れいほくファンクラブ

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三郎さんの昔話・・・えぇこと金儲け

2010-03-25 | 個人の会員でーす
えぇこと金儲け


 色は金なり。昔の田舎であそこはお金もある偉いという家は農家では大地主、町では店を張って物を商う商売人の家でした。

ある店で味噌醤油の調味料から日用雑貨品、小物を売っていてよく売れて繁盛し町でもお金持ちの指に入り、人の羨むお店でした。

そのお店に、もぅ年寄りで楽隠居で気楽にしたらよいのに何時も店に出てゆっくりと物売りの手伝いをしている、渡世人のおばあさんがいた。


 当時の貧しい普通の人は他人が偉かったり出来すぎていると羨んだり悪口を言ぅのが常である。

A「あの店のおばあさんは少しがめついがホントにりこぅもんで渡世がえらいのぅし」
B「あそこの息子もりこぅもんで、渡世は上手じゃが、元を言ぅたら、あのおばあさんは梃子にあわんりこうもんでのぅし、こんな話があるのよ」

A「どんな事があったの」
B「おまん若いけ知るまい話ちゃろ、あのおばあさんはとっとのてん黒ぅで若い時にのぅし、貧乏な夫婦で二人で精出して働いていても、まともな働きでは普通の子やらいで人並みの渡世で、お金もできんただ難儀して貧乏でおわる、それで小金の元手をつくって商売して渡世を上げちゃろと思い、とっぴなアイデアを考え出して亭主を言ぃくるめて実行に移したわ」

A「そりゃどんなことぜょ」
B「さぁそりゃ誰でも出来そうで中々できんことよ」

A「どうして」
B「まぁ話を聞いて、今はあのおばあさん年取って皺じゃけんど若い時は奇麗で中々の愛敬よしじゃったと、それが媚びつかぅて大家の嫁さん持ちの旦那を都合よう引っ掛けて、大事なことをこっそりと実施して相手をのぼせさせ次の日時を決めて亭主の留守に呼び込み、内緒ごと熱演の最中に留守のはずの亭主がポッカリ出てきて現場を押さえる。

さぁ大事よ。間男は女に引きかけられたとは思わず、えい若嫁のしわいがじゃ遊びの気分でやったのが、亭主にカッチリと現場見付けられて段つんだ。

亭主は顔赤らめて本怒りで『おらの女房を惑わしていらん事した、もぅ許さん。もしこれで子でも出来てみい、おらぁ人の子を育てにゃいかん、そんなことは出来んけ女房はいなす。おんしはおらんくの家をこわしたねゃ本たい許さん、おんしんくの家も只ではすまんぞ、こじゃんと言ぃふらして家ぇをこわすぞ』とおどして段つける。その間あの嫁はんはしくしく泣いてごまかしよる、間男はホントにまいって頭を畳にこすりつけて『なんでもするけこらえてくれぇ』と恐れ入る。その問答がしばらく続き、やがてお金で内緒にして、他言せぬとして話がつく。


 やがてお金を手に入れて夫婦はほくほくし、えぇことしての金儲けこんな美味しいこと忘れられず。
 次はボンボン、若旦那と次々に色仕掛けで脅して金儲けて、小商売から小金貸しと中々のやりやのおばあさんで今の大家になったがじゃと」

A「たいしたやりやのおばあさんじゃのぅし」
B「お金儲けも色々あるが、えぇことして金儲けこんなえぇことはないが一つやって見たらどうぜよ」

A「私ゃ貧乏してもそんな器用なことはよぅせんけ」
B「お金がほしゅうても人に恥ずかしいことは誰もよぅせんぜょのぅし」

A「ほんとほんと」。
 色は金なり、お金をお色気が食っちゃった。

注:後家ぇさんなら仕方がない時もあるが、間違ぅても人の嫁さんには手は付けられん。


三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・いかもの食い

2010-03-18 | 個人の会員でーす
いかもの食い


 人間は毒でないものはだいたい何でも食べれる。特に現代の我が国では、経済大国に加え流通の便を得て、世界中の珍品や御馳走をたやすく食べて、エツにいっているが、

ひと昔前の山里での食事は貧困で、主食は米麦に雑穀、それに食前に唐芋を食って腹を満たし、おかずときたら主に畑物の煮付けに山菜、魚けは天びん棒でざるを担いで売りに来た干物の雑魚、ウルメに塩鯖がたまに食べれたら良い程度の貧しい食生活であった。


