怒るおやじ
腹が立って怒る時は、その人自身なにか気にくわんこと(仕事の出来具合や、他人と意見の相違)があって、いらいらと気がもめて落ち着かない。
そんな時に女房や子供が失言やへまをすると、おやじはカーッと頭に血がのぼって腹を立てて、大声でどなりつけたり、叩いて折檻に代えたり、気違いじみた行動する場合がある。
半世紀余も昔の貧しさに耐えて暮らしていた時代の、怒りのおやじや近所のおんちゃん達の、さまざまな怒りあんばいを思い出してみた。
家のすぐ下の鍛冶屋のおんちゃん正義さんは、言うところの「怒り」ではなかった。
夫婦が喧嘩してわめくのは聞かなかったが、子供が多かったので兄妹が喧嘩したり、なにか悪さしておばさんが大きな声で子供を叱りつけていると、仕事中の鍛冶場から飛び出してきて、「こりゃー、わるさしちょいて言うこと聞かんか、おかあの言うこと聞け」と、凛とした声で叱りながら子供を横がかえにして、着物を尻はぐりにして、鍛冶で槌握った厚い手のひらでお尻をパンパンとぶつ。
子供は悲鳴に似た声を上げて「もう言うことをきく、こらえてー」と。子供を放すと小走りで仕事場の横座(師匠の入る穴座)にもどり、一服つけて煙をくゆらし、鞴(ふいご)を吹いて仕事にもどる。
誠に機敏でさわやかな怒り方で、良い子供の躾け方(尻たたきは西洋式)でした。
鍛冶屋の東隣り、山伏たゆうさんの大坪夫婦はもの静かで、お祈りののりとの時以外に大きな声など聞いたことなし。
兄弟二人の子供もあったが、躾がよくて良い子等であったので、たんまにたゆうのおんちゃん、ものも言わずにふくれつらで怒っちょった顔は見たが、おばさんがとっても賢い人でガッチリとくるめていたのかなあ。
家の下の清水の溝、洗濯物のゆすぎ場も所々にある。その溝ぶちを四、五軒行ったところに、檜物師(ひもの師)の職人で、居り家の片隅が職場でいつも槍板を削って、お膳造りに精出している友さんというおんちゃん。
やや小柄で小友さんとあだ名があったが、子供達にやさしくて仕事に見惚れていると、おもしろい色々な話をしてくれたええ(良い)おんちゃん。
その小友さんより大きい女房のおばさんと仲良し夫婦で、喧嘩で怒ったら小友のおんちゃん、ふくれっつらの小声でぶつぶつ怒りながら、手当たりしだいに鍋やら篭やら所帯道具の小物を、職場の横を流れる小溝へぴらぴら放り投げて気を晴らす。
おばさんも不機嫌な顔して流れの下手の洗い場で、流れてくる鍋やら篭を拾い上げよる。こんな光景を見ると、ほんとに面白かった。
家から少し上がったお寺の坊さんは、子供の間では怒りで通っちょった。
友達同士で寺の孟宗竹や木に登って遊んだり、こっそり屋根に上がって雀の巣でも取ると、たまるか、鐘たたいてお経を上げよったのが白足袋はだしで飛び出してきて、大声でどなりながら竹箒を振り回して子供を追い散らす。でも、お寺は子供の遊び場で、怒られてもすぐ集まって遊ぶ。
さて、私のおやじは怒りで名が通っちょった。母や私等を怒る時は、俄かに雷が鳴るのと同じで、大声でどなりつけてそれはしぶとい。
両隣や上下の近所の人は、また数元さんの怒りが始まったと慣れたもの。怒られる方はとってもたまらん。
それに手が早うて、鉄キセル(六寸余)や竹さしでパンパンやられ逃げる間がなかった。それでも女房の母には手を振らなかった。
母はおやじの顔色を見て、知っていたのかなあ?それに食事のとき、家の中から庭の築山石に唐津物をピラピラ投げつけて、パンと割るのが好きであった。あれは憂鬱な気分をパッと晴らしたのであったろうか。
小学生の弟等を怒ったあげに、「役にたたん子は出て行け」と追い出すのが癖であった。小さい弟は困って、縁の下に新聞紙敷いて寝たり、一里もある叔父の家に逃れて助けを求めたことなど多々あった。
なにせ怒りのおやじにしょっちゅう怒られたせいか、お陰で五人の子供等、ぐれずに成人した。ありがたいこと。
なにせ昔の大人は、自分の子供でも他人の子供でも、少しの悪さも見逃さず、大声でどなりつけた。それで子供は、大人や怖い親父の顔色と目を見て育った。
それに比べて戦後の今の親達は、子供に勉強、勉強と過保護でほうほうと甘やかされ、子供等は親父の怒りや、親の威厳なんてまるで知らない。
人の怒るのは、思慮の足りない馬鹿かも知れないが、怒ることによって鬱憤を晴らした昔の人達と、怒ることを忘れた今のおやじ連中、ストレスがたまって居酒屋で水割り飲みすぎたり、病気になって気がくさる。
世の中の人間が賢くなりすぎて、怒ることを忘れてしまったら、少し、大きく心配なことである。
三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話
