唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

徐州武寧軍の粛清

2022-12-16 08:01:12 | Weblog
王智興離任後、甘やかされた徐泗濠武寧軍節度使の牙軍は驕兵で節度使に実権がなく、牙軍は気に入らないことがあるとすぐ乱を起こし節度使を追放しました。文官では到底統制できず、武官でも任期を無事に済まそうと思う節度使は田牟などのように牙軍に迎合し、ご機嫌取り励むしかありませんでした。

軍乱で追放された例としては
大和7年1月 高瑀
大中3年5月 李廓
咸通3年7月 温璋 ですが、他の帥も危ない状況でした。
特に高瑀・温璋は問題のない人物ですが、遵法さが牙軍のきにいらなかったようです。朝廷は温璋の無罪を知り、すぐに邠寧節度使に任命しました。そして浙東觀察使王式を節度使に任命しました。

咸通3年8月
式は儒家の出ですが軍才があり、浙東仇甫の乱を鎮圧したばかりで、麾下に忠武、義成の精鋭を残留させていました。

式は両軍を帰郷させるとして引率し徐州に入り、牙軍を召還し両軍に包囲させ、銀刀都將邵澤等數千人を虐殺しました。

そして当面式を武寧節度使兼徐泗濠宿制置使とし、解体が図られました。

徐泗濠節度使を廃止し、徐州団練使を置き、兗海/淄青節度の管轄にし、濠州は淮南へ、宿泗は都団練観察使として切り離しました。將士は二千だけを徐州に置き、あとは他鎮に分散させました。

これで牙軍は潰滅したようですが、生き残った残党は地方に散り、元々治安の悪い地域ですので、群盗と結びついていったようです。

咸通4年4月
群盜が徐州に入り、官吏を殺しました。刺史曹慶は鎮圧にあたりました。

咸通4年7月
群盗に帰降を呼びかけました。

咸通4年11月
治安が回復しないため宿泗都団練観察使を廃止し、徐泗觀察使を置いて軍備強化しました。

咸通5年5月
ますます治安が悪化したため、群盗数千人を徴募して、期間を決めて雲南蠻防衛のため邕管に派遣することにしました。これにより群盗はやや減少したのですが、咸通9年の龐勗の乱の端緒を作ってしまいました。
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横海 李同捷の乱 2

2022-12-15 08:47:56 | Weblog
大和2年9月
王智興が棣州を陥しました。恩賞として正任の司徒となりました。

逗留して進軍しない新除橫海軍節度使李寰が解任され夏州節度使に遷されました。

廷湊の官爵が削られました。

前夏州節度使傅良弼が橫海軍節度使となり征討にあたることになりました。彼も旧成德將です。

柳公濟が深州博野で廷湊軍を破りました。

大和2年10月
史憲誠軍は德州平原をやっと陥しました。

幽州李載義が南下し同捷軍を滄州長蘆に破りました。

大和2年11月

右金吾衛大將軍李祐を橫海軍節度使としました、新除傅良弼が赴任途次に陝州で頓死したためです。
祐は元淮西將で李愬に従い吳元濟を捕らえました。しかし唐朝直轄にはろくな將がおらず外任ばかりです。

柳公濟が同捷の堅固寨を陥し、寨東に破ったと上奏しました。

大和2年12月
同捷は各軍に押されて不利になりました。支援している廷湊は魏博行營都知兵馬使亓志紹を唆し、志紹は節度使史憲誠を殺して成り代わろうとして所部二萬人とともに謀叛しました。魏博は以前より帥の力が弱くすぐ軍乱が起きるところです。憲誠もそうして自立したのです。

王智興兵馬使李君謀が黄河を渡り滄州無棣を陥しました。

憲誠は朝廷に支援を求め、義成節度使李聽が滄州行營諸軍を率いて志紹を討ちます。

大和3年正月
志紹は成德軍と貝州を荒らしましたが、李聽・史唐軍に敗れ、王廷湊の元に奔りました。大半の軍は昭義軍に降りました。

李載義は滄州長蘆を陥しました。

大和3年2月
橫海節度使李祐は諸道軍と同捷軍を破り德州を攻めました。

大和3年4月
載義は滄州を攻め外城を陥しました。

李祐は德州を陥し、切羽詰まった同捷は降りました。祐は大將萬洪を滄州に入れました。

ところが滄德宣慰使柏耆は滄州に突入し萬洪を殺し、同捷を捕らえて移送中に殺してしまいました。

大和3年5月
李祐は萬洪が殺されたことに驚き急死しました。柏耆は流されました。

この後、魏博節度使では騒乱が続きます。
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横海 李同捷の乱 1

2022-12-14 08:44:35 | Weblog
同捷の父全略[王日簡]は元成德王承宗の將でしたが、帰朝し神策軍に仕え、王廷湊の乱には現地の状況に詳しいため德州刺史となり、横海軍滄景徳棣節度使に昇進しました。そして盛んに贈賄し、子の同捷に継承させようと策動していました。

