唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魏博 田承嗣の乱 1

2022-12-11 08:36:08 | Weblog
安史の乱に賊党として活躍した田承嗣は史朝義を裏切って帰順し、魏博節度使[魏博德滄瀛澶六州]となりました。本来雑軍しか指揮していなかった為、自領の魏博から徹底した徴兵をし十万の大軍を形成しました。唐朝には反抗的な態度を示していましたが、代宗皇帝は常に慰撫し、太尉同平章事という高位を与え、子の華に公主を降嫁させるなどひたすらご機嫌取りをしていました。
ところが十万の大軍を養うためには自領だけでは苦しくなってきました。

昭義軍節度使[相衛洺貝邢磁六州]薛嵩は承嗣と同じ安史の乱の降將ですが、本来唐初からの名門出身[仁貴の孫]の為、承嗣ほど反抗的ではありませんでした。

大暦8年正月
薛嵩が卒し、子の平[12才]は継承せず、叔父の崿が留後となりましたが、嵩のような統制力はなく、諸将は動揺し始めました。

大暦10年正月
昭義牙將裴志清が帥薛崿を洺州に逐い、田承嗣に附きました。

朝廷は嵩の族人昭義將薛擇を相州刺史,薛雄を衛州刺史,薛堅を洺州刺史としました。そして田承嗣に封疆を守るよう諭しましたが、承嗣は拒否しました。

承嗣大將盧子期は洺州,楊光朝は衛州を取りました。

大暦10年2月
承嗣は衛州刺史薛雄を誘いましたが従わないので殺し、相、衛四州を取り、その兵力を合わせて魏州に移しました。そして磁、相二州を中使とともに巡り統治の確立を示しました。

黄河の渡河点の河陽で軍亂が起こり、三城使常休明を逐いました。休明は苛酷でしたが、承嗣の指嗾もあったようです。兵馬使王惟恭が自立しましたが、監軍冉庭蘭が一応抑えました。

大暦10年3月
陝州でも軍亂が起き、觀察使李國清が逐われました。入朝途次の淮西節度使李忠臣が威圧し事を収めました。

承嗣と対立していた成德節度使李寶臣、淄青節度使李正己が承嗣を伐つことを求めました。

大暦10年4月
田承嗣を永州刺史に左遷し、河東、成德、幽州、淄青、淮西、滑毫、汴宋、澤潞、河陽道にこれを伐つことを命じました。[魏博德滄瀛澶相衛洺貝磁]

大暦10年5月
動揺した承嗣部將霍榮國は磁州を以って降りました。

淄青李正己は德州を陥しました。

淮西李忠臣は永平、河陽、懷澤潞等四萬を率いて衛州を攻めました。

大暦10年6月
承嗣は裴志清に冀州を囲ませましたが、李寶臣將張孝忠に撃破され、志清は降りました。

大暦10年8月
承嗣將盧子期は磁州を攻めました。

承嗣は成德寶臣.淄青正已.淮西忠臣.永平勉.昭義昭承.汴宋田神玉.幽州朱滔.澤潞抱玉に包囲攻撃され形勢が不利とみて唐朝に帰順したいと申し出ました。

朝廷の主力軍のはずの朔方河中を支配する郭子儀の軍がまったく征討に関与していないことは注目されていません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昭義 李緘・元誼の乱 | トップ | 魏博 田承嗣の乱 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事