ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

祖父の履歴書  5

2013年06月18日 | Weblog
 6月の村は田植えが終わって、農作業に追われ疲れた体を一時的ではあるが休息する時間が
取れるのもこの時期である。
この年に限ってか、例年と違って長雨が続いた。
秉元はこの日用水路の補修に昼から出かけて、家に戻った時は暗かった。
 
全身ずぶ濡れになり、軒先の下に飛び込んだ。

「ああー」。と大きなため息をついた。
体が濡れていたのと、その日補修した用水路が応急的にしか直せず、この降り続く雨ならば
次は他の箇所も崩れるに違いないと思った。
 
以前から兄の秉植から、田植え前に用水路の修理を言われており、その費用を受け取っていた
のだが、隣村の幼馴染の李泰完に誘われ、南原の町で花札博打で大半、負けてしまったのである。
 残った金では人も雇えず自分ひとりでクワと鍬を持ってやったところで、一町もある田んぼの
整備を行うには無理なことであった。
 
長雨が続く、そして雨の量も多くなり、用水路の土手の高さを上げなければ、稲が水につかって
しまい、育たなくなる。
そして、兄は二日先に家に戻ってこの状況をみれば、ただでは済まない。
髪の毛を伝い、雨のしずくが目に入った。でもぬぐうこともなく沁みるがままに
まかせた。

祖父の履歴書 4

2013年06月15日 | Weblog
 朝鮮半島の中ほどに位置する全羅北道南原郡。朝鮮の主要な穀倉地帯でもある。
智異山のふもとに展開する平野は秋になれば、黄金色にこの一帯が染まる。

工業が遅れた当時の朝鮮にあって、日本が大陸へと進んでいくためにはもっとも重要な
食糧確保の拠点であるため、まず農民から農地を接収することを朝鮮総督府は開始した。
 東洋拓殖銀行を設立し、朝鮮全土の農地測量を行うとの名目で土地所有制度などが法制化
されていないことに目をつけてそれまで代々に耕作していた農地をいとも簡単に、総督府は
獲得していった。
祖父もこの収奪の枠にはめられて先祖から受け継いだ農地を奪われることとなる。
 祖父には10歳上の兄と二人兄弟であった。
10歳も年が離れると兄弟というより親代わりで、祖父の兄は南原郡では名士の一人として
近隣の村人の世話から、郡役人との交渉役などを一手に引き受けた。
それは村では数少ない唯一文字を知っていたこともあり、学校にいけない村の子供たちのために
書堂(寺子屋)も開いていた。

 祖父が日本に渡るきっかけとなったのが兄が昌寧氏宗家始祖の墓建立のため、南限から西に100キロ
離れた務安郡に出かけた夜の出来事が原因となる。

祖父の履歴書 3

2013年06月14日 | Weblog
 土方仕事で真っ黒に日焼けした顔を今も思い出す。
朝鮮人の当時からのあいさつが「ごはんを食べたか」というのが常であった。
明治維新、日本は長い鎖国の眠りからアメリカから目を覚まされて今度は過去に
攻め入った朝鮮を思い出したのか、西欧列強からの脅威を口実に朝鮮、清の侵略を
開始する。
その橋頭堡の第一歩が朝鮮王朝は滅ぼされて、朝鮮半島全土が日本の領土となり、これまで例を
みない植民地政策を取った。
まずは外交権を奪い保護国となるとの宣言から、軍部による王家皇后の虐殺、閔妃虐殺である。
これも殺し方が朝鮮王家の権威を失墜させるどころではなく、人間の尊厳を顧みないやり方。
寝込みを襲い、全裸にし、王宮の中庭に於いて銃剣で櫛ざしにし、最後は陰部に松明を突っ込み
その亡骸を広く見せしめにし、朝鮮民衆への威嚇とした。
 なぜ、閔妃にその牙が向けられたかというと、王妃は日本の併合議定書への署名をことごとく反対し
清に助けを求めていた厄介な存在であった。
その後、日本の韓国併合はいとも簡単に進んでいった。
 次に日本が着手したのは、農地の収奪である。戦争のための食料増産の必要があった。

2 祖父の履歴書

2013年06月13日 | Weblog
 祖父、ハルべと呼んだ。日本語でいうとおじいちゃんとでもいうのか。
私は母を5歳のときに無くし、神戸の長田区の朝鮮人。
鉄道の高架の壁に古材を張り付け、その骨組みにさびたトタンを乗せただけの
バラック。広さは畳6枚程度。トイレ、炊事場は6所帯が共同で使用し、特に
今でも思うのが、私の住まいの隣が共同便所で、風向きでにおいがそのままに入り込んで
くる、もっと便所のにおいがまともにするの梅雨時、汲み取り業者がし尿の回収時期が
おくれたときには、溢れ出して便所に行く通路がし尿で足の踏み場もなく
さらには我が家の床下に侵入してくるのである。
 梅雨時になれば、破れ傘のように雨が漏るトタン屋根。そして床下からの悪臭。
そして、夜は南京虫に体中かまれてかゆくて眠れない夜を過ごす。
そういった暮らしのなかで、早くから母親を亡くした孫が不憫と思った祖父は
日雇い労働で稼いだ金でもって買った豚肉、野菜、コメを買ってはこの住まいを
毎日のように訪ねてきた。

