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三郎さんの昔話・・・誕生(父)

2010-07-29 | 個人の会員でーす
誕生(父)


 時代は大正の末期、住まいはその日稼ぎのあばら家。
当時は雨でも降って主に稼ぎがなく金が無うても少しもこまらん、町のお店に行って「後で払うけ「盆暮れ」貸しちょいて」ゆうて米、味噌醤油、雑魚、雑貨品となんでも借りてきて生活が成り立つ、
ほんとに気楽に生活が出来た、のんきな時代。

当時はテレビもラジオもなく新聞を取って読むのも、ほんの一部のお金持ちだけで、

情報やうわさは口ごめで人と出会うたら話し合うて伝達するのが常識であったが、特別なことは素早く伝わって中の人がみんな知っていた。


 当時は働き盛りの男でもお百姓以外は毎日働くほど仕事はなく、まして貧乏屋の専業主婦の金稼ぎなどはなく
炊事洗濯、子育てで昼間の暇な時は近所隣の女ご同志が寄り合って、亭主や子供のこと人のこごとや噂話で日々を過ごしていた。


 さて昼さがり毎日くる母の友達の相撲取りばぁ大きなおばさんの「さかやん」が爪先歩きで身体ごよごよ手は小振りでやって来て
「亀やん調子はえぇかょまだ出来そぅにないかょ」、と大きなかすれ声でやってきた。


母は弟をみごもって臨月が近かった、小柄な体に大きなおなかを抱えて家事が一段落でやっと縁側に座った時、
母は「もうまあできにゃいかんのに中々でてこん腹は太る一方でよわったぜょ」、とさかやんの言ぅこと「そぅ心配しな亀やん、はいったものはどうせ出てくらゃよ」、と。

それを聞いていた。ぼん日頃おまんの弟か妹がもうすぐできてぼんはお兄ちゃんになるがぜよと聞かされていたが、
さてあかちゃんはあの大きなおなかからどうして出てくるのかなぁと不思議で、思い切って聞いてみた「おかやん、あかちゃんは何処から出てくるの」と、

それを聞いた母は少しためらっていた、するとさかやんが言ぃだした「ぼんは桃太郎の話はしっちゅうろぅ」、「うーん」、「桃太郎は大きな桃がぱっくり割れてぽっくり出てきたろう、あれとおんなじよ。


おかやんのぽんぽがぽっくり割れて出てくるがょね」、「ふーん痛いろうねぇ」、「そりゃ痛ぅて大難儀よ。
ぼんができる時もお産がえらうて、あの(指さして)障子の上の梁へカスガイを打ってロープを引き、それをおかやんは座って引っ張ってウンサウンサと三日も難儀してやっと生まれたがぜよ」と、

ぼんは「ふーン」と感心して聞いていたが、まだ心配で「割れたおなかは奇麗になおるが」と聞くと、さかやんは「そりゃなおらざったら大ごとよ。


なおるけんど大事に寝て養生したら、三、七、二十一日したら元の体になるけ、うんと言ぅことを聞いて手伝うちゃりょ、えぇかね」。

ぼんは「うんうん」、と感服したが、まだ一つがてんのいかんことがあった。子どもはおかやんのぽんぽから、どうしてできるよぅになるのかなぁ?




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私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景10 定福寺の蓮(大賀蓮)②

2010-07-28 | れいほく地域の見どころ・自然・四季
栄ちゃんワールド・・・

私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景10 定福寺の蓮(大賀蓮)②





定福寺のホームページ
定福寺HP:大賀ハス ~2000年ハス~
昭和26年大賀一郎博士の手によって、千葉県検見川東大農場の泥炭層下7mの所から蓮の実を3個苦心の結果発掘して、1個が良く生育し翌年開花しました。
その蓮は「Oldest Flower」として、世界の人々に絶賛を受けました。・・・・・









※私も応援しています!

NPO法人定福寺豊永郷民俗資料保存会が、「定福寺豊永郷民俗資料館」建設募金実施中!

