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新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

幡随院長兵衛(町奴)と水野十郎左衛門(旗本奴)の対立とは 首切りは何の為に行ったのか 江戸城で何故に白衣を着たのか 忠臣蔵の裏話

2019-07-02 10:45:05 | 新日本意外史 古代から現代まで
         旗本白柄組 水野十郎左衛門の実像
 
◎ 幡随院長兵衛(町奴)と水野十郎左衛門(旗本奴)の対立とは
◎ 首切りは何の為に行ったのか
 ◎江戸城で何故に白衣を着たのか
◎江戸時代に現代風の風呂はなかった
◎忠臣蔵の裏話
 
 
 
 
「幡随院長兵衛は男でござる」と水野十郎左衛門の向けてくる槍先を、何もいわずに、「さあ、ここをどんとお突きなせえやし」 すっ裸の胸を叩いてニッコリ笑うのは、お芝居や講談だが、今では悪役なみの、「水野十郎左衛門」に話をもってゆくことにする。 いまの歴史家は、まこと単純なもので、 「ブルジョワジーの興隆に伴う町人階級の利益保護のために、長兵衛ら町奴はうまれ、特権階級の旗本奴と対立した」と説く。
 
 しかし徳川時代といっても、ざっと三世紀はある。 まだ戦国の匂いのぬけていない明暦年間と、幕末に近い文化文政の頃とでは違う。 この水野十郎左衛門の祖父というのが、高柳光寿博士の文中にでてくる水野藤十郎勝成なのである。 そして、この勝成というのは、三河苅屋城主だった水野勝元の弟忠重の倅だが、関ヶ原合戦の起きる前に家康から召されて、 「汝、光秀にあやかれよ」明智光秀遺愛の槍を貰うと、「はあッ、光秀のごとく頑張ります」と、それからは奮戦し、元和元年大阪夏の陣で は、「天下の豪傑岩見重太郎」こと薄田隼人。 大坂一の暴れん坊の、後藤又兵衛基次。 この二人を、光秀遺愛の槍をもって仕止め、「誠忠無比」「剛快無双」と謳われ、「備後福山十万石」の大名に昇任した人物である。
 さて、幕末の有名な詩人菅茶山には、『福山志料』の著があるが、その中に、 「備後福山の西北に本庄村、東に三吉村、そしてその先の深津村は橋のない川が流れて、住民を<三八>とよんでいる」とある。  これは水野勝成が福山の領主になった時、三河苅屋の八を伴ってゆき、彼らを直属の秘密警察として、新しく貰った土地の監察をさせたから、それで(三河から伴ってきた八)が鈍って、いわゆる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」とよばれる者になったのである。  さて現代では、橋のない川はとかく問題になっているが、徳川初期はどうだったかというと、この福山では殿様の警察組織ゆえ、 「三八は常に大小の二刀をさし、歩く時は槍を先に立て通行した。この三八の者らは牢番警吏拷問を仕事とした。また処刑も彼らの一存で一方的に取り決め、初めは深津村専故寺前で斬罪にしたり、その首をさらし物にしたが、のちに榎峠に移された」とある。
   首切りの謎
なぜ、こんなに絶えず首斬りをしたのかというと、これは需要があってヨロクがあった故、必要以上に死罪にして殺していたものらしい。と云うのは‥‥ 化学薬品のなかった頃は人間の内臓が特効薬で、肺病には生血、レプラには尻の肉。心臓病にはハツ、肝臓病にはタンを食すれば薬効ありとされていた。 ところが今も昔も病人は多く需要も多い。 が、冷凍設備がなくて死人のストックもきかない時代ゆえ、注文が溜まってくると、それっと、「御用ッ」「御用ッ」と三八衆は出動し、適当に誰か召捕ってきて、ゴウモンも公然の仕事だから、「生血を入れる竹筒を用意しておけ」「レバーを包むイモの葉っぱを揃えろ」 とセットしておいてから、バッサリ殺してしまい、 「お待ち遠うであった」と配達したらしい。つまり、このために専故寺もそうだが、彼らの薬師系の寺は、備後以外でも「医王山」とか「医王仏」などという。
 
しかし、現在吾々の口にするビーフステーキが、さくらステーキであるように、そうそう人間は殺せないからイミテーションに牛馬を代用にした。  そのため皮はぎもしたが、竹細工でお茶の茶筅作りも利休時代からしていたので、「茶せん」「おんぼう」の別名もある。何故この人達が、やがて明治大正となり橋のない川、つまり差別の対象になったかというと、五代将軍綱吉の頃の弾圧からになる。そして明治になって警察制度が代わって、かつての警察権がなくなったため、「おのれ、よくも今まで好き勝手しやがったな」と他の住民に報復され落ちぶれたせいである。
さらに、有名な「人斬り長兵衛」とよぶ八部の親方がいて天保から安政にかけて此方の淵でズラリと並べてはバッタバッタと斬ってのけ、「富士の妙薬」といわれた生血は竹筒一節一分銀二匁で売った。 脳味噌は生薬として梅毒の特効薬で銀五匁。心臓や肝臓はラウガイといわれた肺病用銀三匁で斬刑の時は奪い合いで薬屋が求めにきた。需要の多さに何でも死罪にし怖れられていたという事実もある。
     江戸城で何故に白衣を着たのか
 水野十郎左衛門の話が、その祖父の勝成にさかのぼり、備後福山の三八にまで、脱線して展開してしまったが、私がいいたかったのは、「旗本白柄組」の時代というのは、八の連中が戦国時代の名残りで、まだ肩で風をきり、槍をたてて威張っていた頃だという事である。  そして、彼のグループの久世三四郎、加賀爪甚十郎といった連中も、みな三河横須賀まむし塚出身の別所者で俗にいう、「白須賀衆」の旗本の面々だったのである。
 
