唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

徐州武寧軍の粛清

2022-12-16 08:01:12 | Weblog
王智興離任後、甘やかされた徐泗濠武寧軍節度使の牙軍は驕兵で節度使に実権がなく、牙軍は気に入らないことがあるとすぐ乱を起こし節度使を追放しました。文官では到底統制できず、武官でも任期を無事に済まそうと思う節度使は田牟などのように牙軍に迎合し、ご機嫌取り励むしかありませんでした。

軍乱で追放された例としては
大和7年1月 高瑀
大中3年5月 李廓
咸通3年7月 温璋 ですが、他の帥も危ない状況でした。
特に高瑀・温璋は問題のない人物ですが、遵法さが牙軍のきにいらなかったようです。朝廷は温璋の無罪を知り、すぐに邠寧節度使に任命しました。そして浙東觀察使王式を節度使に任命しました。

咸通3年8月
式は儒家の出ですが軍才があり、浙東仇甫の乱を鎮圧したばかりで、麾下に忠武、義成の精鋭を残留させていました。

式は両軍を帰郷させるとして引率し徐州に入り、牙軍を召還し両軍に包囲させ、銀刀都將邵澤等數千人を虐殺しました。

そして当面式を武寧節度使兼徐泗濠宿制置使とし、解体が図られました。

徐泗濠節度使を廃止し、徐州団練使を置き、兗海/淄青節度の管轄にし、濠州は淮南へ、宿泗は都団練観察使として切り離しました。將士は二千だけを徐州に置き、あとは他鎮に分散させました。

これで牙軍は潰滅したようですが、生き残った残党は地方に散り、元々治安の悪い地域ですので、群盗と結びついていったようです。

咸通4年4月
群盜が徐州に入り、官吏を殺しました。刺史曹慶は鎮圧にあたりました。

咸通4年7月
群盗に帰降を呼びかけました。

咸通4年11月
治安が回復しないため宿泗都団練観察使を廃止し、徐泗觀察使を置いて軍備強化しました。

咸通5年5月
ますます治安が悪化したため、群盗数千人を徴募して、期間を決めて雲南蠻防衛のため邕管に派遣することにしました。これにより群盗はやや減少したのですが、咸通9年の龐勗の乱の端緒を作ってしまいました。

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