまうと代わりが無く、津島から勝幡までてくてく後から歩いてついてきたと、山科日記に出ているくらいだから、一勝もたいした事はなく、名門だの良家という程の事はない。
永禄七年の織田信長美濃攻め四年目のときも、精々滝川一益は馬に乗れる身分が関の山だったろう。
しかし信長にしてみれば父信秀の代から、盆のあかをなめてきた譜代の一勝の倅ゆえ、そこは目をかけられ信用もされていただろう。
さて滝川左近将監の嫁の名は、奈也という。
<加賀藩史料>には「名益氏の出」とあり、後伊勢峯城で秀吉三万の軍を悩ました滝川儀太夫が、やはり、その名益氏で、この奈也の甥にあたるとでているが、正否は不明で、勿論豪族といった出自でもないらしい。
ついでに蛇足を付け加えておくが、信長のような戦国武者の流れが、江戸の元禄期以降は弾圧されて逼塞していたが、これが天保以降の世の乱れと共に、又勢いを盛り返してきたが、
もはや戦国時代ではないから、もっぱら盆のしろばかり稼いだ。俗に、
「無頼」と書いてこれに(やくざ)と読ませるが、<語句淵源>などという古書には明白に、
「矢屑」とかいてこれに(やくざ)と注が入っている。
つまり「矢師」の屑扱いで、このため田村栄太郎の著などでは、
「神農さまを祭る高市香具師は、自分らをやくざとは別扱いにする」とある。
とはいえ、現在は味噌も糞も一緒くたにして「暴力団」とか「反社会的集団」などという新語で
括るが、「ヤーコウ」「ヤーサン」と呼ばれる大きな組が、つい何年か前までは全国の興行を押さえていたのも、暴力団の資金源などという、そんな末端的なみみっちいことではなく、
きわめてこれは歴史的な必然性なのである。
信長の美濃攻略
さて、戦国期、越後の上杉景虎は佐渡金山。武田信玄は増富金山。駿河の今川義元は安陪金山。
みんな鉱山を掘って金銀をえて戦費に当てていた。
この当時の信長は、今川義元を桶狭間で騙まし討ちにし、五百丁からの鉄砲を分捕った。
これに勢いを得て美濃を占領して武儀金山を奪おうと、毎年のように美濃攻めを敢行したが連戦連敗状態だった。ある日一益は信長に呼ばれ、美濃攻めは正攻法では勝ち目がないから
当時清洲城に住んでいた、斉藤道三の娘、妻の奇蝶に何とか実家である美濃の武将達を調略して貰うため、一益が使いに選ばれた。
美濃御前 奇蝶
この奇蝶は美濃から来た御新造様なので「美濃御前」とか略して「美濃の方」ともいう。
だが「み」の発音は敬語に通じる。
何で女房に敬語がいるものかと、信長は上を略してしまって只単に「のう」と呼んでいた。
そして八年前の弘治二年に、父の斉藤道三が、今の美濃国主斉藤龍興の父の義龍に長良川畔で討たれてからというもの、夫婦とは名ばかりのようで、昨今小牧山へ築城すると
信長は、これまでの清洲城へ美濃御前を置いてきていた。
つまり目下別居中という訳である。
だいたい信長のことを「うつけ」だの「たわけ」だのと馬鹿扱いしだしたのは余人ではなく、もともとこの奇蝶なのである。
十五歳のときに、美濃国主斉藤山城守道三の一人娘として、嫁入りしてきたが、一つ違いの婿殿信長は、てんで野育ちで、当時は部屋住みの身分だった。
そしてやることなすことが、姫育ちの奇蝶の目からみれば、まこと風変わりである。
しかし信長の方は、金襴緞子の帯締めながら、花嫁は何故に呆れるのだろうと、
全く意にもかえさない。だから腹を立てた姫は平気で面と向かって信長に、「阿呆」とか「ばかたわけ」と罵りだした。
信長にすれば、姫よりも父親の斉藤道三が恐いから、いくら面罵されても大人しくしていたらしいが、その恐いのが死ぬと話が違ってくる。
今では小牧の城の方へ堂々と奇妙丸(のちの信忠)三介(のちの信雄)らの御腹様の生駒将監の後家娘、伊勢の荒神山の神戸の小島の後家さんで、三七(のちの信孝)の御腹様の「板御前」という新しい女どもを連れてきている。
ということは気の強い美濃御前が、清洲に置いてけぼりにされ、いかにかっかと燃え上がって嫉妬の焔を燃やしていることか。
そこへ行ってこいという命令は滝川一益にしても、すっかり恐れをなした。
しかし恐る々美濃御前の前に行くと、美濃の武将安藤伊賀宛の書面をくれて、美濃へ発てと