さて彼らが刀の柄に白糸の編んだのや、白革を目につくように冠せ、自分らから、「白柄組」と名のったというのは、そうする事が、あの時代では恰好良いことであり、女にもてたからだったのではなかろうか。といって、看護婦さんは白衣をきているから、天使のように素晴らしい、などという少女的な発想とも、これは違うのである。かつて東京に都電が四方八方に動いていた頃。
夏ともなると(都の催し)という掲示が車内に出たものだが、上野公園の納涼大会に並んで、そこに書かれた文字で、 「八朔」というのが見られた。 これは八月一日の当日限り、昔の江戸城では将軍から茶坊主に至るまで白衣をき、吉原の女郎衆も白一色になる行事である。といって、 (お女郎衆は博愛を衆に及ぼしているから)と、ナイチンゲールにあやかって、白衣をというわけではない。彼女を有名にさせたクリミヤ戦争は、1856年つまり幕末安政三年だが、江戸のお女郎衆は家康入部の頃から、八月一日は揃って白衣をきていた。  ところが八月一日という時候がら、 (現代でも、その前には学校や官公庁の制服も、衣替えになるからなあ) と間違えやすいが、陰暦の八月一日は秋風のたつ九月である。何も防暑のため白をきたわけではない。これは家康の臣内藤清成が書いたという、『天正日記』によると、
「天正十八年(1590)八月一日に、小田原城攻めが終り、秀吉から国替えを命ぜられた徳川家康が、白衣を羽織って江戸入りした」 旨の記載がある。つまり八月一日は、「江戸開都祭」といった意味での、「八朔の祝い」で、諸大名や旗本もみな白上下をきて、揃って江戸城へ式日として伺候したのである。さて、では何故、「白衣をきて家康の一行は入ってきたか」ということになるが、内藤清成は、その日記の八月七日の条に、 「とうこういん(東光院)へ参拝」と明記。八月十三日のところには、 「家康公の御乗馬花咲が病気になって倒れたので、豊島鳥越郷の江田[]をよびて渡す。彼らは源頼朝公以来の江田一族だと申しでた」とある。
 
これは「東鑑」に江田小次郎。「平気物語」に江田源三、「源平盛衰記」に江田弘基、「太平記」には、江田源八、とあるように、いわゆる源氏の主流をなす者が名のった姓で、彼らは北条氏に追われて山間僻地へ逃げ込んだが、足利時代には、「白旗党余類」といった蔑称をうけ、その信仰も、かつては白山や土俗八幡や荒神を信心していたが、やがてこれが、「東光」とよぶ、東方瑠璃光如来の薬師派になって団結していった。つまり、
「西方極楽浄土を説く仏教徒」が墨染の衣、つまり黒を身につけるのに対し、彼らは、「白衣をもって対抗していた」という歴史的事実がある。そして源頼朝が、総追捕使の官をうけた時点に於て、各地の江田一族の白旗党に、末端の警察権をもたせたので、それが慣習となって、彼らがお上御用の逮捕権をもったり、断罪権を明治五年まで握っていたのである。
「弾正」とか「弾正台」というのは唐の官名の輸入だが、「弾左衛門」というのは、幕末までは漢字は発音記号と同じで当て字が当たり前だったから、「断罪 衛門」のことではなかったかとも考えられる。また、「松永弾正」とか「仁木弾正」といった名があるが、これは「井伊掃部頭」といった類と同じで、白旗党余類にのみ与えられた侮蔑的官名で、信長の父の織田信秀も、八田別所の出自ゆえそうした名乗りを貰っている。
 
 つまり水野勝成が、三河の八を伴っていって、「警官兼検事、そして獄吏」に用いたのも、なにも特殊なことではなく、当時は日本全国どこへ行っても、番太郎、下引き、目明かし、牢役人は彼らだったのである。だからして江戸期も中頃になると、重なる怨みに民衆は、「源氏」という呼称を、きわめて悪意的につかった。例えば、ならず者のことを、「源氏屋」と蔑んだり、いかがわしい女の屯する青線を、「源氏店」とよんだ。   しかし芝居もとよばれる彼らの分派集団だったゆえ、現在の人形町と堀留の中間にあった岡場所などは、 「しがねえ恋の情けが仇」の芝居をする時には、わざと、玄冶店(げんやだな)と文字づらを変えて上演していた。  もちろん俗説の「清和源氏」などというのも、系図屋さんや筆耕者の江戸時代の作りごとで、清和帝が土着の原住民に係りなどあろうはずはなく、これが全然無関係の虚妄にすぎなかったことは、今なき高柳光寿先生の努力によっても解明されている。
    寺側のガードマンが幡随院の長兵衛
 さて、旗本奴として反仏的な水野勝成の五男の跡目の十郎左衛門などが、「吾々は白系だぞ」とエリートづらをして、のし歩くのに反感をもったのは、お布施を、「なんまいだ、なんまいだ」と数えて、坊主丸儲けを豪語していた寺ということになる。 「けったくそ悪い、仏罰をあてたろまいか」となったらしい。昔なら、僧兵でもくり出す所だろうが、時代も江戸期となると、そうもゆかず各寺の寺男から腕っ節の強いのが選抜された。  ところが、ばらばらに寄せ集めたのでは、とても喧嘩にならない。そこで幡随院の住職良碩上人という坊主が、スカウトしてきたのが常平とよぶ者だった。
 
 これに今でいえばジムを境内に作らせて、トレーニングさせてから、「幡随院の長兵衛」という寺の名をPRするような名をつけた。すると各寺から、 「この小僧は頭がよぉないで、お経はなかなか覚えぬが腕っ節は強い」とか、「うちの境内で悪いことをした奴だが、強そうだから牢へ入れるよりは」といった連中を次々と、幡随院のジムへ送りこんできた。そこでこれらを順番に訓練して、「唐犬権兵衛」「小仏小兵衛」などと名づけ、とりあえず四回戦ボーイに仕立てると、 浄土宗だけでなく日蓮宗の寺からも、「法華の平兵衛」以下が送り込まれてきた。 また、浄土真宗でも、これとて、「念仏佐平次」といった連中を育てて送りこんできた。だから今でいう三派全共闘ということになった。そして各宗派をうって一丸となしたこの全仏教連合は、その総合名を、「黒手組」と、白柄組に対する名称にした。
後年は講釈師がこれを間違えて、 (花川戸助六を黒手組としてしまった)が、実際はこの時の連合団体の総称であるのが正しい。 もちろん、これだけに人数が増えてしまうと、寺でも布施やサイ銭だけでは賄ってゆけない。そこで「割元」とよぶ、男の派出野郎会を始めた。といって、この時代のことゆえ料理や炊事に廻すのではなく、武家屋敷へ供揃いの類の人手不足の折に出すのである。 さて、こうなると旗本白柄組のところへも注文があれば、人手をさしむけるようになる。
そこで双方が衝突となると、町奴とよばれる長兵衛方が向こうの内情を知っているだけに、なにかと好都合でゲリラ活動をする。 溜りかねた十郎左衛門が、向こうのボスの長兵衛と、(白昼の対決)をすることとなった。
 
