刀と数元さん
嶺北は四国の中央で、吉野川の上流、河口から百四十キロ程の地点であります。
昔、源平の合戦当時は、四国の武将は平家方に属していました。源平に敗れた平家方は源氏の討伐を逃れて、山深い山里に来てひっそりと暮らしたそうです。
その敗戦の武将たちが逃れてきた山里が、嶺北の大杉の立川(大豊町)や森の和田(土佐町)であります。
そのような関係でこの地区には刀剣がたくさんありました。
百姓をあきらめ、町に出た数元さん。これらの刀を買い集めてひと儲けしようと骨董商の許可を受け、少ない資金で立川や和田を回って安い刀を買い集めた。
さて売りさばくに素人では善し悪しがわからん。高知へ出て刀の鑑定を受けようと鑑定士さんを捜した。やっとわかった。当時の鑑定士さんは元陸軍中将つちや(土屋?)閣下でありました。
数元さん、恐れ入ってお願いして、持って来た刀を差し出すと、中将閣下は持参した刀を一、二寸抜きかけて見ると、カツンと納めてガラガラと放り返す。少し見てはガラガラで、しまいに「こんななまくらは駄目。」と言うと、話す間もなく立ち去る。
数元さん仕方なく帰るが、数元さんなかなかにしぶとい。七、八本買い集めると、中の川越しに刀を担いでテクテク。刀は鉄で重い。四、五里の山道は肩に食い込んで大変であったが、しぶとく通い詰めた。
そのうちに数元さん、中将閣下の弟子になって習おうと思いたち、お願いしたが、なかなかに「ウン」とは言ってくださらん。
そこで数元さん、四季おりおりの山の物、栗やきのこ、山芋、雉、小豆など、行く時々に持参してご機嫌をと、しぶとくお願いしていたら、中将閣下も数元さんのしぶとさを見込んで、やっとお許しが出た。
それからは中将閣下に接しても、割となごやかでぼつぼつと色々な事を教えて下さるようになった。
持参した刀の内に、たまに見所のある刀に出会うと静かに抜いて眺めながら、古刀とか新刀とかの見分け方、生産地及び刀匠名、刀の出来の善し悪しなど色々と説明して下さる。
そのうちに、閣下自前の名刀なども見せ、教導を受ける。その他、掛け軸や骨董品に至るまで、様々な教えを受けること三年あまり。
数元さんの熱心さと頭の良さを中将閣下に特に気に入られて、外弟子ながら閣下の一の弟子ということになる。
数元さん、鑑定士になることを周りの人から薦められたが、学歴が小学四年ではどうにもならず、それに金も無くて諦めた。
その後、中将閣下が他界されてから、高知や山田の骨董商人が刀や軸をさげて数元さんに見てもらい、値付けに来ること度々でありました。
終戦後、進駐軍が日本刀の整理にかかり、県でも民間から刀剣を全部出さして、良いものだけ残し、その他のものは廃棄処分することになりました。
そのとき県は鑑定士を選びました。数元さん免許はなかったが、つちや中将閣下の一の弟子ということで呼び出され、刀剣の選定に参加しました。
その時、なまくらで廃棄となった刀は、薪くろに積み重ねたものが幾くろもあったそうです。日本には刀が如何に多くあったかと驚くばかりです。
戦時中日本が侵略戦争で中国へ攻め進んだ時、南昌一番乗り、不死身曹長川田信太郎の名は講談社の絵本に載りました。その義父芳吉は高価な日本刀を買って送った。
信太郎その刀を使ってみて、すぐ送り返してきた。 理由は、この刀は人を斬ったら曲がりくねって鞘に納まらんということでした。
しかたなく兄の数元さんに頼ってきた。数元さん心当たりを詮議して、古刀でこれなら大丈夫の刀を選び出し、芳吉に買わして信太郎に送った。刀は斬れるし狂いもなく、信太郎は感服した。
終戦になり、帰ってから信太郎は、叔父の数元さんが鑑定し元陸軍中将つちや閣下、一の弟子であったことを知り、その人間性に惹かれて仲良しになったが、戦争の疲れが出て、若くして信太郎は帰らぬ人となりました。
数元さんが言いました。日本刀は源平当時の古刀が最高である、と。
三郎さんの昔話・・・作者紹介
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