れいほくファンクラブ

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三郎さんの昔話・・・昇天(母と子の問答)

2010-02-25 | 個人の会員でーす
昇天(母と子の問答)


 小学校の土曜日は授業のしまいが早く、一年生の息子が帰って来て、「ただいま」と言ってから、
「おかあちゃん、いんま僕がもどりよったら、黒いきれいな洋服を着たおんちゃんやおばさんが、紙袋をさげて道へ並んで立っていた。そうしたら、お家のようなピカピカ光る自動車が来たが、だれが死んだがぜ」
と聞いた。おかあちゃんは、「あそこの道の上のお家のおばあさんが死んで、お葬式よ」

息子、
「そう、でもどうして死んじゃうの」
「そりゃあ、あのおばあさん、年がいっちょったけ、病気して、よう治らずに死んだがよね」
「人が死んだら、どんなになるの」

「そうねん、人が死んだら、息をしなくなって、目も口も動かんし、耳も聞こえんし、手も足も堅っとうなって動かんようになってしまうの、それが死んだことよ」
「ふうん、死ぬのは怖いねえ、そんで、あの光る車に乗ってどこへ行くが」
「死んだらねえ、もう自動車に乗るのもおしまいじゃけ、葬儀車という、あのきれいな車に乗って火葬場という所に行って焼くの」

「焼かれたら痛いろうねえ」
「死んだら何にも知らんけ、痛くないのよ」
「ふうん、焼いたら、どうなるの」
「まあ、くどい子じゃ、焼いたら体が魂になり、すうっと煙に乗って、天国へ昇るの」
「たましいって何、天国はええく(良い所)?」

「魂とは目に見えん幽霊じゃと、天国では雲の上に座った美しい仏様が居て、その仏様の回りでは、羽衣を着た天女たちが、えい音楽をかなでて、空中では羽衣をヒラヒラとかざして舞いよる、ほんとにきれいじゃと、そこへ煙で上がった魂は、仏様のお弟子さんになって暮らすがじゃと」

「ふうん、天国はきれいんじゃねえ、僕、死なんづくに煙に乗って天国へ昇ってみたいなあ」
「馬鹿なこと言われん、人は死んだらおしまいじゃけ」

「僕、死ぬのは怖いけ、いやじゃけんど、飛行機に乗ったら、天国を見に行けるかも知れんねえ」
「そうじゃねえ、早よう大きうなって、飛行機に乗って見に行きや」

 小さい子供は知らないことが多いので、好奇心が旺盛である。母親がめんどくさがらず、話して聞かすことで、子供の知識はぐんぐんと伸びていく。



三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・氏より育ち

2010-02-18 | 個人の会員でーす
氏より育ち



 「へんどの子」という言葉があるが、これは捨て子や貰い受けて育てている実子でない子供をやしべ、軽蔑した言葉であると思う。

  事情があって育てたくても育てられなくて、子なしの夫婦に貰われて立派に成長する。不幸の中から幸を得る人生もある。それは本人の素直さと育ての親の愛と努力であろう。

 天の生を受けて生まれる子供を事情があって育てられなければ、その子が育つ方法や手立てはあると思うに、無責任に子供を産み、赤子を放り捨てたり殺したりする。考えなしの若者が絶えない現実は悲しいことである。

 さて、話は今から五十七年も昔のこと。当時は戦時の真っ最中で男は青年から中年まで、まともな男は兵隊に取られて、老人、婦人、子供等で「がんばれ、がんばれ、産めよ、増やせ」の掛け声で子供の増産。

 なにかの都合で堕胎し、それが知れたら罪がつくご時世に、小作農で七人の子沢山の豊吉と妻の美佐とは仲良し夫婦で、真面目な働き者。豊吉は戦死者の一人息子で、兵隊免除であった。

 子供は長女のさほ十八才を頭に、六人の妹に末の長男が二才の九人家族。貧しさの中でも親子睦まじく暮らしていた。時に母の美佐は八人目の子供を身ごもっていた。

 豊吉の父は愛児の産まれたことも知らずに、二百三高地の激戦で戦場の露と消えた。母は若後家となり遺児を育てていたが、この若さで後家で一生終わらすのは余りにむごいと思い、
姑の祖母は「豊吉は私が立派に育てるけ。あなたは若い、暇をやるから里に帰り、良い人を身つけて再婚して幸せになりなさい」と無理に帰した。