敷地内には、「民俗資料館」(大豊町立民俗資料館のあゆみ( 国指定民具2595点 )があり、NPO法人定福寺豊永郷民俗資料保存会を立ち上げて、

平成26年完成予定「定福寺豊永郷民俗資料館」建設のために、いま募金を募っています・・・とのお話が住職様からありました。

「大豊町民俗資料館」は「定福寺豊永郷民俗資料館」として再出発し、建物が老朽化して、国指定の「重要有形民俗文化財」が危機的な状況にある・・・

資料館の再建には2億円の費用が必要で、5年間かけて募金を募っていく・・・と資料にあります。

ご住職の"国指定の「重要有形民俗文化財」などの民俗資料を保存したい"という熱いメセージを感じました。



このことを一人でも多くの方にお知らせして、資料館の再建のための募金が集まる事を祈念して、

私も応援できたらと思いました。

郵便振込み口座 

徳島 口座番号01680-4-100334 加入者名 定福寺豊永郷民俗資料保存会



お問い合わせ(栗生山 定福寺)
高知県長岡郡大豊町粟生158 TEL0887-74-0301 FAX0887-74-0302

E-mail jofukuji@d1.dion.ne.jp

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キャンプ場

2010-07-26 | 大豊町内の記事
山荘・梶が森の間瀬です。きょうは久しぶりにキャンプ場に行ってきました。

みなさん 責任もってつかっておられます。ごみ一つも拾いませんでした。








山荘梶ヶ森HP

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栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 11 キキョウほか

2010-07-26 | 大豊町内の記事
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 11  キキョウほか



キキョウ(07/08/05)



サワギキョウ(09/07/31)



オカトラノオ(08/07/08)



ギンバイソウ(08/07/26)



ナツズイセン(09/07/31)



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三郎さんの昔話・・・誰が偉い

2010-07-22 | 個人の会員でーす
誰が偉い

 男と女の問答。「A男」「B女」
「偉いのは男じゃろうが」

B「偉そうにするのは男で、本たい偉いのは女じゃ」、
A「そんなことはあるか男は毎日日にち働いて女房や子供、親までに気をつこうて家族を養うために一生けんめい働きよるぞ」、

B「そりゃそうじゃけんど、男が働けるように毎日食事を作って食べらし、身の回りの洗濯や 身ともないように気をつかい、夜は充分に相手をしてご機嫌をそこねず 気分良ぅ寝付けて、働けるように一生懸命に勤めよるのは女ごぜよ、偉そぅに言ぅたら はじまるまい」、

A「女ごも中々理屈があるもんねゃ、男はいっつも働きながらチットでも金がよけ取れて渡世が良ぅなるやぅに考えて一生懸命にやりよるがぞ、女ごは知るまい」、

B「そんなことは始めから知っちゅう、女はよぉう考えて、男を上手にあやつって精出して働かさしてせっぱい渡世を上げて、自分も子供も楽に暮らすことじゃ、男が偉そうに力んだところで男の強いのは力と いらんことを する時だけじゃ」、

A「そぅ言ぅたちこの家の主も 戸主もおらじゃけおぼえちょけ」、
B「よぉう心得ております、力みたいばぁ力みなぁれ 男がなんぼ力んでも働きと種付けだけで、女のやぅに子供を生んだり育てることも、ろくにできまい、その証拠に子供が大人になったら、どの子も父親などいらん、皆なお母さん、お母さんと慕いよるわ」。

「それに日本の国の元は天照らす大神とゆう女神が初めて国を開いた、今でもイギリスではエリザベスの女王さんが一番偉いろう」。

A「こりゃまっこと口だけは女が本たい偉い」、「まいった、まいった」。


三郎さんの昔話・・・作者紹介

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私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景9 定福寺の蓮(大賀蓮)①

2010-07-21 | れいほく地域の見どころ・自然・四季
栄ちゃんワールド・・・

私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景9 定福寺の蓮(大賀蓮)①



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昭和26年大賀一郎博士の手によって、千葉県検見川東大農場の泥炭層下7mの所から蓮の実を3個苦心の結果発掘して、1個が良く生育し翌年開花しました。
その蓮は「Oldest Flower」として、世界の人々に絶賛を受けました。・・・・・








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敷地内には、「民俗資料館」(大豊町立民俗資料館のあゆみ( 国指定民具2595点 )があり、NPO法人定福寺豊永郷民俗資料保存会を立ち上げて、

