新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 女上位の根津遊郭

2021-04-22 11:17:37 | 新日本意外史 古代から現代まで


     女上位の根津遊郭


江戸時代、吉原遊郭は有名だが、あまり知られては居ないが、幕末まで栄えて流行した根津権現の根津遊郭が在る。
幕府公認の遊郭である吉原は夜間営業が専門だが、此処根津は違った。
「根津の昼遊び」といって、此処で働く女達は亭主を仕事に送り出し、
夕食の支度まで根津で客をとって、そ知らぬ顔で帰宅するというシステムで売春業に精出していた、珍しい場所なのである。
現代でも旦那の仕事中、妻がデリヘル等で稼いでいるのも居るが、根津はそのハシリの様な所だった。
そして此処の女達は「馬乗り」とか「お馬さん」と呼ばれて話題になっていた。 つまり此処は吉原などの正上位と違って、全ての女が女上位で、男の上に跨るから、上からだと硬く勃起して無くては挿入できないが、
鞘かぶせとなると御隠居さんのふにゃちんでも 何とか咥え込んでくれるので喜ばれたのである。
それに根津の女は前借とか鞍替えなどはなく、遊び代金も四分六か七三の配分だったからその日に稼いだ分は其の日に持ち帰っていく。
気の向かない時や、生理の日には自由に休むことも出来たから、日本版「昼顔」を堂々と行っていた世界でも珍しい売春形態だったのでる。
それに当時の江戸という町は、現代のように女の仕事はOLやサービス業なども無く、 下女か、自分の体を開いて稼ぐ売春ぐらいしかなく、だから此処の女達は趣味と実益を兼ねて しかも搾取も無いから、
女が己の性を己の意思で使い出した皮切りでもあった。
「根津でもて、男もどうやら一人前」と言われる位で、江戸期の川柳には数多く残っている。
さて、この女上位で馬乗りになるという性行為と、搾取が無いというという制度は、これはまさしくサンカ社会の特徴である。
と言う事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現は在るのだから、共に江戸におけるサンカの溜まり場ということになる。

     江戸の人口は世界一


 なにしろ何の産業も無い江戸が享保二十年から天保年間にかけて、江戸の人口は 130万人と当時世界一の人口になったのには訳がある。
徳川幕府の政策で、金をかけないで五街道の見回りをさせるため、当時街道を流して歩く、 弾家配下の旅芸人達に目をつけ、彼らに、目立つように「朱鞘」の公刀と捕り縄を渡し、逮捕から裁判、処刑の一切の権限を与えたのである。
後には彼らは様々な土地に定着してヤクザとなり、全国の縄張りを決めて、博打のテラ銭で子分を養い、捕物の 費用もそこから捻出したのである。
このため、日本各地の限定隔離場所に押し込められていた、騎馬系や海洋系の原住民達は、江戸に行けば何とか食えるだろうと、街道流しの連中も同族だから、伝達を付けて貰って、江戸や名古屋大阪などの大都市に流入したのである。
そして当時の江戸は男九人に女はたったの一人の割合の人口比率でしかなかった。
というのは、女が江戸へ出てきても働き口はせいぜい下女位しかなく、路銀をかけて 来るほどのことは無かったからである。

 だからまさかと今では思われるが、女日照りで困っている男達のため、堅気の妻女や娘達も 五人に一人は己の観音様を貸し、かつえている哀れな男共の性処理をしていたのである。
これは特に商家の大店等で顕著だったのだが、その嚆矢となったのが鴻池の創業者、山中鹿之助の妻女で、詳細は以前記してある。。



さて、よく講談では明暦の大火後に出来た新吉原へ、ぶらりぶらりと土手八丁をと語り、これに影響されて映画やテレビでも演っているが、あれは全くの出鱈目。
吉原での夜遊びがしたいなら、陸路は通れないのが知らないから間違うのである。
江戸は夕方になると各町木戸が閉まり、番太郎が厳重に見張っていたのである。