 そこで話は変わって徳川家康のガマ会でないが、当時大石の奥に小百姓の元気者で、いかもの食いの弥之助という男がいた。


 山の畑や薪切りに行くときの弁当はもっそうにめしを詰め、おかずは小もっそうにみそだけ詰めて出掛ける。
行き来の道や仕事中何時でも目を光らして、蛇、ひき(山のおんびき、くつひきともいう。

がまがえる)、蟹を見付けたらすぐにつかまえて弁当ふごに蓄え置き、昼や八つの食事時に、蛇やひきは皮をはぎ、生身を味噌つけて美味い美味いとむしゃむしゃ食う。


 蟹は竹のくしを削り四、五匹づつ刺し、焚火で焼いてこりゃまた美味いと言うて食う。
 山の白蟹や一間飛びの赤ひきは特に美味しくて食べたが、時たま子供のカンキの薬じゃと取って帰り、子供らに食べらした。


 秋の山田にはイナゴが多くいた。当時はイナゴを子供らに取らせて鶏の餌にしていたが、弥之助は取ったイナゴは鍋でいって夕飯のおかずにし、美味い美味いと食べていた。

 昔の山は今のような植林でなく、自然木の山で植物や生き物も豊富で、春は淡竹(はちく)の筍を二、三本取って皮ごし焚火で焼いて皮をむき味噌つけて食べれば美味しく、秋は茸、しめじや紅茸を焼いて味噌つけて食べても美味しく、弥之助は弁当のさいは味噌さえ持っていれば、生きもの山菜を取って味噌につけておかずにし、弁当のさいに事かかなかった。

 当時はたくさんいた蛇やひき、沢蟹など取って食う人はいなかったので、弥之助はいかもの食いで名が通っていた。


 今になって考えてみると、これら「いかもの」で何ひとつ食べれないものはないが、昔の食生活は謙虚で、家畜や虫けらは食わぬとなかなかに強い気質が一般化していたと思われる。

 さて、蛇は神経痛の時効くというので焼いて食べてみたが、骨だらけで美味くない。

ひきの身は奇麗であっさりとして生でも食べれる。山の沢蟹はいま都会の飲み屋では酒の肴と珍重されている。
イナゴは田畑の消毒でめっきり少なくなったが、空いりにして付け焼きにするとなかなかに美味しい。

奥山の一間飛び赤ひきの身は焼いて食べると小鳥より味があってほんとに美味しい。
 赤ひき、沢蟹、イナゴなどは栄養満点であると思う。



注 ガマ会とは、徳川家康のガマン会のことで、真夏に丹前を着てガマンし、戦場で飢えたら蛇やガマ、なんでも食べて戦う、と食べ会をもって戒めた。
もっそう=もっそ。
物相の音略。木製の弁当箱


三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・はしょうぶ

2010-03-11 | 個人の会員でーす
はしょうぶ


 この名称を聞くと、一般には五月の男節句に目出て使用する細長く青い葉っぱの葉菖蒲で、お節句には額に鉢巻き、手首を括ったり、菖蒲湯につかって縁起を目出たことを思い出しますが、ここにかかげた「はしょうぶ」は、六、七十年も昔の病気のことです。

 今の道は、大道からえご道に至るまでコンクリ舗装されて、石ころ一つ見当たらず土の道を踏むことはありませんが、昔の道路(広くて三~四メートル)や小路は総て土の道でした。