寶暦2年3/4月
橫海節度使李全略は卒しました。子の副大使同捷は自立しょうとし、旧知の成德王廷湊や魏博史憲誠に支援を求めました。

朝廷は廷湊に同捷を支援しないようにと検校司空を加えました。

大和元年
同捷は盛んに朝廷に継承を求め、財政的に征討が嫌な朝議は動揺していました。

大和元年5月
天平軍節度使守司徒平章事烏重胤を橫海軍節度使兼任とし、前攝橫海軍節度副使李同捷を兗海沂密等州節度使に任じるという姑息な決断がされましたが、同捷は受けません。
この時、周囲の幽州・成德・淄青・魏博の節度使の検校官を昇格させ、ご機嫌取りをしました。

天平橫海軍節度使烏重胤に同捷を討たせます。

大和元年7月
同捷がはっきりと命を拒否し反しました。

自分も勝手に自立した徐州王智興が全軍をもって同捷を討つと上奏しました。

大和元年月
李同捷の官爵を削りました。

天平横海烏重胤、武寧王智興、淄青康志睦、魏博史憲誠、幽州李載義、義成李聽、義武張璠に同捷を討つことを命じました。
同捷は河北の諸鎮に贈賄し支援を求めました。
成德王廷湊は同捷に通じています。

大和元年10月
天平橫海節度使烏重胤は同捷を攻撃しましたが、11月に卒しました。

大和元年11月
王智興の推薦により元成德將の保義軍節度晉慈等察處置等使李寰が橫海軍節度使となり征討にあたることになりました。

大和元年12月
武寧王智興を滄州行營招撫使同平章事となりました。

大和2年3月
智興が棣州を攻撃しました。

大和2年閏3月
魏博史憲誠は子の副大使唐と都知兵馬使亓志紹に兵二萬五千を率いさせ德州を攻めさせましたが、あまり本気ではありません。

大和2年6月
廷湊は同捷に兵や軍糧を支援しています。

大和2年7月
史憲誠軍は同捷を德州平原で破ったそうです。

大和2年月
成德王廷湊が反しました。

義武軍節度使柳公濟が廷湊軍を定州新樂で破ったそうです。ようは撃退ということです。

昭義劉從諫が廷湊軍を趙州臨城・昭慶に破りました。

史憲誠軍は同捷をまた德州平原で破ったそうです。
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成德 李惟岳の乱

2022-12-13 08:15:02 | Weblog
李寶臣が建てた成德軍節度使は、有力諸将[蕃族出身が多い]の連合体という傾向があり寶臣独裁の体制ではありません。寶臣は子の惟岳の継承を望み、異論のある諸将を殺害し、そのため張孝忠・王武俊・康日知など諸将は不安にかられていました。

建中2年正月
成德軍節度使司空兼太子太傅平章事隴西郡王李寶臣は卒しました。惟岳は継承を求め、自己の継承に寶臣に助力を得た魏博田悅も支援しましたが、德宗皇帝は認めるつもりはありません。

幽州盧龍軍節度使朱滔は惟岳を征討します。

魏博田悅は惟岳を支援し挙兵しました。永平李勉を都統として神策李晟、河東馬燧、昭義李抱真、河陽李芃が征討にあたります。

建中2年5月
田悅は派兵し邢州・臨洺を攻めました。

建中2年7月
田悅・惟岳軍は臨洺で唐軍に大敗しました。

魏州に敗走した悅に惟岳軍と淄青軍が来援しました。

建中2年8月
幽州朱滔が南下し莫州に到り、易州を守る張孝忠の帰朝を促しました。

建中2年9月
易州刺史張孝忠は降り、恆州刺史充成德軍節度觀察使に任ぜられました。もちろん名目です。

建中2年11月
李惟岳の官爵を削りました。今更とは思いますが。

建中3年正月
幽州朱滔、張孝忠は李惟岳軍を束鹿に破りました。束鹿を陥し深州を攻めます。

田悅は洹水で大敗し形勢は悪くなりました。

惟岳は弟惟簡を人質に出し降ろうとしますが、孤立する田悅に激怒され実行できません。

惟岳將康日知が趙州を以って降りました。

惟岳は疑いながらも王武俊・衛常寧に趙州を伐たせます。武俊の子士真を人質にしておきます。

武俊は既に叛意を持ち張孝忠に降ろうとしますが、常寧は恒州を襲い惟岳を討てと勧めます。

建中3年閏正月
武俊は恒州に突入し惟岳を殺しました。

惟岳の姉の夫である楊榮國は深州を以って朱滔に降りました。

建中3年2月
惟岳將定州刺史楊政義が定州を以って降りました。

成德七州は張孝忠に易定滄三州、康日知に深趙二州、王武俊に恒冀二州に分割され。そして朱滔に徳棣二州が与えられましたが、武俊は日知と同格なのが不満ですし、朱滔は深州を求めているのに、遠隔地の徳棣を与えられてやはり不満でした。そのためまもなく第二ラウンドが始まります。
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魏博 田承嗣の乱 2

