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ある画家の生涯。恐れず、おもねらず、あるがままに。

2010-11-07 00:10:47 | スタッフ雑感
今日は、ふと思い出した、私の尊敬する画家についての話をしたい。


戦時中、沢山の芸術家、画家が、自らの表現を封印せざるを得なかった。

その時、パターンは二通りあったと私は思う。
というか、2パターンの画家を個人的に知っている。

彼らは日本画家と、洋画家、だ。

日本画家も、好きな絵を描けなくなった。
しかし、彼は仕事を失うことにはならなかった。
『贅沢は敵だ』と標語をかき、国民を奮起させるための絵、デザイン制作に従事した画家は多い。コマーシャルアートとしての需要だ。

もちろん、そんな声をかけられなかった人も、そんなことするものか、と、しょっぴかれた人もいたわけだけど。
日本画、というツールは、奪われなかった。
彼らは、自分自身を奪われることはなかった。

一方洋画家は、ツールを奪われた。心酔していた、信じてきた、自分自身を奪われた。
しかしその画家は、油絵の具を失うことは、自分にとっての死だということを知っていた。
徴兵された時に、隠れて絵の具を持ち込んだ。
ただ、見ているだけでよかった。たまにあけて、匂いを嗅いだ。ヨーロッパの街並が、
ココロに浮かんだ。

上官に絵の具が見つかり、画家はひどく殴られる。
絵の具を捨てられ、絵を描くことを禁止された。
しかし、一つだけ、隠し持っていた絵の具のチューブがあった。
画家は、その絵の具を、夜中、トイレの近くに埋める。

画家は、絵を描くのをやめなかった。
トイレの中で、短い時間であらゆる紙の切れ端に絵を描いた。
何度も上官に見つかっては殴られる。

しかし、やめなかった。

画家は毎日見た。あらゆる物を、絵のモチーフとして、その一瞬のうちに、絵に出来るように、
描くことを、諦めないために。

画家は毎日願った。

戦争が終わり、ヨーロッパを自由に旅出来る日を。

そして、画家は終戦後、ヨーロッパはじめ、沢山の国に行き絵を描き続けた。

画家は老齢になり、子供たちに絵を教えるようになる。

『絵が上手になるコツはね、よーく見ることだ。葉っぱを描きたいならその葉脈の一つ一つまで理解することだ。そうすれば、自ずと自分の形になってくれるんだよ。とにかく、見ること、そして、描き続けること。画家っていうのはね、描くことですべてを知るんだよ。迷ったなら、描くこと。ただひたすらに、描き続けなさい』と、
子供たちに伝え続けた。

『君らは希望に満ちているんだ。まだ、生まれてもいない。恐れるな、失敗なんてない。』
画家は、自らを振り返っては、子供たちに、そう伝えていた。


私は、この人を尊敬している。
尊敬という言葉がこれほどフィットする人間は私の中で他にいない。


恐れるな、失敗なんてない。

まだ私たちは、生まれてもいない。



こうした思いの中で、戦後日本の美術というのは飛躍的に躍進したんじゃないかと思う。
岡本太郎の言った『芸術は爆発だ』という言葉、
まさにそう、あの時、芸術家たちの芸術への思いは、爆発していたのだ。

これは、今、私たちを取り巻く環境にも似ている。

性暴力被害者は長きにわたり虐げられてきた。
その中で諦めず闘い続けてきたフェミな方々や、当事者、支援者たち。
その土台ありきで、私たちは今ここにいる。
今、声を出せる今、
その思いを爆発させてもいい。

しかしなぜ、こんな長々と芸術家の話をしたかと言えば、
彼らは戦ったのではないからだ。
彼らは、戦わなかった。
ひたすらにに機が熟すのを待ち、
まわりがいくら変わろうとも、自分を変えなかったのだ。
そして、貫き通した。

その様は、まさに非暴力だった。

そして、彼らにとってそれは、義務ではなかった。とにかくココロを突き動かす衝動、信じたもの。自分の表現の発露。


だからこそ、人のココロを動かした。
私のココロを動かした。


これなんだ、私がやりたいことは。

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