れいほくファンクラブ

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三郎さんの昔話・・・士族かたぎ(堅気)

2009-11-26 | 個人の会員でーす
士族かたぎ(堅気)


 明治維新の変動で下級武士は困窮した。そんな世の中の狂いで、まともでは考えられないくらい士族の娘が百姓の嫁になってありついた。

 縫(祖母)は伊予西条の剣道指南役、栗本半蔵の長女として生まれ育ったが、ご維新の士農工商廃止、火災の類焼で家屋を失い、親子の生活は困窮した。

 当時、土佐は広うて開けてなく、暮らしよいと見込んで伊予から山を越して、土佐の嶺北地方に来てありついた人が多い。縫さんも人に誘われやって来たが、
気に入った働き口も無くて困っていた。

 百姓の寿太郎(祖父)は自作農になるまで、嫁は貰わず働くぞと決めて働きつめて、自作農になったときは三十四才になっていた。さあ、嫁を貰おうかとしたが、当時は男女共に早婚で、娘は二十才前で嫁入りしていたので、嫁に来てくれる娘が居らん。

 困っていた時に、伊予から働きに来ている体格のええ娘がおるが話してみたらと聞いて、早速話し合うてみたが、「百姓は自分にはむかん」と、ガンとして聞き入れない。

 「百姓はせんでもよい。子供を生んで育ててくれ。食べることには事欠かん」と言いくるめて、やっと嫁にした。時に、縫さん十七才で、寿太郎さんと十七も年が違っていた。

 さあ子供がつんどこ出来て、縫さん子育てに忙しい。躾はとっても厳しい。他人にへごはしもせん(悪いことはしない)、受けもせんと、士族の堅ぶつ。

 小学生の子供らが草原のねき(傍ら)の柿や栗を遊びに取りでもしたら、「よその物を取ったら泥棒じゃ、取られん」と大声で怒鳴りつける。

 縫ばあさん、孫の私に「侍は人の手本じゃけ(から)、善悪をはっきりと心得て、武士は食わねど高楊枝、たとえ飢えて死んでも、人の物には手はつけん」。へごなことはせんと腹を決めちょる。それから、「こらえれん、とか、たまらんぜよ(辛抱しがたい)とは絶対に言わん」「男はヒイヒイ泣くようなことじゃあ駄目、侍ばあ(くらい)しっかりせにゃ、いかんぜよ」と、よく言われた。

 士族育ちであっても、百姓の嫁になったのに縫さん子育てに追われ、自分に厳しくろくに百姓はせざった。
 一生袂つきの着物を着て、いつもキチンとかしこまって座っていて、何となく威厳があった。
 とってもむつかしいお祖母さんであったが、今になって思い出すと、士族かたぎがなんとなく懐かしい。

◎昔の士族は、痛むことがあっても、痛いとは言ったが、痛いけこらえれんとは言わず、どんなにうるさいことでも、こりゃたまらんと、弱音は絶対に吐かなかったと。



三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・こっくりさん

2009-11-19 | 個人の会員でーす
こっくりさん


 商売繁盛の神様に稲荷大明神を商売人は尊敬し、家の商売が繁盛しますようにとお祭りして朝晩によく拝む。

 稲荷神社を見ると、赤い鳥居の立ち並ぶ門前や社前に必ず、耳の立った狐の坐像がどっかりと腰をすえているが、ありゃー昔から、狐はお稲荷さんの護衛とお使いの役じゃとの言い伝えがあるが、ほんとか嘘かなあ?

さて昔の狐は人に化けたり、人を化かしたりいろいろと悪さもするが、ありゃお稲荷さんの子分で、心霊術を心得ているのかなあ、不思議なこと?