 土の道は台風や大雨にあうと、堅い道路でも土は流され、埋もれていたガンコな石が所々にあたまを持ち上げて、突き出ていて、気をつけて歩いていても、つい蹴つまげることが多々ありました。

 小学三年の頃、父の使いで町へ買物に「急いで行ってこい」の一声で小走りに走って、町の道路で突き出た石に蹴つまづいて、パンとかやった。「あいた」と言いながら立ち起きて、打った足を見たら、右足の臑の血はかすれて血が滲み、かがとの少し上が石の角で突いたのか、小さい穴が開いて血が出ていた。

 ちょうど通りあわせた中年の婦人が「がいにかやったねえ、たまるか、足から血が出よる」と言いながら塵紙を出してくれ、「これで少し押さえちょったら、血がとまるけ」と。「おおきに」と礼を言って、言われたとおり塵紙で傷口を押さえていたら、やっと血がとまったので、ビッコを引きながら使いの用をすまし、家に帰った。

 父の言うこと。「そそっかしいけ、転ぶんじゃ。気をつけえ」と言ってから、怪我した足を見て、「こたあない、よもぎを噛んで貼っちょけ」と。そのとおりにして放っておいたら、たまるか足が腫れだして、二日ほどで腰から下が丸々と腫れ歩けず、学校へも行けなくなった。

 これを見た父は、「こりゃおおごとじゃ、はしょうぶじゃ、遅れたら足を切り捨てにゃいかんけ、早よう、たでにゃいかん」言うたち、さっぱりわからん。どうするかと思うていたら、「亀(亀於、母の名)、早よう七輪で火を起こしてバケツで湯を沸かせ」と言いとばして、父は隣の杉垣の杉柴を切り取ってきてバケツに入れ、竈の灰をふたにぎり程入れて掻き混ぜて、「よし、ちょうどじゃ」と七輪と、たでるバケツを縁のはなに据えて、「これへ腫れた足をつばけ(入れて)て、たでえ」と。

 縁に腰掛け足を入れて言うとおりにしていたら、湯が沸いてきて「熱いー」と叫ぶと、「亀、火を細めちゃれ、少々熱うても辛抱してつばけちょれ」。

  がまんしてつばけていたら、一時間ほどたってから腫れた足の毛穴から、白い糸のようになって膿が紐になって出るわ、出るわ。半日で腫れ足が半分に細った。

 翌日も前日と同じように杉柴と灰を取り替えて足をつばけて、一日中たでたら、夕方になって膿は出なくなり、腫れは引いて元通りの足になった。

 転んで怪我して、はしょうぶ菌が入って、二日で腫れて膿み、杉柴と灰で二日たでて、こっとり治った。五日目にはビッコを引きながら学校に行けました。

 昔、はしょうぶ菌は土中にいた恐ろしい黴菌で、つい怪我してその菌が手足の傷口に入るとすぐに腫れて腐るので、早く切り捨てなかったら、菌が体内に回り、死んだ人があるとのことです。

 七十余年も前、私の右足のきりぶしの右上に、はしょうぶ菌が入った傷痕が、指でおしたほどの禿げ痕が残っています。それにしても、昔の人達の経験や手薬療法の偉大な伝達に恐れ入る次第です。
 「はしょうぶ」とは「破傷風」のことです。



三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・のがま(野鎌)

2010-03-04 | 個人の会員でーす
のがま(野鎌)


 三月の秦史談会で78号に投稿されている神里さんの「かまいたち」が話題になりましたが、帰宅後落ち着いて読み返してみて、言葉は違うが昔、草原で転んだ拍子に鎌でシャーと切られて大傷を負ったという話を思い出して、家内に「野鎌で切られたことを知らんか」と聞いたら、次のように話してくれた。

