れいほくファンクラブ

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三郎さんの昔話・・・川入り(身投げ)

2010-01-28 | 個人の会員でーす
川入り(身投げ)


 背たけは普通の人よりやや高い、体は人の倍以上で二十貫以上もある太いおばさんの"さかやん"、足も大きいから指先がセッタに入らず、つっかけたようなあんばいで爪先歩きでバタバタやってきて、戸口から大きな声で、

「かめやん、おまん聞いたかよ、よんべ川上で川入りがあったと」
「ええー、そりゃ身投げかよ、誰ぜよねえ」と話し合うのを聞いてみると、一昨日の晩のこと、農家の一日が終え、家の者みな疲れて寝てしもた。夜中に息子がふと目が覚めて見たら、側で寝ているはずの若嫁がおらん。おしっこにでも行ったがじゃろかと待ったがもどってこん。家の者を起こして捜したがおらん。


 そのうちに朝になり、里へも使いをだしたが帰ってもいない。さあ大変、近所の者も気づこうて一緒に探してくれたが見つからん。

 昼過ぎになった時、川瀬の崖の手前に女物の下駄の上に櫛を置いたのがあると連絡が入り、早速駆けつけてみたら若嫁の物じゃ。

 こりゃ身投げじゃ、大ごと。昨日一昨日と雨が降って、川の水が増しちゅう。早よう見つけにゃ大変じゃ、流れてしまう、と親戚や近所に部落総出、消防団もくり出して、川には小舟を集めてきて分乗して川岸から瀬や渕とくまなく捜すが、水かさが少し増した川水はなかなかで、朝から日暮れまで毎日捜すが見つからん。

 そのうちに一週間も過ぎると、捜す人数も少し減り、消防団員と親戚、近所は交替で川を順に、下へ下へと捜すが見つからん。

 川入りで人捜しが長く続くと、その噂は吉野川筋に順次伝わる。そんな関係で川下の漁師なども気をつけていたのであろう。

川の捜査が川口辺まで下がって来ていた十一日目に、身投げの場所から六里(二十四キロ)も下の大田口の少し上手の渕底に、着物姿のようなものが見えると川漁師からの連絡が入り、捜しつめていた者は舟下りと徒歩で急ぎ現場へ駆けつけ、川達者が二、三人、すみこんでやっと引き上げた。


 川原に寝かしたその亡骸は見るもむごい姿。そのうちに身内や駐在巡査も来て、身元確認も簡単に済み、夜にかけて連れて帰り、ねんごろに供養して、密かに埋葬したと。

 翌日、さかやんがやって来て、例の大声で、
「かめやん、おるかよ」
「おるぜよ」
「かめやん、あの川入りは、器量良しのええ子じゃったと嫁入りして来て一年にもなるのに、子供が無うて仕事にゃこき使われ、当たりちらされよったと。

近所の話じゃ、またい(弱い)ひ弱な嫁じゃったけ、辛抱しかねてのことじゃろう。当たられたら辛いけのうし。それが身投げしてから十日あまりも吉野川の荒瀬をごろごろ、岩にこち当たりもって六里も流れて引き上げられたろう、着た着物はぼろぼろで、白い肌は顔も足も水に曝され、むくれて哀れな姿はまるで幽霊じゃ。

そのうちに駆けつけて来た父親が、亡骸をうだいて涙ぽろぽろ落としながら、「むごいことしたねや」と声をかけた時に、死人の口から赤い血がぞろっと出て、側で見よった人も、皆しょうおくれたと」

「ふうん、不思議なことじゃねえ。死んじゅうけんど、親に抱かれて安心しても、ものが言えんけ、血を出して返事をしたがじゃねえ」
「そうよそうよ、人は不思議ぜよ、死んじょっても血のつながりは、その血を呼び出すけのうし」
「昔の人が、血は切っても切れん、言いよったが、ほんとじゃねえ」
「今日はちっくと曇ったけ、晩にゃぽろぽろ来るかも知れん。こんな晩には、川上から下へ、火玉がふらふら飛ぶかも知れんぜよ」
「さかやん、火玉は怖いけ、もうええ」
「また明日来て、話いちゃろう」