2022-12-12 08:38:56 | Weblog
大暦10年9月
李寶臣・李正己軍が棗強で会同し、貝州を囲みましたが、対立し解散してしまいました。

李忠臣も衛州を解囲して黄河南へ撤退しました。
寶臣と幽州朱滔は滄州を攻めましたが、承嗣從父弟庭玠に撃退されました。

大暦10年10月
成德寶臣と昭義李承昭は盧子期を磁州清水縣で大破し、子期は誅されました。

河南諸將[李忠臣等]は田悅を陳留?で大破しました

承嗣は淄青李正巳を籠絡し南からの侵攻を停止させることに成功しました。

また宦官が賄賂が少ないと寶臣を侮辱したため、寶臣軍もはかばかしく動かなくなりました

大暦10年11月
承嗣瀛州刺史吳希光が朱滔に降りました。承嗣は滄德瀛磁三州を失っています。

大暦10年12月
承嗣は正己を仲介として和を請うています。

大暦11年正/2月
承嗣は降ろうとし、諫議大夫杜亞が宣慰使として復官と所領安堵を通告しました。

大暦11年5月
乱は収まるかと思えましたが、汴宋留後田神玉が卒し、將李靈耀が自立し、承嗣に通じました。

大暦11年7月
承嗣軍は滑州を攻撃し、永平軍節度使李勉軍を破りました。

大暦11年8月
靈耀は承嗣の支援を受けて全面的に反乱し、淮西李忠臣.河陽馬燧.淮南陳少游.永平李勉軍と戦います。

大暦11年10月
承嗣は田悅に三万を率いさせ靈耀を支援し、永平、淄青兵を于匡城に破り汴州に進軍しましたが、そこで李忠臣・馬燧軍に大敗し、悅は逃走し、靈耀は誅されました。

大暦12年3月
承嗣は再び赦されました。
唐朝としては中央軍を派遣できず、経費ばかりかかり私利を追う藩鎭軍に頼ることに限界を感じていました。
承嗣は相継ぐ敗戦で、せっかく組織した軍の大半を失い。
相衛邢洺四州を併合しましたが、滄德瀛磁四州を失い、得るところはあまりありませんでした。
失意の承嗣は14年2月に卒します。
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魏博 田承嗣の乱 1

2022-12-11 08:36:08 | Weblog
安史の乱に賊党として活躍した田承嗣は史朝義を裏切って帰順し、魏博節度使[魏博德滄瀛澶六州]となりました。本来雑軍しか指揮していなかった為、自領の魏博から徹底した徴兵をし十万の大軍を形成しました。唐朝には反抗的な態度を示していましたが、代宗皇帝は常に慰撫し、太尉同平章事という高位を与え、子の華に公主を降嫁させるなどひたすらご機嫌取りをしていました。
ところが十万の大軍を養うためには自領だけでは苦しくなってきました。

昭義軍節度使[相衛洺貝邢磁六州]薛嵩は承嗣と同じ安史の乱の降將ですが、本来唐初からの名門出身[仁貴の孫]の為、承嗣ほど反抗的ではありませんでした。

大暦8年正月
薛嵩が卒し、子の平[12才]は継承せず、叔父の崿が留後となりましたが、嵩のような統制力はなく、諸将は動揺し始めました。

大暦10年正月
昭義牙將裴志清が帥薛崿を洺州に逐い、田承嗣に附きました。

朝廷は嵩の族人昭義將薛擇を相州刺史,薛雄を衛州刺史,薛堅を洺州刺史としました。そして田承嗣に封疆を守るよう諭しましたが、承嗣は拒否しました。

承嗣大將盧子期は洺州,楊光朝は衛州を取りました。

大暦10年2月
承嗣は衛州刺史薛雄を誘いましたが従わないので殺し、相、衛四州を取り、その兵力を合わせて魏州に移しました。そして磁、相二州を中使とともに巡り統治の確立を示しました。

黄河の渡河点の河陽で軍亂が起こり、三城使常休明を逐いました。休明は苛酷でしたが、承嗣の指嗾もあったようです。兵馬使王惟恭が自立しましたが、監軍冉庭蘭が一応抑えました。

大暦10年3月
陝州でも軍亂が起き、觀察使李國清が逐われました。入朝途次の淮西節度使李忠臣が威圧し事を収めました。

承嗣と対立していた成德節度使李寶臣、淄青節度使李正己が承嗣を伐つことを求めました。

大暦10年4月
田承嗣を永州刺史に左遷し、河東、成德、幽州、淄青、淮西、滑毫、汴宋、澤潞、河陽道にこれを伐つことを命じました。[魏博德滄瀛澶相衛洺貝磁]