 私が子供の頃、母親が私と妹二人に従姉妹の愛ちゃんを連れて、吉野川辺と上田の間の桑畑に春蚕(はるご、養蚕五月頃)の桑摘みに行って、私は母の桑摘みの手伝い、妹のすみか、玉絵に愛子ちゃんの三人は母が、「そこの田の岸に野苺(地苺とも言い赤い実が甘い)があるけ、ばらにささらんように気をつけて取りや」と言うと三人は土手の草原ではしゃぎながら夢中で苺取りに耽っていた。

 その時玉絵が足すべらせて軽くかやった(倒れた)。すみかが「早よう起きや」言うと玉絵は立ち上がりながら両手で頭を押さえている。

二人が駆け寄って「打ったかよ」と聞いたが「打ちゃーせんが頭を何かシャーッと掻いた」と言いながら頭から手を放さんので、「どら見せて」と見てびっくり、頭が大きく裂けちゅう。

見た二人が大声で叫んだ。「玉ちゃんの頭が割れたけ、早よう来てー」と。母と私は一緒に駆けつけて見てびっくり。玉絵の頭三分の一ほど三日月形に切り裂かれている。切れ口は白い身をはみ出しているがまだ血が出ていない。母が「のがまに切られた、おおごとじゃ」と言いながら玉絵を背負うて走る。私らも後を追って走った。


 家に帰り着いたら、ちょうど父親が用があって帰っていて、「こりゃたまるか、切れ裂けちゅう、早よう」と玉絵をおんぶ(背負う)して自転車を飛ばして三キロほどある田井の病院に駆けつけ、外科医さんに幾針も縫うてもらい切り傷を塞いだ。傷を縫いだしてから血がにじみだしたと。その後十日ほど通院して切り傷は癒えた。


 その夜、母が叫んだ「のがま」のことが合点がいかず、父母に「のがまってなんなの」と尋ねたら、父が、「山や草原で切れ物をなにも持ってないのに、歩いていて足がシャーと切れたり、転んだとき石もなにもない、打ちもしないのに切り裂かれている。

こんなことが昔からあって、これを『のがま』に切られたと言う。それに百姓の一番大切な道具は鎌、鍬で、神様が宿っておるけ大切にせにゃいかんが、つい鎌を忘れて帰ってしもうたりしたら、腐って消えてなくなるが、それが野加魔に変じて人に災いする。

大人は山や田畑へ行くときに柄鎌か鎌をいつでも持って行くが、切れ物は仕事道具と魔除けを兼ねちゅう。それにしても、のがまとは不思議な怖いことよねや」と話してくれた。


 私は「そんなら切れ物持っちょらん子供だけが切られるの」と聞くと、「いいや、大人でも切られたことがある」と言ってから、「子供には魔除けの呪いがあるぞ、草原を棒切れでさばきもって『はいとう様のお通りじゃ、蛇もハメもよっちょれよ』と言いよったら、呪いがきいて悪魔は逃げてしまう」と。
 私と妹らも、父親の話を熱心に聞いた。


 史談会の少し前日に、妹の玉絵が用があって田舎から出てきて泊まって、姉妹が久しぶりに話がはずんでいて、白髪の話になって髪の染め方がどうのこうのと言っていて、家内が玉絵の髪の毛を分けて見ていて、「ありゃー」とびっくりした声のあと、「あんたがこまい(小さい)時にのがまに切られて縫うたあとが残っちゅうねえ」と話し合って、ひょっこり(偶然)六十余年も昔の不思議な出来事を思い出したと話してくれた。のがまに切られても不思議なことに暫くは血が出ないとも。


 「はいとう様」とは斉藤別当実盛とのこととかで、田畑の神様。田植えがすむと田の畦に酒肴を供え、災害や虫に食われず豊作でありますようにと、おさばい様を祭った。虫除け行事に「はいとう様のお通りじゃ、稲の虫はよっちょれよ」と竹笹かついで大声で叫びながら、田んぼ路を行列が回っていた。
 斉藤様が何時の間にかなまって、はいとう様になったのであろうかと思われる



三郎さんの昔話・・・作者紹介

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