大阪教育大学に、アメリカから持ってきたMenCanStopRape製作のポスターの一部、めっちゃでかいやつを、置かせていただいています。
たしか2003年頃に、ドーンセンターでポスター展をさせていただいた時からずっとそちらに置かせていただいていたので、2004年から活動に関わりだした私はその「でかいポスター」を一度も見たことがなかったのでした。
一度見てみたいと思いながらなかなか行けず、先週になってようやく、見に行ってきたのですが・・・!
想像以上にでかい・・・!
思わずすっごいテンションがあがってしまいました。
じゃじゃーんと公開。

これではいかほどにデカイか分かっていただけないかもしれない・・・
ということで人物をいれてみると、
じゃじゃん!!

でかっ!!
すげー!!
テンションが上がり、

寝てみました。
かっこいいです。
このポスターは先ほど言ったようにMenCanStopRapeというアメリカのNPOによって製作された「MyStrength」というシリーズもので、RCSNKでは5枚所有しています。
「僕の強さは君を傷つけるためにあるんじゃない。君が嫌だと言ったから、僕はやめた」と書いてあります。
このシリーズは現在も続いており、彼らのサイトで見ることもできますし希望があればグッズの購入なども出来ます。
日本でだったら、こんなデカイポスター作ってどないすんねん!!という所なのでしょうが、このポスターはアメリカの街中で前代表の神山が見つけたものだそうです。
GAPかなんかの広告かと思った、と言っていましたが、街中にドドーンとレイプについてのポスターが張ってあるわけで、日本では中々考えられないことでもあるかもしれません。
しかもこのクオリティー。
もう8~9年前の制作物なんですけどね。
こうしたものを通して私がいつも思っていることがあります。
それは、「当たり前になっている」ということです。
日常の中で性被害、レイプについて語れる場所があるということをみんなが知るきっかけであったり、そうしたものが街中にあるということがどれだけ重要なことか、ということです。
昨年アメリカに行ったときも感じましたが、街中に普通にノンプロフィットが溢れている。ちょっと目を凝らしてみれば、多くの媒体を通して様々な支援団体に出会うことができる。
そこら辺の公園にブースが出ていたり、結構ないい場所にNPOの事務所があり、普通に町に馴染んでいる。
「危ない地域だからだ」「それだけ犯罪が多いということだ」と言ったらおしまいだけど、
そういう風に言う前に、しっかり考えるべきだと思うのです。
「本当に日本は、そんなに安全なのか」
「支援団体が多いということは、犯罪の多い社会の象徴でしかないのか」
語らないということが、被害の減少の結果ではなく、
目に見える被害の分母はどれほどなのか(語られなかった被害がどれだけあるのか)、そこに助けになる存在がいたとしたら、その分母に変動があるのか、
そして、もしかしたら、数に入らずに済む被害も、あるのではないだろうか。
被害にあったとき、多少なりの知識や、それを受け入れる環境があるということで、自分自身や周囲の感情、対応は大きく変わるはずです。
最近、思うことがあります。
私には、それほど立派な頭もないですし、まったくもって立派な立場なんてものもありません。
ただ一人の市民として、何が出来るだろうか、と。
それはきっと、支援者を育成したり、プログラムを製作したりだとか、そういうことではないんだろうなぁと。
このところの性暴力に関する社会の動きというのは目を見張るものがあるなぁと思うのです。こうした問題にコミットして動き出している様々な方々に、本当に毎日ワクワクさせられています。
そのなかで、私は私らしく、やるべき事がたくさんあるなぁと思うのです。
難しいことは言わず(私自身が、よくわからないので。笑)、
みんなが、心を動かしてくれるようなことをしたい。
社会の中で、ふっつーーにそこにいる、語れる場所になれたらいいなぁと思うのです。
私たちの心の中には、本当に多くのものがつまっているのだと思います。
喜怒哀楽もあれば、まだ言葉にすることも出来ないような感情がどこかで疼いていたり、
優しさの反面、凶器にもなり得る感情が渦巻くこともあるでしょう。
どちらが勝つのかは、もしかしたら自分にも計り知れないものかもしれません。
ただ、そうした感情の制御というのは、やはり自分の中で決着をつけなければならない。けれどもそれは、最初から最後まで全てを自分で片付ける必要はないのだと思います。
自分にとって醜い、見たくないような感情を抱いたとしても、それをいつまでも見ないことにしていたらやはりしんどくなってしまう、それが爆発してしまうかもしれない。
そんな時に、もし物理的に「独り」になってしまったら・・・?
私たちが感情を持つというのは、そこに力があるという証拠でもあると思います。
その力を、どう使うのか、それが大きな分岐点になります。
いろーんな道があるんですよね。
もうこうするしかない、なんてことはなくて。
でもその道を自分一人で見つけるのは難しいかもしれない。人は人に会うことで、人を見ることで、自分の道を見つけていけるんだろうなぁと思います。
だからこそ、いろんなリソースが町に溢れるべきなんだろうと思います。