大暦10年5月
動揺した承嗣部將霍榮國は磁州を以って降りました。

淄青李正己は德州を陥しました。

淮西李忠臣は永平、河陽、懷澤潞等四萬を率いて衛州を攻めました。

大暦10年6月
承嗣は裴志清に冀州を囲ませましたが、李寶臣將張孝忠に撃破され、志清は降りました。

大暦10年8月
承嗣將盧子期は磁州を攻めました。

承嗣は成德寶臣.淄青正已.淮西忠臣.永平勉.昭義昭承.汴宋田神玉.幽州朱滔.澤潞抱玉に包囲攻撃され形勢が不利とみて唐朝に帰順したいと申し出ました。

朝廷の主力軍のはずの朔方河中を支配する郭子儀の軍がまったく征討に関与していないことは注目されていません。
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昭義 李緘・元誼の乱

2022-12-10 08:10:46 | Weblog
潞州に鎮する昭義軍は李抱玉・抱眞によって建てられ、抱玉が主に鳳翔隴右に鎮するようになって以降、抱眞が潞州を強化していきました。「昭義の弓兵・歩兵」は天下に名高い強兵となり、李惟岳・田悅・朱滔などとの河北の戦乱に河東馬燧とともに唐朝軍主力を形成していました。その版図は河東道の澤潞二州と河北道の邢洺磁三州に別れ、河北三鎮を制する位置にありました。

貞元10年6月
昭義軍節度使平章事義陽郡王李抱真が卒しました。
その子緘は抱真從甥の元仲經と共謀し自立し継承しようとしました。そして成德王武俊の支援を求めましたが拒否されてしまいました。そして諸将の推薦も得ることが出来ません。
姑息な德宗皇帝は宦官第五守進を派遣して情勢をみましたが、步軍都虞候王延貴が衆望を得ているとしてこれを立てました。緘は諦めて東都に行き、仲經が責任ょ押しつけられ誅されました。

貞元10年7月
邕王謜が遥領昭義軍節度使となり、王延貴[賜名され虔休]が留後となりましたが、別將權知洺州事元誼は不服で洺州に籠もって反し、魏博田緒に通じました。誼としては昭義軍の精兵のいる河北邢洺磁三州をもって自立したかったわけです。

臨洺守將夏侯仲宣は城を以って虔休に附きました。

磁州刺史馬正卿は將石定蕃等に兵五千で洺州を攻めさせましたが、定蕃は麾下を率いて誼に附きました。

朝廷は誼を饒州刺史としまたが従いません。

虔休は自ら軍を率いて洺州を水攻めにしました。

貞元10年9/10月
虔休は元誼兵を破り、雞澤を陥しました。

貞元10年12月
虔休は洺州を攻めましたが、誼に敗れ、退却する途中で多くの兵を失いました。

貞元11年閏8月
追いつめられてきた誼は詐降して虔休兵を誘い込み虐殺しました。

貞元12年正月
誼・李文通・石定蕃・康秀玢・常悅等は麾下を率い、洺州を捨てて魏博へ奔りました。
姑息な德宗皇帝は罪せず、田緒に慰撫させるだけでした。誼は魏博の將となりました。

この乱によって抱眞が作り上げた昭義軍はすっかり弱体化してしまいました。
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徐泗濠 張愔の乱

2022-12-09 08:54:44 | Weblog

徐泗濠節度は李氏淄青節度の大運河漕運への脅威を防ぐために設置された節度使で、名将張建封が貞元4~16にかけて在鎮し強力な軍を形成していました。

貞元16年張建封が病むと、朝廷は行軍司馬に蘇州刺史韋夏卿を赴任させ、5月建封が卒すると徐州判官鄭通誠を知留後とし浙西軍を導入しました。

牙軍は建封子の愔を擁立し通誠や大將段伯熊を殺し、監軍を捕らえました。

朝廷は吏部員外郎李鄘を送り宣慰しましたが、愔は自立しました。

そのため朝廷は淮南節度使杜佑を同平章事兼徐濠泗節度使とし伐たせました,
文官の佑は牙將孟准を派兵しましたが、徐泗濠軍に敗れました。

泗州刺史張伾も出兵しましたが橋伾に大敗しました。

貞元16年6月
朝廷は愔を徐州團練使とし徐州だけを与え、伾を泗州留後、濠州刺史杜兼を濠州留後として、佑を兼濠泗觀察使として淮南に併合しました。

貞元16年9月
虔王諒を徐州節度使とし、愔をその留後としました。

愔は継承に成功しましたが、泗濠二州を失い、徐州軍は財政的に苦しい状況が続きます。

貞元21年/永貞元年3月
徐州軍は賜號され武寧軍となり、愔は節度使となりました。

元和元年11月
愔は病となり上表して交代を求め、工部尚書に移りました[12月に卒しました]。

東都留守王紹が檢校右僕射武寧軍節度徐泗濠等州觀察等使として赴任しました。泗濠二州を土産にすることで財政的にうるおいますので、將士達は乱を起こさず交代を受け入れました。しかし徐州軍は以降も頻繁に軍乱を起こす難治な所です。
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成德 王廷湊/庭湊の乱 3