平成26年完成予定「定福寺豊永郷民俗資料館」建設のために、いま募金を募っています・・・とのお話が住職様からありました。

「大豊町民俗資料館」は「定福寺豊永郷民俗資料館」として再出発し、建物が老朽化して、国指定の「重要有形民俗文化財」が危機的な状況にある・・・

資料館の再建には2億円の費用が必要で、5年間かけて募金を募っていく・・・と資料にあります。

ご住職の"国指定の「重要有形民俗文化財」などの民俗資料を保存したい"という熱いメセージを感じました。



このことを一人でも多くの方にお知らせして、資料館の再建のための募金が集まる事を祈念して、

私も応援できたらと思いました。

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徳島 口座番号01680-4-100334 加入者名 定福寺豊永郷民俗資料保存会



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栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 10 ギボウシ①

2010-07-20 | 大豊町内の記事
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 10 ギボウシ①



ギボウシ(08/06/18)



オオバギボウシ(07/08/17)



カンザシギボウシ(09/06/21)



カンザシギボウシ(08/07/01)



コバノギボウシ(08/05/11)



スジギボウシ(09/04/19)



スジギボウシ(08/07/05)
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 10 ギボウシ①



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yuyake-夕焼け-

2010-07-20 | 大豊町内の記事
間瀬です。今日は梶ヶ森山頂は一日くもりでした。しまいは小雨です。世界が違います。

夕焼けを初めてとりました。

どうぞ。











山荘梶ヶ森HP

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本日の梶ヶ森

2010-07-17 | 大豊町内の記事
間瀬です。今日は気持ちいいっす。最高っす。昨日までの天気があったからなおさらっす。

気分がいいと文章もルンルンっす。

今日の雲はとても魅力的でしたっす。










山荘梶ヶ森HP

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本日の梶ヶ森

2010-07-16 | 大豊町内の記事
山荘の間瀬です。

このところよい天気になりません。悪くありませんが洗濯物が乾きません。

ふとんが干せません。こんな日があるから晴天もありがたく思えます。

今日の梶ヶ森です。







山荘梶ヶ森HP

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大豊町・八坂神社 日本一の大杉③ 美空ひばり遺影碑ほか

2010-07-15 | れいほく地域の見どころ・自然・四季
大豊町・八坂神社 日本一の大杉に、久しぶりに行って来ました。

道の駅「大杉」のところから大杉が見えています。道の駅から車で登っていってすぐです。

大豊町・八坂神社 日本一の大杉①

大豊町・八坂神社 日本一の大杉②



八坂神社 日本一の大杉の入り口にある料金所前の道路を上がると、美空ひばりの遺影碑や歌碑が建立された公園に行くことが出来ます。







八坂神社
敗戦直後の昭和22年、まだ美空和枝という芸名で地方巡業をしていた後の美空ひばりが、この大豊町でバス事故に遭った。幸い九死に一生を得た和枝はこの大杉に、「日本一の歌手になれますように」とお願いした。
帰京後、芸名を美空ひばりと変え、それから日本一の歌手へと歩んだことは有名である。



美空ひばり遺影碑9歌碑がたたずむ
大杉の苑敗戦直後の混乱期9歳でデビユーした美空ひばりさんは昭和22年まだ美空和根という芸名で地方巡業している途中、大豊町でバス事故に遭遇し九死に一生を得ました。

そして、1ケ月半の療養後、町内にある国の特別記念物「杉の大杉」に「日本一の歌手になれるようにと願をかけました。

帰京後、芸名を美空ひばりと変え、文字通り日本一のスターへの道を歩んだひばりさんは、14歳の時に当時お世話になった方々への挨拶をかねて大豊町を訪れ、日本一の誓いも新たに「杉の大杉」に参拝したのです。

その後昭和の歌謡史に大きな足跡を残したひばりさんは、平成元年、日本中のファンに惜しまれながらこの世を去りました。

大豊町では、.美空ひばりゆかりの地として、その業績を諾え、いつまでも人々の胸に残るようにと、フアンやプロダクション、レコード会社など、数多くの関係者の全面的なご理解とご協力を得て、平成5年5月に杉の大杉のすぐ隣に「大杉の苑」を整備し、遺影碑と歌碑を建立しました。