 
ところがこれが無法な西部の荒くれ男なら、互いに路上に現れて、早射ちで相手を倒しあうのだが、まだアメリカなどという国は出来る前で、それに既に当時の日本は法治国である。 武士社会では「鯉口三寸(十センチ)抜いたら御家は断絶、その身は死罪」という治安維持法が千代田城の松の廊下だけでなく、広く一般にあった。 いまも警官はみな拳銃を持っているが、だからといってアメリカなみに、人をみたら泥棒と思えとやたらに撃たない。いや撃てないのと同じことで、武士が刀をさして いるからといってテレビのチャンバラみたいに、抜かなくては損みたいに振舞わすということはなかったのが当時の実情だった。 それに武士の刀は公刀ゆえ、抜刀するには、やむを得ざる理由がある場合か、扶持を貰っている主君の許可がいることになっていた。 だから、果し合いは人目につかぬ室内となった。 この時、講談では長兵衛が風呂へ入っているところへ、卑怯にも水野十郎左が、「許せッ」と袴のももだちをとって押しこみ槍をつきつけ、裸の彼をブスリとやった ことになっている。
     江戸時代に現代風の風呂はなかった
しかし、そういう事はなかったろう。第一あの時代にあんな当今みたいな体ごと入る風呂などははあり得ない。  幕末まで、風呂というのは今のサウナみたいなもので、湯気で身体を温める式のものである。桶に水を入れてわかすのは、江戸中期でも五右衛門風呂といって関西独特のものだった。十返舎一九も弥次喜多が初めての経験のため浮板をとり、下駄ばきのまま入って釜をこわすように話を書いている。  炊き口から火を燃やし積んだ石を熱して湯気をだすのは容易だが、ボイラーのない時代ゆえ、浴槽を作って中へ入るには、大きな釜を作るしかないが、それが技術的にも一人用の五右衛門風呂の釜くらいが精一杯で、何人もが浸れる大きな鉄函は当時の鍛工では出来なかった。
では身体ごと浸る風呂はいつからかというと、これは幕末の産物であって、初めは街道の茶店の葭簀の蔭に溜めた天水を入れた桶をおき、太陽熱で温かくなったのに、汗まみれの旅人が銭を払って汗流しに入ったものなのである。
 
江戸では、川へ入っての水浴しかしたことのない薩摩人が幕末に増えてきてから、「水風呂」の名称でこれまでの蒸し風呂と区別して三田ッ原に出来たのが最初で、西部劇のバスなみに、ぬるくなると三助が熱湯をそそいでいたが、それでも、「水風呂で風邪をひいたとくしゃみをし」と物珍しさで入湯にいった江戸っ子の川柳があるくらいである。
つまり、こうした全身入浴の風呂なら生まれた侭の姿で入るが、ふつうの浴室はサウナゆえ、男は下帯、女も湯巻をまいて入り、その部分は目に入らぬから、 「男女混浴」も日本では自然だったのである。
 
つまり長兵衛が湯船からザブンとでてきて、ぐっと胸を張って殺される場面は、恰好はよいが、あれは絵空事にすぎない。 『福山水野家記』によると、 「成之(十郎左衛門)三千石にて分家お旗本として召されしが、徒党をくみ競いあう。明暦丁酉暴徒(長兵衛)不敵にも忍びこみ襲う。発覚して浴間へ這いこむ。柘榴(ざくろ)口は狭少なるを以って入れず、成之の家臣これを仕付槍にて刺す。しかれど、その槍が権現さま拝領のものゆえ、その時はお構いなかりしがその後も乱妨やまず七年後に蜂須賀家へ預けられ、家事不取締に問われ死罪仰せつけられ、成之の家系はこれにて絶ゆ」とある。
福山十万石は十郎左衛門の里方ゆえ身びいきもあるだろうが、三千石の直参旗本が、割元風情の男を自邸に招待するというのもおかしい。 やはり実際は秘かに邸内へ忍びこみ、見つかって這って潜れる柘榴口から隠れ、これを十郎左の家来が突き殺したのが本当かも知れぬ。となると、これまでの芝居はまるっきりの出鱈目、フィクションということになる。
しかし双方共に、別に男を売るといった事より、ありては白の神信心と、それに対抗する黒の仏徒側の宗教争いゆえ、それくらいが落ちかも知れない。  が、今でもテレビドラマをみて実存と思い込む人がいるように、日露戦争後から大正にかけてのデモクラシー時代に生まれた(町人の味方の侠客長兵衛)というイメージにとりつかれ、十郎左を悪玉扱いする向きもあるが、それではせっかく明智光秀の槍を貰ったその祖父の水野藤十郎勝成にすまないようなもので、「男でござる」と客観的にいいきれるのは、作りものということになるのであろうか。カッコがよいのやらもっともらしいのは信用できかねる。
    忠臣蔵の裏話
 忠臣蔵で一般的によく知られているところの、 「ないないのマイナイ(贈賄)を江戸勤め家老がしなかったばっかりに、吉良上野を憤らせてしまい、殿中で恥をかかされた浅野内匠頭が上野に斬りつけた」という話がある。 このために浅野家は取りつぶしにあって、家老大石内蔵介以下が、翌年十二月に、本所松坂町の吉良邸へ討入りテロを敢行。これが、「忠臣蔵」だが、討入りがよく知られている割には、その発端はあまり知られていない。
 
だが、定説みたいな通説はまかり通っている。幕末の嘉永年間に岩城平藩士鍋田昌山が資料を集めたという「赤穂義人纂書」を定本にしていて、明治四十三年に上下二巻で刊行された国書刊行会のものにも、佐藤直方門下の書いたという、「浅野吉良喧嘩にあらざる論」があるが、「吉良が浅野に対してつらぐせして浅野に腹を立てさせたるは、浅野が吝で金をやらぬ故なり」とでていて、ケチを理由にしているし、 太宰春台のものでは、 「相役の伊達右京充の家臣は吉良上野に多額の金帛を贈る。よって吉良は殿中にて伊達を賞める。赤穂候浅野内匠頭はこれをきき逆上して吉良をきる」となっている。 だからして収賄事件が発端のように伝わっているが、昭和六年に雄山閣から出た二巻の、「赤穂義士史料」に入っている。 また「関白近衛日記」では、「口論に及び、しこうして浅野は吉良に一刀を討つという、珍事珍事」とあり、 「東園基量卿記」では原因を、 「浅野内匠頭乱心の由、沙汰あり」とする。
まあ突然発狂したというのであれば、極めて事の起こりは簡単だが、太宰説では、(浅野内匠頭の家臣も伊達の家臣同様に吉良上野介に、多額の金を贈っておいたのに、片手落ちに伊達の方だけを賞めたから、それは不公平ではないかと、斬りつけた)ことになっていて、これでは吝ということにはならなくなる。 だからして、どうも、これまでの通説がおかしいのではないかと疑いたくなる。
というのは今でこそ相手に手土産や金を贈るのは、帰り間際か用談中に差し出すのだが、昔は違った。 先に入口の式台にまず並べてから、「頼もう」といったものである。すると、「どうれ」と受付がでてきて用向きをきき、 持ってきた金品と比べてみて、秤にかけ、至当と思えば、その進物を式台の上でコツン、ガタンと音させた。
そこで取次衆とか申次という役目の者が、「いまの音なら、これは合格であるな」と判断し、表書院へ通す仕度をさせた。だから、こういったものを、江戸時代まで 「音物(いんもつ)」といい、物も届けてこねば便りもないのを「音信不通」ともいう。
 