2022-12-08 08:26:28 | Weblog
大和元年5月李全略の卒後、子の同捷は横海軍滄景徳棣節度使を継承しょうとし、唐朝の征討をうけることになりました。征討使は天平軍節度使烏重胤が橫海軍節度使を兼任する形で行います。

ところが11月に烏重胤は卒します。保義軍晉慈節度使李寰が橫海軍節度使となります。

太和2年5月
成德王廷湊は同捷を支援します。
昭義劉従諫は廷湊を伐とうとします。

太和2年8月
唐朝は廷湊を征討します。

義武軍節度使柳公濟は廷湊軍を定州新樂に破ります。

劉從諫は趙州臨城、昭慶に廷湊軍を破ります。

太和2年9月
王廷湊の官爵を削り、隣道に征討を命じます。

柳公濟は深州博野に廷湊軍を破ります。

同捷討伐軍は武寧の王智興は棣州を陥しますが、主力軍の李寰は逗留し罷免されます。こんどは前夏州節度使傅良弼が橫海軍節度使です。両者とも前にでてきた名前です。

太和2年11月
ところが傅良弼は赴任途次に頓死し、右金吾衛大將軍李祐が橫海軍節度使となります。祐は元淮西の將で李愬の元に帰順し吳元濟を誅した人物で、やっと真面目な征討が始まります。

太和2年12月
魏博史憲誠の征討先鋒軍亓志紹が裏切り、憲誠を攻めました。同捷の形勢が不利となったため廷湊が志紹の自立を唆したわけです。魏博は帥の力が微弱です。

太和3年1月
憲誠は唐朝に急を告げ、来援した義成節度使李聽は宣武・河陽軍と志紹を大破し、志紹は廷湊の元に奔りました。

太和3年2月
同捷は滅亡しました。

太和3年7月
魏博・義武で軍乱が起こり、手が回らなくなった唐朝はなんの条件もなく廷湊を赦免しました。

その後大和8年11月に廷湊は卒します。
後を継承した子の元逵は唐朝との平和路線に転換します。
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成德 王廷湊/庭湊の乱 2

2022-12-07 08:24:05 | Weblog
長慶2年正月
廷湊征討に向かった魏博軍は幽州・成德と通じて戦意なく、はかばかしい賞賜もない状況で不満をつのらせていました。先鋒将の都知兵馬使將史憲誠は自立の志があり、冀州南宮縣より勝手に主力軍を率いて魏州に戻ってしまいました。節度使田布はどうすることも出来ず自殺しました。憲誠は牙軍に推されて自立しました。

滄州にあった軍糧を廷湊に奪われ征討軍は困窮しました。

長慶2年2月
どうにもならない唐朝は廷湊を赦し、成德軍節度使としました。

前成德軍節度使牛元翼を檢校工部尚書山南東道節度觀察臨漢監牧等使に遷しました。

深冀行營諸軍節度忠武軍節度使李光顏を橫海軍節度使兼忠武軍節度兼深冀行營としました。

樂壽鎮兵馬使傅良弼を沂州刺史とし、瀛州博野鎮遏使李寰を忻州刺史としました。二者とも克融・廷湊に従わず籠城していたのです。

赦された廷湊はしかし深州牛元翼の包囲を解かず、山東移鎭を阻止します。
裴度が勧告し、克融は解囲して去りますが、廷湊は続けます。

長慶2年3月
牛元翼は十余騎とともに深州を脱出して来朝しました。廷湊は残った深州將士を自分に従わなかったとして殺しました。

李寰は衆三千を率い博野を出て赴任しようとしましたが、庭湊が遮ぎったため博野に戻りました。
その後、寰と良弼はなんとか脱出できたようです。

李光顔は滄景に赴任しましたが、麾下は次々崩れて西奔し、光顔は止めることができず辞任しました
。そのため忠武軍節度使に戻しました。

長慶2年7月
廷湊は勅使に「牛元翼の家族は秋には引き渡します。田弘正の遺骸は行方不明です」と回答しました。

しかし三年になっても家族を引き渡さず、5月元翼が山東で卒すると皆殺しにしました。朝廷はそれをどうすることもできませんでした。

なしくずし的に廷湊は地位を固めますが、反唐朝的な姿勢は強硬で、横海李同捷の乱で再び反乱を起こします。
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成德 王廷湊/庭湊の乱 1