さて暮れもおしせまった雪時雨のちらつく寒い晩、夕飯を済ましていつもの若いしが、気安い吉松の家に集まって来た。


 梅吉が「毎晩話ばっかりもたるが、何か変わった面白いことはないかねや」と言うと、みんな少し考えていたが、友竹が「今晩は持って来いの日和じゃ、こっくりさんを迎えていろいろ聞いてみんか」と言いだすと、みんな「そりゃ面白い、やろう」ということになった。

 年若い次郎が「こっくりさんを、どうやって迎えて来るが?」と聞くと、友竹が「おらがおばあに聞いて知っちゅう。

 まず次郎は豆腐のあげを二枚買うて来い」次郎「ハイハイ」と買いに行く。
 「吉松、おまんは畑の人参と菜っ葉を引いてきてきれいに洗え」吉松「ホイホイ」と取りに行く。

 「梅吉よ、おまんは前にやったけ知っちゅうろう、広い紙に字を書くのと、赤箸と御神酒の準備をせえや」梅吉「よっしゃ、よっしゃ」と、みんな準備にきようた。

 半時もたつと、みな出来揃うた。
 あげ、人参、菜っ葉、大半紙に真ん中をあけてふち回りに書いた字は、「好き、嫌い、早い、遅い、行く、行かない、吉、凶」などである。
赤の大箸を三本の元を下に、先を上にして、先から少し下を紙縒で束ね、三つ足に立てて出来上がり。

 友竹が「準備ができたか、さあいくぞ、こっくりさんは犬を嫌いじゃが、犬年の者はおらんか?」「犬どしゃおらんおらん」「そんなら字を書いた半紙と、別の半紙一枚と、ほかの物は皆めんめに持って行け」と、皆がそれぞれに提げて寒い夜空に出掛けた。

 次郎が「何処へ行くが?」と聞くと、梅吉が「え(良)え四つ辻じゃなけりゃいかんけ、裏町の桜橋の四つ辻にしょう」と、皆でてくてくとやって来た。

 友竹が辻の真ん中へ半紙を敷いて、あげと野菜と御神酒を上げた。
 字を書いた一枚の半紙の上へ箸を結んだのを三角に立てて置き、「さあこれで、こっくりさんを迎えるけ、皆で手を合わして、『こっくりさんお迎えに来ました、お願いします』と言うて頼めや」と。

みんな言うとうり言い、拝みながら箸を見ていたら、箸がこっくり動いた。 友竹が「こっくりさん、ご機嫌が良うて乗り移ったぞ、大事に提げて行けや」と言う。


 吉松が半紙に乗せた三本箸を大事にさげて、皆ぞろぞろと家に帰った。
 半紙に乗せたこっくりさんを、座敷の中央に置き、皆で取り巻いて座った。

 「さあ、誰にやらそか、次郎が若いけ良かろう」と、次郎に決まった。
 さて友竹が、次郎に「ほかの者が頼み事を言うたら、その通り言うて箸のくくり目を軽う指で挟んで目をつぶれ、そうしたら箸がひとりでに動いて字を指すけ」と。

 すると梅吉が「おら、兵隊に行くか行かんか聞いてくれ」次郎が教わったとうりにすると、箸はこっくりこっくりと静かに動いて、一本の箸が「行く」を指した。

 みんなびっくりして思わず手がなった。
 次は友竹が「おらは嫁を貰うが、早いか遅いか聞いてくれ」すると、こっくり動いて「早い」を指した。「ええことねや」と声が沸く。

 すると吉松が「僕が思うちゅう彼女は、僕を好きか嫌いか聞いてや」すると、こっくりこっくり動いて「嫌い」を指した。吉松は「しゃんしもうた、聞くんじゃなかった」と頭をかく。

 みんながいろいろなことを尋ねては、感心したり、笑うたり、おくれたりしながら、若いしの楽しい夜はふける。

 友竹は皆に「しょう面白かったが、もう夜も遅い、こっくりさんに、いんでもろうて、寝ちょかにゃあ、明日につかえるぞ」と言い、半紙と箸を持って外に出て、「こっくりさん、おおきに、また来てや」と言って、三本箸に息をプーッと吹きかけて、「これでこっくりさんは、もういんだけ、皆もいんでええ夢見て、こっくりと寝えや」と。


 「そんならお休み」と言い合いながら皆家に帰る。
 お迎えの時に四つ辻にお供えしてきた、あげや野菜に御神酒は、こっくり狐さんが食べたのか、早起きの人がこっそり戴いて帰ったか、朝の辻には半紙だけがそよ風に舞っていた。
  こっくりさんは、狐の魔法使いが宿るのかなあ?