そして入口の式台から転じて昔は、 「色代(しきだい)」というのが挨拶のことで、(これでは少ない)といわれ音物を増すのを、「色をつける」とも称しこれは今でも用いられている。
足利十五代将軍の義昭などは信長に追われて、和歌山の由良や備後の鞆にいた頃は、面会というか拝謁にくる者から、参観料みたいに銭五疋から十疋。一疋は十文だから当今の五千円から一万円の色代をとって、それを生活費にあてていた記録が、同地静観寺には残っている。つまり色代には相場があった。 だから浅野家江戸屋敷詰めの者が、吉良邸へ挨拶にゆくのには、それ相応の相場に叶った金品は先に持って行っているはずである。 でなければ玄関払いされて受付けてもらえないからである。
 
また浅野家は、その数年前に、やはり接待役を仰せつかってコーチを頼みにいっているから、これを前例として、「吉良邸へは何程の色代を持参するか」は前もってよく知っていたはずである。  間違っても浅野家の江戸家老が、「ケチをしまよう。ド吝にしよう」と持ってゆく物を惜しんで、手ぶらで挨拶に行ったとは考えられない。だいいちそれでは面会謝絶である。それに各藩とも江戸勤めの家老というのは、「御留守居役」とも称され、現在でいえば外交官の仕事で、普段でも老中や役向きを接待して一席もうけたり、それぞれに付け届けするのが彼らの仕事だったから、それが、「江戸家老がケチしたばかりに、吉良上野にいびられ、殿が我慢しかねて抜刀した」というのでは辻つまが合わなさすぎる。 つまりこれは一般に判りやすいようにというか、収賄したくとも出来ぬ民衆の為に、(贈賄ばかり取っている人間の末路は哀れなもので、炭俵のつんである小屋へ逃げこんで真っ黒になっても、白い雪のところ引っ張り出されて殺されてしまうのだ。おう貧しき者こそ幸いなるかな。そは収賄ができねばなり) といった説話的構成になっているのか、はたまた勧善懲悪でかと、どうも首を傾げたくなる。
この忠臣蔵の本当の訳は別にあって、真相は以下に書いてあるので是非読んで頂きたい。

日本司法制度の歴史的考察 江戸時代の司法 大岡越前は名奉行ではない 信じられない日本の裁判所

2019-07-02 09:42:25 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 
以前、寺西判事補の分限裁判抗告審で最高裁は「自由の制約容認」の判断を示した。 マスコミに大きく報道されたので、詳細は割愛するが、私が興味を持ったのは、裁判官、検察官、行政官出身の十人の判事が「裁判官の中立」を重視したのに対し、 弁護士、学者など民間出身の五人の判事が反対意見を述べ、経歴によって見解が二つに割れた事である。 ここに日本の裁判所の、一般社会と断絶した閉鎖性が色濃く読みとれる。 日本の司法制度は敗戦後、アメリカによって近代民主主義制度で運営されるようになった筈だが、どうもこれはタテマエであるらしい。 ここで日本の司法の原点から考究してみる必要が在りそうである。
                        江戸時代の司法制度
先ず江戸時代の司法制度について考察してみたい。 大名や旗本は町方とは全く無縁だったのに、それぞれが各与力に手当を出して、用心棒というか法律顧問のような恰好で置いていた。 与力の下の同心も同じで、今と同じ官僚の仕事ぶりで、上からの命令だけを聞き、その言いなりに働いていたのである。これが彼らのサイドビジネスで袖の下の手当を貰っていた。これが江戸での実体である。 地方ではどうかというと、代官に金を送り、御上御用の目明かしになり、投資した分の何十倍もを一般の町屋や農家から巻き上げていた。 現代でも、信用組合や都市銀行が大手サラ金業者には、庶民から集めた金をどんどん融資している状態と相通じるものがある。
 
 というのは政治献金を貰った議員が、ノンバンクには有利なサラ金法案を国会で通すのと全く同じ。今も江戸時代そのままなのが、二十世紀の日本の行政であり、警察制度であり、全然変わっていない。 日本史は、こうした江戸期の役人制度をすっかり秘密にしてしまって隠している。 何しろ江戸時代の裁判というのは、評定判決は全て”良と賤”の原則で行われており即ち差別と、<地獄の沙汰も金次第の>という如く、後は現実的裏取引だった。 奉行所というのは、町民の為の公僕的存在などという思考は、敗戦後のアメリカナイズでしかない。同心達が自分から動く時というのは、立ち退かぬ町家をいくらと請け負って、別件逮捕で大番屋へ送りこみ、 拷問責めで自白させ犯罪人に仕立てあげてしまうだけの話。これが地方へ行くともっと極端だった。
 
「嘘っ八」とか「嘘の三八」と云う言葉が今も残っているように、家康入部の際、三河の八部と呼ばれた連中を伴って江戸の治安を任た。地方に残った八の連中は、代官が面倒がり厄介がる捕物の下請けをしていた。これが今の人には想像外の飛んでもないことをしていた。 ヤクザは田村栄太郎説では八九三が語源だがどうも違うようである。 戦国時代、足軽頭が「役座」といって、藁を二三枚敷き、起居していたその下の方から、足軽たちが「宝引き」といって藁を抜き合い、その長短で暇つぶしに博打をしていた。 抜きすぎれば薄くなり、取り替えねばならぬので賭け金の一割を筵の下に差し込んだのが語源であると、これは「毛利家史料」の<吉田籠城日記>に書かれている。
私見だが、現在のヤクザ(暴力団)に博打の権利を与える方が施政上は得策ではないかと思う。
 
テキヤも博徒も一緒くたに暴力団として括っているが、祭りなどのタカマチでの商売はテキ屋の領分だし、 博打は博徒の領分だったのである。 お上が彼らの利権を取り上げた結果、彼らはマフイア化してカタギの世界に入りこんで様々な悪事を働くのである。 企業や政治屋も彼らを利用した結果、過去のバブルの一因にもなっている。一方でお上は、競輪、競馬、パチンコなどを合法としている。近頃ではサッカー籤までお上が仕切るという。 要は「お上にテラ銭の入るものは合法。それ以外は非合法」という事なのだが、こんなたわけた話はない。ヤクザの賭場でのテラ銭は五分だが、中央競馬など二割五分も盗っている。 お上のこうした”あこぎ”な政策は目に余る。やってることはヤクザ以下である。従ってこの日本社会からヤクザが無くならないならば、彼らの元々の”正業”である博打の利権を返してやることである。その方が彼らが起こす犯罪は減少するだろう。 そして寺銭の所得は申告させ、それに税金をかければ堅気の事業者と同じで、何の問題も起きない。
     