HN:参拝者

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三郎さんの昔話・・・祖父母の思いで

2010-07-15 | 個人の会員でーす
祖父母の思いで


 祖父の寿太郎さんとは、父宇右エ門三十八歳、母貞二十九歳時の長男として生まれ、四つ違いの弟百次と二人兄弟で育った。

 私が祖父母を知りそめたのは、父が別居の関係で六、七歳の頃であろう。
 当時祖父は八十歳ちかくで、母屋の下で泉のそばに小さな三間ほどの草屋の隠居で、小さな囲炉裏に自在鍵を吊し、茶瓶を掛け薪をくべて燃やし、あぐらを組んで座り暖を取りながら、キセルに刻み煙草をつめてうまそうにいつも呑んでいた。

 士族生まれの祖母は、その横に骨の太い肥えじな体を几帳面に正座して、いつもおっとりとしていたが、人の動作や言動にひだをとる、なかなかに難しい士族育ちの祖母であった。

 寿太郎爺さんの体格は、豪傑親父には似てなくて、どうも母貞さんに似て痩せ形で、すらりとしたやや小柄であった。

 顔立ちは面長で、若い時は男前であったろうが、老人になった顔はみっちゃ(つぼくろの小穴に皺)で、幼い私には不思議なので、「おじいさんの顔はどうしたが?」と尋ねたら、「この顔のくぼくぼはの、昔疱瘡という病気がはやって顔にできものができて、熱が高うてみんな死によった。

 見舞いに行った人にその病気が移って患ったが、病気を貰うた人は軽くて死なざったので、疱瘡がはやると若い者はみんな病気を貰いに行った。お爺いも疱瘡を移して貰うてきて顔に出て、ぶすぶすつえたが割と事なく軽うて済んだ。
その病気のあとがこの顔よの。」と話してくれた。

 祖父は律儀で正直な働き者であった。若いとき何か誰にでもできない事を身に付けたいと思い、算盤とお灸を知人に、仕事の出来ない雨の日や夜に熱心に教わり、算盤は(当時の百姓は算盤は知らなかった。)割算・掛算すべて会得していた。お灸も色々と知ったが、中でも心臓の灸は名灸で、多くの人を助けることができた。この名灸は家伝となって父、私と続いている。

 寿太郎さんが二十歳の時に両親はすでに老人で(当時は粗食で老化が早く、今とは十~十五歳の差がある。)、仕事もできず、一人で精出して働き、自作農になってから嫁もらいたいと働きつめて、田畑に山林もでき、やっと自作農になった時は三十歳を過ぎていた。

 さあ嫁を貰おうとしたが(当時の結婚は男は二十歳過ぎ、女は十七~二十歳ごろまでで、早かった。)、自分が年が行き過ぎてなかなかに嫁が見つからんので弱っちょったら、伊予から娘が働き口を探して来ているとの話を聞き、行ってみた。

 西条藩士の娘で年は十七、名は縫、体はがっちりと丈夫そう。「士族の娘が何故?」と聞くと、「ご維新で指南役の父半蔵はお役後免となり、その上二度の火災でたくばえも無くなり、やって来た。」と。

 寿太郎さん、同情となにへん気に入って話を進め、やっと納得して嫁さんにもらってきた。時は明治十四年で、寿太郎さん年三十四歳であった。

 さあ大変、すぐから子供が出来始めた。縫さんは仕事どころでない。長女、次女、長男と二つ違いで十人の子やらいで、子育てに大わらわで、百姓仕事は寿太郎さん一人で大難儀。

 そのうちに、弱い子が病気はするは、中でも八歳の六男から下へ四人の子供が桑の実が元で悪病に罹り、ばたばたと良い子が死んだ。その時はほんとに悔やまれたと。

 そんな状態で一人で働き、老母と子供で十三人の大家族で借金はできる。とても払いはできんので田畑や山も借金のかたにとられて貧しくなり、長男数元が若いしになったとき、大石一番の貧乏家に落ちていた。

 生活が困難な当時、一般に子供は二人か三人で後は始末していたが、祖母の縫さんは生まれる子は育てる。天の授かりものじゃと、厳しく愛しんで子育てに励んだ。

 その甲斐あって六人の孝行な子や孫たちに見守られて、祖母は一九三六年に七十二歳で、祖父は一年後に、五十六年連れ添うた愛妻を求めて九十歳でこの世を去った。

 寿太郎爺さんの好物は煙草と酒が少々であった。縫婆さんの得意は山菜料理であった。
 祖父母は長男の初孫、私の幼少をとっても可愛がってくれて、ありがとう。


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