ふつ~に、そこにいる、
たったひとつの、その他大勢になれたらいいなと思います。
たしか2003年頃に、ドーンセンターでポスター展をさせていただいた時からずっとそちらに置かせていただいていたので、2004年から活動に関わりだした私はその「でかいポスター」を一度も見たことがなかったのでした。
一度見てみたいと思いながらなかなか行けず、先週になってようやく、見に行ってきたのですが・・・!
想像以上にでかい・・・!
思わずすっごいテンションがあがってしまいました。
じゃじゃーんと公開。
これではいかほどにデカイか分かっていただけないかもしれない・・・
ということで人物をいれてみると、
じゃじゃん!!
でかっ!!
すげー!!
テンションが上がり、
寝てみました。
かっこいいです。
このポスターは先ほど言ったようにMenCanStopRapeというアメリカのNPOによって製作された「MyStrength」というシリーズもので、RCSNKでは5枚所有しています。
「僕の強さは君を傷つけるためにあるんじゃない。君が嫌だと言ったから、僕はやめた」と書いてあります。
このシリーズは現在も続いており、彼らのサイトで見ることもできますし希望があればグッズの購入なども出来ます。
日本でだったら、こんなデカイポスター作ってどないすんねん!!という所なのでしょうが、このポスターはアメリカの街中で前代表の神山が見つけたものだそうです。
GAPかなんかの広告かと思った、と言っていましたが、街中にドドーンとレイプについてのポスターが張ってあるわけで、日本では中々考えられないことでもあるかもしれません。
しかもこのクオリティー。
もう8~9年前の制作物なんですけどね。
こうしたものを通して私がいつも思っていることがあります。
それは、「当たり前になっている」ということです。
日常の中で性被害、レイプについて語れる場所があるということをみんなが知るきっかけであったり、そうしたものが街中にあるということがどれだけ重要なことか、ということです。
昨年アメリカに行ったときも感じましたが、街中に普通にノンプロフィットが溢れている。ちょっと目を凝らしてみれば、多くの媒体を通して様々な支援団体に出会うことができる。
そこら辺の公園にブースが出ていたり、結構ないい場所にNPOの事務所があり、普通に町に馴染んでいる。
「危ない地域だからだ」「それだけ犯罪が多いということだ」と言ったらおしまいだけど、
そういう風に言う前に、しっかり考えるべきだと思うのです。
「本当に日本は、そんなに安全なのか」
「支援団体が多いということは、犯罪の多い社会の象徴でしかないのか」
語らないということが、被害の減少の結果ではなく、
目に見える被害の分母はどれほどなのか(語られなかった被害がどれだけあるのか)、そこに助けになる存在がいたとしたら、その分母に変動があるのか、
そして、もしかしたら、数に入らずに済む被害も、あるのではないだろうか。
被害にあったとき、多少なりの知識や、それを受け入れる環境があるということで、自分自身や周囲の感情、対応は大きく変わるはずです。
最近、思うことがあります。
私には、それほど立派な頭もないですし、まったくもって立派な立場なんてものもありません。
ただ一人の市民として、何が出来るだろうか、と。
それはきっと、支援者を育成したり、プログラムを製作したりだとか、そういうことではないんだろうなぁと。
このところの性暴力に関する社会の動きというのは目を見張るものがあるなぁと思うのです。こうした問題にコミットして動き出している様々な方々に、本当に毎日ワクワクさせられています。
そのなかで、私は私らしく、やるべき事がたくさんあるなぁと思うのです。
難しいことは言わず(私自身が、よくわからないので。笑)、
みんなが、心を動かしてくれるようなことをしたい。
社会の中で、ふっつーーにそこにいる、語れる場所になれたらいいなぁと思うのです。
私たちの心の中には、本当に多くのものがつまっているのだと思います。
喜怒哀楽もあれば、まだ言葉にすることも出来ないような感情がどこかで疼いていたり、
優しさの反面、凶器にもなり得る感情が渦巻くこともあるでしょう。
どちらが勝つのかは、もしかしたら自分にも計り知れないものかもしれません。
ただ、そうした感情の制御というのは、やはり自分の中で決着をつけなければならない。けれどもそれは、最初から最後まで全てを自分で片付ける必要はないのだと思います。
自分にとって醜い、見たくないような感情を抱いたとしても、それをいつまでも見ないことにしていたらやはりしんどくなってしまう、それが爆発してしまうかもしれない。
そんな時に、もし物理的に「独り」になってしまったら・・・?
私たちが感情を持つというのは、そこに力があるという証拠でもあると思います。
その力を、どう使うのか、それが大きな分岐点になります。
いろーんな道があるんですよね。
もうこうするしかない、なんてことはなくて。
でもその道を自分一人で見つけるのは難しいかもしれない。人は人に会うことで、人を見ることで、自分の道を見つけていけるんだろうなぁと思います。
だからこそ、いろんなリソースが町に溢れるべきなんだろうと思います。
ふつ~に、そこにいる、
たったひとつの、その他大勢になれたらいいなと思います。