2022-12-06 08:20:57 | Weblog
元和15年成德軍節度使王承宗が卒し、実子が京師に人質に取られていたため、弟承元が牙軍に擁立されましたが、当時の唐朝の強勢を見た承元は拒否し、任命された義成軍節度使に移りました。

後任は成德のライバル魏博節度使田弘正でした、弘正は当然成德牙軍の危険性を理解していましたので、魏博から親兵二千を引き連れて赴任し、身辺を護衛させていました。

ところがこれには特別な経費がかかります。当時唐朝は憲宗時代の軍費や、穆宗皇帝の浪費により財政難でした。姑息な杜元穎や崔植など宰相達はひたすら経費節減を図り、新たに版図となった河北三鎮への配慮をしませんでした。そのため親兵の費用を供給せず、弘正は親兵を魏博に戻すしかありませんでした。しかも士卒への賞与も遅れています。

長慶元年7月
都知兵馬使王庭湊は回鶻阿布思の族でしたが、幽州節度朱克融とも密かに連絡し、魏博親兵が去ると蜂起し弘正と幕僚、元從將吏、家屬三百餘人を殺しました。庭湊は留後と自称し、監軍宋惟澄を脅しました。

長慶元年8月
王廷湊は派兵し冀州刺史王進岌を殺し、冀州を抑えました。また將王立に深州牛元翼を囲ませました。

魏博節度使李愬が病の為[10月卒します]、前涇原節度使田布[弘正の子]を起復檢校工部尚書兼魏州大都督府長史充魏博節度使とし廷湊を伐たせようとします。

深州刺史本州團練使牛元翼は廷湊の乱に従わず、深冀節度使に任ぜられました[冀州は領していません]

河東節度裴度を幽鎮兩道招撫使とし、魏博、橫海、昭義、河東、義武五軍で幽州朱克融・成德王廷湊征討にあてました。

成德大將王儉等五人は庭湊を殺そうとしましたが失敗し、その部兵三千人は皆殺されました。

長慶元年9月
宦官内常侍段文政は鄭滑、河東、忠武三道兵を引き連れ深州を救援しました。

魏博節度使田布は出師し貝州行營に赴きました。

相州[魏博領内]で軍亂が起き、刺史邢濋が殺されました。

長慶元年10月
河東節度使裴度を鎮州四面行營都招討使として総大将とし、実戦部隊として左領軍衛大將軍杜叔良を深冀諸道行營節度使にしました。叔良は大言壮語をして懿宗皇帝を喜ばせました。

横海節度烏重胤は深州饒陽に廷湊軍を破りました。その後重胤は早期の征討は望めないと上奏し、山西節度使へ左遷されました。

深冀節度使牛元翼を鎮州大都督府長史充成德軍節度鎮冀深趙等州節度使としましたが虚名です。

王廷湊兵は魏博貝州を陥します。

魏博節度使田布は全師をあげて出陣しました。

長慶元年11月
裴度は廷湊軍を會星鎮で破りました・

長慶元年12月
杜叔良は廷湊軍に深州博野で大敗しました。

鳳翔節度使李光顏を忠武軍節度使とし深冀行營節度を兼任させました。

唐朝の軍費支出が続かないため、幽州朱克融を赦しました。しかし克融は廷湊と盟約していますので単独ではやめられません。
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華州 周智光の乱

2022-12-05 08:40:41 | Weblog
智光は雑兵から武功を以って成り上がり、宦官魚朝恩麾下の裨将として活躍しました。

廣德元年10月
吐蕃の侵攻時に、朝恩に従い活躍し智光は華州刺史となり、やがて同華節度使に進みました。

永泰元年9月
智光は澄城に吐蕃を大破しましたが、鄜坊節度杜冕と対立し、鄜州刺史張麟を殺し、坊州を焼き払いました。代宗皇帝はそれを譴責できません。

永泰元年10月
智光は勝手に歸鎭しました。代宗皇帝は強暴な智光から杜冕を山西の張獻誠の元に避難させることぐらいしかできません。

永泰二年/大暦元年正月
智光は朝廷の呼び出しにも応じず、亡命や無賴子弟數萬を集め、周辺を掠奪し、漕米を止め、藩鎭の貢献を横取りしたりし始めました。

大曆元年12月
智光は仲の悪い陝州皇甫温の監軍張志斌や前虢州刺史龐充を殺し反しました。
そして科挙に赴く選人達を殺害します。
姑息な代宗皇帝はなおも、智光に検校右僕射を加えて慰撫しますが、増長した智光は「俺には平章事がふさわしい」と一蹴します。
郭子儀は智光を伐とうとしますが、魚朝恩に遠慮する代宗皇帝はなかなか決断できません。