大岡忠世は名奉行ではない
 
さて、江戸享保年間から徳川吉宗の指示で大岡忠世が、日本全国の街道を流して歩く遊芸人や旅回りの八の部族(海洋渡来民族)に「夷をもって夷を制す」と、古来よりの鉄則通り、 彼らにその民族カラーの赤を象徴する朱鞘の公刀と捕り縄を渡し、五街道目付という権限を与えた。 勿論幕府は手当の類は一切出さず、代わりに彼らに鉄火場の運営を黙認してその費用に充当させた。大岡越前は晩年は大目付になれたが、当時は江戸町奉行。 彼は全国的に幕府体制を守るため、治安維持を実施する責任者で江戸町民の事など眼中にはなかったろう。彼は徳川体制の徹底した司法行政官僚であり、テレビで映っているあんな人情味のある男ではない。
 
 御上御用の側の賭場は公認だが、モグリの賭場の摘発は二足草鞋のヤクザに任せていた。 さらに売春も、幕府公認は吉原遊郭だった。しかし売春は何時の時代も儲かる商売だから、彼方此方に岡場所として私娼窟ができた。
これは幕府公認の売春地帯吉原の商売敵である。だからモグリの岡場所の摘発は、吉原溜の四郎兵衛輩下が岡場所の女を捕らえてきて、奴隷女郎にして働かせた。 これは岡っ引き制度と全く同じである 当時の裁判や警察制度は、江戸の御上が全部するのではなく、各地の縄張りを決めあった親分達が下請けをしていたのである。
 
 「人斬り長兵衛」と呼ばれた富士吉田を縄張りにしていた有名な親分が居た。講談や浪花節では勇ましい男とされているが、実像は全然違う。 日本人は現代もそうだが、当時も薬好きの国民だったらしく、漢方の煎じ薬より、生薬の人気が高かった。今謂う肺結核には生血、胸や腹の痛みに生の肝臓、梅毒には肛門の肉が効くとされていた時代で、 極めて需要は多かった。
「そうか、生血が竹筒で三十、生肝臓が五で、菊肉が六も注文が溜まったか。なら六人ぐらい、誰かしょつぴいてきやがれ」と長兵衛親分が子分に言いつけて、片っ端から曳いてこさせると河原で即席裁判。 注文は早く届けねばならぬから、急ぎで適当に罪名を言い渡して裁くと即刻死罪処分とした。だから庶民に恨まれて「嘘っ八」とか「嘘の三八」の言葉も残っている。
生血でさえ竹筒一節で八百文から一貫の高値で、ど頭かち割った脳味噌は銀二百文になったというから、一人殺すのでも儲かった。 そして、前もって捕らえて牢に入れて置いては食わせねばならぬが、生薬の注文が纏まった処で、御用ッ、御用ッと召し捕ってきて、逆さ吊りにして血搾りすれば生きの良い新鮮な生薬が取れたからこれは合理的である。 始めから生薬にする為の捕縛だから、裁判と言っても言い渡しだけで、享保時代から明治初年までの警察や裁判のこれが実体だったのである。
 
 この裏付けは富士吉田の浅間講の信者が求めた、売渡し値段表として残されている。 こうした制度は何も静岡に限らず、日本全国みな同じで各地に「人斬り」の親分がいて怖れられていたらしい。
 
 
    明治維新後、権益は取り上げられた   
 
 このため明治維新後、新政府が落ち着きだすと「公議所提出議案」として公議所書記の大岡玄蔵が提出したものに次のように書いて有る。
「そもそも生殺の権は国家の大権にて公卿諸侯と雖も、あえて専にするを得ざるは人命の尊きをもってなり。しかるにいわゆるエタ団頭は賤辱の身なるに逆にこの大権を握り、 その団衆何千何万の人命を公裁をへずして、殺戮を専らになす(中略)朝廷の大権、人命の軽視をなす団頭の専断の権を取り上げ、死生予奪は政府の裁断を仰ぐべきよう御仁意の処置を願上げ候」 これはつまり、江戸時代その儘で各地の親分が司法権や裁判権を行使し、未だ片っ端から人斬りしているのは明治の聖代にそぐわないから、形通りとまでもゆかなくても日本の断罪方法を変えようとの建言なのである。
 
 さらに大江卓造が明治四年正月、時の民部大輔大木喬任へ差し出したものでは、
「聴訟断獄その他の国役租税などの訴訟は、各地方官の権限をもって官に取り上げて日本の裁判を改めるべし(中略)これまで権を振り回していた彼らに対しては、 身体の壮健な者は、消防夫やポリースなどに編成し適宜の給金を与うべし」となっている。
なにしろこの明治四年当時でもガエンと呼ばれていた、いろは四十八組の町火消しは、八と呼ばれる民族の限定職だった。 江戸や京阪の司法の第一線は騎馬民族系だが、地方では親方とか親分と呼ばれた八の民族だったのである。
彼ら八の民は抜刀禁止令が無視され、自前の刀を抜く輩が多くなり、従来の十手や樫の棒では剣呑でとてもやってゆけないと、文久二年までには十手取縄を返上して転業した。 だからこの後を半可打ちと素人扱いだった清水次郎長らが、「逃亡盗賊捕縛方」といった官名を新政府から命じられて「御用」「御用」とやっていた時代ゆえ、慣れた彼らにその儘で踏襲させ、 手当代わりの従来の賭場開帳は禁じ適当な給料を払い、裁判を含む司法権をこの際オカミに取り上げて、直轄にするべきであるという、これは建議なのである。
 
「千金の子は盗賊に死せず」と呼ばれる中国の格言通りに、とき放しにした前牢囚を使ったり、徳川時代には被差別の四の民のを、死なせても構わぬ輩として六尺棒を持たせていた。 だから不浄役人とか、不浄な縄目に掛かるものかとも云われていたのを、欧米並の警察国家にするためには、賤を使ったり、下請けさせていたのを止め、司法権を良の側へ取り戻す必要があったのである。 さて、こうして薩摩閥が新しく羅卒制度を設け、幹部にはずらりと薩摩人を揃えた。そして部下には賊軍となった東北諸藩の失業武士をかり集めて揃えたから、これですっかり組織構成が一変してしまった。
 
 さらに裁判の方も、「弾正」「弾正弼」として従五位下か六位の官位だった賤役判官も、新政府の期待を担うようになって、明治の裁判は政府護持が使命となってしまい、雲井龍雄までもが反政府分子として判決は死罪。これは八ッの時代から、捕らえられたら生薬にするために死罪と決まっていたゆえ、その伝統に慣れた、習わしだったせいか。現代でも裁判前で何ら判決が出ていないのに、何か事件の容疑者が逮捕されると、逮捕即もう犯人扱いで有罪と決めてしまう風潮がある。
「松本サリン事件」の第一通報者で当初、容疑者扱いされた河野義行さんは次のように語っている。 「事件が起きて容疑者が逮捕される。するとマスコミは事件が片づいたという報道をします。市民もそう思う。いつの間にか容疑者が犯人になってしまう」しかし、現行法はそうなっていない。 逮捕された人はあくまで容疑者にすぎず、逮捕しても、不起訴もあるし、起訴されても裁判で無罪もある。
 