 ◎昔はほんとに不思議で面白い遊びがあったこと。



三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話


三郎さんの昔話・・・代参詣で(三宮)

2009-11-12 | 個人の会員でーす
代参詣で(三宮)

 昔は今のように生活も医学も総てが進んでいなく、暮らしは総体に貧しかった。そのせいでか、誰か病気になって病が重くなると、しかたなくお医者さんにも掛かって毎日往診を受け、薬も貰って飲むが良くならん。しだいに病気がつのって危篤状態になる。さあ、いかん、みんなで三宮社に代参参りをして治してもらわにゃいかん、と神詣でとなる。

 与助は弟もんで家督もなく、その日稼ぎで女房に子供三人の五人暮らし。貧しいが真面目でよう働き、でも評判が良く皆に好かれていたが、雨降りの日の仕事で濡れて無理したのが元で風邪をひき、それがこじれて肺炎になった。さあたいへん、女房も精一杯の看病をし、親戚の者も駆け付け近所の婦人らも手伝って世話をする。

 病人の小部屋に七輪に火をおこし、洗面器で湯を煮立ててコンニャクを熱いほどに蒸したのを手拭きで巻き、胸を蒸し、取り替えては蒸してシップする。湯気を部屋中に充満して肺炎のしんどさ(呼吸困難)を和らげて、皆で夜も寝ずに病人の看病するが、病はつのるばかりで、今日か明日かの危篤状態となる。

 隣近所の人が入れ代わり見に来る。与助はこじゃんと悪いが、「ありゃええ男で、まだ子やらいじゃけ、死んだら困る。早よう代参まいりせにゃいかん」と分立ちが言いだすと、口づてで近所から地区中に伝わる。「そりゃ」と各戸から必ず誰か一人は代参詣でに参加する。

 先だつ世話人が与助の年と「えと」を確かめて、与助のいっちょうらの羽織りとお撰米を風呂敷に包みさげて、近所の人と氏神様へ向かうと、地区中の老若男女に子供までぞろぞろと続く。

 氏神様の神前に与助の羽織りを供え、お撰米を上げて、「三十七才、ねの年の男、与助の病が重い、どうぞお助けください」と祈願し、続く人々に与助の年とえとを知らせてお参りしてもらう。

 氏神様が済むと下ゆ(兼山堀)道を西へ回って一本松の灯明台、琴平宮様に氏神様と同様にみんなで祈願して、次は広い公園通りを東へ、寺坂の上のお伊勢宮様に代参祈願をする。お伊勢様には氏神の宮司さんが居て、祈願ののりとをあげて拝み、お札をくれる。それを世話人が持ち帰る。一般の代参者はお伊勢様のお参りがすむと、めんめに帰宅する。

 世話人は持参した物を返し、戴いてきたお札を病人の天井に張って、「三宮社様に地区の人みんなで病気が良うなるようにとお参りしてきたけ、与助は治るけ、こじゃんと世話をしちゃれよ」と家族をあしらって帰る。

 その後与助の病気は、皆の手厚い看護と、地区総出の代参詣でのかいあってか、次第に良くなって全快した。

 地区に危篤の病人ができると、地区総出で三宮社への代参詣でをする。その病人が回復しても、当人は格別にお礼回りやお返しもすることはなかったが、地区内の誰か病気で危篤じゃいうたら、代参にこぞってみんな参加した。それがみんな言わず語らずのならわしだった。