 その後母は良い人と巡り会い、二子に恵まれ幸せに過ごした。
 豊吉は祖母に育てられたが、父母もなく兄弟もなく、身内は祖母だけで寂しく成人した。
 豊吉は愛妻の美佐と結ばれたとき、「俺はひとり者で寂しうふとったけ、子供はいっぱい産んでくれ、みんな育てて身内を増やしたい」と言った。

 さて、さほが子供の頃、近所の大家のぼん、一才上のお兄ちゃんが可愛がってよく遊んでくれたが、今は立派な青年学生。学休にたまに家に帰っていて見かけるが、簡単な挨拶を交わすだけになっていた。

 ある日、ぼんと出会うと声が掛かった。「僕、今日は暇ですが、よかったら亀ちゃんと二人で話しに来ませんか」と。

 さほは少しとまどったが、「亀ちゃんの都合が良かったらおじゃまします」と言って別れ、家に帰り父母に相談したら「亀ちゃんと二人なら行ってもよい」と許可を得て、早速亀ちゃんに話したら「オッケー」で、二人でぼんを訪ね、三人で話しに耽った。

 時間がたつのを忘れていたら家から亀ちゃんに「用事ができたけ、すぐ帰るように」と伝言があり、亀ちゃんは帰る。さほも一緒に帰ろうとしたが、「も少し話していきませんか」と誘われつい残った。

 そのうちにしゃんとした分別のある青年であるのに、若気のいたりか、ついむらむらときて、過ちを犯してしもうた。「この全責任は僕が持ちます」と謝ったが後の祭り。ぼんは二、三日して都の学校へ行った。

 それから三月ほどたったとき、母の美佐はさほの体調の異変を素早く察知し、夫の豊吉に話し、妹らが寝しずまってからさほを談つめ、事情を聞いてさあ困った。

 大家の息子は承知してくれても、主はおいそらと承知すまい。貧富の差もあり未来のある青年じゃ。「ええかげんなことを言うな」とはね飛ばされたらそれでおしまい。噂は広がる、娘には傷がつく、下の妹たちの嫁入りにもつかえる。さあ、困った。

 苦悩のあげく、母が後妻にいった義父(小学校長)に相談した結果、義父の本家(前の浜)に、さほを嫁入り勉強として女中奉公の建前で預けて出産を待ち、子供が生まれたら豊吉、美佐の子として届けを出し、貰い手に養子として引き取ってもらうことに話を決め、さあ段取りにかかった。

 義父が再三足を運び、事情を打ち明けてお願いしたら、本家はやっと引き受けてくれた。次は養子に貰ってくれる人を詮議していたら、義父の遠縁にあたる中浜という教員がいて、結婚して十三年にもなるのに子供がなくて、素性の良い家の子がいたら貰って育てたい、
との噂を耳にし、早速駆けつけ相談したら、赤子から貰って育ててくれることに話が決まり、豊吉夫婦も母も義父もやっと一安心。

 間を置かず、さほを見習い奉公として前の浜の本家に預けた。
 月日の過ぎるは早く半年余して、さほは元気な女の子を出産したとの秘報を受け、早速に手配して駆けつけ、養子に貰い受けてくれる中浜にも来てもらい、出産後二日目の夕方、親子の情が薄幸のまま赤子を手渡した。

 この時の約束事は、「ご事情はご承知の上でございますので、申し上げませんが、ただこの子とは親子親類の縁は、この場限りで絶ち切りますので、貴方様のお子としてご自由に立派にお育てください」と言って、豊樹とさほは、
赤子を抱いた中浜夫婦に手を合わし、頭をたれた。立会人としてそばで見ていた義父も、幸か不幸か人の決別の哀れに、涙が頬をつたっていた。

 それから三年目に、義父が里帰りして、聞いてきた話によると、中浜は友人の誘いで東京に一家三人で引っ越し、中学教師をしているとか、それからは中浜のことは気にもせず、聞きもせず忘れ去って年月は流れた。

 あの出来事から五十七年もたった今年の春、一通の手紙がさほの元に届いた。差出人は中浜みき、東京都からで、文中の用件は、父母が交わした約束事を破っての断りと、「一目お会いしたいがご都合いかがでしょうか」との問い合わせであった。

 これを見たさほは、長い間忘れていた昔のことが頭の中を駆け巡り、自分が腹を痛め産み捨てた子が、どんな人になっているのであろうか、期待と緊張と恐さで頭が混乱した。

 しばらくして気を静め、「お会いしましょう」との返信を送った。
 その後、日取りも決まり、場所はホテルの座敷を借りて、ある日の午後、二人は対面した。;
 さほは少し早めにホテルに着き、一息入れて決められた時間に案内されて座敷へ、「失礼します」と声して襖をあけ、中を見た。