腹が立って怒る時は、その人自身なにか気にくわんこと(仕事の出来具合や、他人と意見の相違)があって、いらいらと気がもめて落ち着かない。
そんな時に女房や子供が失言やへまをすると、おやじはカーッと頭に血がのぼって腹を立てて、大声でどなりつけたり、叩いて折檻に代えたり、気違いじみた行動する場合がある。
半世紀余も昔の貧しさに耐えて暮らしていた時代の、怒りのおやじや近所のおんちゃん達の、さまざまな怒りあんばいを思い出してみた。
家のすぐ下の鍛冶屋のおんちゃん正義さんは、言うところの「怒り」ではなかった。
夫婦が喧嘩してわめくのは聞かなかったが、子供が多かったので兄妹が喧嘩したり、なにか悪さしておばさんが大きな声で子供を叱りつけていると、仕事中の鍛冶場から飛び出してきて、「こりゃー、わるさしちょいて言うこと聞かんか、おかあの言うこと聞け」と、凛とした声で叱りながら子供を横がかえにして、着物を尻はぐりにして、鍛冶で槌握った厚い手のひらでお尻をパンパンとぶつ。
子供は悲鳴に似た声を上げて「もう言うことをきく、こらえてー」と。子供を放すと小走りで仕事場の横座(師匠の入る穴座)にもどり、一服つけて煙をくゆらし、鞴(ふいご)を吹いて仕事にもどる。
誠に機敏でさわやかな怒り方で、良い子供の躾け方(尻たたきは西洋式)でした。
鍛冶屋の東隣り、山伏たゆうさんの大坪夫婦はもの静かで、お祈りののりとの時以外に大きな声など聞いたことなし。
兄弟二人の子供もあったが、躾がよくて良い子等であったので、たんまにたゆうのおんちゃん、ものも言わずにふくれつらで怒っちょった顔は見たが、おばさんがとっても賢い人でガッチリとくるめていたのかなあ。
家の下の清水の溝、洗濯物のゆすぎ場も所々にある。その溝ぶちを四、五軒行ったところに、檜物師(ひもの師)の職人で、居り家の片隅が職場でいつも槍板を削って、お膳造りに精出している友さんというおんちゃん。
やや小柄で小友さんとあだ名があったが、子供達にやさしくて仕事に見惚れていると、おもしろい色々な話をしてくれたええ(良い)おんちゃん。
その小友さんより大きい女房のおばさんと仲良し夫婦で、喧嘩で怒ったら小友のおんちゃん、ふくれっつらの小声でぶつぶつ怒りながら、手当たりしだいに鍋やら篭やら所帯道具の小物を、職場の横を流れる小溝へぴらぴら放り投げて気を晴らす。
おばさんも不機嫌な顔して流れの下手の洗い場で、流れてくる鍋やら篭を拾い上げよる。こんな光景を見ると、ほんとに面白かった。
家から少し上がったお寺の坊さんは、子供の間では怒りで通っちょった。
友達同士で寺の孟宗竹や木に登って遊んだり、こっそり屋根に上がって雀の巣でも取ると、たまるか、鐘たたいてお経を上げよったのが白足袋はだしで飛び出してきて、大声でどなりながら竹箒を振り回して子供を追い散らす。でも、お寺は子供の遊び場で、怒られてもすぐ集まって遊ぶ。
さて、私のおやじは怒りで名が通っちょった。母や私等を怒る時は、俄かに雷が鳴るのと同じで、大声でどなりつけてそれはしぶとい。
両隣や上下の近所の人は、また数元さんの怒りが始まったと慣れたもの。怒られる方はとってもたまらん。
それに手が早うて、鉄キセル(六寸余)や竹さしでパンパンやられ逃げる間がなかった。それでも女房の母には手を振らなかった。
母はおやじの顔色を見て、知っていたのかなあ?それに食事のとき、家の中から庭の築山石に唐津物をピラピラ投げつけて、パンと割るのが好きであった。あれは憂鬱な気分をパッと晴らしたのであったろうか。
小学生の弟等を怒ったあげに、「役にたたん子は出て行け」と追い出すのが癖であった。小さい弟は困って、縁の下に新聞紙敷いて寝たり、一里もある叔父の家に逃れて助けを求めたことなど多々あった。
なにせ怒りのおやじにしょっちゅう怒られたせいか、お陰で五人の子供等、ぐれずに成人した。ありがたいこと。
なにせ昔の大人は、自分の子供でも他人の子供でも、少しの悪さも見逃さず、大声でどなりつけた。それで子供は、大人や怖い親父の顔色と目を見て育った。
それに比べて戦後の今の親達は、子供に勉強、勉強と過保護でほうほうと甘やかされ、子供等は親父の怒りや、親の威厳なんてまるで知らない。
人の怒るのは、思慮の足りない馬鹿かも知れないが、怒ることによって鬱憤を晴らした昔の人達と、怒ることを忘れた今のおやじ連中、ストレスがたまって居酒屋で水割り飲みすぎたり、病気になって気がくさる。
世の中の人間が賢くなりすぎて、怒ることを忘れてしまったら、少し、大きく心配なことである。
三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話