れいほくファンクラブ

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三郎さんの昔話・・・怒るおやじ

2009-12-31 | 個人の会員でーす
怒るおやじ


 腹が立って怒る時は、その人自身なにか気にくわんこと(仕事の出来具合や、他人と意見の相違)があって、いらいらと気がもめて落ち着かない。 

そんな時に女房や子供が失言やへまをすると、おやじはカーッと頭に血がのぼって腹を立てて、大声でどなりつけたり、叩いて折檻に代えたり、気違いじみた行動する場合がある。


 半世紀余も昔の貧しさに耐えて暮らしていた時代の、怒りのおやじや近所のおんちゃん達の、さまざまな怒りあんばいを思い出してみた。

 家のすぐ下の鍛冶屋のおんちゃん正義さんは、言うところの「怒り」ではなかった。
夫婦が喧嘩してわめくのは聞かなかったが、子供が多かったので兄妹が喧嘩したり、なにか悪さしておばさんが大きな声で子供を叱りつけていると、仕事中の鍛冶場から飛び出してきて、「こりゃー、わるさしちょいて言うこと聞かんか、おかあの言うこと聞け」と、凛とした声で叱りながら子供を横がかえにして、着物を尻はぐりにして、鍛冶で槌握った厚い手のひらでお尻をパンパンとぶつ。

子供は悲鳴に似た声を上げて「もう言うことをきく、こらえてー」と。子供を放すと小走りで仕事場の横座(師匠の入る穴座)にもどり、一服つけて煙をくゆらし、鞴(ふいご)を吹いて仕事にもどる。

誠に機敏でさわやかな怒り方で、良い子供の躾け方(尻たたきは西洋式)でした。


 鍛冶屋の東隣り、山伏たゆうさんの大坪夫婦はもの静かで、お祈りののりとの時以外に大きな声など聞いたことなし。

兄弟二人の子供もあったが、躾がよくて良い子等であったので、たんまにたゆうのおんちゃん、ものも言わずにふくれつらで怒っちょった顔は見たが、おばさんがとっても賢い人でガッチリとくるめていたのかなあ。


 家の下の清水の溝、洗濯物のゆすぎ場も所々にある。その溝ぶちを四、五軒行ったところに、檜物師(ひもの師)の職人で、居り家の片隅が職場でいつも槍板を削って、お膳造りに精出している友さんというおんちゃん。

やや小柄で小友さんとあだ名があったが、子供達にやさしくて仕事に見惚れていると、おもしろい色々な話をしてくれたええ(良い)おんちゃん。


 その小友さんより大きい女房のおばさんと仲良し夫婦で、喧嘩で怒ったら小友のおんちゃん、ふくれっつらの小声でぶつぶつ怒りながら、手当たりしだいに鍋やら篭やら所帯道具の小物を、職場の横を流れる小溝へぴらぴら放り投げて気を晴らす。

 おばさんも不機嫌な顔して流れの下手の洗い場で、流れてくる鍋やら篭を拾い上げよる。こんな光景を見ると、ほんとに面白かった。

 家から少し上がったお寺の坊さんは、子供の間では怒りで通っちょった。

友達同士で寺の孟宗竹や木に登って遊んだり、こっそり屋根に上がって雀の巣でも取ると、たまるか、鐘たたいてお経を上げよったのが白足袋はだしで飛び出してきて、大声でどなりながら竹箒を振り回して子供を追い散らす。でも、お寺は子供の遊び場で、怒られてもすぐ集まって遊ぶ。 


さて、私のおやじは怒りで名が通っちょった。母や私等を怒る時は、俄かに雷が鳴るのと同じで、大声でどなりつけてそれはしぶとい。

両隣や上下の近所の人は、また数元さんの怒りが始まったと慣れたもの。怒られる方はとってもたまらん。


 それに手が早うて、鉄キセル(六寸余)や竹さしでパンパンやられ逃げる間がなかった。それでも女房の母には手を振らなかった。

母はおやじの顔色を見て、知っていたのかなあ?それに食事のとき、家の中から庭の築山石に唐津物をピラピラ投げつけて、パンと割るのが好きであった。あれは憂鬱な気分をパッと晴らしたのであったろうか。


