れいほくファンクラブ

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三郎さんの昔話・・・にぎりは怖い

2010-04-22 | 個人の会員でーす
にぎりは怖い


 子どもの時からの仲良しで四国電力の工夫さんになった助さんと政さんの二人は、のどかな小春日和に、大きな杉丸太の電信柱にめんめに上がって配線の取り替え作業に精出していたが、お昼の食事時になった、

政さん大きな声で「助よ昼飯にしょうぜー」と呼びかけた、 助さん「おぅーそぅしよう」と返答して高い電信柱の空から靴に付けた剣金具で杉柱にコッンコッンと踏み差しながら下りてきて、道端の土手に刈り草の日干を尻に敷き二人は弁当を開けて食べ始めた、

互いにおかずを見て政さん塩さばの焼いたのを口にしながら「割に美味しいさばじゃけ食てみいゃ」、と半分割って助さんに、助さんも「おらんくの女房は卵ばっかりじゃ」と言ぃながら政さんに分ける、

政さんの言ぅこと「おんしんくの女房は助が弱ったらいかんけと気をつこぅちょるがょ」、と互いにムゴムゴ食べて、ハッハーと笑い楽しそうに弁当食べ終わって、さて一服しょうと巻きたばこにマッチで火を付け紫煙を空にむけて吐きながら一息した。

政さんの言ぅこと「助よしょうおらんくの女房の本たい偉いのにゃまいったぞ」、助さん「おまんくの嫁さんは、しょう静かで優しいが、そりゃどうしたぜょ」、 政さん「助も知っちゅうろぅ若後家で皆ながねろぅちゅうあの女ごょねゃ」、うん「おらぁこっそりあれをなつけてねゃちょこちょこお世話になりよったわ。

ところが、あの隣のしゃべりばぁが嗅ぎつけて知ったわ。たまるか女房に言ぅたときたわ、最近みょうに機嫌が悪いと思いよったら、 ひょっこり夕べ夜中に機嫌が良うてあれをしょうと言ぃだしたわ、

おらは調子に乗って出してかまえたわ、そうしたら女房は大事にさすってくれよったは、おらはたまらんけもぅしょうかと言ぅた、とたんにたまるか女房はおらの金玉を両手でギュウと握って、気のくるいそうな顔で『あんたはあの後家えと仲良ししよる、カッチリ証拠が上がっちょるけハガイィーもぅゆるさん』、言ぃもってギュウギュウ締められた、

おらはたまらずもぅ二度とせんけ、 こらえてくれーと太い声もできんし小声でまいったまいった二度とせん言ぃもって、ぐったりいたはゃ、女房は『もう本たいよその女ごには手は付けんかょ 、カッチリ約束すりゃあ許しちゃる』、言ぃもってやっと手を放してくれた、

おらは痛ぅてひゃ汗がでた、やっとおちついて一息した、ところが女房のやつはパットかまえて出して、『二度とせんと約束したけ許しちゃろぅけ、さぁしぃや』、ときたが今のこじゃんとにぎりつぶされたので起こりどころよまいってしもたわ、

そしたら女房の言ぅこと『起こらんのはよそでしちょる証拠じゃ』、フンと鼻息してフトンかぶって寝てしもた。

しょう真面目もんが怒ったら本たい怖いぞ、助も気をつけぇよ」、助さん「おらはおんしの様ぅな男前じゃないけ、それに女ごを引掛けるきようが無いけ、心配ないわ」ハッハーと笑うた。

政さん「おまんじゃけ話したがじゃけ、こんな話を人に言ぅなよ。本たい恥ずかしいけ」、よしよし、「夕べのにぎりは本とにこたえたぞ、それで今日はみょうに体がだるぅて仕事に力が入らんけ」、助さん「そんな時は危ない気を付けて柱へあがれよ」、「おいおい」、と言ぃながら二人は電信柱へ向かって歩きはじめた。

三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・スッポン

2010-04-15 | 個人の会員でーす
スッポン

 四国の真ん中吉野川辺で育った山の子、七歳頃、父親に連れられて須崎に行き、浜辺で須崎湾の海を初めて見て、近くの浦町を歩いていたら魚屋があって、色々な魚を売り台の上に並べてあり、珍しそうに見ていたら、浅いバケツに子供の手を輪にしたより少し太い亀がいた。

