れいほくファンクラブ

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三郎さんの昔話・・・霊 魂

2009-10-29 | 個人の会員でーす
霊 魂
 時は明治二十年過ぎ。村でも器量良しのお米さんは十九の娘盛り。村の大家の山下家、二人兄妹の家取りの体格も人並み以上で男前の要治に見込まれて夫婦になり、
幸せな日々を楽しく過ごしていたが、一年たらずで日露戦争になり、夫の要治は出征し戦場に出た。

 時にお米さんは男子を出産し大事に育んでいたら戦争が激しくなり、二百三高地の激戦で夫要治が戦死したとの報にせっした。

 悲しみの中にも夫の形見に男子を大切に育てて日を送っていたが、要治の母は、お米は二十歳そこそこで戦死者の妻として、若後家で一生を過ごさすは惨いことと思い、
孫は私が育てる、暇をやるから里に帰り再婚して幸せになれと言いくるめて、お米は泣く泣く子供を母に預けて里に帰る。

 その後お米は縁あって教員の妻となり、二女に恵まれ幸せな日々となった。
 時は過ぎて、祖母に残してきた子は成人し嫁をもらい女の子が誕生した。お米さんにとっての初孫である。

 自分の下の娘が小学一年でかわいい盛りであるのに、孫が特にかわいい。それは残してきた我が子に十分なことが出来なかったとの心残りがあったせいでもあろう。

 「さわ、さわよ」と目に入れても痛くない程の可愛がりようであった。孫のさわが四歳のとき、お米さんはふと悪い病にかかり、死の寸前にも自分の娘より孫のさわを、
さわを連れてこいと、いとおしんで他界した。

 それから時は流れてさわも成人し、嫁いで三人の母となり忙しい日々を過ごしていた。秋の彼岸に久し振りに里帰りして、父母や妹らと先祖の墓参に行き、
可愛がってくれた祖母お米ばあさんの墓にお参りして、墓地を一歩出た時、不思議なことに、さわの右肩がづんと何かもたれかかったように重くなった。

 さわが「ああ、肩が重い」と言うと、父が「そりゃ、お祖母さんがさわが来てくれたので嬉しゅうてもたれかかったわ」と言うと、妹らは、
「そんなことあるかや」と笑ったが、本人もそんなことはないと思い、何気なく帰ったが、右肩は次第に重く頭の髪をかくにも手は重く、帯を結ぶにも手は後ろに回らず、
身体はどこも悪いことはないのに、右肩は重くて手が自由に動かない。

 父が言ったこと、好きで可愛がってくれたお祖母さんが肩にかきつくなんてそんなことないと思ってもなおらん。しかたなく神官さんに見て貰った。

 なにも知らない神官さんは、「貴方はお墓参りに行ったろう」「はい、行きました」
「そうじゃろう、祖母さんが貴方を可愛ゆうてたまらなくて死んだ。その霊が取り付いちゅう。はずしをして上げる」と言い、神棚に祝詞を挙げて祈り、
「さあ、拝みなさい」と言うので手を合わし懇ろに拝んだ。

 すると神官さんが「手を上げてみい」言うので手を上げた。不思議なことに肩の重みがなく、元の通りの軽さになりなんともない。不思議なこと。

 神官さんがその時申された。「可愛がってくれた祖母さんを、よおうお参りして度々お参りに来るけ、かきつかずにおってと言え」と。

 その後は努めて春秋の彼岸には里の先祖や祖母にも墓参りをして、神官さんの言われた通りにしておりますが、
その後はお米ばあさんはかきつくことはなく安心して墓参ができるようになりました。


三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・飛行機

2009-10-22 | 個人の会員でーす
飛行機



 今時飛行機といっても、大人も子供もさほど関心がない。日常空を飛ぶ旅客機を目にし、場所によっては大きな爆音を立てて飛ぶ戦闘機や旅客機に苦情が出ている始末である。

 しかし現在での飛行機の存在は、早い輸送機関として最高のもので、国民生活は向上した。地球上の回りを一時も休むことなく、汽車、自動車、船舶と同じく大空を飛び回っている。

 世界中の何処かで、たまに墜落事故があり、全員死亡の報を知る。空を飛ぶのでつい故障や事故で落ちたら死ぬと、少しの危惧はあっても、技術も性能も進んだ今時心配しても始まらんと度胸をきめて、上は大臣から学者、企業社、商社マン、観光旅行者、若いカップルの遊楽旅行と、何処へでも飛んで行く。飛行機のお陰で世界はほんとに狭くなった。

 さて今から七十年も昔、私が小学一年頃の読本に、「のってみたいな、空とぶヒコウキに」というのがありました。

 当時は飛行機のことは、絵で見るトンボのような飛行機しか知りませんでした。
 時に大正十一、二年頃、本山の川原へ飛行機が飛んで来るぞ、飛行機の運転手は高知の福留の兄弟さんじゃと、たまるか、その噂は口づてで大川、森、田井、東西豊永と、嶺北一円の村々にぱっと伝わった。

 さて当日は稲刈りもすんだ晩秋の薄雲たな引く小晴れ、場所の川原は小学校から長形の小畝田が段々に一丁程続いて、その下がなだらかな草原で、東西二丁余、幅はなだらかな分が半丁、石ころで川まで少しの傾斜で半丁余の広い原っぱで、その東寄りを道路が川の渡し場まで通っている。

この広い川原は時々草競馬や、近郷から集うての消防演習、子供誕生祝いの大凧上げなどを催す公共の場所であった。(現在、本山自動車練習場)
 飛行機の滑走路としては百五十メートルもあるかなし。さあ飛行機が飛んでくるぞ。これを見にゃあと嶺北近郷から大人も子供も手弁当で、朝も早ようからどっと押し寄せた。

 小学校から田んぼ、道路、石ころ川原、吉野川の北岸まで人人人の山。こんな人出は見たことない。

 なかなか飛んで来ん。今か今かと待つことしばし。十時過ぎ、町の東、大石と高角の間を流れる樫の川のさこあいの上空に、ブルンブルンと音をたてて二枚羽のトンボのような飛行機じゃ。

 「飛行機じゃ、来た、来た」うめきと歓声が上がるや瞬く間に、飛行機は町の空を大きく迂回して、町の東椎山の前から川原を西に向けて着陸した。二枚のプロペラがゆっくり回って停まると、飛行服に飛行眼鏡の福留飛行士が降り立つと、二度目の歓声がどっと嶺北の山河にこだました。

 休憩の間近くに寄って飛行機に触ることは出来なかったが、皆んな遠巻きで感心しながら飛行機を初めて見ることができた。

 その飛行機は今の小さいセスナ機ぐらいで、胴体の上下の二枚羽を鉄線で突っ張っていた。福留飛行士は町長や警察署長、名士達にねんごろな歓迎を受け、ゆっくりと休憩し、帰る時間となり機上の人となる。

 乗ったあんばいは胸から上は出ている。始動と共にプロペラが回る。爆音が割れるように大きい。滑走しながら飛行士が手を振る。観衆も歓声と共に手を振る振る。

 飛行機は西に向いて飛び立ち、あっという間に西の空に小さく見えて一回りした。「ありゃー森(土佐町)の空じゃ」と誰かがつぶやいていた。

 そのうちに飛行機は町にもどって川原の空を、早いがゆっくりと飛んで、元来た樫の川を南の空へ飛び、機影は去った。

 大勢の観衆は飛行機を初めて見た。堪能とくつろぎで「ハーアッ」と溜息が漏れた。

◎高知の福留兄弟の飛行士は、日本の飛行史上初代の飛行士として有名な先駆者であった。


三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話