だから川が通路になっていて、船宿から繰り出すのが遊びの定番で、もし陸路を行くのなら 幕府から町木戸を通れる鑑札を貰っている筋の通った駕に乗らなければならなかった。
したがってそんなにぶらぶら歩いて遊びには行けないのである。
現在の陸運局のようなのが南北の奉行所にあって、東京の四大タクシーみたいな駕に限って、番太郎宛の通行手形を出していたのが、全く今では知られていない。
その点根津は、女達が朝は四つ(午前十時)から夜は七つ半(午後五時)と昼遊びだから町木戸の煩わしさもなく繁盛していたのである。
そしてそのような雑多な人が集まるということは、トケコミと呼ばれて町に住んでいるサンカ者がツナギ(連絡)に歩くのにも都合が良いし、シノガラと呼ばれて、
各地のセブリを廻って歩く者が連絡を取りに来るのにも極めて都合が良かったらしい。
サンカ集団がこの根津遊郭を作った大きな目的は、幕府の要職にある武士達も遊びに来る から、幕府はサンカに対して過酷な政策をとってきたので、今後の虐めがどう変わるのかの いわば情報収集の場でもあった。
だからここの女達は全てがサンカ族に限られていて、重要な情報は全て、サンカの最高統帥部に報告していたのである。
まあ幕末までの根津が殷賑を極めたのは、昼遊びというのは一種の隠れ蓑で、 サンカが江戸初期の如く、武蔵一(はじめ)等がばらばらに国ごとに統制を取っていたのが 追いつかなくなって、全国的になった所為でもあろう。

 「根津は女だけでなく、<羅宇・スイ>もよし」という江戸の川柳を、ソープランドの口で行う 行為と間違えて説明する、スケベな歴史屋も居るが、これはあくまでサンカの溶け込みのタバコをすう煙管のラウ竿直しの職人のことで、
竿師と呼ばれる青竹屋のラウ屋の仕事のことで、故林家三平の弟が日本一の釣竿師の跡目になっているのも、そこは歴史的に古い海老名家の伝統で、彼らもれっきとしたサンカの末裔である。

    「風呂に関する三題話し」

 さて、余談になるが、江戸の風呂は明治までは男女混浴だったが、これを日本人のスケベ根性だとか、色深い民族と解説するアホな歴史屋が居るが、とんでもない間違いである。
当時の風呂は、薪を燃やして石を熱し、それに水をかけて蒸気を発生させる方式で、 現在のサウナの原型なのである。
だからザクロぐちという、蒸気を逃がさないくぐり戸から入り、男はふんどし、女は腰巻で笹の葉で垢を落とし、水をかぶるというのが本当で、入り口は別々でも中に入ると 蒸気でよく見えないから、
男女とも裸で何の支障も無かったのである。
また、戦国時代、美濃の斎藤道三のことを、人間を釜茹でにしたとか、まむしの道三と悪意の在る解説をするが、マムシというのは強いという意味で、これは畏敬の念で、誉め言葉。
 釜茹でというのは、当時美濃の関の鍛工技術が発達し、風呂好きの道三が一人用の大釜を作らせ、それに自分が入っていた。
熱い湯が好きなので、釜の下から薪をどんどん焚いたから、頭を剃って入道のようになっていた道三が真っ赤になってふーふー言っていたのを、まるで他人を釜茹でにしているように 言いふらしたのが、
道三の娘の奇蝶を妻にしていた信長なのである。
道三は信長が尾張の跡目を継ぐのを、娘可愛さに大金を使い、尾張の重臣どもを買収して助けた。それなのに尾張領が欲しかった信長は、今川を騙し討ちにして奪った鉄砲b五百丁を修理し、
何度も美濃へ攻め入って、とうとう占領できたという経緯がある。


 サンカ民族の言い伝えに「根津は東の生駒」がある。



今は跡形も無いが昔は浅草観音様の裏手に吉原遊郭があった。
 同じように江戸の有名な遊郭として、徳川家康を祀った根津権現の裏の一帯に根津遊郭があったのである。

さてサンカのセブのことを「勢振り」と恰好をつけるみたいに、サンカ用語でツキコミというのがある。
これは突出する情報収集隊のことである。
徳川時代には、綾部に居たオオモト様直轄のクズシリは、京の御所の対サンカ政策と徳川家の 京所司代の方針とでは同じでないゆえ用心して双方に、小者とか渡り中間といったのを潜入させて情報をとらせていた。
(注)クズシリとは例えば「武蔵のクズシリ」というように、その地区の責任者、親分のような意味である。
だがこれが江戸となると将軍家のお膝元である。千代田城は身元調べが誠に厳重で、滅多矢鱈と小者やお端下の下女でも、潜りこませられるものではない。

といっても江戸の政策や意向はどうしても調べたいし探りを入れなければ危険である。
それゆえ、家康が江戸に入府の時にサンカ限定の居付地とされた根津の地に、「さぐり里」として、遊郭を家康直筆の朱印状を提出し、吉原会所なみの賦課金を幕府に納入することを申し出て許可を受けた。
モグリで岡場所などにしては探索が厳しかったので、それよりおおっぴらに税を払っての商売の方が危険がが少ないとのサンカ側の読みでる。

つまり江戸府内の噂や町方役人共の話も聞き集めて、それを総合して判断を下すためでる。これは女を使って情報を盗る、現代諜報戦のはしりといえよう。
よって女達はサンカの中でも器量よしばかりを選りすぐっては根津へ送り込んできたから、吉原よりも美女揃いなので、「遊びは根津に限る」と粋客が集まってきて繁盛した。
もともと根津遊廓が出来る前からサンカは、「遊女記」に大江匡房が書いているように江口の浦が11世紀から12世紀まで情報集めに四国の塩飽衆の舟に乗って、都よりの客をとっていた過去がある。

だが14世紀の足利時代になると、塩飽衆たちは南朝に味方をして敗れたため、足利体制から賊とされ、ゆえに京辺には近づくことが許されなくなったので、サンカのツキコミの情報集めに舟が使えなくなった。
だから今の生駒に集まり「夷駒」ともされ「イコマは悲しい女里」の唄も残される。
根津や生駒が器量よしの女ばかりを集めていたことが人気の理由だというより、もう一つ大きな訳がある。
吉原や生駒、京の島原などの遊廓では、「床をつける」という所作は、女が下になる正常位が、金を払う客を上にのせて、満足させる慣わしだったのに、根津はその逆だったからなのである。
 江戸時代の川柳の歌留多にも、「押っかぶせ、根津は好きものばかりなり」との句が残されている。
つまり女上位で覆いかぶさってくるゆえ客は、自分に惚れているので女の方が積極的に迎えてくれるのかと嬉しがる。
 処が他に聞いても誰にでも女上位でかかって来るというから、それでは此処の女は、よほど皆好き者で、するとなると、ヤラセで致すよりも、本気になってヤル気で歓んで掛かってくるのだろうと、
遊び好きな者には堪らない吸引力となって、町方の役人まで評判に釣られ通ったものらしい。これは男の手前勝手な都合のいい、思い込みというものだろう。だが事実は違うのである。

サンカは川畔の安全な所を見つければセブるが、女は冬でも冷たい水の中へ入って、腰湯ならぬ腰水に浸って 女の急所の奥まで指を入れて丹念に洗う風習がある。この行為は訳ありなのである。
なにしろサンカは大陸人や百済の男たちに、慰安婦にされたり、種付けされる前に、山や河や孤島へと逃げた純粋日本人の誇りを持っている。
しかし体制に追われる立場となっても同族を守ってゆかねばならぬら、
探索方として選ばれて廓女にはなったが、いくら商売とはいえ、異民族の子種を体内の奥深くに放出されては困る。
よって女が上になって射精させておけば、下腹を左右からもみ下して屈めば、下へぽとんと白い液体が容易に便壷へ落とせる。
そしてよく拭っておけば子種は入らず安全と、民族の純潔を護るために、遊女勤めを、当時は用心して考え騎乗位で務めたのである。

 
余談になるが、江戸時代には避妊薬は色々在ったらしい。黄表紙本の今で言う広告にも「月浚え月水散」「逆日丸」などいくらでも見られるから、庶民の需要も多かったと思われる。
さらに堕胎となると「中条流」が有名である。 しかし明治になると軍部の富国強兵策で、兵隊になるはずの子供の避妊や堕胎は国策上拙い。
従って、そうした庶民には便利でもオカミにとって都合の悪い書物などは、羅卒に命じて徹底的に集め焚書した。
だから現代でもこの手の書き物はめったにお目にかかれないのである。
さて、江戸期のこうした歌留多には性を扱った物が意外と多い。特にサンカのものは目を引く。
そして現代の乱れ切ったSEXの氾濫する時代は、サンカのこうした行動は不可解で、助べえだとか、欲望や欲情、性欲などの概念で捉えがちだが間違いで、純粋日本民族の種族保護活動の一端と捉えるべきである。
そして、サンカの掟は「統治されず、統治せず、相互扶助」だから、この精神を護るため、時の体制に虐げられ、差別され、殺されても耐え忍び、逃げ隠れるということで抵抗した誇り高き平和的民族とみられる。