山の子は絵でしか見たことがないのでビックリした声で「亀がおる」と言ぅと「そりゃ亀じゃないスッポンじゃ甲ぅが違うぞ」、「スッポンは食べると滋養があって、よう効く」と言った。

触ってみようとしたら「指を出されん食い付いたら放さんぞ」、と言ぅた。

「こわい」と手を引っ込めた、そのとき父がつぶやいた「へごな女ごとおんなじじゃ」と。それを聞いて、さっぱりわからん(スッポンの食い付いて放さんのとへごな女ごと)ので聞いてみた。

「へごなおばさんも食い付くの」と。すると少し怒り気味で「いらんこっちゃ、おせ(大人)になったら分かる」と叱られたが、やっぱりがてんがいかず、こまい頭で考えながら浦町を歩いた。


三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・お好さん

2010-04-08 | 個人の会員でーす
お好さん
 今から百年余り昔には、瀬戸内の町や集落は開けすぎていたのと、御維新の改革で、どうも暮らしにくくなって、土地も広く人口も少ない土佐の国へと、伊予の人々が、四国山脈を越えて来て移り住んだ。

 お好しさんも小さい子供の頃、父母に連れられて伊予の三島から、土佐の本山の土居に来てありつき、大きくなった。

 小柄でしゃか、しゃかとした奇麗好きの娘に育ち、とみよし屋に女中奉公に上がり精出して働いた。
 ところが少しそそっかしかったのか、よく唐津を割ったので、おかみさんが「お好しさんはよう働いてくれるが、しゃか、しゃかで長うおいたら家の唐津はのうなってしまう」、とこぼした程いそしい人でした。

 その後縁あって母方の祖父、善太郎と夫婦になり。亀於、照吉と二人の子供にも恵まれ、ささやかな楽しい日々を過ごしていました。

 夫の善太郎は名のとおり、善人で好い人であったが四十二才の時、大家の手伝い仕事で、屋根から落ち不幸な死となりました。

 お好しさんは、その時、上の亀於十三、照吉八つの二人の子供をかかえ、三十七の若さで後家となりましたが、くじけず苦労に耐えて子供を育てた。

 姉の亀於は、他家の子守りなどして手伝うていたが、十七才の時、片岡先生の女中になって、東京へ行った。

 その後弟の照吉も、知り合いの世話で大阪へ丁稚奉公に出た。お好しさんやっと身軽になった。
 その当時沖から雑こ売りに来て、本山にありつき商売を始めていた、池駒次とゆう人と知り合い後妻になった。池の店は桜橋通りの辻で、干物や青物など売り、お好しさんは、うどんやそばを打って飲食を商売にしていた。

 私は小学四、五年で小さい弟の勝(四、五才)を連れて、お好しばあさんの所へ度々行った。おばあさんは心優しい人で、孫の私等を可愛ゆくて、売り物の沖の赤唐芋をくれたり、うどんや、飴めゆを食べさしてくれた。その後私が病弱になってからは、勝が弟の辰を連れて行って、色々と食べたかなぁ。

 私の体調が良くなった二十才過ぎに、駒次の息子で船乗りしていた、隆治さんも帰って来て商売を手伝い嫁ももらった。その後駒次さんも死ぬ。おりづらくなった、お好しばあさんは池の家を出て、安岡時計店の前を借りて、一人でうどん、そばの商売を気楽にしていた。

 毎晩の晩酌は二合、夜が主の商売にほろ酔い気分で、足はけつまげもって湯にひたしたそば籠を振りしぼって、うどん、そばを作って客に振る舞う、気合のえい人で皆に好かれた。
 注文の出前は、けつまづいて倒けると危ないので、毎晩私の受け持ちであった。その後私が家内をもらった当時は、年もいき商売もやめ、早船の一間を借りて住んでいた。