 きちんと和服を着こなした中年の婦人が着座していて会釈し「どうぞ」と手をさしのべた。さほが座って軽く会釈すると、みきは少し座を引き丁寧に頭を下げ、「初めておめもじいたします。本日はご無理を申し上げ、ほんとに申し訳ございません。私は中浜みきで、当年五十七才になります」と。

 さほも「初めてお目にかかります、私は姉(建前)でさほと申し、七十六才になりました。貴方を初めてお目にして、ご立派に成人なされました。中浜のご父母様の愛と慈しみで、心から深く感謝いたします」と頭をたれ、頬を涙が流れた。

 それから父母(実、祖父母)の生前の写真を見せ、実情を話したり、お互いの現状や家族などのことを語り合った。

 みきの話によると、女学生当時、養女のことを知り、母に尋ねたが母は「乳飲み子の時から父さんと私で育てあげた二人の実の子じゃ」と言われてから後は、聞きも話してもくれなかったが、昨年、母が死のまぎわに真実を話し、血は切っても切れない、
会いたかったら会ってよいと言ってくれましたが、私はお父さんお母さんの子です、会いませんと言った。母は安らかに成仏しました。

 お互いに話し合い、見合うての二時間足らずの対面であったが、二人の胸のうちは切れない一つの血が騒いだことであろう。初めてで最後になるかも知れない、たった一度の一会(出会い)は、縁の薄い親子の脳裏に美しいイメージ、画像として収められ、生涯消えることはなかろう。

 これは、昼寝の夢から生まれた、フィクションであります。一会の楽しみ、会うは別れの始めとか、縁は異なもの味なもの。


三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話


三郎さんの昔話・・・かぼちゃの子

2010-02-11 | 個人の会員でーす
かぼちゃの子


 親子三人で夕飯をすましくつろいだとき、幼稚園の息子がポツリと、
「ぼうは、どっからできたの」と聞いた。

とうちゃん即座に、
「そりゃ、僕はこの、おかあちゃんのポンポから、ぽっこりと出来たがよや」ふうーんと感心したあとで、
「ぼうはおかあちゃんの子で、とうちゃんはなんなの」と聞いた。

とうちゃん少し立腹で、声を高め、
「とうちゃんがあったけ、できたがよ」ぼうは頭を傾けていたが、
「おかあちゃんの子じゃと言うたのに、わからん」「こりゃ、めんどい子じゃ、とうちゃんが、かあちゃんに種をつけたけ、ぼうが出来たのよ」

ぼうはやっと納得したような顔で、「ふーん、とうちゃんが南瓜のような種をおかあちゃんに植えて、ぼうができたがか、そんなら、ぼうは南瓜の子か、ハッハッハァー」
とうちゃんも、かあちゃんも笑いながら、「おかしな、しわい子じゃ」と言いながら、臍が上へ下へと笑いよる。ハッハッハァー。

三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・言葉のあや

2010-02-04 | 個人の会員でーす
言葉のあや


 「アイタ」とは、頭が柱かなにかに当たったときとか、打ったり、けつまづいて痛いと感じたときに出る言葉である。

 なかなかに開きにくいものが、やっと開いたときにも、「アイタ」と喜ぶ。

 満室で空いた所がなかったが、人が降りて席が空いたときにも「あそこがアイタ」と言う。

 「アイタ」も、痛みで出る言葉、開いて出る言葉、空間が出来て言う言葉と三通りある。

 「アイタイなあ」は、恋人に逢いたい。逢うたらドキドキ。しばらく遠のいている親しい人に逢いたい。そんなときに念願する気持ちから出る言葉である。

 「ああイタイ」は、痛みがゆっくりと伝わってくる神経の痛さを痛切に感じたときに出る言葉。

 ところで私は、痛くもないのに「アイタ」とついつい言う癖がある。それは、物をこぼしたり、落としたり、なにか些細な失敗をしたときに出る小声である。家内が「痛うもないのに「アイタ」はおかしい」と言う。

 私の説明は、物事をつい失敗した時に、「シャンシモタ」とか「バッサリイタ」と思ったときについつい出る言葉で、これは職場でいつともなしに癖づいた言葉で、ひとりでについ出る。

 さて、「シャンシモタねや」とか「バッサリイタのう」と言っても、他県の人にはさっぱり通じない方言であろうと思う。

三郎さんの昔話・・・作者紹介

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