唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 王廷湊/庭湊の乱 2

2022-12-07 08:24:05 | Weblog
長慶2年正月
廷湊征討に向かった魏博軍は幽州・成德と通じて戦意なく、はかばかしい賞賜もない状況で不満をつのらせていました。先鋒将の都知兵馬使將史憲誠は自立の志があり、冀州南宮縣より勝手に主力軍を率いて魏州に戻ってしまいました。節度使田布はどうすることも出来ず自殺しました。憲誠は牙軍に推されて自立しました。

滄州にあった軍糧を廷湊に奪われ征討軍は困窮しました。

長慶2年2月
どうにもならない唐朝は廷湊を赦し、成德軍節度使としました。

前成德軍節度使牛元翼を檢校工部尚書山南東道節度觀察臨漢監牧等使に遷しました。

深冀行營諸軍節度忠武軍節度使李光顏を橫海軍節度使兼忠武軍節度兼深冀行營としました。

樂壽鎮兵馬使傅良弼を沂州刺史とし、瀛州博野鎮遏使李寰を忻州刺史としました。二者とも克融・廷湊に従わず籠城していたのです。

赦された廷湊はしかし深州牛元翼の包囲を解かず、山東移鎭を阻止します。
裴度が勧告し、克融は解囲して去りますが、廷湊は続けます。

長慶2年3月
牛元翼は十余騎とともに深州を脱出して来朝しました。廷湊は残った深州將士を自分に従わなかったとして殺しました。

李寰は衆三千を率い博野を出て赴任しようとしましたが、庭湊が遮ぎったため博野に戻りました。
その後、寰と良弼はなんとか脱出できたようです。

李光顔は滄景に赴任しましたが、麾下は次々崩れて西奔し、光顔は止めることができず辞任しました
。そのため忠武軍節度使に戻しました。

長慶2年7月
廷湊は勅使に「牛元翼の家族は秋には引き渡します。田弘正の遺骸は行方不明です」と回答しました。

しかし三年になっても家族を引き渡さず、5月元翼が山東で卒すると皆殺しにしました。朝廷はそれをどうすることもできませんでした。

なしくずし的に廷湊は地位を固めますが、反唐朝的な姿勢は強硬で、横海李同捷の乱で再び反乱を起こします。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 成德 王廷湊/庭湊の乱 1 | トップ | 成德 王廷湊/庭湊の乱 3 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事