復讐 [それは私事です]
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永徽六年
高宗と武宸妃、そして長孫無忌・褚遂良以下の宰相陣との対立は頂点に達していた。
王皇后を廃して武宸妃を皇后に立后したいという高宗と、
出戻りの武氏を側室までならともかく、皇后にはできないという無忌派である。
宰相は無忌・遂良・于志寧の三重臣と韓瑗・來濟が無忌派、武氏派は李義府、中間派の崔敦禮。
無忌派を代表して遂良が太宗の遺訓をとして強硬に反対し、瑗や濟が同調する。
学者肌の志寧も筋が通らないと沈黙し賛意を示さない。義府も無忌の圧力に抑え込まれている。
気の弱い高宗は挫けそうになるが、武氏が怖くて退けない。
長い睨み合いのあとその日は結論がでなかった。
この会議には、もう一人の重臣司空李勣は病と称して欠席していた。
勣は密偵から会議の状況を聞き対応を考えていた。
「くだらん、皇后なんてどうでもよい、皇帝すらどうでもよいのに」
「俺や一族がうまくいけばいいだけだ」
「遂良のような無忌の手先の諫言屋には同調できんわ」
太宗に裏切られて以来、勣は国家や社稷を思うなんてことはなくなったのだ。
「よし、皇帝やあの女に恩を売ってやるか、無忌の鼻をあかすのもおもしろい」
病が癒えたと出仕した。そして高宗に単独拝謁した。
高宗は猛烈な反対に弱気になっていた。
「武氏の件は難しいかな?、宰相達は反対なのだ」
「なぜそんなことを私にお聞きになります」と勣。
「いやこれは国家の大事だと宰相達が」
「嫁を決めるなどは私事でございます。他人にとやかく言われる筋合いはございません」
高宗は驚き、そして喜んだ。
「そうだな、卿らを煩わすようなことではなかった。朕が決めればいいだけのことなのだ」
勣はうなずき退出していった。
十月王皇后は廃され、武氏が皇后となった。遂良は潭州都督へ左遷された。
*******背景*******
李勣は太宗に左遷、高宗に再任用され、太尉無忌につぐ司空という高位にあったが、宰相と言っても武官であるので行政にはタッチしていなかった。
武氏は高宗を完全に丸め込み、子のない王皇后と違い、弘と賢という男児も産んで宸妃という特別な地位をつくりあげたが皇后位も狙っていた。
王皇后派の柳奭が逐われ、李義府が宰相となったが、大半は無忌派であった。褚遂良は一時期収賄で左遷されていたが、無忌に再登用してもらったため頭が上がらず、志寧は原則主義者であり高宗に同調などはせず、廷議には武氏の立后を認める雰囲気はなかった。
勣は無忌のような鮮卑系貴族集団外の立場であり、太宗への失望感もあり、社稷を守るなどという気持ちはなかった。
司空である勣の、これは皇帝の私事であるという見解により、高宗は廷議を無視して立后の事を進めることができるようになった。
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