だが初期の新聞報道はほとんどが推定有罪の方向で動いていた。マスコミの悪い体質である」
また、河野さんの弁護士は売名だ、金目当てだと批判されながらも、見事にその役目を果たしたが、『被疑者不詳で殺人罪』こんな捜査令状を出す裁判所が許せないと語る。 こうした冤罪が起こる一つの原因は、警察の初動ミス、つまり思いこみで無理矢理自白を取ろうとする姿勢にある。
こうした『自白至上主義』は旧ソ連などでもこの傾向は激しく見られた。まず怪しいと睨んだ容疑者を逮捕する。 次に様々なテクニック(薬物や拷問もある)を駆使して自白させる。それから容疑者の犯行を裏付ける証拠を本腰を入れて捜す。 西側とはまるで手順が逆なのである。日本とて、別件逮捕で代用監獄で長期拘留し、自白調書をとる例も多く、似たようなものである。
西側諸国では先ず証拠を集めてから、それを元に容疑者からの自白を引き出す。 容疑者が罪状否認の場合は、その証拠によって犯行を立証する。これが証拠主義という一般的な民主国家での手法である。 しかし日本では”タテマエ”ではそうなっているが、こんなに冤罪事件の多い現状では果たして近代的民主的な法治国家と言えるだろうか。 日本では痴漢で逮捕され、裁判となると「お前が痴漢をしていないという証拠を出せ」と、まるで真逆の裁判をしている。 こんな裁判でいかに多くの人間が人生を狂わされ、無念の内に冤罪を背負わされたことだろうか。
    
過酷な日本の裁判  
 
前項では、日本の司法制度は”良と賤”の争いで、裁判は当初から決まっていたと書いた。ここでは律令制度の昔からいかに変わっていないかを再度考究する。 なにしろ日本の裁判の始源と言えば、煮えたぎる熱湯に手を入れさせ、堪えられた方が正しいとしたのである。まるで「我慢比べ」のようだが、これが正式のお裁きとして六世紀までの理非の判定法方だったのである。 人間の平均体温は三十六度。入浴でも四十六度では熱くて足も入れられぬ。これが熱湯だったらいかに無神経で手の皮が厚い者でも大火傷は間違いない。 これを称して「くがたち」と謂い、「探湯」と書く。
だが”法”では「正しい者は大丈夫だが不正な者は爛れる」と定まっていた。全く常識では考えられぬ不条理極まるものである。 日本では漢字は皆当て字だから、日本列島に原住民土着民として住み着いて居た民族は、オ横列とア横列で、これら先住民を「賤」としていた。 彼らを征服した鉄武器を持った大陸からの連中はウクスツヌフの姓氏を名乗っていた。 であれば、この「くがたち」とは一目瞭然である。つまり「クがたち」とは、裁きをする前から「良」とされた方が「たち」立証できると前もって判決は定まっていたという事が判る。 先ず賤の方を先に熱湯の中に手を入れさせ、大火傷ををさせて「一件落着」。
 
良の人間はこれで熱湯に手を入れる必要はなく、判決は無罪。
裁判の原点がこうであったと判れば、今も大宝律令の儘で良賤の判別制と理解できる。 だからテレビの遠山の金さんや大岡越前みたいな、娯楽的な考えは間違いで、あれらは全くの虚像なのである。 さて、「日本は法治国家である」と恰好は良いが法治国とは警察国家であるから怖い。「出る所へ出て、黒白を争う」と言うが、一般庶民なら思い上がりも甚だしい。 先ず逮捕されると裁判前でも、新聞報道は犯人として敬称抜きなのは、警察発表が既に外国でいう裁決のようなものだからである。 (最近では何々容疑者とはなっているが)そして発表通りに帰納されてゆくように取調べがなされる。
 
 
「してもいない事を何故に認めて自白などするのか?」と、誰もが疑問視する。だが、自白させるのが仕事の人々にとっては、監禁してしまったからには掌中にある。 たいていは脅し役と、慰め役の二人組で交互に苛めたり優しくする。 こうした「落としのテクニック」に明け暮れ責められては、前科数犯の猛者でもない限り未体験の者は参ってしまい、根負けして言いなりになる。 厄介なのは別件逮捕。当人にとっては身に覚えのない事だから、調べて貰えば判る事だと胸を張って連行され、四十八時間以内に簡単に取調べられ、否認すると判事から十日間の拘留処分。 何しろ知らぬ事だから認められぬと自白しなければ、追っかけ判事から拘留延期また十日。
 
いきなり捕まって籠へ押し込まれると、鳥だって三日と持たない。 まして人間が独房の鉄檻の中へ放り込まれて「接見禁止」にされ、会話の相手もなく煙草も吸えずでは参ってしまう。
いくら辛抱強い人間でも、喋れる相手は調書を取る側の者だけでは閉口させられる。 「代用監獄」と留置所を称するが、別件で連れ込まれても先方さまの用意した筋書き通りで、やってもいない事でも指図されて犯人に仕立てられる。 日本人は義務教育でみな読み書きは出来るが、此処では絶対に当人に文字は書かせない。親切に代筆して読んでくれて聞かせ、最後に署名捺印だけを当人にさせる。
これなら後で書き直しや書き加えも、当人の筆跡ではないから、如何様にでも訂正出来る。それに我慢とか忍耐には誰でも限界があって、五日ぐらいは保つが、それを過ぎると悄然となり、 意気消沈して茫然自失状態になる。 保釈を取り付けるにしても犯行を認めなくては駄目だと言われ、やってもいない事でも書かれるのに言われる儘に黙認する。 「裁判になったら法廷で否認すればいい」とは素人考えで、自白調書の重みが判決になる。
夫殺しとして一度自白した為に、後に否定しても実刑判決の事件があった。出所後に再審の申し立てをして、証人とされた当時の少年店員二人が「実はデッチあげでした」と立証しても認められず、 死後ようやく再審となった徳島のラジオ商殺し事件のように、初めに言いなりではもう終わりである。
 