小説「祖父の履歴書」       金 山 忠

2013年06月12日 | Weblog
 私の祖父が今この世にいれば今年でちょうど112歳になる。
日本名「中山八郎」こと秉元(チョピョンオン)と名乗った。
正確な年月は不明だが、1920年(大正9年)ごろ韓国の全羅北道南原郡朱川面から
日本に渡ってきた。
当時19歳で日本に渡ってきた。戸籍から調べれば、福岡県鞍手郡にきてそこで結婚し
大分、宮崎と移動して、二男4女をもうけた。
 私の父親、叔父、おばさんは次女のみ残り、父親を含め、この世を去った。
今頃になって、何故に祖父の話をもう一度確認してみようと思ったのは、私自身が60歳を
来月に迎えること。自分自身の残された人生の時間を最近強く思うからであり、病気などで
寿命の期限を宣告されたのではなく、命の終焉の自己申告とでもいうべきことをむしろ
元気な時に行っていくべきではないかと思ったからだが、そうなると、やはり
自分が歩んできたその前の根っこの原因のようなものをしきりにまとめ卓なったからです。

 昨年は在日100年という節目を迎えました。
祖父から数えて私で3世になります。

特攻隊の本当の姿とは

2013年03月27日 | Weblog
 今頃になって特攻隊の話をどうこうと
いう戦争の実体験のないわたしが言う資格はないのだが
日本の戦後というのは、特攻と広島の原爆投下が戦争の総決算の
ように語られ、特に特攻隊にあっては改め当時の軍部の常軌を逸脱した
作戦がいつしか、若者の志願によってなされたと
実に事実のすり替えが行われているように
思えてなえらない、なぜ今このような疑問がでてくるのかというと
アリラン特攻として名が知れる光山少尉(卓庚鉉)
彼は慶尚南道の出身で幼いとき家族とともに京都にやってきた。
そのご京都薬科大学にいき、特攻隊に志願し日本のために
命をささげたとされ、靖国に彼の顕彰碑を作る計画までされ、
知覧特攻隊の代表的な人物として語り継がれているのだが
知れば知るほどその背景が朝鮮人が日本国に進んで命を
ささげたような話ではないとさまざまな事実が出てきており
特攻を慰霊よりも顕彰を優先する考え方に大きな疑問を
覚えるのである。
※写真  出撃前の光山少尉と富屋食堂の鳥浜トメ




神風特攻隊知覧平和会館に行く

2013年03月24日 | Weblog
 鹿児島県知覧町を昨日始めて訪問した。
鹿児島市内から車で一時間。お茶と武家屋敷と時の太平洋戦争
のとき、米軍の沖縄攻撃が近づいたとき、軍部が最後の手段として
この特攻隊を組織し過去前例のない、人間爆弾ともいうべき
戦法を実行した。
昭和19年に沖縄に向け、知覧基地から周囲を米軍の軍艦300隻以上
に囲まれた沖縄を奪回するための作戦とはいえ、戦争とはいえあまりにも
残酷であった。
その特攻機に乗るのは下は16歳から上は25歳ぐらいの志願兵が採用され
南の海に散って行った。
敵艦に突っ込む前夜に基地近くの富屋食堂の女将鳥浜トメさん。
出撃する人生最後の日をこの食堂で過ごしたと言われ、多くの
若者の最後を励まし見送っていった。
これまで特攻隊の話はさまざまな形で聞いたが、常軌を逸していた
、また逆に大和魂のの真髄などと本来簡単に一言で表現または
評論できるものでない、究極の言葉がそこにはありすぎるほどあり
言葉だけでは表現できないものがあり、私は戦後8年を経た
生まれで戦争は全く分からない世代であるのだが、
当時の記憶がしkっかりと残る場所に行くと、そこには68年を経た
今にも、その当時の現実が叫びとして聞こえるような力を放っており
人間が戦争を行わなけばならない愚かさをいつまで続けていくのかという
大きなため息すら聞くような思いもした。


写真は隊員が出撃前に待機した三角兵舎
ここで遺品、遺書など生前の整理を行い、そして最後の食事などし飛び立っていった
敵に見つからないようにと半地下構造でいつも湿気ており、わら布団で粗末な食事でともに
出撃する隊員と最後の夜をここで過ごしたという。

気仙沼応援の旗 神戸長田丸五市場から

2013年03月16日 | Weblog
 東日本大震災から3年目を向かえる東北被災地
ここ神戸・長田の丸五市場は阪神大震災での災害から辛うじて火災を
まぬがれた。
神戸長田には東北の被災地から多くの人が視察に来る。
このたび、丸五市場と気仙沼の仮設店舗の紫市場が3年まえから交流をしており
気仙馬の復興を祈って応援のエールを込めた復興未来図の旗を
制作し、現地に贈った。
 2枚製作し1枚は丸五市場に飾られる。

写真は神戸新聞 写真峰大二郎撮

震災から3年目の気仙沼に行く

2013年03月12日 | Weblog
 震災から3年目を向かえる気仙沼市に3月11日の3周年に行った。
今年の1月に阪神大震災の追悼式に参加した気仙沼市中央商店会の小松
恵久夫さんと
条南中学校の生徒5名が神戸長田区の丸五市場に訪問して来たときに
復興をイメージした未来図を贈呈したのが始めで、その後に被災した気仙沼を
応援できないかとのことで、未来絵図を天幕にしあげ、このほど
現地を訪問し生徒たちに渡した。
復興への希望の起点となれば。

東日本大震災の記憶

2013年02月21日 | Weblog
東日本大震災の記憶