三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・消防演習

2010-01-21 | 個人の会員でーす
消防演習

火と水はプラスとマイナスか陰陽のごとくで、人々の暮らしに重要で大切な代物である。
 真夏日の焼け付くような暑さには、水は特に欠かすことはできない。喉の渇きをいやす一杯の水、体温を冷やして遊ぶ海水浴やプールでの水泳、小川での小魚採りや水遊び、幼児のたらい水、チャプチャプ水はね喜ぶ笑顔、見る親たちまで嬉しくなる。

 つい火の不注意で火事となる。一一九番へ緊急電話、間もなく消防車が駆けつけ放水して消火にあたる。大火にならずに消えればよいが。

 さて、現在の消火や救急に従事する隊員は、殆ど公共専従の公務員の月給取りである。それに比べて半世紀前、戦前の消防活動は町村や大に消防団を結成して、無報酬で事に当たらせていた。その団員は、団長と小頭以外の団員は血気盛んな若者達で結成されていた。

 当時、男は満二十歳で徴兵検査。健康で並みな男は皆兵隊に取られ、陸軍は二年、海軍は三年の軍事教練がすむと在郷軍人(一人前の男)として帰還し、家業やその他の仕事に就く。

 さあ、どこそこの息子が兵隊から戻って渡世を始めたぞ、と消防の役員が逃がさず駆けつけて団員に入れる。貸与品は忠臣蔵討ち入り兜に似た消火帽子に正帽、背に団名入りの法被に足元まである股引、地下足袋。団員としての心得は、そりゃ火事じゃと半鐘が鳴ったら、何処で何していてもサッと家に常備の衣服に身を固め、ポンプ小屋に駆けつけ、団員共同でポンプ引き出し消火にあたる。

 その当時の消防団の年間行事としては、二月二日の初午、町の所々でポンプで家の屋根に水を掛け、その後団員が二、三人ずつに分かれて、火の用心の張り紙と火吹き竹を各戸に配って寄付を集める。当夜は団員が集まっての慰安会。

 次は、訓練と演習を兼ねた年に一度の大消防演習。各団体(本山、大石、吉野、田井、森、地蔵寺)、五ヶ町村が本山町に集い盛大に行われた。各団には一台の手押しポンプ(約八十センチ~一メートル幅で、七、八十センチの高さの角で、空気圧力式、手動、エ形のギットンコットン)があった。

 消防演習日は毎年八朔(旧八月一日)と決まっていた。立秋も過ぎ、朝晩は少し涼しくなったが、昼間の残暑はまだ真夏日である。

 さて場所は、本山小学校から段々の小ぜまち田んぼの下に開けた広い川原(現在地は本山の町を大きく迂回した三九四号線のすぐ下の自動車練習場)である。

 当日は、今日もまた昨日に続いて天気が良うて暑いぞ、水掛け合いの消防演習にもってこいで面白いわ、と嶺北一円の消防団やその家族、のひいきもきよい立ち、朝も早ようから御馳走の手弁当を重箱に詰め込み、部落総出の応援。

 団旗を先頭に荷車に積んだポンプを引き立てた団員の後に、中の人達がわんさと続いて本山の川原に押し寄せた。

 午前十時頃、団旗をかざした各団員は本山小学校に整列し、警察署長や総団長の訓示と激励を受けて一応解散し、川原にもどり昼食や休憩。昼過ぎから待望の消防訓練や競技が始まる。

 先ずは訓練の水飛ばしで、吉野川の川辺十メートル余の所に間隔をおいて、各団ごとにポンプを据え、少し手前の岡にもどって総員横列し、「訓練始め」の号令で一斉に駆け出して自団のポンプへそれぞれの持ち場に着く。