「疑わしきは罰せず」という法律用語があるが、容疑=犯人としてしまうのがプロの腕前なのである。 「身柄送検」といって検察庁へ鉄格子のバスで連れて行かれると、いと親切そうな口振りで「はっきり犯行を認め、御慈悲を願うんだぞ」と、検事の心証をよくするように看守が言う。 さて、取り調べ検事は法廷には姿を見せぬ。一人二役ではなく、二人一役である。 「心証を良くする」とは、起訴にするよう認める事だが、その怨みつらみを法廷で述べようとしても、既に相手が換っているので「しまった」と思っても後の祭り。もう有罪のベルトコンベアに乗ってしまったのである。
人命を奪われる死刑囚でも再審の途が緩やかになると、次々無罪になるのだから殺人罪以下となれば、推して知るべしである。 今でも「オカミ」と自称する側が良であって、腰縄をうたれて来るのが賤ゆえ仕方がない。全くこの国は途方もないことをやってくれているのである。 とはいえ「良」を自認する側どうしの場合は又違うようである。 明治時代に「シーメンス事件」と呼ぶ大疑獄事件があった。これは学校でも必ず教える。当時の三百万というから今なら三十億円にもなろう巨額の金が、海外の造船会社から、 海軍大臣山本権兵衛へのピーナツになったのが露見。が、当時の検事総長平沼は不問にした。
よって大正十二年九月、山本権兵衛が総理大臣となって組閣した時は、平沼は法務大臣となる。昭和十一年三月からは平沼は枢密院議長。 そして三年後には近衛文麿と入れ代わり総理大臣。だから当時「情けは人の為ならず」とか「臭いものには蓋」と言われたものだが、犯罪メーカーのような立ち場でも、正義の味方を気取ったり、
 肝心な処では要領よく取引をするらしい。
 
しかしそうした恩返しの出来ぬ賤の庶民は、哀れ起訴の点数稼ぎの餌食になるだけにすぎないのである。だからこそ「オカミの御慈悲を願え」とか、オカミの手間を省く為に「自首しろ」となる。 「くがたち」の昔から、賤は裁かれる側であり、罰せられ、苛斂誅求される立場は何ら変わっていない。 昔から他から忌まれ、嫌われる判官役は公家は絶対にしない。昇殿も出来ない身分の従五位下の弾正とし、その介添役の副を弾正弼というが、織田信長の父信秀が銭十貫文を御所へ献納して授かった官位である。
この弾正の指揮下に入る検非違使が罪人を解き放した者を「放免」というが、彼ら前囚人を捕方として使った。
 
だから江戸期になっても昔の名残で「不浄役人」と呼ばれたものである。処が明治になって世変わりすると、賤の原住土着系の仕事だったのが薩摩によって取って変わられた。 海江田信義などは進んで京都の弾正台に就いた程である。そして畏れ多くも菊の御紋章を背にするようになって、明治になって法廷は尊い聖域となった処が第二次大戦で敗戦となって、 現人神(あらひとかみ)でおわす御方が象徴となられてから、神聖な御紋は裁判所から無くなり「裁判法」によって今では法廷も様変わりした。
かっては開廷に先だって、菊の御紋章に最敬礼をしたものだが、今では黒い法服の裁判官に対して最敬礼をする。
 
だからそのせいでもあろうか。 昔の法廷と違ってきたのは、証人が宣誓陳述する場合、以前は菊の御紋章に対して奉って不敬な虚偽などは申し述べなかったが、今では「本人の良心に誓って」と変わったものだから、 良心を持ち合わせぬ人は、言論の自由とばかり喋舌ってのけ、それが証言として採用される。だが、昭和五十七年九月号の文芸春秋誌に、 女優の丹下キヨ子が地裁の裁判官を「全く世間一般の常識が無く、呆れてものも言えぬくらいである」とまで抗議していた。 何故こうなってしまったかと言えば、民事の場合でも、裁判官は自分に皆最敬礼をするのに対して、己れ自身がかっての菊の御紋章に取って代わったような錯覚と思い上がりが在るからしい。
 
それに民事の判事と言っても、刑事裁判にも出ることがあるので、双方の主張を聞いてそれで判断するのではなく、民事であっても自分は法廷指揮をとる「統率官」を自負しているせいだろう。 つまり準備書面には目を通すが、原告被告の態度に重点を置き、民事法廷であっても「一つ御慈悲に縋らせて頂きたく存じます」と三拝九拝する者に対しては、 実はこの者が腹黒い人間と判らぬのか(・・・・神妙である)と思いこんでしまい、それで裁判をやるのだから次元の程度が違いすぎる。 はなっから善玉悪玉と自分の感情だけで、審理どころか受けた感じで決めつけてしまう。先入観というか「御慈悲を」とへりくだった者には「従順である」と、 一人決めなのである。左右に陪席は居ても、裁判長はボス的存在で、彼らは助手並の扱いで質問もさせず「予断指揮」なのである。 だから余程自分がエライ様と自負しているのか、気に食わぬと次々と「発言停止」の命令を出す。これを立て続けにやるのだから全く処置なしなのである。
        
信じられない裁判官
 
(以下にわたしが直面した過去の裁判を記します。実名では、差し障りがあるので仮名にしました)
今、民事第三十五部高裁で、中州の仕事場マンションの居住権確認の裁判が四年目だが、最初の地裁のYという裁判官はひどかった。 転居者の飼猫が建物中を鳴き喚き、旧主人を捜す。徹夜型の私は昼は寝ているので此方は堪らず、隣接した中州公園にキャットフードを置いて、建物内に入らぬようにして、 それを十二年前から次々と変わる管理人と取り決めをしてきた。
昭和五十年から山本管理人が、子犬のジョンとわが子と共に育てていた。その時家主のFという男が植えさせた植木の根を、ジョンがほじくったのが見つかって、追放命令がFから出された。 その余勢を駆って猫に食事を与えるなとFが無断で乱入してきた。
 
これを拒むと一月半の猶予で部屋の明渡し要求を、内容証明でよこした。そして前払いの領収書を自分で勝手に「損料」だとして送ってきた。 そして訴訟になり、法廷で臆面もなく「室料としては全然受け取っていない」と神妙に証言した。地裁の裁判官は十余年間一月と雖も遅滞のない領収書を提示しても「未払い分を支払って明け渡すべし」と、 傍聴席に並ばせたままで、十組ぐらいを三分ぐらいで次々と判決を言い渡した。何というか、よく忌避を申し立てられるそうだが全く無茶である。何故にこういう役人の俸給や恩給に税金を払わねばならぬのかと、つくづく疎ましかった。
 