 小学生の弟等を怒ったあげに、「役にたたん子は出て行け」と追い出すのが癖であった。小さい弟は困って、縁の下に新聞紙敷いて寝たり、一里もある叔父の家に逃れて助けを求めたことなど多々あった。

なにせ怒りのおやじにしょっちゅう怒られたせいか、お陰で五人の子供等、ぐれずに成人した。ありがたいこと。


 なにせ昔の大人は、自分の子供でも他人の子供でも、少しの悪さも見逃さず、大声でどなりつけた。それで子供は、大人や怖い親父の顔色と目を見て育った。

 それに比べて戦後の今の親達は、子供に勉強、勉強と過保護でほうほうと甘やかされ、子供等は親父の怒りや、親の威厳なんてまるで知らない。

 人の怒るのは、思慮の足りない馬鹿かも知れないが、怒ることによって鬱憤を晴らした昔の人達と、怒ることを忘れた今のおやじ連中、ストレスがたまって居酒屋で水割り飲みすぎたり、病気になって気がくさる。

 世の中の人間が賢くなりすぎて、怒ることを忘れてしまったら、少し、大きく心配なことである。


三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・鉄砲鍛冶の忍術使い

2009-12-24 | 個人の会員でーす
鉄砲鍛冶の忍術使い


 大川村の山奥へ伊予から越してきて、畑作をしながら山猟師の鉄砲の直し(修理)が上手で、忍術使いの伝助という人が女房と二人で暮らしてた。

 ある時よそから忍術使いが来て、鉄砲鍛冶の伝助と忍術の腕くらべをすることになった。それを聞いた村人達は忍術くらべの場所、氏神様の広場に集まった。

 広場の中央に三間程のなる(木の棒)を立てらした。かたずを飲んで見守る村人の前で、先ず試合を申し込んだよそ者の忍者が、手に印を結んで呪文を唱えた。とたんに白い煙がぽうーと立って姿が消えた。そしたら白鼠が出て来て棒の下を二、三回まわって棒をスルスルッと登って、天辺でチュウ、チュウと鳴いた。

 見ていた村人はたまげて、ウワァーと声が出て手を叩いた。
 その時、側にいた伝助も白い煙と共に消えた。アッという間もなく天空に鷹が舞い、飛び下りて来た、と見るや棒先の白鼠をつかんで飛び去った。

 あっけにとられて見ていた村人達が正気にもどった時、よそ者の忍者は姿なく、鉄砲鍛冶の伝助が一人立っていた。この試合は伝助さんの勝ちじゃと、村人は手を叩いて喜んだ。

 さて、ある日のこと、山猟師が鉄砲の調子が悪いので直してもらおうと悠々やってきたら、鍛冶の伝助さん家の前で畑を耕していた。

 猟師は「この鉄砲は少々古うて当たらんが、直してもらえまいか」と頼んだら、「そんならちょっと見てみよか」と家にもどって、伝助さん猟師に、「わしが覗いてみるけ、この鉄砲捧げ筒して持っちょりや」言うて猟師に持たし、筒の手前で覗いていた伝助さん、ウニャムニャと一言二言いうと、白い煙になって筒の中へスゥーと吸い込まれるように消えた。しばらくたったがなかなかに出てこん。

 捧げ筒したままの猟師は少しくたびれあぐんでいた。その時、伝助の女房が番茶を持って出て来て、猟師の恰好を見て「まあ、それがたまるか、うちの人は時々忍術使うて人をおちょくるけ、早う鉄砲おろして一服して、畑へ行って」と。

 猟師は忍術でやられたと思うたがしかたがない。お茶飲んで裏の畑に行ったら、伝助さん知らん顔で畑を打ちよる。その背に、「鉄砲の具合はどうじゃろ、直るろうか」と聞くと、伝助さん振り返って、「あっ、畑に気をとられて、おまさんのことすっかり忘れちょった、あの鉄砲は少し筒が狂うちょるが、鍛冶仕事は雨の日だけするけ、降ったら直しちょく、雨あがりに取りに来いや」と。「そんならお頼みします」と猟師は帰った。

 その後何日かして雨も降り上がった晴天に取りに行ったら、鉄砲は直っていた。猟師は伝助に、「鉄砲は直ったら、これでよう当たるろうか」と聞くと、伝助の言うこと、「鉄砲は筒なりに直したが、当たる当たらんは、鉄砲の癖と撃つ人のわざ(技)じゃ」

 ふぅーんとうなづいて聞く猟師に「鉄砲が当たる秘伝を教えちゃろう。鉄砲も人と同じでそれぞれ癖がある。上下左右とその癖をよーお知って、撃つ時は呼吸を静かに息を吐いて、邪念を除き無になって的をこじゃんと見据えて引金を引く。これが出来れば百発百中じゃ」

 熱心に聞き入っていた猟師、「鉄砲直してもろうた上に、ええ話を聞かしてもろた」と直し賃を十分に払い喜んで帰った。

 その後この猟師は鉄砲撃ちの名人になったと。村人は「鉄砲鍛冶の伝助は、ありゃ元は忍術使いの侍じゃ」と噂していたと。
 こりゃ、嘘かまことか、昔の話。



三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・三倉神社と投げ子

2009-12-17 | 個人の会員でーす
三倉神社と投げ子

 小さい子供の頃、病身で弱い子供や、大病して危篤状態になり、「もうこの子は助かりそうにない、こりゃ困った、お医者さんの薬がききますように」と、お薬師様にも祈願して色々と手を尽くすがようならん。

 めりきっちょったら近所の年寄りが、「あのえい子を殺すのは惜しい、お三倉様のなげ子にしたらよう助かるが、拾うてもろうたら」ということで、

早速代参で汗見の三倉神社へ赴き、神官さんに子供の病気容体を話し、「このままでは危ないが、なげ子にしますが拾い上げてお助け下さいますようお願いします」と頼むと、引き受けて下さり、

神衣に着替えた神官さん、本殿の正面に正座してのりとを上げ、病児の年や性別、名前を告げて祈願し、終わると神官さん、「これでこの子は三倉大神が拾い上げ、三倉の三の名字を与え、我が氏子としてお救い下さる」と、

祈願のお札を病児の天井に張れと。戴いた三の字の呼び名をつけて生涯呼ぶ。年一度の大祭には必ず参拝して、年貢を納めることを約して帰る。

 戴いた名字で三郎と名付けて呼ぶ。病気は日増しに良くなり平癒した。

 「あのおんちゃんは、倉さん、倉次言いよるけんど、本名は違うんじゃとねえ」「そうよ、みっちゃんも本名は種子よ、名前が二つあって三や倉の呼び名で通っちゅう人はみんなあ、お三倉様のなげ子ぜよ」と言うほど、

当時弱い子供等を助けて救う、慈悲深い女神のような三倉神社(お三倉様)には、投げ捨てた子(もう駄目じゃと思って)を拾い上げて助けられた氏子連が、近郷近在に大勢いた。

 さて嶺北の吉野川筋で三大縁日とは、旧四月八日の豊永の柴折薬師(豊楽寺)と、旧十一月五日の本山町慰霊祭(雁山)に続いて七日のお三倉様(三倉神社大祭)でありまして、

これらの縁日には、やしの見世物や物売りも方々から来てもの珍しく、参拝者もどっと押し掛けて大賑わい。当時みんなの楽しみであった。

 お三倉様の大祭には珍しく寒相撲もあった。当日は毎年初寒がきて、北風にみぞれがそうて吐息はぼうと湯気に見える寒さにもめげず、吉野川筋の道路はぞろぞろとお三倉様へ、参拝や見楽の人々が切れ目なく続いた。