 私の長男、広三が生まれる時、母はてんでかまわなんだが、お好しばあさんは気を使い何時もつきっきりで世話をやいてくれ、お産の時には産婆さんを呼びに走ったり、湯は沸かす、ほんとにええ人でした。

 秋、小学校の運動会で、弟等の走るのを見に行こうと出かけ、あばあさんと二人で肩を並べて鍛冶屋の前に来た時、お好しばあさん、ひょろ、ひょろとして、ぐなりっと寄り掛かったので、転ばぬように抱き抱えた、それがお好しばあさんの、軽い中風の起こりであった。

その後息子照吉の家に身を寄せて暮らしていたが、そう厄介も掛けず、長患いもせず、七十二才で生涯を終わった。


◎顧みて思うに、お好しばあさんは色白で角丸い顔に、すきな日本髪を何時もきちんと結い、小柄な体に着物をしゃんと着て、休む間もない程セカ、セカ、シャカ、シャカと働き、道を歩いてもけつまげかねない、きよいのある人でした。

それに奇麗好きで、人に迷惑は掛けない、借りはしないと自活心が強く、何時もお金は縞の袋財布に硬貨を重いほど入れ、紐のはなを首に掛けくるくると巻き、いつも懐に持っていた。その律儀な人が、若くして後家になった不運のせいか、子供には苦労が多かった。

それにそこひで盲らになった母合田亀さんを、後妻に行くとき父母に預けて見入れて貰った。その女手があった祖母に母は、お借し下されをきめこんで迷惑を掛けたことと思う。

 お好しおばあさんの人生は、幸福とは言えないが、自分に負けず、孫等を可愛がり立派に生き抜いたことである。私等孫は祖母に十分な恩返しも出来ないが、共同で墓もなおした、せめて春秋の彼岸や盆には、努めて墓参し線香を燻らそう。

楽しさは 春の桜に秋の月
 家内達者で 三度食う飯
楽しさは 貧しきままに人集め
 酒飲め 物を食えとゆう時



三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・おどけた話

2010-04-01 | 個人の会員でーす
おどけた話
 浮世のなかで、むつかしい理屈や話で対当していたら、相違点やくいちがいで気まずくなったり喧嘩になって始末が悪いが、おどけた話やへらこい話は大方の人が気さくで面白がり喜ぶので、話術の元かもしれない。

おどけて機嫌を取っておいて本件に取り組む、こりゃ賢い商法の作戦かも知れない。そこで一つおどけた馬鹿なことを言ってみよう。


 人は賢ぅても馬鹿でも元気で生きちゅう内は男も女も色気がどうも失せんらしい。

年老いても男の☆☆☆は若い時ほどチンチン棒のように堅ぅはならんでも、気持ちの持ち方で時折は起こり続くものであり、女の***は男と違い★★★にようばんので気楽に使いこなすことができるそぅな。
「すずめ百まで踊りわすれん」とか昔の人はよう言ぅた。


 人は仕事も生活も大事じゃが、人の生活とは男にとっても女にとっても新語でセックスとか言ぅチンチンチャンポンが最も大切な重大行事の元であろう。
男は女が欲しい、女は男が恋しい、こりゃ人間が性をもって生きている証拠である。


 女が色事がこい過ぎると男を狂わしたり一人で辛抱できず、次から次に食べすぎてホントに始末が悪い***じゃ、男が自制なしにピンピン起こりすぎると、強姦ごうチンと中々に始末が悪い。


 男も女も成人に達して☆☆☆が起こったり***がむずむずし出したら適当に立派な異性を早いこと選んで真っ当に奇麗なセックスに励んで楽しんだら、子宝にも恵まれ子孫繁栄にも貢献し、生き甲斐に満ちて生活は楽しく、浮き浮きと仕事も気軽に面白く社会も明るく見えてくる。


 人の世の中は☆☆☆がピンピン、お***がむずむずしてこそ面白ろぅ楽しく生きて行ける、ほんたい有り難く、うれしいことじゃのうし。

泣き笑い 目口で暮す 浮世かな、
怒りゃ泣く おどけた話しで
 くつろげば フッフッフと福みでて
  みんな喜ぶ 恵比寿顔。


三郎さんの昔話・・・作者紹介

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