大曆2年1月
ついに郭子儀に智光征討を命じます。智光は貶澧州刺史です。

兵部侍郎張仲光を華州刺史潼關防御使、大理卿敬括を同州刺史長春宮等使に補任します。

智光配下はその態度に呆れていましたので、子儀大將渾瑊、李懷光が征討に出ると聞いて、たちまち大將李漢惠は同州をもって降り、華州牙將姚懷・李延俊は智光やその子を殺し歸順しました。

入朝の途次の淮西節度李忠臣は華州を制圧し、大掠しました。

同華節度使は廃され、潼關鎮兵二千人を置くことになりました。
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淄青 李納の乱

2022-12-04 08:28:55 | Weblog
淄青平盧軍節度使は安東都護府にあった平盧軍が、安史の乱では安禄山に同調せず唐朝側に残って戦い、孤立したため全軍渡海して山東半島に移動してきたものです。
その時青密・淄沂節度使を与えられ淄青平盧軍節度使となりました。

高麗人の李正己は全帥侯希逸を逐い、魏博田承嗣や汴宋李靈耀の乱には唐朝側に協力して勢力拡大し、淄青德棣齊鄆曹濮兗海沂密十二州を支配する巨大藩鎭を形成し、河北三鎮や淮西・山東と連携して半独立の体制にありました。

建中二年から始まった成德李惟岳の継承の乱には、同じ継承問題を抱える正己は、消極的な姿勢で動きはありませんでした。

建中2年7/8月
平盧淄青節度觀察使司徒太子太保同中書門下平章事李正己は卒しました。
子の納は自立し継承を求めましたが、当然德宗皇帝は認めません。

建中2年9月
納は宋州を攻撃しました、

建中2年10月
正己の從父兄である徐州刺史李洧は州を以って帰順しました。洧は徐沂海觀察使の地位を求めましたが、御史大夫充招諭使に任ぜられました。

建中2年11月
納は將王温・石隱金に魏博將信都崇慶の援軍を得て徐州を攻めました。
唐朝は朔方唐朝臣・宣武劉洽・神策曲環,滑州李澄を派兵して納軍を破り救いました。

徐州が確保できたことで江淮からの漕運が通じました。

建中2年12月
李納麾下密州刺史馬萬通が帰順し、密州刺史に任ぜられました。

建中3年正月

李納は劉洽軍に迫られ、濮州に帰り魏博に援兵を求めました。

淮南節度使陳少游は海、密二州を取りましたが、すぐ納に回復されました。

建中3年2月
成德李惟岳が滅び、魏博田悅は敗北し、納は苦しい状態になりました。
宣武劉洽は濮州を攻めて外城を陥し、納は帰朝を求めて泣訴しました。

建中3年3月
徐州刺史李洧を徐沂海團練觀察使としました。沂海は虚名です。

納は弟經や子成務を人質にすると申し出ましたが、増長した中使宋鳳朝は受け入れず、勝利を確信する德宗皇帝も認めませんでした。そのため納は鄆州に戻り、また田悅と同盟しました。

建中3年4月
李納德州刺史李士真、棣州刺史李長卿は帰朝しました。徳棣二州は幽州朱滔に与えられましたが、滔は反して大將李濟時を派遣して占領させました。

建中3年7月
李納は魏博信都承慶の援軍を得て宋州を攻めましたが勝てず、兵馬使李克信、李欽遙に劉洽を防がしました。

淮寧節度使李希烈が兼平盧淄青兗鄆登萊齊州節度使として李納を伐つ事になりましたが、希烈は実行する気はありません。

建中3年11月
納は朱滔・田悅・王武俊らと唐より自立し「齊王」を自称し、官属を置きました。

李希烈は許州に鎮し、李納を討つと称して汴州を攻めようとしました。
納く汴州付近に出兵し漕運を止めました。

建中4年末
形勢不利な德宗皇帝は反軍を朱滔・朱泚兄弟と李希烈・田悅・王武俊・李納に分裂させる働きかけをしました。敗戦に疲弊した田悅と、本領が安堵されるなら文句はない王武俊・李納は乗り気でした。

興元元年正月
德宗皇帝は自己批判し李希烈・田悅・王武俊・李納を赦しました。田悅・王武俊・李納は王号を捨てて帰朝しました。

曹州刺史李納は鄆州刺史平盧軍節度使に任ぜられました。
ひれにより反軍は、朱泚・朱滔・李希烈の三者となり、分断されて平定されていくことになりました。納は十二州を維持することができました。

興元元年4月
李納は平章事を加えられ使相となりました。
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江南 劉展の乱

2022-12-03 08:55:53 | Weblog
乾元2年5月
試汝州刺史劉展は滑州刺史充汴滑節度副使となり、やがて宋州刺史に移りましたが、河南は戦乱により刺史とかは名目にすぎませんが。