送り出してくれた。
この安藤伊賀というのは、先代信秀が時疾(はやりやまい)で一晩で急死した際、
跡目が決まらず内輪もめで大騒ぎになったとき、「姫様の婿殿の三郎信長さまをこそ、尾張の跡目」と千余の軍勢を率いて境目の木曽川べりまで出張ってきたのが、この男である。
また、村木砦の今川勢がどんどん尾張へ侵略してきて、那古屋城が危なくなってきた時、
「斉藤道三名代」として、物取新五らの豪傑を従えて颯爽と乗り込んできて守備したのも彼である。
斉藤道三の死後も、この伊賀は陰ながらその愛娘の美濃御前をそれとなく守護していた。
この頃の奇蝶は亡き父斉藤山城守道三の居た稲葉山の井の口城を取り戻して道三の供養をしたいというのが悲願だった。
だから美濃武儀金山の匿し銀をもって、稲葉一鉄、安藤伊賀、氏家卜全らの美濃三人衆の調略に成功した。
これによって美濃一国は併呑でき、信長は家臣たちに所領を増やしてやり、滝川も百貫どりになれた。
この後滝川はおおいに発奮して働き、木下藤吉郎が羽柴筑前となって、「毛利攻めの司令官」に抜擢された時には、滝川左近も「将監一益」の名になって、彼もやはり「武田攻めの指揮官」として
甲州へ出陣した。
そして武田勝頼を攻め滅ぼすと、上野一国と信濃の内の佐久、小県の二群を与えられ、
「関東管領」五十万石の身分にまで立身出世した。
しかし天正十六年六月本能寺の変が起きた。
左近は神流川合戦で最期に北条氏と戦って破れ、上州厩橋の城を捨て伊勢長島へ引き上げた。だが秀吉の方は、山崎円明寺合戦で明智を破って日の出の勢い。
こうなると滝川も面白くなかったろう。というのは、
天正十年の清洲会議に、秀吉は柴田勝家、丹羽長秀、それに池田恒輿だけを招いた。
つまり滝川はてんで無視され、のけ者に扱われたからである。
これでは全く面白かろう筈もない。なのに翌天正十一年の正月。
滝川一益の部下である伊勢亀山城主の関盛信と一政の親子を調略して、秀吉はこれを
自分の家来にしてしまった。一益は直ぐにその家老の佐治新助を向かわせ亀山城を奪還した。
ついで甥の滝川義太夫をもって、伊勢鈴鹿の峯城を攻略し、そこの守将にさせた。
こうなると秀吉もすっかり激怒して、二月二十八日になると、土岐多羅越えの左から、秀吉の甥の三好秀次が一万の軍勢。安楽山越えの右から秀吉の弟の羽柴秀長に一万。
そして秀吉自身も中央の大君ケ畑を突破して、一万五千の兵。
合計三万五千の大軍をもって亀山城と峯城を攻めた。
<渡辺勘兵衛記>というのによると、
「この時、滝川一益は、その居城の長島の他に桑名城とその付け城の中井城の三つを守り、秀吉の方の中村一氏が先手となって押寄せるや、中井の西の矢田山砦へ一益は鉄砲隊と足軽を向けてこれを奪い返した」と、その敢闘ぶりが書き残されている。
亀山城の方も<秀吉事記>によれば、
「難攻不落につき、金堀人足数百人を呼んだ秀吉は、この後は地下より石垣を崩して攻撃。よって三月三日に至り、城代佐治新助は滝川一益より見かねて開城するようにいわれ、ここに始めて和平。
秀吉はその敢闘ぶりを讃えて新助以下五百の将兵が長島へ戻るを許された」とある。
峯城の方も、正面からの戦では勝っていたが、やはり金堀人足に地下から掘り進められて城が傾斜して倒れかけ、止む無く四月十七日に開城。滝川儀太夫以下は、その武辺を誉められ長島へ引き揚げたと<亀井文書>に残っている。
しかし、いくら滝川一益やその家来共が勇戦力闘しても、同盟軍の柴田勝家が北の庄で自決してしまっては、もう終いである。
そして七月になって無念だか滝川は秀吉に降参した。
するとその翌年の天正十二年に小牧長久手合戦が起きた。滝川は秀吉のために尾張蟹江城を奪ったりして手柄を立てたので、秀吉は
「なんせ、昔は信長様の下で隣同志に住んでいたのじゃから、当時の誼もある」と滝川一益に三千石をくれた。
この後秀吉について織田信雄・家康連合軍と戦ったが破れ、降伏する。
一命は許され、妻奈也と共に京へ流れ僧籍に入り漂白の人生を閉じた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます