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新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本史の深奥から見える「姓」の法則 先祖が伝えてきた陰姓 〝姓〟のイニシャルで明確に判別できる 第一部

2019-07-05 10:47:23 | 新日本意外史 古代から現代まで

『あなたの名前の一番上についている姓のイニシャルこそ、あなたの体内に流れている先祖からの血の系列を示す記号である・・・・・』 とか  『あなたの性格や,その行動が,目に見えぬ糸で操られているごとくに、姓のイニシャルの記号によって左右されているものである』  『人間不信の時代の今日でも、黙ってその姓さえみれば、記号別で判るみたいに相手の鑑定ができ、そのためいかに生きてゆくことが楽になるか・・・・・自閉症もこれで直るし、 これまで不運な人もきっとこれで立身できると保証できる』などといわれたら、なんとあなたは反応しますか。   もちろん、これは易者の姓名判断でもなければ占いのようなミステリーなものでもありません。

はっきりした歴史上の事実を並べての、きわめて妥当な真実の史的考察によって明らかにされた姓の方則なのです。 これは、高松塚古墳が発見されましたが、ちょうどあの頃、つまり西暦684年の朱雀元年10月に、時の天武帝が、古墳の壁画に出てくるような下ぶくれした美人のような人種に、 五十音のウクスツヌフムユの〝八色の姓〟を賜ったのを基準にしたもので、いうなれば日本列島における民族別をはっきりさせたもので、これは千数百年の歴史に裏づけられた〝血の流れ〟を解明して、 もって現代にも応用しうる科学的なものなのであります。

先祖が伝えてきた「蔭性」

とはいうものの、中には、  「姓といってても、幕末でさえ苗字を有していたのは士分(武士)以上の階級で、百姓町人といった一般庶民には無縁ではなかったか?なのに、その姓を先祖に遡って探究するのは、無理ではないか、 おかしいのではないだろうか」との疑問を持つ人もあるかもしれません。

  しかし、〝木枯らし紋次郎〟のように放浪して歩く者の他は百姓町人でも家があり住まっていれば、神棚や仏壇のある場合は必ずそこに「蔭姓」というのが祀ってあったもので、〝姓〟はそれぞれ、 いざという際に着用する紋付の紋と同じようにちゃんともっていたものなのです。そして、〝苗字帯刀御免〟というように、町人などが苗字を名乗ることを許されたときなどに、この先祖伝来の「蔭姓」を復活させ公然と名乗ったのが実状です。

 ◆例えば、坂本竜馬にしても、これは土佐藩の手がのびるのを惧れての変名であって、本姓は、「才谷梅太郎」でした。しかし、彼の時代には、造り酒屋の商人であって表向きには苗字はなく、 その「才谷」いうのも先祖伝来の「蔭姓」であったわけです。 また、天誅組の吉村寅太郎の場合も,生家は庄屋とはいえ百姓でその、「吉村姓」は先祖伝来の蔭姓で使わずに蔵ってあったものなのです。

 もちろん、先祖伝来の姓のない流れ者とか水呑百姓や日雇をしていた者もいましたが、彼らの場合はみなその生まれ在所を上につけ、もって「何処の誰」と姓にしていたものです。   さて、土地というのは、幕末までは許可された旅行者、「道の者」と称される旅芸人や流れ職人の他は、限定居住であって、今日のように勝手に何処かに移り住んでもかまわないなどということはなくて、 先祖伝来の決まった土地に住んでいなければならないのが決まりでした。

 ◆例えば、百姓などは、その自分の住んでいる土地から離れれば、これは「逃散の罪」に問われて、捕えられれば、討ち首、獄門とまでされていたのです。 ですから、大体その土地柄がどこであるかということが判ると、その住んでいる人間の民族別先祖もまたはっきりしていたのです。   ですから今でも、この姓は何処々々に多いとか、ある地方にかたまっているとされているのも、やはりそれはこの限定地域居住によるからなのです。

 ◆秀吉に取りたてられ淡路島の洲本三万石になり、幕末まで続いた脇坂家の先祖で、賤ヶ岳七本槍の一人とされる脇坂安治にしても、その出身地の小谷東西別所は三千人もが、 古来みな同じ脇坂姓だったというのもこのわけであります。

〝姓〟のイニシャルで明確に判別できる

 明治五年に時の薩長政府が、新しく地租とよぶ税金を取りたてることになったのは、一般にも知られています。しかし、徴税令書を発行し、それを間違いなく送り届ける必要上からして、 『庶民に称氏を許可する』といって姓のない者にも新しい姓を与えたのが、今でいえば郵便番号制のような姓の普及化ですが、それでは、先祖伝来の姓ではなく、そのように与えられた姓で判断しても、 それはナンセンスではないか?と早呑み込みする向きもありましょう。

  しかし、それは≪壬申戸籍≫とよばれるその当時に作成された台帳にも、はっきりと色々書き込まれ、その由来が判るようなものが残っており証明してくれます。   というのも、住んでいる地名からか、昔からの伝承の姓をつけるにしても、その最初の発音、つまり<姓のイニシャル>で直ぐ耳から入って分類できるようにとの新政府の命令で、 役場はそれを守って命姓に協力したからです。

◆もともとこれは文献の上でも、きわめて明白なことで「関馬之允の姓は、伊勢の地名からきているが、武者の姓は、これ本貫地の地名を取るが慣わしであるからである」と、 十六世紀に書かれた北条早雲の<永正三年小笠原定基宛文書>にも明示されているくらいのものであって、なにも明治になってこと新しく始まったことでもないのです。   さて、「上州、国定村の忠次郎」というように、また源平時代の、「武蔵の熊谷在の直実にて候」といっていたのが、その内に、村とか在をやがて省略し江戸期からは、 (何々の)〝の〟が縮まってしまったのが、姓と名の直結になるのです。

 ◆例外として、「美濃かとう武者の勢いすさまじく、上等の土岐侍よりも、目ざましい働きをした」と<天文三年朝倉文書>にもありますように、呼び名というか、渾名のような、 (美濃かとう武者)が転化して姓となった加藤などと言ったものもあります。(もちろん下等といっても、それは低級の意味ではなく、足利時代には仏徒が、「浄土」を「上等」と当て字していたので、 その釣り合いから神徒系は「かとう」と呼ばれたのが始りです)ですから、従来いわれていたような、  「加賀へ入った藤原氏が加藤の姓になる」といったのは単なるこじつけにすぎません。

部族を明かすイニシャル

 さて、現在と違って、人口が僅かだった往昔においては、きわめて姓もシンプルでした。  「何処々々の誰」といったその所属民族の記号を表すためのものが、とりもなおさず姓の起源であるそのイニシャルの最初の音になってしまったようです。つまり、かつては、アの太郎とか、カの次郎、サの三郎といったような単純な呼び方だったのが正しく、その後、人口が増えるに従って、アのつぎにイがついたり、 キがついたり、シがつくようになったのが、いわゆる姓らしいものの起こりといえましょう。   それゆえ姓とは今日のような漢字の字づらはどうでもよく、日本人としては、その所属部族を現す最初のイニシャルの発音だけが重要なのです。

 何故かといえば、人口が次第に増加してゆくにつれ、どうしても判別を判りやすくするために、アキの何々 アイの何々となったのが、またそれからの人口の増えに追われ、そのアキのところに田があれば、アキ田になり、山があればアキ山になったりして、一応今日のような姓というものが形ちづけられてきたものとみられますから、最初の音が主といえましょう。

   それが、前述しましたように、徴兵や召集の令状を間違いなく手渡して、国家命令に従わせる都合上、例えばオ田なら、尾田、小田、織田といった具合に村役場の兵事課や税務課に命じ、 同名異人の煩を防いだのが、発音は同じでも、文字違いといった現象の発生となったものです。   なにしろ明治の初めには地方によっては中が同姓の所が多く、しかも平仮名のままの姓も少なくはなく、とてもこれでは判別できませんでしたから、税金を絶対にとろうとしたり、 兵隊にして人民を引っ張り出す必要上やむなく役場はしたのでしょう。    ですから、日本では、漢字という当て字のきく文字のおかげで、姓の一番上の発音がはっきり示す記号なのをうまく権力に利用され、かつての背番号制ともいえる今日の姓となったのです。

五つに区分された日本民族

さて、なにしろ漢字なるものが一般に普及しだしたのは、江戸期に入って、官版と称する木版印刷の発達から、活字本が一般に出廻ってからのことです。つまり、昔は耳から入る発音だけの姓で不自由もなかったのですが、これが当て字されるようになったのは、前述のごとく国民皆兵、国民皆税となった後からのことなのです。したがって、加東も香藤もみなカトウでまるっきり昔は同じ部族だったわけで、初めにカの字がつけば川村や家島でも、みな、その流れのもとは一つなのであります。

「訛は生まれ故郷の手形」という言葉がありますが、誰もが今ではもっていて名の上につけている苗字も、これは、れっきとした先祖伝来のものであって、 今日に至るまで脈々と体内に流れる部族の血を受け継ぎそれを現わしてきているものなのです。それでは、〝姓〟の何があなた自信を、規格の枠にいれたり縛りつけて、運命づけているのかといいますと、 それは、高松塚古墳発見以来きわめて明白になった日本民族の複合形成にまで、これは遡って考えてみなくてはならないでしょう。   そこで、まずその概略を述べてみます。つまり、日本民族とは、

①原住東北系(八幡国群・天<海>の朝系) ②原住農耕系(仁 徳 王朝系)

③藤原船舶系(公家・継体王朝系)

④土着西南系(邪馬台国群・ヒミコ系)

⑤騎馬民族系(崇神王朝・蘇民系)