 吸い玉の元筒を川に投げ込む者、ホースを延べる者、筒先を持つ砲手に介添え(助手)で筒先を構える。ポンプ係はエ形のとんこめ押棒に八人から十二、三人かき付いて、そりゃ押せ、ワッショイ、ワッショイの掛け声と共に力一杯。

 押棒は胸より高く腰より低く、一方上がれば一方下がる。トンコメは空圧で水を吸い上げる。押せば押すほど圧力で水を押し出す。ホースに充満した水は筒口でパチパチッと音を立てて放水する。六台のポンプ、そのトンコメを押す団員の掛け声と汗に、六本の筒口から力の入った放水は、吉野川の対岸にとどけとばかり、水は飛ぶ飛ぶ。競い合う消防士やわめきたてる観衆に水しぶきが散る。

 放水訓練の行事が三十分たらずで終わると、一旦休憩。さて、次は待望の的寄せ競技となる。

 しはえは広場の川辺より岡の上に、川上から下手へ約三十メートルの両脇に、なる(足場用の間伐材、棒)を立て、約五メートルの高さに八番線をパンと引き渡し、その線に一斗缶を直き付け(自在に動く)。その缶を中央にして、両側から水を飛ばして的缶を敵陣に送り付ける競技を、団体せりあげで行う。

 さあ待ち兼ねた競技が始まる。両側に分かれたポンプに消防士が配置につき、奇声を挙げて手技を押し出す。的缶の下、両脇に対峙した砲手は選ばれた名手、筒先を地面に向けた放水は地砂を跳ねて合図を待つ。

 「始め」の合図と共に水棒になった放水は力強く斗缶に当たり、カンカン、ガラガラと音たてて激しく競り合う水流は×の線を描いて水花が散る。攻防の内に筒持つ手元が狂いでもすると、的缶は横に滑る。防戦の砲手や筒たぐりは後ずさり、追う攻め手、共に防水は大きくくねる、持ち直して的を撃つ。

 押されたり押し返したりで攻防が続く。応援観衆もハラハラ、ドキドキ、のぼせた歓声と消防士達の気勢に、火花のごとき水しぶきが小雨になって場内一帯に降りかかる。

 消防士も、見る者も、共に町村対抗で力の入った楽しい競技、大消防演習は日が西に傾くまで続いた。

 この消防演習は、血気な在郷軍人が軍隊に招集されるまでの戦前まで、毎年行われていた楽しい思い出の一つである。



三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・田 役

2010-01-14 | 個人の会員でーす
田 役


 吉野川の南岸の岡に開けた本山の町は、春は桜や石南花、川辺のつつじは南北連山の燃え立つ緑に映えてほんとに美しく、それに加えて山水か育む清々とした空気も美味い、のどかな町である。

 その本山の下町から南山の傾斜に若宮公園があり、この桜の園を挟んで上と下を、兼山掘りのゆ溝が二筋に東から西へ豊かな水をたたえて流れ、吉野川の川沿いに開けた田んぼや町をうるほし、昔から幾度かの町の大火も防いだ防火用水としての大役も兼ねている大切なゆ溝である。

 この二筋のゆ溝は帰全山(鴈山)公園の鶴嘴、川原を大きく迂回した吉野川王瀬の肩に、南から突き当たるように出た小川(樫の川)。水源は国見山と三郷の峰合いから泉み出て、大石と吉延のさこあいを流れて吉野川本流に達している。

 樫の川の中腹、両の下、大きな岩瘤巻の小川を、岩や石垣でせき止め水を入れた兼山掘りのゆ溝は、町の南上を、上ゆ下ゆと流れて十キロ余りもある。

 四国の連山と吉野川、町並みを望観できるゆ溝の小道は、町の人たちに静かな散歩道でもある。

 さて、年中水を湛えてゆるやかに流すゆ溝。このゆ溝の管理や修復は、主にお百姓さんの仕事で、日々の見回りは当番制で、当番に当たった人は朝早くから歩いてゆ関からゆじりまで往復し、ゆの戸(田へ引く水落とし口戸や、山あいからの小谷水は全部ゆ溝が受け止めているので、小谷が下へ涸れてはいかんので落とし水を調節する戸板)ごとに水加減を見ては調節して回る。

