唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

横海 李同捷の乱 1

2022-12-14 08:44:35 | Weblog
同捷の父全略[王日簡]は元成德王承宗の將でしたが、帰朝し神策軍に仕え、王廷湊の乱には現地の状況に詳しいため德州刺史となり、横海軍滄景徳棣節度使に昇進しました。そして盛んに贈賄し、子の同捷に継承させようと策動していました。

寶暦2年3/4月
橫海節度使李全略は卒しました。子の副大使同捷は自立しょうとし、旧知の成德王廷湊や魏博史憲誠に支援を求めました。

朝廷は廷湊に同捷を支援しないようにと検校司空を加えました。

大和元年
同捷は盛んに朝廷に継承を求め、財政的に征討が嫌な朝議は動揺していました。

大和元年5月
天平軍節度使守司徒平章事烏重胤を橫海軍節度使兼任とし、前攝橫海軍節度副使李同捷を兗海沂密等州節度使に任じるという姑息な決断がされましたが、同捷は受けません。
この時、周囲の幽州・成德・淄青・魏博の節度使の検校官を昇格させ、ご機嫌取りをしました。

天平橫海軍節度使烏重胤に同捷を討たせます。

大和元年7月
同捷がはっきりと命を拒否し反しました。

自分も勝手に自立した徐州王智興が全軍をもって同捷を討つと上奏しました。

大和元年月
李同捷の官爵を削りました。

天平横海烏重胤、武寧王智興、淄青康志睦、魏博史憲誠、幽州李載義、義成李聽、義武張璠に同捷を討つことを命じました。
同捷は河北の諸鎮に贈賄し支援を求めました。
成德王廷湊は同捷に通じています。

大和元年10月
天平橫海節度使烏重胤は同捷を攻撃しましたが、11月に卒しました。

大和元年11月
王智興の推薦により元成德將の保義軍節度晉慈等察處置等使李寰が橫海軍節度使となり征討にあたることになりました。

大和元年12月
武寧王智興を滄州行營招撫使同平章事となりました。

大和2年3月
智興が棣州を攻撃しました。

大和2年閏3月
魏博史憲誠は子の副大使唐と都知兵馬使亓志紹に兵二萬五千を率いさせ德州を攻めさせましたが、あまり本気ではありません。

大和2年6月
廷湊は同捷に兵や軍糧を支援しています。

大和2年7月
史憲誠軍は同捷を德州平原で破ったそうです。

大和2年月
成德王廷湊が反しました。

義武軍節度使柳公濟が廷湊軍を定州新樂で破ったそうです。ようは撃退ということです。

昭義劉從諫が廷湊軍を趙州臨城・昭慶に破りました。

史憲誠軍は同捷をまた德州平原で破ったそうです。

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