 
さて、女優の故、丹下キヨ子説では、東京地裁でもアブノーマルな方は珍しくなく、他にも居るようだとある。 なにしろ最高裁判事などという人種は、一般の人々にとって雲の上の存在である。そして国会議員の選挙の時にだけ○×で選定する制度である。これは国民審査制度というらしいが、 私の若い頃、全員に×を付けたら、選挙管理人に呼び止められ、「何故か」と文句をつけられたことがある。そこで呆れ果てて、「名も知らず、見たこともない人間に何故○をつけなければならぬのか」と、 反論した事が有ったが、きっと若いと思ってナメていたのだろう。
此処で一つ提案がある。 最高裁判事の○×で信認、不信認の制度は良とするがその際、以下のことを広報によって国民に公開する制度にして貰いたい。
1)その裁判官の経歴(弁護士又は検事上がりなのか、最初からの判事だったのか、学者か外交官など) 2)過去十年間どんな事件に関わり、どんな判決を出したか。 3)現在どんな裁判を受け持っているか。
 
 
そして、我々一般庶民には最高裁は縁遠いが、簡易地裁下級審裁判所は身近な存在である。 だからこちらも都道府県議員選挙の時、上の制度を適用してはどうだろう。
正しいつもりで訴訟しても、「予断判事」に会ったら大変だからである。またそうなれば、ぺこぺこする方を頭ごなしに善としてしまうような、独善や杜撰も解消できる。 なにしろ諸外国では民事でも陪審員制度を採っている。一般市民の無作為の代表の陪審員の評決を聞き、裁判長はその意見に従って判決を下す。処が日本では裁判長個人の裁量、判断は気分次第なのである。 (此の制度にも随分と人種差別や、弁護士のパフォーマンス等の問題は多いが、しかし少なくとも”冤罪”は少ないという)
経済や軍事で対日要求の厳しいアメリカは、バッド・ボーイズだが、この司法に関する民主主義だけは改めて 日本に強硬に導入するよう強圧をかけて貰いたいものである。何でもかんでもアメリカナイズされては迷惑だが、裁判の市民陪審制だけは歓迎する。
 
 
さて、アメリカ映画の法廷物は大変な迫力で、名作も多い。 裁判長の左右に分かれた原告と被告の弁護士が丁々発止と渡り合い、被告の無罪を見事に勝ち取る。だからこういうものを見慣れている日本人は多い。だが誤解している人は多いのだが日本では全く違う。
準備書面と証拠書類の提出だけで、一生懸命喋る弁護士は忌まれる風潮があり、だから黙って次回期日の都合の打ち合わせだけである。刑事法廷でも、弁護士が検事に反撥するのは、 田中裁判の時のように前検察高官の、ヤメ検の弁護士か、前裁判長上がりのヤメ裁の弁護士が多い。かっての後輩や、旧部下だった現職に対して対決するわけだが、これだといくらかの突きこみも出来る。 しかし相当にへりくだった態度である。つまり弁護士にも良と賤の差別があるのである。
司法試験に受かると、上位成績者が先ず検事、判事になれる。つまり合格しても偏差値が決まっているのである。 刑事法廷で検事が見下したような態度を見せるのは、弁護士より上位成績者だった過去の栄光を背にしているからなのである。
 
といっても、司法研修所で成績がよいのに弁護士になる者もいるにはいる。若気の到りか、正義感の成せる業か、気儘で自由な立場に憧れてか、宮仕えを嫌ってか弁護士になってしまう。 若いときはこれでもいいが、しかし法廷へ出るようになって、日本独特の官界の仕組みが判ってくると、前もって検事か判事になっておけば、恩給が付いてからでも弁護士開業が出来たと後悔する事になる。
これは大蔵省でも同じで、国家公務員上級職試験に合格して入省しても、ある一定の点数を取った者のみが局長以上になれ、それ以下の者は局長になれぬという。
 戦前の陸海軍でも、陸大や海軍兵学校の卒業席次が一生つきまとい、それによって軍の指揮命令関係も、戦略戦術立案者も決まっていた。こうした硬直した官僚主義で戦争を指導し、そして敗北。
さて、裁判所でサンダル履きで走り回っている事務官でも、これはもう歴とした公務員でオカミの一員だから、年功や勤務成績で、一時世間を騒がせた、鬼頭さんのように判事補にはなれる。 彼は司法界の中で”動き方”が下手だった。こういうのを「脇が甘い」という。 もう少し辛抱して、アルバイトに宮本在監記録を調査したり、人のよい当時の三木首相を電話でからかわなかったら、 「正義の味方、鬼神も怖れる鬼頭判事様」に、司法試験では落ちても完全になれたのである。かえすがえすも、あれでは身分保障令から外され、
 
退官しても弁護士にはなれないだろう。 それにしても彼は今どうしているのだろう。
もう一人安川判事の事件も記憶に新しい。見方によれば、彼ほど心暖かい人間味溢れる判事も居ないと思う。 何がいけなかったかといえば、つまり被疑者の方が無料で肉体を提供するのが世界的常識だから、三十女の被疑者に金を貰って当然であるし、そうするべきだった。
 
 しかし彼は逆にショートで三万円も払ってしまった。
これがイタリヤかフランスならば、全女性から安川さんを守ろうと救済運動が展開されるだろう。 アメリカなら、何処の州でも「地方検事」に、このフェミニストなら当選間違いなしだろう。しかし、良いことをした心優しきこの人は、裁判界では不要だからバッサリである。 「裁判の威信にかけて被告と情を通じたるは言語道断許せぬ」とクビにされたと言うことは、 「善人では、判事や検事は勤まらぬ」という厳しい現実の壁が日本には存在するのである。
 
だから「温情判決」を下級審で勝ち取っても、上告されると逆転してしまうのもこれまた至極当然の話である。さて、 弁護士は依頼者を「亡者」と隠語で呼んでいるらしいが、儲けにならない官選弁護士を買って出て、自腹を切ってまで精を出すようなのは、架空のお伽話でしかなく、テレビの虚像である。
何しろ医者でも内科、外科、神経科、耳鼻咽喉科などと細分して区別し看板を出している。が、弁護士は肝心な民事刑事別の看板さえ出していない。 東京の場合でも東弁、一弁、二弁と会館が並んでいて受付がある。
 
しかしそこへ相談に行っても不公平になるということで、絶対に教えてくれない。 易者と同じで客を「亡者」と呼ぶ弁護士の世界では、金にさえなればいいから、何でも引き受けてしまって、先ず着手金を取る。
現在は弁護士会館だけでなく、あちこちの街頭やデパート等でも「法律相談」が盛んに行われている。しかし、その場で即答などしていては金にならぬから、 「お任せ下さい」と自分の事務所へ道順を教えて、客引きするだけの商売上手の人も多い。まあ我々庶民が何かの拍子で刑事事件の被告となって、それがいわれなき罪状で、 お上と徹底抗戦の法廷闘争をしなければならぬ時には、相互承認制度でも作り、二世でもよいからアメリカの弁護士を頼んで闘うしかないだろう。 これだと、日本司法界の悪しきしがらみと無関係なアメリカ弁護士は、正義と真実解明のために、弁護士の意地を見せてくれるだろう。