 修復工事で一番大変なことは田役という行事である。冬の寒風に震えていた草木も、暖かい春の日ざしと共にふきのとうやつくしの芽がふき、菜の花に蝶が舞い桜花へと自然は順次ほころび、人々も身も心も浮き立つ好季節。

 日々は夢の間に過ぎ桜花も風に散り、川辺は躑躅に色染まる五月。梅雨やしつけ(田を耕し稲植えるまで)を控えて、さあ田役(年中の通水に洗い流されたゆ溝の土手修復)じゃ。

この作業中は、水を止める(水の干上がったゆ溝の小溜まりで、ゴリやどじょうの小魚を手掴みで取るのは、子供達の楽しみであった)。


 さて、作業の段取りは、ゆ掛かり田んぼの反別に応じて、歩役と日数が前もって決められていた。

 さあ、お百姓さんは男も女も総出で、男はかるさん股引き向こう鉢巻き、きよい(張り切る)の姿で、棕櫚のもっこに赤土入れて天びん担いで足取り軽くほいほいほい。

かますのもっこに赤土山盛り、前後を二人で担いでほいこらほいと運んでは、ゆ溝の傾斜(六、七十センチ)の土手に順次移して、また土取り運ぶ。狭いゆ道は天びんともっこ担ぎが行き交う長い列。

 土入れた傾斜の土を年役がひら鍬でぺたぺたと塗りならす。

その後に続いて女ごし(婦人)は、白い手拭、姉さんかむり、紺の仕事着に赤たすき、裾を尻からげにまくって臑から下は赤いお腰で艶やかな、十人余りの人数で、みな手に手に一ひろほどの竹竿(破竹)の先に木の丸太(直径五センチ、長さ二十五センチ、金槌ゲンノウの形)の土たたきで、塗りならしたあぜ土を、艶な女ごし連が横に並んで竹竿槌を、天まで振り上げては叩きつける。


 その音はぱんぱんぱんぱんと拍子が合うたり乱れたり。そのうちに唄声がはいり、叩きつける槌音は太鼓と鼓に代わって調子を合わし、ぱんぱんぱんと叩きつけながら、隊列はゆっくりゆっくりと横しもへ移動して行く。

 和やかな流れ作業の姿は、まことにユーモラスで、見る人の心を飽きることなく楽しませる。

 この山河にマッチした見事な田役の光景は、町のゆ溝を上から下へと一週間余り続けて見られた。

  今はゆ溝のあぜ土手や、水漏れ箇所はコンクリートで全部が固められて、楽しく見えた田役作業の光景も、時は流れて昔の夢となった。

 ◎追話  野中兼山が百姓人夫を大勢駆使して、初めてゆ溝を造ったとき、川水を堰こんで流したが、水はゆ溝にだんだんとしみこんで下へ流れ着かない。

 なんでかなあと兼山は頭を悩ましていた。それを見たある老人が、学問があってもまだ若い、知らんことがある。ひとつ教えてやろうと、「ゆ元で赤土を踏み、濁してどんどん流してみよ」と。

 兼山は言うとうりに作業を進めたら、赤泥の水はゆ溝のしみ穴を逐次ふさいで水は順調に流れた、と。嘘か誠か?



三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・霊が舞う

2010-01-07 | 個人の会員でーす
霊が舞う


 昔から、夏が来て暑い夜の夕涼みには、怖い色々な話を聞かされたり、怪談ものの芝居や映画を見てぞうっとすると汗がひっ込んで涼しくなる妙を得ている。

 最近はテレビで不思議な霊感や心霊術、超能力的な映像を多く放映するので、つい見せられて、霊への関心が高まっている。

 半世紀前(戦前)の国内は現在のように開けてなくて、行者や神官や易の占い師が多く点在していた。

 病気に罹って回復しないので見てもらうと、家の方角が悪いとか、誰それの霊がくっついて災いしているとか、病人に犬神やトンベ(蛇)の魔性が取り付いたとかで、これらの霊付きや魔性を取り払うには科学的な医術では手に負えず、心霊術の太夫さんに祈祷や祈りでお払いをしてもらって回復を願っていた。