上元元年11月
宋州刺史劉展は淮西節度副使を帯びました。展は剛強自用ため、節度使王仲昇より憎まれていました。
仲昇は監軍使内左常侍邢延恩を通じて肅宗皇帝に展を除くことを上申しました。
しかし展は強力な兵を持っています。
そこで李峘に代えて江淮都統とし、兵を帯びない赴任途中に捕らえて殺しましょうと提言しました。
定見の無い肅宗皇帝はこれを許可し、都統李峘と淮南節度使鄧景山に計画を通知しました。

延恩が展に任命を通告すると、展は「俺は陳留參軍より數年で刺史になった。これでも出世しすぎだと思っている。江淮は租賦の出る要地だ。俺のような無頼がそんな出世するとは信じられない、なにか裏があるのに違いない」と。
延恩「こんな良い話をなにをもって疑うのか?」
展「印節を本当に与えられたら信じよう」
延恩は廣陵に行き、峘に通じて印節を展に渡した。
展は印節を得ると宋州の全軍七千を率いて廣陵へ赴きました。

ところが展が来ると、李峘は塞を構えて入れません。

怒った展は峘軍を京口に襲うと、歴戦の展軍を恐れた峘軍は自壊し、峘は宣城に奔りました。
展は潤州を陥し、昇州軍一萬五千人は展に応じ金陵城を攻めました。
節度使侯令儀は、兵馬使姜昌群に責任を押しつけて逃げました。

展陷昇州、將宗犀を潤州司馬丹楊軍使、昌群領升州,從子伯瑛を助けさせます。

上元元年12月
李峘麾下の軍人副使李藏用は峘に「日頃傲慢でありながら、兵も軍備もたっぷりあるのに捨てて逃げる、のか」責めるが、峘は藏用に任を押しつけました。藏用は散卒を集めて展を防ぎます。

展將傅子昂、宗犀は宣州を攻めると、宣歙節度使鄭炅之は逃げ、峘はさらに洪州に奔ります。

李藏用は展將張景超、孫待封と戦いますが敗れ杭州に奔ります。
景超は蘇州,待封は湖州を取りました。
展は將許嶧を潤州刺史,李可封を常州刺史,楊持璧を蘇州刺史,待封を領湖州事としました。
景超はついに杭州に迫ります。
展は李晃を泗州刺史,宗犀を宣州刺史としました。
傅子昂は江州を取り江西に入り、屈突孝は濠、楚州を陥し、王□恆は舒、和、滁、廬等州を陥し、向かうところ敵なしでしたが、ただ壽州刺史崔昭だけが保っていました。

江淮地方を失って狼狽した肅宗皇帝は、任城に屯していた平廬都知兵馬使田神功に劉展征討を命じました。神功軍は江淮の財を得られると知って勇躍南下を始めました。
兄貴分にあたる神功の精鋭軍がくると知り、展は慌てて分散した軍を集約し始めました。

上元2年正月
張景超は杭州を攻め、李藏用將李強を石夷門に破りました。
孫待封は李藏用將温晁に敗れ烏程に奔り、李可封は形勢不利とみて常州を以って降りました。
田神功將楊惠元は王□恆を破り、范知新と鄧景山は常州に入りました。
神功は邢延恩と揚子江を渡り展軍と戦いました。
范知新・賈隱林等は展と弟殷・許嶧を破り誅しました。
王□恆・孫待封は李藏用に降りました
残党張景超・張法雷も逃亡しました。

神功の率いる平盧軍は江淮を大掠し、安史の乱では被害を受けなかった江淮は荒廃してしまいました。

真面目に戦った李藏用は文官達が戻ってくると、散逸した官財の責任を問われて殺され、逃亡した宦官・文官達は責任を問われませんでした。
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南山 高玉の乱

2022-12-02 08:21:51 | Weblog
吐蕃の京師侵攻と代宗皇帝の逃亡により、京師近郊の治安は崩壊し、高玉は諸軍より逃亡・脱落した兵士や、無頼の賊を集めて吐蕃の寇掠より自衛しました。その後唐軍が復帰すると、彼らは京師の南「南山五谷=斜谷・駱谷・蘭田谷・子午谷・和衡嶺谷」に入り盗賊となりました。

そして東は虢州から西は鳳翔まで富豪の掠奪を重ねました。

寶應2年/廣徳元年正月
京師の付近での賊党横行は権威に関わるため、地元に詳しい太子賓客薛景仙を南山五溪谷防禦使として賊を伐たせました。

廣德元年十月
南山五谷賊高玉が反しました。

廣徳2.11
五谷防御使薛景仙は南山群盜を伐ちましたが、山岳を活用する賊党に実効が上がりません。そこで鳳翔節度使李抱玉に代えました。

抱玉は各谷に侵攻すると同時に、將兵馬使李崇客が洋州より山に入り、高玉を桃虢川に大破しました。

玉は梁州城固/成固縣に入り、挟撃した山西節度使張獻誠に捕らえられました。

廣徳2.12
高玉は誅され、南山賊は一掃されました。
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