 田舎の町本山で、重病人ができると地区総出の代参詣では、戦前までずっと続いていた。なにか事あると、おんばもそうけも、好きも嫌いも一決して事に当たった良き時代。


◎昔の貧しい時代には、事のない軽い患いではお医者には行かなかった。それで病がこじれることがあったろう。

 当時は医師も少なく、良い薬、ペニシリンもなかった。昔ながらの療法や手薬などで対処していた。
 風邪がこくれて肺炎になると大変で、栗の木の虫(虫食いの木の中、小指ほどの幼虫)を煎じて飲ましたり、熱いコンニャクで胸を蒸してシップするとか、湯気をたてて呼吸をやわらげるなど、いろいろと手をつくした。

 かなわぬ時の神頼み 人の祈るは願いごと



三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・やっこさん(はやり仏)

2009-11-05 | 個人の会員でーす
やっこさん(はやり仏)



 「やっこさんだね」と聞くと、ユーモラスで愉快な踊りが頭に浮かぶ。
 田舎の町本山で、やっこさんと言えば、上の坊(昔の寺跡で、住職の墓)さんの裏側にある捨て墓のはやり(流行り)仏さんである。

 やっこさんの墓に、婦人が悩み事や婦人病の平癒を願掛けすると、不思議と効果があるので、昔からずうっと現在に至るも、やっこさんの墓前には、しきびと花が絶えることなく線香がただよっている。

 それだけ人を引き付ける魅力のある不思議なやっこさん。この不思議な霊魂と薩力はどうしてできたのだろうか?

 さて話は明治末期から大正の初期の頃に、阿波から貧しくて仕方なく本山の料理屋に売られてきた器量よしの若い女で、呼び名は「やっこ」と付けられ、気も優しゅうて愛嬌よしで「やっこ」「やっこ」と人気があって、料理屋は繁盛した。

 飲み屋の女は客に好かれて、人気があればあるほど引き回されて身体の疲れがひどい。三年目にふと病気になったが、栄養も足らず病は治らん。

その病弱体でも夜の仕事は休ましてくれず、難儀な仕事と身の不幸に身も心も疲れ果てた。

 自分を可愛がって育ててくれた母も年老いて昨年亡くなり、身寄りもない病身で、こんなにむごい暮らしの身の不運はつくづくいやになり、死を決して店じまいした小雨の夜中に、こっそりと料理屋を抜け出して、下町の側を流れる吉野川の淵(大箱淵)に身を投げて水死した。

 夜が明けて朝になって料理屋では、やっこがおらんと騒ぎよる。そのうちに人々が、「下町の大箱淵へ女の身投げがあって上がったぞ」と、噂が町中に流れた。

 料理屋の主が駆け付けてみたらうちのやっこじゃ、「死ないでもよかろうが」と人前はつくろうたが、心うちは哀れさもなくおおちゃくなやつと仕方なく引き取って、簡単な仮埋葬で共同墓地に葬った。
 その埋葬の時、棺の中へやっこの下着や持物全部を投げ込んだ。その中にやっこが大切にしていた、母がお四国巡礼で得たお納経があったと。

 町の人々も、人の貧しさと不運不幸を哀れと思い、春秋の墓参の時は皆んなやっこさんの墓にしきびや線香を手向けた。

 すると不思議な力というか魅力といったらよいか、何時ともなしに婦人の守り仏やっこさんになって、今日でもお参りが絶えることなく、花やしきびが青々と線香の香りが漂っている。

 昔は小さかった石碑も、今は誰か篤志家の寄贈で立派な石碑がお堂の中にある。
 人としてのこの世では貧しく哀れであったやっこさん。あの世で霊は、多くの人にお参りされて安らいでいることと思う。
 人の哀れか、はやり仏のやっこさん。


三郎さんの昔話・・・作者紹介
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