 当時は、霊や魔性が目に見えずして飛び舞い、怖くて不思議で、またおかしなことでもあった。

 今から三十四、五年も前のこと。専売のたばこを指定店に卸売に行くため、三輪自動車に同僚と二人、運転と販売方で同乗して吉野川の北岸を川口から立川沿いの曲がりくねった三里余りの山道を登った。

 仕事を終えて立川からやっと川口に出、北岸道を吉野川沿いを上へ、焼山谷を回って見渡しの良い道路の道端に、真新しい花筒にしきびや花を差し、供え物をして祭ってあった。

 それを見た運転手の同僚が、「この間の晩に、こんなえいくで四十過ぎの若い男が自転車でこけて死んだがじゃと。惨いことよのうし」と言った。

それを聞いて「若いけ女房も子もあろうに、不運で惨いことねや」と二人が口を合わして同乗し、葛原橋を南岸へ渡り県道に出、高須の方へ少し登りの坂道。

 悪い山道から良い道に出たので、運転手も気が楽になって、車も馬力が出て早くなった。百メートル余りの直線を走る車が左に寄り道端の青草をなでた。

 あっ危ない、と思ったとたんに、車は道から外へ飛んだ。傾斜の荒い石垣に回転してヅンと当たって二回転してドンと当たった。助手台で小さい手技にかきついていたが、振り放されて体が石垣にぶちつけられた。

 たばこの木箱も荷台から離れてガラガラと落ちる。十メートル余の崖下へ車は三回転して、荒れ畑へドスンとまともに落ち、それへ私と箱が重なり合った。

 左肋(骨)が痛んで息が苦しい。運転の同僚はどうかと見たら、棒ハンドルを突っ張って握り、腰掛けまたいで足つんばって乗車のまま。

 同僚は私を見て「兄貴どうぜよ、事ないかよ」「おらぁ振り落とされた時、何かで肋を突いて痛い、息がしにくい」「そりゃいかん」と、私を抱えてやっと道路に出て通る人に助けを求めて、私はタクシーで病院へ。運転の同僚は怪我なくて、連絡や後始末に追われた。

 私の怪我は、心臓のすぐ脇を、神経痛のためしていたコルセットの真鉄がまがるほど突いて、肋骨が折れていた。何に突き当たったか後で調べたら、傾斜の石垣に生えていた梶を鎌で切って剣のようになっていたものがコルセットの真鉄に当たったもので、コルセットをしていなかったら心臓ぶっすりでした。

 この事故は、道も広く直線で安全な通りであるのに、なぜこんなことになったのか腑に落ちん。それで、現場の検地や車の調子、運転手の体調や精神状態など色々と調べているうちに、ある老人の話から、それは不思議で怖い幻想が、事実となって事故を招いたとわかった。

 思いがけない災難や事故で、突然死んだ人の霊は素直に成仏できず、悪霊となってさ迷い友を呼ぶという。その迷える霊に同情したりすると付け込まれて誘引されるという。怖いこと誘い殺されよった。

 三輪車の事故現場から、「惨いこと」と同情した死者の場所との間は、道路が曲がりくねって大きく迂回して吉野川を渡り、南北直線(四キロ余)に見通した所に来た時、運転手は眠ってないのに目が霞み、ハッと思うた時には車は空へ飛んでいた。

 運転上手で確かな同僚は今でも、「あの時はほんとに不思議じゃ、死霊に取り付かれたがじゃ」とこぼしている。

 最近は路上で交通事故死者が多くて、道端に花束の供養を見掛けるが、「惨いこと」なんて同情は禁物かも。

 知らぬが仏、さわらぬ神に祟りなし。
 蛇もハミもよっちょれよ、はいとう様のお通りじゃ。


三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話