   の五つに区分され、日本は、これら部族の複合集合体であり、厳然として各々の血<姓>を守って、それぞれの部族の末裔は、ずっと現代まで生き続けてきたということになるのです。   あなたの祖先が、また、あなた自信が、これらの部族のどれかに入っていればこそ、日本人であるのですしそれは現にあなたがもっている“姓”のイニシャルによって明確に判別できるのです。

 大和民族は一つではなかった

 しかし、このように書きますと、高松塚古墳の発見によって、すべてが明らかになった今日でも、まだ中には「日本人、つまり大和民族は一つではないのか?」、 といったかつての戦時目的のための古い教育の影響でやはり戸惑う方もいないとはいえないでしょう。   とはいえ日本のような四方海に囲まれた列島では、季節風と貿易風とが交互に吹き寄せ、暖流と寒流の二つに分かれた潮流が押し寄せてきています。

ですから古来いろいろな人種が、水中のエスカレーターともいうべき時速3~6ノットの潮流に乗って、この日本に漂着し、今日のわれわれ日本民族なるものを形成しているのです。   つまり、沿海州や北鮮からの「北方系」、そしてペルシャ、インド、今のベトナムあたりからの「南方系」、百済からの南鮮人で、韓(カラ)とか漢(あや)とよばれてきた「朝鮮系」。   それに唐を藤の当て字にかえた「中国系」といろいろに分かれています。

 ◆さて、「天の朝」というのは「天の何々の命」と神話に出てくる部族ですが、〝アマノ〟は天からではなく海からきたことを意味します。 遠くはペルシャ湾、近くは南支那海から流れついてきたのが、それぞれにその漂着地点の浜辺で、いわゆる部族国家を形成して百以上に分立していたわけですが、邪馬台国群とか八幡国群というのがそれで、 これらの小さな村みたいな国々のことをいうのです。

ところが、その後、沿州海から満州の扶余族で、後に「元」となる騎馬民族が、朝鮮半島北部から裏日本へ入ってきました。 また、その後を追って南鮮からも新しい文化をたずさえた人たちが九州に入ってきたのです。そして、  高句麗や百済を倒した唐の軍が白村江の戦いで日本兵も打ち破ってこれが日本へ進駐してきたのが、「藤原船舶系」の時代をやがて作ったのです。  「日本」という国は日本列島に万世一系として伝わってきていますが、会社はそのままでも社長の改変があるごとく天の朝の次は崇神王朝、代わって仁徳王朝、また「大化の改新」の後、 前述の高松塚古墳の近くの藤原京をたてた継体王朝と変遷があり、私たちの先祖も、そのどれかの帝にははっきりつながってはいますが部族としては同じではないのです。

敵か味方かを調べた〝血統調べ〟

   また「大和民族は一つではない」という例証として、日本の宗教を上げることができます。   つまり今も昔も、どんな国のいかなる民族であっても、宗教は一つと決まっているのに、日本列島だけは、大別しても〝神道〟と“〝仏経〟の二本立てになっています。 (詳しくは、大陸渡来の仏経、ツングース系のカラ神である神道、それとインドヒンズーバラモン密教の三つは今でもはっきりと区別ができます)。

つまり、日本には相反する二つまたは三つの民族が雑居していたということの、、これも裏書なのでしょう。   また同様に、日本民族が一つではないという例証として、〝お見合い〟と称する日本独特の結婚風習があります。 これとても、もともとは被占領側の「原住民系」とそれに対する「外来系」との結婚を避けるためにできた風習とみられます。   これは血の純潔を守るために、旧家では、大東亜戦争までは絶対に守られてきたもので、必ず同一部族内でのみに限って、縁組する仕組みに昔からなっていました。それゆえ、もし他の地方から嫁取り婿取りする際に生まれたのが、いわゆる「身許調べ」「血統調べ」という日本独特の慣習なのです。つまりこの血統を調べるというのは、 決して病気などの遺伝を調べたのではなく前にも述べました通り、「日本民族の中の原住系の血をひく家系か」それとも、「藤原系とよばれる外来征服者の家系か」の区別、 すなわち判りやすくいうなら、〝敵〟か〝味方〟か、といったことをまっ先に調べることが、それだったのです。

 ◆もう少し詳しく述べてみますと、いわゆる「騎馬民族」を率いて、日本に入ってこられた「ハツクニシラスの天皇」と呼ばれている「崇神王朝系」と、 その前から日本列島に住んでいた「天照大神をもって最  後になった天の朝の土着系」との血統別。 そして、やがてその後になって、「崇新王朝系の騎馬民族」を追うような結果になってしまった「百済経由系の仁徳王朝」との血別。

 そして、その「仁徳王朝」をも征圧した唐ぶりの藤原(桃源境のトウゲンをもじって当て字した)氏族の「舶来系の継体王朝」の四つが、大体、日本民族の四大区分となります。 そこで、「崇神王朝系」の場合ですと、俗に「馬には乗ってみろ、人には添ってみろ」というように、同じ騎馬民族系ならば、その男性と女性は一つに添い合ったにしても間違いがないという考えがあったが、 その反面、大陸系の「継体王朝」の場合には、  「どこの馬の骨か判らない」という言葉が、娘や伜が親に断わりなしに相手を探してくると今日でさえ使われています。 もちろんこの馬とは〝馬乗の骨〟といった蔑称で騎馬民族を意味し、彼らが異民族との結婚を戒めた言葉であるといえます。

  さて、この部族どうしの対立感情といいますか、相違性は大変なもので個人の感情よりも部族の血の組み合わせが封建時代にはすべてを決定するものだったようです。  
 したがって、〝お見合い〟という形式は、〈同じ部族の者同士なのだから縁組させても、民族の血の流れは同じゆえに差支えないから、心配なしに一緒にしてしまおう〉といったところから、俗に、騎馬民族系では「馬には乗ってみろ、人には添ってみろ」といい、舶来系の継体王朝では「どこの馬の骨か分からない」という言葉で、異民族との結婚を戒めた。

 これは発生したものなのです。ですからよく、七十歳や八十代の高齢者の結婚の話しで、  「見合いといっても、ろくに顔を合わせたわけでなく、祝言の翌朝に初めて顔を見たくらいのものです。しかしこれで五十余年何事もなくうまくやってきました」  などというのを聞かされ、不思議に思われたこともあるでしょうが、その謎がこれなのです。   もしも、このルールを破って、勝手に相手を見つけてくると、昔は、部族のタブーを犯すことになり、そうした結合に対してはかなりひどい制裁が加えられ、石子詰の刑として生きながら石の間に埋めつくされてしまうというひどい刑もあり、 《日本書記》などには「異性のものと婚わいたる科により追放」などとも記録されています。

つまりこれは、日本の各地に昔からそれぞれ集落を作って住っている日本原住民たちの間には、ずっと久しく、 〝通婚同火の禁〟というきわめて厳しい慣わしがあったからです。
つまり戦前までは他の村里でをなしている者らとは決して結合しなかったものです。それに対して外来系の権力者側も、 自分らに従う者が反体制の者と結びついて、革命騒ぎでもされては困りますので自分らの方に裏切り者が出た場合は見せしめのために極刑に処したのです。   つまり、そうした原住系の中には「拝火教徒の末裔」が多く混じっていたので、〝通婚の禁〟はもとより、自分たちの火種を大切にし、他民族には、 火を分け与えない〝同火の禁〟なるインドの原始宗教の影響というか名残りみたいなものが、日本にも伝わったのでしょう。

◆なにしろ、拝火教徒の末裔には、煮焚きをするかまどの火を大事にし、「かまど荒神」と呼んで正月には、しめ飾りをしたり、お供えをするような古い習慣もあり、今でもこの人達は、 例えば「タバコの火を貸してください」といわれたときなど、マッチは貸しても、自分が現に吸っているタバコの火は決して貸さいものです。ですから競輪や競馬場などでは、今日でもこれはよく見かける風景です。

幕末に安濃徳と神戸の長吉が奪い合いをして、吉良の仁吉や法印の大五郎が死んだ荒神山の喧嘩も、 このかまど荒神が祀られていた伊勢高砥山の参詣人が多く、祭りの時には胴元に入る寺銭が一日に二千両にも及んだから、その奪い合いに清水一家の大政や田中の啓次までが殴り込みをかけたのです。

つまり拝火教の末裔が、現在の三重県だけでも何十万にもいて、そして、その連中がギャンブル好きだったからこそ、当時の公認ギャンブルレース場だった高砥山は、別名を荒神山とも呼ばれて東海地方では屈指の稼ぎ場だったのです。今日でも、それゆえ馬券をかったり、 賭けマージャンにあけくれする人は、姓を調べれば判りもしますがその末裔といえましょう。   もちろんそうした人々とは違い賭けの嫌いな種族もかなり多くいるにはいます。   さて、このように見てきますと、大和民族はひとつではないことが、納得していただけたと思うのです。 そしてその詳しい発生過程は後で述べるとしましても、ここでは民族というものは日本だけでなく何処の国でもやはり同じように純血の保持を堅持しようとしている例として、外国の場合を引例してみましょう。

以下次回に続きます。


大友宗麟の母 継母妬婦 女の魔性を衝く

2019-07-05 09:30:58 | 新日本意外史 古代から現代まで
女の魔性を衝く
世に恐ろしきは・・・歴史を作った悪魔のごとき女たち
大友宗麟の母 継母妬婦
 
今でこそ九州女は情があってよいとされる。しかしそれは、 「女は三界に家なし」とか「女は幼は親に従え、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」と徳川後期に入っての儒教で押さえつけられた後の話である。  戦国期での九州女は凄まじかった。竜造寺のねこ(寧子)も凄まじい猛女だったが、大友宗麟の母や妻は、男をまる裸にして竹筒をある個所にはめて折らせて愉しんだともいわれている程である。  だから大友宗麟の老臣立花道雪の娘げんのごときも、日本最初の鉄砲隊を編成し、「最初(はな)は立花の娘子軍」といわれるくらい九州の山野に活躍したものである。  が、のち年下の婿の立花宗茂をむかえたげんは悪女でなかったらしいが、大友の姑や嫁はめちゃくちゃで直接に裸にされ吊り殺しにされた男は十余名というが、 そのために起きた「耳川合戦」で死傷した男女は一万の余にのぼると、ローマ法王庁のイゼズス派の記録にも残されている。
 
 継母妬婦
 南北朝のころ。九州はあらかた宮方についたのに、豊後の大友親世だけが足利尊氏につき、南朝方の菊池武朝らと戦うこと七十二回。その内七十一回までは敗けたが、七十二回目には、 世の中は足利氏のものとなったので勝つことができた。このため、「頑張る者こそ最後には勝つ」と、ここで豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六国を領国として貰いうけた大友氏は足利将軍家より、 「九州探題」の任命さえ受けた。だから今日の北九州市から熊本までの九州半国を従え、大友氏は栄えに栄えたのである。  さて宗麟は、初めは大友義鎮といい、その生母は、「伏見宮貞常親王」の王女であられた。
 
現代の感覚でゆくと、皇族の妃殿下が九州の大名へ御降嫁とは変だが、この後の江戸時代になっても、後水尾帝の女御みぐしの局は後西天皇の御生母だが、局の末妹の貝姫は銀子二十貫で陸奥へ身売り、 伊達政宗が購ってその子忠宗の側室の一人にしたところ、生まれたのが己之助。のち仙台六十二万石の伊達綱宗となったとき。  従兄の後西さまが人皇百十一代でご在世中だったので密かに共に討幕を謀られ、天皇さまからは伝奏園池中納言が奥州へ下向。伊達家からは原田甲斐が京へ何度も往復している。
 
つまり、『樅ノ木は残った』などの伊達騒動というのは、徳川時代に歪曲され、でっち上げられたものの引き写しにすぎなくて事実ではない。本当は討幕運動だったのである。  さて話は戻るが、大友宗麟の御生母も、綱宗の生母と同じように売られてきた身で早く世を去った。そこで父の大友義鑑は次々と妻を新しく取りかえた。  やがて、その内に到明が生まれた。  父義鑑は若い妻が気に入りなので、長男の宗麟を廃して到明を跡目にしようとした。しかし、もうその頃は足利末期の天文の世である。重臣たちは、                                                             「宗麟さまは二十余歳なのに到明様はまだ幼児……とても、戦火風雲急な今の時勢に……」
 と、斎藤播磨守や小佐井大和守ら良識派は反対した。しかし戦国時代の女人は、儒教で押さえつけられた江戸後期のおとなしい女性とは違う。到明の母は、かっかとしてしまい、 「わが子の跡目に邪魔立て到すとは、なんと憎っくきやつではないか……」と、すぐさま腹心の家来をさしかけてまんまと瞞して捕えさせた。
 
そして二人の老臣を裸にひんむいて、これを松の木の枝に逆さ吊りにした。しかし、男のことゆえ下帯をも取られ青竹ではさまれ折られた上で叩かれても、「……参った」とはいわなかったが、血圧の高いものが頭を下に吊されては堪らない。 人とも首すじを腫らして苦しみぬき、とうとう血を吐き悶絶した。すると、奥方は、すぐ斎藤と小佐井の上と下の首を大根でも切るように、ぶった切らせた後、 「この両人に一味して、まだわが子が跡目に立たんとする邪魔を致さんとなす輩が居よう。片っ端から捕えてのけ一人残らず首を切ってしまえ……よろしいか」  と判っている人名の中から宿老の、津久見難府守、田口蔵人以下次々と名をよび上げた。
 
さて、この名を呼ばれた者の近親や縁者で、奥御殿へ仕えている者もいたからして、 「これは大変……」そこで急ぎ知らせた者が居る。だから津久見や田口らは驚き、「ひとかどの武士を殺すのに、丸裸にむいて吊し殺しとは、いくら女人の浅はかさとはいえあまりに残忍すぎる……坐して、 そのような辱しめをうけて殺されるよりは、先んずれば制することもできるというゆえ、こりゃいざ、反対に片づげてくれんず」 と、どうせ捕えられて殺されるのは判っていたから、あべこべに逆襲をはかった。 そして奥御殿の階上へ斬りこみ、狙ってきた奥方や到明だけでなく、ものはついでと、 「えい、毒をくれば皿までじゃ」と、たまたま泊っていた大友義鑑までを叩っ斬ってしまった。これが有名な「大友家の二階崩れ」で、天文十九年二月のこととされている。
 バスク人来日
 さて、フランシスコ・ザビエルといえば、これまでの説では、「有難いキリストの御教えを、初めて日本へもたらしてくれた聖者」というように評価されて、西欧心酔主義者からおおいに崇拝されている。  しかし純血白人主義を標榜してヨーロッパを席捲したナチスが、ザビエルが創めたも同じのイゼズス派の教会を焼き、その師父やシスターまで目の敵にしたのは何故かとなる。  なにしろ日本では当時のイゼズス派も、サンフランシスコ派もごっちゃなので何も判っていない。が、現在のスキーの名所のアンドラ共和国。 つまりスペインとフランスのまん中のバスク地方というのは、古代インドにアンドラ国の地名が歴然とあったごとく、「ヨーロッパの東洋」とか「古代有色人が逃げ隠れ住んでいた地帯」、 といった扱いで、まあ日本でいえば全体が落人か、道の出来ていない山地といったような特殊地方なのである。だからヨーロッパで魔女裁判の始まった頃。  彼らバスク人は狩り出されて、高慢ちきな女や残忍な女を捕えては丸裸にむき。車裂きにしたり火焙りしてヽ教会の御用をうけたまわっていた。 つまりはザビエルにしても、なにも文字や会話も通ぜぬ東洋へのりこんできたのは、わざわざ布教という目的ではなかった。
 
ローマ法王庁にあっては白人とは同じに扱って貰えぬ彼らとしては、箒に跨って東の空へ逃げたとされる魔女達の行方を追って……それを捕えて功名をたてんとしたのである。
それゆえ一五三四年八月十五日にパリのモンマルトルの丘で誓いをたてたロヨラら七人のグループが、教皇ポーロ三世によって、僅かな人数なのにイゼズス会戦闘教団として特に許されたのである。  つまり魔女狩り専門の非白人グループ教団だったゆえ、ヒットラーはその弾圧をさせたのが真相なのである。
 
さて、このザビエルが日本へきたのは、太陽暦では天文十八年の八月十五日で、初めは鹿児島港へ、海賊号とよぶジャンク船でゴアから到着した。 しかし領主島津貴久とうまくゆかず、ザビエルは京都へ行こうとして豊後の府内を通りかかり、新しく城主となった大友宗麟と逢った。そして天文二十年九月十九日にも、ザビエルは山口からの帰りにまた面会して居る。  どうして二人は意気投合したかといえば、もちろん中国人の通弁を入れての話しだった、が、「女人とは表面とは優しそうでも、一皮むけば怖しいもので、愚かしき者の中には美女も居るが、 賢いと自認している者の殆どは悪女でしかあり得ない」と、ヨーロではその当時、魔女狩りの最中ゆえ、ザビエルがしきりと力説すれば、それに対して、「如何にも……」と大友宗麟も、その継母に散々に不快な目にあっていたからして、「女人は外面菩薩で、内面夜叉と中すが……口先だけは優しそうで巧いことをいうても、いざ本性を現わすとなると女人くらい怖しいものはない」と賛成したのだろう。
 
「だったら国中の女の中で、意地の悪いのや可愛げのないのは、片っ端から捕えて裸にむいて丸焼きにしてしまったらよろしい……私らイゼズス派はその方面ではエキスパートゆえ、 おまかせなさったらよろしい」と、巧くゆけばその中に、探し求めるヨーロでより脱走した魔女が居るかも知れんと思うから、しきりとザビエルは力説した。
「が、女はとかくうるさいもの……もし焼き殺されると知って、集団を作って暴動でも起しましたら、如何なされまするぞ……」と宗麟は、大友家代々の家老を二人まで裸で吊し殺した継母や、 その手伝いをなした侍女共のことを思い出して、ぞっとするよう身震えした。すると、 「大丈夫……そうした暴動には、`遠くから撃ち払える鉄砲なるものがある」と答えられた。「相千が女人では近よっては、毒づかれ、その上にかじりつかれる心配もあるが、あの鉄砲なるものさえ有れば……遠くから始末できるゆえ良しかろ」  と、天文十二年に種が島から伝わった鉄砲の評判は、知っていたから合点したところ、「よろしい……今はサンプルとして数梃しか持ち合せていないが、印度のゴアから小銃だけでなく大砲も寄付し、 弾丸を飛ばすに欠くべからざる火薬の原料の硝石も、こちらの日本では一粒も産出しないそうゆえ、それもつけてお分けしよう」と話はまとまった。
『西国盛衰記』
 平戸の松浦や鹿児島の島津などでは、なんとかして火器の方は似せた模倣品が作れたが、肝心な硝石は日本中何処を掘っても入手できずだった。 だから信仰の為ではなく、火薬の原料欲しさにイゼズス派へ入信しかのである。今も昔も日本人は資源入手のためには何でもやる国民だった。 しかし大友宗麟だけは、継母のおかげで女の怖さが身にしみていたゆえ、すぐさま本心で、「魔女狩り」に協力を誓った。ザビエルはその後すぐ豊後の今の大分湾から印度のゴアヘ戻り、 マラッカから中国大陸に近い上州島へ行き死んでしまって二度と帰ってば来なかったが、「ブンゴ王の大友宗麟とは密約が出来ている……」との遺命によって、東洋を押えていたイゼズス派は、 ポルトガル船をことごとく豊後へつけさせた。つまり、「豊後の繁栄は以前の十倍にも二十倍にもなった。何故かといえば博多や鹿児島、平戸に入港していた南蛮船が一隻残らず、大分湾へ入るようになったからである。 大友の殿は洗礼を受けていないのに、まこと不思議なことである」と、『西国盛衰記』に出ているのもこの所為によるらしい。さて宗麟の最初の妻は今は福井県になる丹後の一色氏から来ているだのだが、やがて家老の田原家の娘を見染めてしまって、早速これと入れ換えてした。しかし彼攵は、紀元前八七五年からイスラエルの王であったアラブの妻のイサベラのごとく、血を見ること水をみるがごとしと、領内の気に入らぬ者は女子供でも大の男でも、 片っ端から逆さ吊りにして咽喉をかき切って血を噴出させて殺してしまった。
 
 
それゆえ、その当時の宣教使の書いた記録である『西教史』には、「東洋のイサベラ」と彼女のことを渾名している。そしててイゼズス派の宣教師は、「彼女こそ……東洋へ逃亡してきた魔女の化身であろう」と考え、宗麟に対して、その身柄の払下げを求めた。
しかし彼女は、それを耳にすると、「この身を魔女として印度のゴアからローマとやらまで連れていこうとは何たる事ぞ」  びっくりもしたが愕然として、侍女を集め直ちに対策をたてた。そしてすぐさま兄で、今は家老になっている田原紹忍へ連絡して、兵を集めさせると、「キリスト教徒は今や、この臼杵の城下町を占領しようと、不穏な企てをしている」と、イゼズス派の教会を包囲させた。そこで師父らは立て籠って銃で応戦しようとした。
 
当時日本を管区とするイゼズス司祭は、「四つ目のカブラル」とよばれる眼鏡をかけた大男の司祭だったが、すぐさま臼杵を離れていた大友宗麟へ事件発生の連絡をとった。  (わが妻や田原一族の反乱によって教会を敵とし……火薬の原料の硝石が入手できなくなり、あべこべにそれが他の大名の手に渡るようになったら、わが大友家は危うくなる)  と宗麟も仰天してしまい、背に腹は換えられぬとばかり、ここで決心して、「余は今やすでに他の女を妻にした。其方は離縁である。速やかに城を出て兄の田原紹忍の許へ行け」と、 鉄砲隊をつけた使いを直ちに臼杵城へやって脅かしすかし説得させた。さて、いくら夫人が獰猛でも銃口に包囲されては仕方がない。やむなく引きあげていった。
大友宗麟、島津に敗れる
 これで宗麟は、ひとまず臼杵の教会を救ったが、日本管区長カブラルの気嫌を損って、もし南蛮船が入津しなくなっては困るからと心配して、ザビエルと初めて逢ってから二十七年だが、 フランシスコ」と、ザビエルと同じ名をとって洗礼名とし、四十八歳で改宗をした。が、それでも、まだ宗麟は安心できなかった。そこへまたしても難問題がでてきた。 にしろイゼズス派では攻めこまれたのを根にもってか、宗麟の云いつけ通りに兄の家へ退去した前夫人を、魔女として引き渡し方を求めてきたからである。  「糟糠の妻は堂より下さず」というけれど、宗麟は前夫人が異国へ連れ去られ丸裸にされて蒸し焼きにされるのは忍びず、なんとかして許しを乞おうとした。そこで教会の機嫌をとるため、  「彼は日向に兵を出した。
 
そこにキリスト教徒だけの都市を作り、四方に十二の教会を衛星のごとく建て、イゼズス派に捧げる目的をもって……」と、バチカンの記録にあるが、三万五千三百の 大軍を率いて、神のやさかえを讃え、仏門の異教徒をうつため出陣した。日本管区長のカブラル神父を初め、修業士ルイ・アルメーダ以下も先登にたった。  「国崩し」と名づげた日本では初めての、青銅砲二門も引っ張って、大友宗麟は大進軍したのだ。しかし薩摩から馳せ向かってきた島津義久と、その弟の義弘は強かった。 それに、「青目の南蛮人に国土を荒らされるな」と叫んで回ると、何度も外敵の侵入をうけている九州人たちは、一致団結して薩摩勢に協力して迎え撃った。
 
そこで後に、「耳川合戦」とよばれるが、三万五千の大友軍は、各所で土民のゲリラに悩まされ敗退した。  前の妻を助けるためにキリスト教国家を日向の国に建設しようとしたせっかくの日本版十字軍の案は、スペインからの青銅砲も失ってしまい、兵は逃げ散りここに紛砕されてしまった。  そして、この結果島津と大友とは九州にあってはまったくその地位が逆転してしまった。このため天正十四年三月に、やむなく滅亡しかけの大友宗麟は京の衆楽第へゆき、 「なにとぞ、お助け下されませ」と恥も見栄もすてて、豊臣秀吉の庇護を求めた。「よし、よし」と、これで九州征伐の囗実のできた秀吉は、すぐ二つ返事で承知した。
 
翌年、秀吉の九州征伐は敢行された。勇猛な島津義久、義弘兄弟も、天下の大軍を向こうに廻しては、とても武器や兵員の劣りから抗しえず降参をした。さて、本来ならば、日本国内にキリスト教の別世界の国を作ろうと兵を動かした大友宗麟であるからして、「この売国奴め」と罰せられてもしかるべきなのに、 なんのお構いもなく彼は悠々と豊後津久見で、五十八歳まで安楽に暮しえたのは、 「いくら離縁したとは申せ、長年連れ添った女房を、魔女として南蛮人に渡しとうなかった気持は判る……男として見上げたものよ」と、秀吉が特に許したからだと伝わっている。しかし大友宗麟の継母といい、その妻といい、男を逆さ吊りにして虐殺する趣味、があって、ローマ法王庁にもその名が記録されているのは、日本の悪女としては国際的貫録であるといえよう。
天正十年、宗麟は九州の大名、大村、有馬と共に少年使節団を欧州に派遣した様子が「佐田文書」「毛利家文書」「武家事紀」に記されている。 多くの大名は火薬欲しさにキリスト教に入信したふりをしていたが、宗麟だけは本心だったのかもしれない。
 
 
 
 
 

易占い 星占術の考察 命助かりたさ一心で繁盛した易占

2019-07-05 09:13:45 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
そもそも、易とは中国から伝来したもので、エジプトの星占術と共にその歴史は古く、後漢の時代から易経と四書五経の中に含まれ、経典とされたので、 秦の始皇帝の焚書にも免れたと云われるほどである。  今に伝わっているのは上下二経十翼で、易の基本観念は陰陽二で重ねて三、三と三に二を重ねて八卦、天、沢、火、雷、風、水、山地。 又は健、説、麗、動、入、陥、止、順、と分けたり、象を主とする漢易と、義を主とする宋易との区別があるから、日本へ入ってきてからは江戸時代には、 五運六気の説を立て、天人合一の理を唱えて「易医」ができ、幕末に至っても、漢方や蘭法医に対抗して、新井白蛾(はくが)たちの易占家の易医書が巾を利かせていた。
 
 
つまり病人の枕元で脈もとらず診察もせず、ぜい竹をガラガラさせて病気を当てたり、治療法をも占って教示していたというのである。 こんな怪しげなものだから、医師法違反になるので今は絶えている。楠木正成を調べて、後醍醐天皇の頃を丹念にあたると、当時の世情不安を反映して庶民たちは、 都大路の辻ごとに易占が出ていて、男女が列をなして並んでいるのが、京二条から七条までの間に、亀卜といって亀の甲羅の裂目で占う者が二十三人、ぜい竹での易断が二百六十人、 観相が百八十五人、手相判断が百三十余人と<泰政実記>に、よくも数えたものだと感心するほど詳述されている。
やがて南北朝の長い戦乱の時代になっていくゆえ、鼠が天変地異を予知して脱走するにも似て、人間も哀れや易や星占術へと身の振り方を相談したのだろう。 よく、景気が悪くなると易者が繁盛するというが、即席で易者を開業するものも多い。道路交通法規さえ守れば街角での営業してもよいので、簡単である。 今は、立派なビルの中で、高額な料金を取っている者もいる。さらにネットでも妖しげな水晶占いや、タロット占いも盛んで、迷える子羊たちで繁盛している。
命助かりたさ一心で繁盛した易占。
さて、日本でこの易占が全国的に一気に繁栄したのは日露戦争の時だった。何故なら、旅順要塞の二百三高地攻略であまりにも日本兵の犠牲が多かったからである。 (後年の記録では、僅か一か月で戦死者一万六千人、戦傷四万四千人)何しろ、第三軍の司令官乃木希典は、塹壕や強固な銃眼から機関銃を撃ちまくるロシア軍の前に、日本兵は真っ黒な軍服に、 まるで目印のような白たすきで、銃剣突撃の繰り返しをさせ、戦死、戦傷者は猖獗を極めた。
 
今日は千人、昨日は二千人と戦死者は増え続けた。 これが内地の新聞に連日報道されたからたまらない。これから赤紙一枚で招集される庶民は、如何にしたら戦場へ行っても命が助かるかということが悲願となった。 四銭(死線をしせんともじって)を超えて、五銭といった千人針と同じように始められたのだが、これは儲かると目を付けたのが初代高島易断である。
彼は、大道で占いに来た者の名字を聞き、例えば山本ならステッキで地面に「この字は真ん中に一本縦線を引くと左右対称で、敵の弾丸も分かれてゆくから大いによろしい。命は大丈夫じゃ」 等と全く非科学的で何の根拠もない妄言で大いに金儲けに奔走したのである。人の命や幸福を金儲けの手段にしたのだから飛んでもない男である。 また今日に至る姓名判断は、姓は戸籍法で変えられないゆえ、名の方を変えて字画の差異で幸運をという、これまた根拠のないものである。 YAHOOブログや様々なブログでもでもこの手のものは多く、人気もあるらしいが、夢々騙されてはいけないと、忠告しておく。