 ◎なげ子の年貢は白米一升に一円(当時米一升三十三銭)の献金を七年続け、その後は  自由意志でお供物と参拝をすることになっていた。

  大祭に氏子になったなげ子は、社殿で神官がのりとを上げお祓いをしてくれた。
 三倉神社=本山町汗見。元、吉野村。


三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話

三郎さんの昔話・・・半蔵さんの話

2009-12-10 | 個人の会員でーす
半蔵さんの話



 侍は四、五歳の時から木剣や竹刀を持って剣道や他の武術も共に学び、生涯その鍛錬に励む。

 仮に剣道初段になるには、五尺五寸(当時の男子の背丈より少し高い)竹やらい(にが竹を箕に編んだもの)で、体に触らぬようにぐるりと取り巻いた中に、木剣か刀を持って立ち、気合と共に竹やらいを一気に飛び出ることが出来るようになって、初段の資格を得る。

 さて数元さんが十五、六歳の小若いしになった頃、半蔵さんは年がいて、杖をついてひょろついていた。

 数元さん、もう勝てると思い、「お爺さん、げっけんしょうか。」言うたら、「数元ひとりじゃ駄目、二、三人連れて来い。」言うので、従兄弟を二人呼んで来て、子供の弟と四人で棒を持って構えたら、

「おらは足がもう立たんけ、筵を持って来て敷け。」言うので、筵を出してきて敷いたら半蔵さん、筵の上にころりと仰向けに寝て、竹刀を逆さまに持ち、「さあ四人一緒に、思い切って叩いてみよ。」と。

 数元さん等、力いっぱい打ち掛かった。打ち下ろした棒は半蔵さんの竹刀の先で、ピンピンと跳ね飛ばされる。

 打ち下ろした棒の力より、跳ね飛ばされる力の方が倍も強い。いくらくらして跳ね返されて、半蔵さんの体には一本も触れない。

 四人はとうとう疲れて、「爺さん、まいったー」と。数元さん、侍はエイ、ヤーが仕事じゃけ、ほんたい強いなあーと感心しました。


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三郎さんの昔話・・・栗本半蔵

2009-12-03 | 個人の会員でーす
栗本半蔵

 栗本家の本家は伊予西条の家老職で、半蔵さんは栗本家の別家で、剣道の達人で剣道の指南職で暮らしていたが、明治維新が来て、士農工商の廃止となった。

 本家は資産もあり、岡山に移り住み、良い暮らしが続けられた。

 半蔵さんもどうにか暮らしていたが、隣からの火が燃え移り火災に遭い、家屋敷丸焼けで、焼け跡に小屋を造り細々と暮らしていたが、侍の年寄りには出来る仕事もなく、生活が成り立たず、長女の縫と腹違いの弟夫婦らにその子供一人の四人連れで身をよせ、百姓を手伝い過ごしていたが、寿太郎夫婦にも子供が多く、小百姓で大所帯の暮らしはなかなか。

 そのうちに弟らには子供も出来て生活が困難となり、仕方なく半蔵さんを縫のところに残し、弟らは岡山の親戚を頼って大石を出て行った。

 その後半蔵さんは、長女縫のもとで、孫らを相手に隠居きめこみ、静かに生涯を終わった。

 もと侍の半蔵さんが孫の数元に言ったことは、剣の道は戦時以外は人を斬るのではなく、我が身を護るための武術であると。

男は家の敷居を一歩出るや、七人の敵ありと。「気、動、色、食、心」、気の字を長く書く、動の字をがっちりと書く、色は薄墨で書く、食は小さく書く、心は大きく書く。

 その読みは、気は長く、勤めは堅く色薄く、食細うして心太かれ、と。


三郎さんの昔話・・・作者紹介
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